水の東京 / 幸田露伴
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』、ならびに『新編武蔵風土記』等を読みて知るべし。荒川の東京に近づくは豊島の渡あたりよりなり。
、王子の抄紙場のために幾許かの功を為して荒川に入るなり。古昔は水の清かりしをもて人の便とするところと
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。隅田川とは隅田を流るゝを以て呼ぶことなれば、隅田村以上千住宿あたりを流るゝをば千住川と呼び、それより以上をば荒川と呼ぶ習ひ
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○鐘が淵は紡績会社の地先にして、隅田綾瀬の二水相会するところのやゝ下の方をいふ。往時普門院と
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の一水に通ず。船松町佃島の間には渡船場あり。明石町の南
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○墨田の長堤もまた直に水を臨むをもて、陽春三月の頃は水の
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川の口に架れる橋にして、往時は匪徒を伊豆の諸島に流すに、この橋の畔と永代橋の畔より船を出すを例と
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ども、滝の川村金剛寺の下を流れて後、王子の抄紙場のために幾許かの功を為して荒川に入るなり。古昔は
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○厩橋に至る。厩橋の下、右岸には古の米廩の跡なほ存し、
○厩橋に至る。厩橋の下、右岸には古の米廩の跡なほ存し、唱歌にいはゆる
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利根の本流に出づべく、利根川はこれを下つて銚子に至るべし。水路の通ずること是の如くなるを以て、小名木川は実
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あり。豊島村の方より渡りて行く事僅少にして荒川堤に出づ。堤は即ち花の盛りの眺望好き向島堤の続きにして、
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○長命寺の下、牛の御前祠の地先あたりは水特に深くして、いはゆる
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にして、栄久町三筋町等に沿ひ、菊屋橋合羽橋等の下に至る。この一条の水路は甚だ狭隘にしてかつ甚だ不潔
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、絶好の画趣と詩興とを生ず。特に此辺より吾妻橋上流までの間は府内各学校の生徒ならびに銀行会社の役員等の端艇競争
下流一町ばかりのところより今戸に渡る渡場にして、吾妻橋より上流の渡船場中最もよく人の知れるところなり。船に乗りて渡ること
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東京に至つては、知るもの言はず、言ふもの知らず、江戸の往時より近き頃まで何人もこれを説かぬに似たれば、いで我試み
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一朝一夕に能くしがたし。草より出でゝ草に入るとは武蔵野の往時の月をいひけん、今は八百八町に家※立ちつゞきて四里
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相摩するばかりなるは、川筋繁華の地に当りて加之遠く牛込の揚場まで船を通ずべきを以てなり。この川は吹弾歌舞の地と
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永代橋以南の深川寄りの方を記せば、熊井町より大島町に沿ひて越中島の北の方を、富岡門前町と並行して木場に至り
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ぐる頃は、東は甚だ浅く西は大に深きに至る。石浜神社は小社なれどもその古きをもて知られ、真先稲荷は社前に隅田川を
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中の橋辺までにして、中の橋以上は辛うじて一之橋あたりまで小舟を通ずるのみ。さて永代橋以南の深川寄りの方を記せば、
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○横川に出づ。横川は業平橋報恩寺橋長崎橋の下を経、総武鉄道汽車の発著所たる本所停車場の傍を
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西に入るものは猿屋町鳥越町等の間を経て、下谷竹町の東、浅草小島町の西に至る、これいはゆる
降るに会へば高処の水は自ら低処に来りて、下谷は一大瀦水地となるの観を呈す。就中御徒士町仲徒士町竹町等は氾濫
とのために重要の一路たらずんばあらず。元来下谷は卑湿の地にして、西に湯島本郷の高地を負ふをもて
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大島村小名木村亀戸村深川出村本所出村等の間を千葉街道に沿ひ、終に中川逆井橋下流に出づる一水路にして、甚だ
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○仙台堀といふはこれにして、あるいは十間川とも呼び、いよ/
て地少く、一※これを記する能はざればなり。仙台堀入口より中洲へ渡るの
よりて時に舟夫の便とするところとなることあり。仙台堀と油堀とを連ぬる小渠は一条のみならず、また木場附近の
べきなり。深川側は既に説けり、日本橋側にありては仙台堀の対岸に神田川に達するの一水西北に入るあり、(既説)
○油堀はこれにして、これもまた仙台堀と同じく木場に達するの渠なれば、二水共に材木船及び筏の
別に一水の熊井町中島町の間を北に行きて油堀仙台堀を連ぬるあり。深川側の川渠は大概かくの如し。
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之橋等の下を経て、大島村小名木村亀戸村深川出村本所出村等の間を千葉街道に沿ひ、終に中川逆井橋下流
、二水共に材木船及び筏の多きは知るべきなり。深川側は既に説けり、日本橋側にありては仙台堀の対岸に神田川に
○大川口の渡はこの小渠の下に当りて、深川と越前堀との間を連結す。渡船場より下、町余にし
一之橋あたりまで小舟を通ずるのみ。さて永代橋以南の深川寄りの方を記せば、熊井町より大島町に沿ひて越中島の北の
の間を北に行きて油堀仙台堀を連ぬるあり。深川側の川渠は大概かくの如し。
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水の東京
をも怖るゝ如き船嫌ひの人※の、更に水の東京の景色も風情も実利も知らで過ごせるものに、聊かこの大都の水上の
我が草卒に筆を執つて、斯の如く大なる水の東京の、上は荒川より下は海に至るまでを記し尽さんとするに
落つるを見ては、誰かは大なるかな水の東京やと叫び呼ばざらん。されば今我が草卒に筆を執つて、斯の如く
ゝ家の棟に入るともいふべけれど、また水の東京のいと大なるを思へば、水より出でゝ水に入るともいひつべし
家※立ちつゞきて四里四方に門※相望めば、東京の月は真に家の棟より出でゝ家の棟に入るともいふ
たれば、いで我試みにこれを語らん。さはいへ東京はその地勢河を帯にして海を枕せる都なれば、潮
ば、今さらおのれは言はでもあらなん。たゞ水の東京に至つては、知るもの言はず、言ふもの知らず、江戸の往時より近き
の花の賑ひ、王子の秋の紅葉の盛り、陸の東京のおもしろさは説く人多き習ひなれば、今さらおのれは言はでもあら
その他の諸流に及ぼして終に海に説き到るべし。東京の水を説かんとして先づ隅田川を説くは、例へばなほ
はおのづから挙がるが如く、先づ隅田川を談れば東京の諸流はおのづから談りつくさるべき勢なり。よつて今先づ
を挙げて語らんこそ実に便宜多からめ。けだし水の東京におけるの隅田川は、網におけるの綱なり、衣における
は、赤羽川と汐留堀とのほか幾許もなし。されば東京の水を談らんには隅田川を挙げて語らんこそ実に便宜多からめ
東京広しといへども水の隅田川に入らずして海に入るものは
ならびに『新編武蔵風土記』等を読みて知るべし。荒川の東京に近づくは豊島の渡あたりよりなり。
千住駅の南組中組の間にかゝれる橋にして、東京より陸羽に至る街道に当るをもて人馬の往来絶ゆることなし。大橋より
あたりにては潮のさし来る勢最も盛なる時なれば、東京広しといへども仲秋の月見にはこのあたりに上越したる好き地ある
○両国橋の名は東京を見ぬ人も知らぬはなければ、今さら取り出でゝ語らでもありなん
東京諸溝渠の大概は上記の如し。たゞ
伏在するもなく、特別の潮路の去来するもなし。けだし東京前面の海の遠浅なるは、隅田川中川及び江戸川の流出する土砂の自然
既に記したれば、これより聊か海上の状を記さん。東京は概して南の方海に面して、隅田川の南の方海に注げるに
賊のために殺さるゝに至りしことあり。予今水の東京を談るといへども、談つて甚だ詳しからず、必ずや水を得
の場所たり。東京湾は甚だ広けれども品川以北中川以西即ち東京の前面の海上は大抵上に説けるが如し。もとより一朝の略説甚だ尽さゞ
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上野の春の花の賑ひ、王子の秋の紅葉の盛り、陸の東京の
隅田川貨物停車場のための渠ありて西に入る。こは上野停車場より各地に至る汽車のために水運陸運を連絡すといふまでには
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水の隅田川に入らずして海に入るものは、赤羽川と汐留堀とのほか幾許もなし。されば東京の水を談らんに
○赤羽川あるのみ。赤羽川は渋谷橋の下流にして、遠く幡谷の方より来るといへど
○赤羽川あるのみ。赤羽川は渋谷橋の下流にして、遠く幡谷の方
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て呼ぶことなれば、隅田村以上千住宿あたりを流るゝをば千住川と呼び、それより以上をば荒川と呼ぶ習ひなり。水源は秋の日
は隅田を流るゝを以て呼ぶことなれば、隅田村以上千住宿あたりを流るゝをば千住川と呼び、それより以上をば荒川と呼ぶ習ひなり
即ち花の盛りの眺望好き向島堤の続きにして、千住駅を歴てこゝに至り、なほ遠く川上の北側に連なるものなり。
渡より下二十町ほどにしてまた一転折して、千住製紙所の前を東に流る。一たび製紙所に入りて直にまた本流に
漁する人の、豊島の渡よりこゝの渡にかけて千住辺りまでの間に小舟を泛めて遊ぶも少からず。蚊さへなくば
○千住の大橋は千住駅の南組中組の間にかゝれる橋にして、東京より陸羽に至る
○千住の大橋は千住駅の南組中組の間にかゝれる橋にして、東京
往来も少からず、隅田川の方より綾瀬橋といへる千住道にかゝれる橋あたりを望めば、一水遠く東に入りて景色おの
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て荒川堤に出づ。堤は即ち花の盛りの眺望好き向島堤の続きにして、千住駅を歴てこゝに至り、なほ遠く
より下は長堤十里白くして痕なき花の名所の向島を一望の中に収むるをもて名あり。稲荷より下の方一
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この祠の附近よりは川を隔てながら、特に近※と浅草なる観音堂ならびに五重塔凌雲閣等を眺め得べし。またこのあたりの堤下、
○鯉釣場にして、いはゆる浅草川の紫鯉を産するところなれば、漁獲の数甚だ多からざるにかゝはらず
に架りて陸軍倉庫の構内に入る。米廩の下、浅草文庫の旧跡の下にはまた西に入るの小渠あり。
町鳥越町等の間を経て、下谷竹町の東、浅草小島町の西に至る、これいはゆる
て間接に乾燥せしめらるゝこと幾許なるを知らざれば、浅草区に取りては感謝すべき水路なりといふべし。その西に入るものは
不相応なる大船の数※出入するに徴して知るべし。かつ浅草区一帯の地の卑湿にして燥きがたきも、この一水路により
は決して尠少ならざるべし。さて隅田川いよ/\下りて、浅草瓦町、本所横網町まさに尽きんとするのところに至れば、
釣る人の多きは人の知るところなり。百本杭の下浅草側を西に入る一水は即ち
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○須賀町地先を経、一屈折して蔵前通りを過ぎ、二岐となる。その北に入るものはいはゆる
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○神田堀の余流にして、直ちに東南に向つて去つて、中洲下にて
○今川橋下を流るゝ神田堀にして、御城外濠より竜閑橋その他諸橋の下を経て
○外濠は神田堀より入りて、右すれば神田橋一ツ橋雉子橋下を経て俎橋下
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○柳橋の下を潜り、また浅草橋左衛門橋美倉橋等の下を経、豊島町にて一水の左より来るに会す
て古き人の能く知るところにして、美倉橋下左衛門橋浅草橋柳橋附近には釣船網船その他の遊船宿多し。神田川落口より下
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つて去つて、中洲下にて隅田川に入るものなるが、日本橋区を中断して神田川と隅田川とを連ぬるこの水路の上に
筏の多きは知るべきなり。深川側は既に説けり、日本橋側にありては仙台堀の対岸に神田川に達するの一水西北に入るあり
○日本橋下に至り、終に一石橋下に至りて御濠に出づ。御濠は
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手前にて西北より来り注ぐところの江戸川の一水を呑み、飯田橋上流牛込揚場に至つて尽く。外濠はこれに尽くるにはあらねど
、昌平橋、万世橋、御茶の水橋、水道橋、小石川橋を過ぎ、飯田橋手前にて西北より来り注ぐところの江戸川の一水を呑み、飯田橋上流牛込揚場
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○和泉橋下を経て、昌平橋、万世橋、御茶の水橋、水道橋、小石川橋を過ぎ、飯田橋手前にて西北より来り注ぐところの江戸川の一水
がたきを以て舟運の便甚だ少し。神田川の中、水道橋辺より
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○和泉橋下を経て、昌平橋、万世橋、御茶の水橋、水道橋、小石川橋を過ぎ、飯田橋手前にて西北より来り注ぐところの江戸
○御茶の水橋下流に至るまでの間は、扇頭の小景には過ぎざれども
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辻橋四之橋等の下を経て、大島村小名木村亀戸村深川出村本所出村等の間を千葉街道に沿ひ、終に中川逆
広く、従つて漕運の功をなすこと甚だ大なり。天神川は亀戸天神祠前に流るゝを以て名づけられたる一水にして、南は砂村
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○安宅の渡は、洲の下流、浜町と安宅との間にあり。渡船場の下数町にして
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たるに負かざるの趣致あり。橋の下流、佃島石川島月島の一大島をなして横たはるあり。こはいはゆる三角洲に人為
佃島と月島との間、及び月島六丁目と七丁目との間に各※小渠ありて、本澪の
佃島と月島との間、及び月島六丁目と七丁目との間に各※小渠
第七台場附近の地のやゝ深きを除きては、月島下流の地も芝浜沖も、東の方は越中島沖も木場沖も洲崎
の遠く南品川の沖に達すると、佃島西の上総澪の月島下流に至るとの二線がやゝ深き水路をなすあるのみ、岩礁の
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○新橋蓬莱橋汐先橋の下を流るゝ水の末ともいふべし。
下、蓬莱橋の上にて丁字形をなして相会す。新橋の渠は御濠に通ずるを以て土橋以西に至るべからざるにはあら
橋出雲橋等の下を流るゝ一水は、前の一水と新橋の下、蓬莱橋の上にて丁字形をなして相会す。新橋の渠
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以て土橋以西には船を通ぜず。汐留堀以南は品川に至るまでの間たゞ一の
注げるに伴つて発達したるところなれば、芝区及び品川の西南にありて海を抱いて湾曲なせるの外は、一丘一砂嘴
の澪筋もまた釣魚の場所たり。東京湾は甚だ広けれども品川以北中川以西即ち東京の前面の海上は大抵上に説けるが如し。もとより一朝
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○赤羽川あるのみ。赤羽川は渋谷橋の下流にして、遠く幡谷の方より来るといへども、その
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のづから是の如くならざるを得ざるのみ。さてまた隅田川を説きながら語次横に逸れて枝路に入ること多きは、これまた
に説き到るべし。東京の水を説かんとして先づ隅田川を説くは、例へばなほ水経の百川を説かんとして先づ黄河
おのづから談りつくさるべき勢なり。よつて今先づ隅田川より説き起して、後に漸くその他の諸流に及ぼして終に海に説き
ば衣の裙裾はおのづから挙がるが如く、先づ隅田川を談れば東京の諸流はおのづから談りつくさるべき勢なり。
こそ実に便宜多からめ。けだし水の東京におけるの隅田川は、網におけるの綱なり、衣におけるの領なり。先づ
のほか幾許もなし。されば東京の水を談らんには隅田川を挙げて語らんこそ実に便宜多からめ。けだし水の東京における
東京広しといへども水の隅田川に入らずして海に入るものは、赤羽川と汐留堀とのほか
○荒川。隅田川の上流の称なり。隅田川とは隅田を流るゝを以て呼ぶことなれば、隅田村以上千住宿あたり
○荒川。隅田川の上流の称なり。隅田川とは隅田を流るゝを以て呼ぶことなれば
て中川にも通ずるをもて船の往来も少からず、隅田川の方より綾瀬橋といへる千住道にかゝれる橋あたりを望めば、
、なほ遠く荒川より出で、こゝにて復荒川の下流の隅田川には入るなり。上流には支流ありて中川にも通ずるをもて船の
○さんざいとは綾瀬川の隅田川に合するところの南の岸を呼ぶ俗称なり。おもふに前栽の訛にし
附近の地一帯をいふにや、近き人の著しゝ『隅田川叢誌』には隅田川辺なる村里の総称なりといへり。鐘が淵の
○隅田川貨物停車場のための渠ありて西に入る。こは上野停車場より各地に
なれどもその古きをもて知られ、真先稲荷は社前に隅田川を控て、遥に上は水神の森鐘が淵のあたりより下は
○橋場の渡あり。橋場といふ地名は往時隅田川に架したる大なる橋ありければ呼びならはしたりとぞ。石浜と
しその碑の今に立てるもをかし。こゝの舞台は隅田川を俯視すべくして、月夜の眺望四季共に妙に、雪のあした
はずなり。もし二水相通ずるに至れば、この川直に隅田川と中川とを連ぬることとなりて、加之その距離竪川小名木川に比し
所たる本所停車場の傍を過ぎ、北辻橋南にてかの隅田川と中川との連絡するところの竪川に会し、南辻橋菊川橋猿江橋の
ずとするも衛生上の益は決して尠少ならざるべし。さて隅田川いよ/\下りて、浅草瓦町、本所横網町まさに尽きんとするのところ
に入るものなるが、日本橋区を中断して神田川と隅田川とを連ぬるこの水路の上に
にして、直ちに東南に向つて去つて、中洲下にて隅田川に入るものなるが、日本橋区を中断して神田川と隅田川とを連
の遊船宿多し。神田川落口より下幾許ならずして隅田川には有名なる両国橋架れり。
一水路にして、甚だ重要なる一渠なり。特にその隅田川と中川とを連結するの中間において、松井町にては南に入り
一帯は工場相隣りするの地となるべし。この竪川の隅田川と相会するところより矢の倉町に至るの渡船をば
いふべし。竪川は是の如き天神川横川等を貫きて加之隅田川と中川とを連結することなれば、他日この川沿岸一帯は工場相隣り
と称するものにして、砂村を過ぎて中川に至る。隅田川より中川に至るには小名木川あり竪川あれば、この小渠の如きは
○永代橋は隅田川の最下流に架れる橋にして、これより以下には橋あること
と呼ぶところあるにはあらず、実に永代橋下流即ち隅田川本流の佃島近きところを指していへるのみ。
去来するもなし。けだし東京前面の海の遠浅なるは、隅田川中川及び江戸川の流出する土砂の自然に堆積せるがためなれば、その
を記さん。東京は概して南の方海に面して、隅田川の南の方海に注げるに伴つて発達したるところなれば、芝
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に繋がれぬ日もなし。およそこゝの橋より下は永代橋に至るまで小蒸気船の往来絶ゆる暇なく、石炭の烟、機関の響
し、かつこゝよりするものは帰期あるものと予定し、永代橋よりするものは帰期なきものと予定する習ひなりしといふ。橋より東
は匪徒を伊豆の諸島に流すに、この橋の畔と永代橋の畔より船を出すを例とし、かつこゝよりするものは帰期ある
○永代橋は隅田川の最下流に架れる橋にして、これより以下には橋
つに分ちて記すべし。先づ西岸の方より記せば、永代橋より下流幾許ならずして西に入るの一小渠あり、三の橋
は水深くして大船海舶の来り泊するもの甚だ多し。永代橋より下流は川幅甚だ濶く、かつ上に説けるが如く分岐して二と
橋以上は辛うじて一之橋あたりまで小舟を通ずるのみ。さて永代橋以南の深川寄りの方を記せば、熊井町より大島町に沿ひて越中島
ありて下田川と呼ぶところあるにはあらず、実に永代橋下流即ち隅田川本流の佃島近きところを指していへるのみ。
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○綾瀬川は荒川の一転折して南に向つて流るゝところにて、東より来つて
○さんざいとは綾瀬川の隅田川に合するところの南の岸を呼ぶ俗称なり。おもふに前栽の
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と中川とを連ぬることとなりて、加之その距離竪川小名木川に比して甚だ短ければ、人※の便利を感ずること一方ならざるべし、
竪川に会し、南辻橋菊川橋猿江橋の下を過ぎて小名木川に会し、扇橋その他の下を過ぎて十間川に会し、なほ
ども、他の一は数※曲折して後富川町にて小名木川に会す)を併せ、菊川町にては北辻橋南辻橋の間の横川を貫き、
二岐となりて、その一は直に南に去つて小名木川に達すれども、他の一は数※曲折して後富川町にて小名木川
するの中間において、松井町にては南に入りて小名木川に達するの一渠(この一水は中途二岐となりて、その一は
○小名木川とす。芭蕉の居を卜せしは即ちこの川の北岸にして、
占有するところとなれるが多し、他日の発達測り知るべきなり。小名木川の大川に会するところより下少許にして、また一水の大川より東南
船行き、夜※日※艪声檣影絶ゆる間なし。小名木川は実に重要なる一流といふべし。今既にこの川一帯の地は工業
至るべし。水路の通ずること是の如くなるを以て、小名木川は実に縷の如き小渠なるにもかゝはらず、荷足行き、伝馬行き
。この川より天神川に出でゝ少しく北し、あるいはまた小名木川より天神川に出でゝ少しく南すれば、東海に入るの一渠を得
砂村を過ぎて中川に至る。隅田川より中川に至るには小名木川あり竪川あれば、この小渠の如きは無用に似たれども、風潮
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の方秋葉の原鉄道貨物取扱所構内の水路に通じ、神田川に達するに至らしめなば、漕運の利は必ずしも大ならずとするも
○神田川なり。幅は然のみ濶からぬ川ながら、船の往来のいと多くし
にて隅田川に入るものなるが、日本橋区を中断して神田川と隅田川とを連ぬるこの水路の上に
、左すれば常磐橋その他の下に出づべし。さて神田川は上に述べし柳原橋下の一流に会するところより上
漕運の便は実に揚場に極まりて、これより以上は神田川の称もまた止む。
のほかは往来しがたきを以て舟運の便甚だ少し。神田川の中、水道橋辺より
浅草橋柳橋附近には釣船網船その他の遊船宿多し。神田川落口より下幾許ならずして隅田川には有名なる両国橋架れり。
は既に説けり、日本橋側にありては仙台堀の対岸に神田川に達するの一水西北に入るあり、(既説)中洲の背後より箱崎と
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川落口より下幾許ならずして隅田川には有名なる両国橋架れり。
○両国橋の名は東京を見ぬ人も知らぬはなければ、今さら取り出でゝ語ら
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こゝに至つて復一転折して南西に向つて流る。新大橋の下直に
○新大橋あり。川はこゝに至つて復一転折して南西に向つて流る。
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、兜橋海運橋久安橋その他諸橋の下を過ぎて京橋川に合す。
御濠の鍛冶橋南より比丘尼橋紺屋橋を経て来り、京橋の東炭谷橋白魚橋の下に出で、こゝにて南は真福寺橋下
○京橋下の流れなり。京橋下の一流は御濠の鍛冶橋南より比丘尼橋紺屋橋を経て来り、
○京橋下の流れなり。京橋下の一流は御濠の鍛冶橋南より比丘尼橋紺屋
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附近と共にこれらの澪筋もまた釣魚の場所たり。東京湾は甚だ広けれども品川以北中川以西即ち東京の前面の海上は大抵上に