十二神貝十郎手柄話 / 国枝史郎
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、武州、秩父、熊谷等の、これも百姓数千人が、日光東照宮法会のため、一村について六両二分ずつの、臨時税を課すると
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に閑居したが、所司代から圧迫されたので、名古屋へ移って住むことになったが、武士であっては都合が悪いと云う
珠太郎は名古屋という退嬰的の都会の、老舗の丸田屋の箱入り息子なので、初心
「まず名古屋まで通し駕籠で。……」
ので、かなり以前から懇意にしていて、我輩が名古屋へ来るごとに、立ち寄っては話し合っていた。で今年もやって来た
(昨夜は名古屋の富豪連を招いて、その席で館林様は話をされた。訓諭
で過信し、勝手に幻影を描いている方さ。……名古屋の富豪を呼びつけて金を出せと偉そうに仰せられたが、出す奴なんか
、浪人の生活を安穏にしてやろう――その実行を名古屋からやろう。と云うのが館林様の計画だったそうだ。
ので、それにお町奉行の依田様から、館林様が名古屋へ行かれて、何やら大事をやられるらしい。尾張は御三家の筆頭で、
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を取り立て、お医者とこしらえ、玉川上水、印旛の新田、吉野の金掘り、む性に上納、御益のおための、なんのかのとて、
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は切られて、孫はくわるる。印旛の水から、関東へ押し出し、新田どころか、五年が間は、皆無になりやす。やれやれ
人であった。天明七年五月に起こり、関西から関東に波及して、天下の人心を騒がせた、米騒動ぶちこわし事件! その
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冬次郎その人であった。天明七年五月に起こり、関西から関東に波及して、天下の人心を騒がせた、米騒動ぶちこわし事件!
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あった。明和元年十一月の末に、上州、武州、秩父、熊谷等の、これも百姓数千人が、日光東照宮法会のため、一村につい
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もいた。海は向こうまで七里あり、対岸には桑名だの四日市だのの、名高い駅路が点在していた。
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「ナーニ、奥州は宮城野の産だ。……そなたこそ江戸の産まれであろうな」
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火事、その二は浅間山の大爆発、その三は東海道、九州、奥羽に、連発した旱や大暴風雨や洪水、数万の人民は
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焼き払った火事、その二は浅間山の大爆発、その三は東海道、九州、奥羽に、連発した旱や大暴風雨や洪水、数万の
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木曽の旧家
あったのは明和二年のことであって、所は木曽の福島であった。
用があって木曽へ来たのではなかった。風流から木曽へ来たのであった。
があって木曽へ来たのではなかった。風流から木曽へ来たのであった。よい木曽の風景と、よい木曽の名所旧蹟と
なかった。風流から木曽へ来たのであった。よい木曽の風景と、よい木曽の名所旧蹟と、よい木曽の人情とに触れようために
へ来たのであった。よい木曽の風景と、よい木曽の名所旧蹟と、よい木曽の人情とに触れようために来たのであった
。よい木曽の風景と、よい木曽の名所旧蹟と、よい木曽の人情とに触れようために来たのであった。
「木曽は美人の名所でごわしてな」
木曽の五木と称されている、杜松や羅漢柏や椹や落葉松や檜などが
いつの間にそこへ来ていたものか、山深い木曽の土地などでは、とうてい見ることの出来ないような、洗い上げた婀娜な二十五
日貝十郎は人に語った。「征矢野周圃といえば木曽の蘭医で、骨格の研究では最も早く、よい文献を出している人で
周圃を愛していた女なので、周圃が木曽へはいってからは、家政婦として入り込んで来て、周圃の研究を
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さ二里、江戸の大半を焼き払った火事、その二は浅間山の大爆発、その三は東海道、九州、奥羽に、連発した旱や大暴風
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江戸一番の盛り場で、四季に人出が多かった。「あづま」という水茶屋が
、お上へ献上なされようとして、わざわざ長崎の港から、江戸まで持って参った薬で! 人参などは愚かのこと、四目屋の
毎年長崎から甲必丹蘭人が通辞と一緒に江戸へ来て、将軍家に拝謁した。その逗留所を客室と云い、その客室
「さよう、沢山あります。そうして江戸へも持って来ました。がそれはご懇望によりある方面の貴顕へ
でなく、かなり身上を迫害された。そこで彼は江戸を去り、京都西山に閑居したが、所司代から圧迫されたので、
丸山から出て、長さ六里、広さ二里、江戸の大半を焼き払った火事、その二は浅間山の大爆発、その三は東海道、
ことと云わなければなるまい。早春の深夜の朧月が、江戸の家々と往来と、木立と庭園と掘割と、掘割の船とを照らして
与力とは云っても貝十郎は、この時代の江戸の名物男であり、伊達男であり、風流児であり、町奉行の依田和泉守など
いったい悪党なんだろう? ちょっと見当がつかなくなった。江戸にいると俺は見透しなんだが、田舎へ来るとそういかなくなる。田舎
「ねえお武家様」と女は云った。「江戸のお方でございましょうね」
「ナーニ、奥州は宮城野の産だ。……そなたこそ江戸の産まれであろうな」
だよ、私の方が早く仕とげて見せると。……江戸でああいう人達と一緒に、研究していた頃は面白かった。…
。お豊という女は悪人ではなく、周圃が江戸にいた頃から、周圃を愛していた女なので、周圃
お小夜はというに十数日前から、潮湯治に江戸からやって来た、筒井屋助左衛門という商人の娘で、年は十九だ
「江戸へ行きましょう」と云い出したのは、珠太郎でなくてお小夜であっ
。「お前、このわしを尾行けて来たのだろう。江戸から尾張へ! つけて来たのだろう」
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には、天変地妖引きつづいて起こった。その一つは本郷の丸山から出て、長さ六里、広さ二里、江戸の大半を
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のチョンガレ坊主)、久世家の旧家臣鳥井克己(今は大須の香具師の取り締まり)、石川家の浪人佐野重治(今は瑞穂町の祭文かたり)
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ここは神田神保町の、十二神貝十郎の邸であった。同じ夜の明け近い一時である
お殿様が仰せられた、『ままごと』と献上箱とは神田神保町の、十二神貝十郎の邸まで、予定を変えて運んで行くように、と
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。明和元年十一月の末に、上州、武州、秩父、熊谷等の、これも百姓数千人が、日光東照宮法会のため、一村について六
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すててしまい、大須観音の盛り場の――今日いうところの門前町へ、袋物の店を出し、商人として世を終った。
屋』と云い、今日も子孫が残っていて、同じ門前町に営業している)
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夢心地のように庭へ出たが、庭を脱けると当てもなく、両国の方へ歩いて行った。
両国を渡り浅草へはいり、お島が薬売りの藤兵衛の剽軽の口上を放心的態度で、
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仕方がないのだろう、贈賄という風習はな。……長崎奉行が二千両、御目附が一千両と、相場さえ立っているのだ
の甲必丹から、お上へ献上なされようとして、わざわざ長崎の港から、江戸まで持って参った薬で! 人参などは愚かの
源内か、前野良沢かについて学ぼうか、それとも長崎へ行って、通辞に従い、単語でも覚えようかなどと、そんなことを
毎年長崎から甲必丹蘭人が通辞と一緒に江戸へ来て、将軍家に拝謁
父は生前は長崎あたりの、相当名を知られた海産問屋で、支那や和蘭とも貿易
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身上を迫害された。そこで彼は江戸を去り、京都西山に閑居したが、所司代から圧迫されたので、名古屋へ移っ
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に銀のように白っぽくおぼめき、肩の上に山形に載っている、編笠があたかも異様に大きい、一片の花の弁の
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のは明和二年のことであって、所は木曽の福島であった。
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こうして貝十郎は浅草まで来た。
浅草の境内で、薬売りの藤兵衛が喋舌っていた。
いでなされるからだ。……そこで藤兵衛は申し上げます、浅草を出て品川まで、すぐにもお出かけなさいませ! 助けるお方が出
が終えると一緒に、お島はフラフラと歩き出した、浅草の境内から誓願寺通りへ抜け、品川の方へ歩いて行く。神田の
「せっかく浅草から狙って来たんだが」鼠小僧の外伝が――旅僧の姿
両国を渡り浅草へはいり、お島が薬売りの藤兵衛の剽軽の口上を放心的態度で、
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お立ち寄りになった。これは大和屋文魚様で! 蔵前の札差し、十八大通のお一人! 河東節の名人、文魚本多
ておかしくなった。(二百石取りの与力の俺がさ、蔵前の札差しと対等に、吉原で花魁が買えるんだからな。不思議と
であれ、いわば身勝手自由勤めの身分で、肝心の役より蔵前の札差しなどと、吉原へ行って花魁を買ったり、蜀山人や宿屋飯盛
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立ち寄りなされた! この節世上にお噂の高い『館林様』がお立ち寄りなされた! 深編笠、無紋のお羽織、紫柄
「館林様? ふうん、そうか」
、貴人のような威厳があった。それは評判の「館林様」であった。
姿を見たことは一度もなかった。で、今、館林様が歩いていても、そうだということは知らなかった。
「殿」とその時家来らしい侍が、館林様へそういうように云った。「お止めにならなかった方がよろしゅう
「いや」と館林様はすぐに云った。「もうあれはあれでよかったのだ」
から世間では、殿様のことをいつとはなしに『館林様』とこのように申して、恐ろしい、神のような、救世主のよう
か? 館林様のご本体は、では甲斐の国館林の領主、松平右近将監武元卿――従四位下ノ侍従六万千石の主
ふうん、あのお方が『館林様』なのか? 館林様のご本体は、では甲斐の国館林の領主、松平右近将監武元
(ふうん、あのお方が『館林様』なのか? 館林様のご本体は、では甲斐の国
そういう松平冬次郎の「館林様」が供の侍を連れて、今歩いて行くのである。以前
靄とを分けて、ずんずん先へ進んで行く。その後から館林様と家来とが、話し合いながら進んで行く。それを新八郎はつけて行っ
館林様の上品端正な、両の肩が月の光を浴びて、仄かに
見れば館林様とその家来とが、門の前に立っていた。が、やがて
(稲荷堀の田沼侯の屋敷の前で、館林様には大笑なされた。あのお方の目的はとげられたという
たという次第でござる。……それはそれとして館林様の仕立てた、『ままごと』や献上箱にはどのような物が、入れられ
箱とが、横町を走って行くのを見た時、館林様が策略をもって、伊豆守の『ままごと』と献上箱とを、すり換え
潰してござるよ。……それにしてもどうして館林様が、今夜の出来事を同じく察し、似たような『ままごと』と献上
この頃京橋の、館林様の邸内の、奥まった部屋で館林様は、女勘助や神道徳次郎や、紫紐丹左衛門や鼠小僧外伝や
この頃京橋の、館林様の邸内の、奥まった部屋で館林様は、女勘助や神道徳次郎や
めいた二人の侍が、後からあわただしく追っかけて来て、館林のお殿様が仰せられた、『ままごと』と献上箱とは神田神保町の、
の手下達が、へまをやったことを女勘助が、館林様へ詫びているのであった。
館林様は案外平然と、怒りもせずにそんなように云った。
ことか、それを私は知りたいような気がする」館林様はこう云いながら、盃を含んで微笑した。「田沼退治はこれ
「あ、待ってくれ、勇気なんてものは、館林様にお任せして置け。……勇気なんてものを持とうものなら、お前と
ぬか! ……思うに恐らく今度の事件には『館林様』はご関係あるまい! やり方があまりに惨忍に過ぎる!」
のは武士姿の、紫紐丹左衛門であった。「館林様がご関係ないとね」
悪い奴らではありますが、私の敬まっている館林様が、手先にしている奴らでしたから、捕えることだけは止め
(館林様が関係しておられる、大きな仕事に相違ない)
。……そういう秘密の歌のことを、どうして館林様が知ったものか――ああいう叡智のお方だから、どこから
「館林様こそよくございません」
ていたのは、我輩ばかりではなかったのさ。館林様も見ていたのさ。それを互いに知ったものだから、
翌日の晩のことだったよ、館林様がこんなように云って、我輩の席へやって来られた。
「私などよりも館林様こそ、どうして丸田屋の夏別荘などへ、おこしなされたの
と、すると館林様は、不意に鋭い口調をもって、こう我輩を呼びかけたものだ。
(昨夜は名古屋の富豪連を招いて、その席で館林様は話をされた。訓諭と懇願とを雑えたような話を
「十二神!」と館林様がまた言われた。「お前浪人をどう思うな?」
「十二神!」と館林様は叱るように云われた。「お前、このわしを尾行けて来
よい時刻だと思ったので、館林様に挨拶をして、酒宴の席を脱け出して、我輩は庭の方
同じ夜我輩は館林様を連れ出し、月夜を賞しながら彷徨った。
館林様は我輩に説いた。
「うん」と館林様は仰せられた。「まずそう云ってもいいだろう」
「馬鹿な」と館林様は一笑した。「裏切られたらと云うのだろうが、わしの部下
「館林様なんかいいかげんなものさ」不意に声高に云う者があった。「
館林様は足を止めた。すぐに我輩は館林様へ云った。
館林様は足を止めた。すぐに我輩は館林様へ云った。
しかし館林様は動かなかった。と、別の声が聞こえて来た。
の古巣へ帰ると、古巣の生活を後生大事に守り、館林様が事を挙げたって、一人だって従いて行きはしないよ」
食い、かつてなかった待遇を受け、いい気持ちに大言壮語して館林様を讃美しているが、明日になって自分の古巣へ帰ると、
の珠太郎を、誘拐して監禁してしまえという、館林様の吩咐けだったので、そのつもりで骨を折ったんだが、
館林様の体が顫え、片手が刀の柄にかかった。で、我輩は
と館林様は云われたが、尚体は顫えていた。それでもとうとう
翌朝とも云わずその夜のうちに、館林様は大野を去られた。一人で、寂しく、飄然と、裏切られた
から聞いたことだが、富豪と浪人とを呼び寄せて、館林様が事を起こそうとした、――その事というのは謀反など
てやろう――その実行を名古屋からやろう。と云うのが館林様の計画だったそうだ。
のだが、今ではかえって後悔している。そういう館林様の目的だったら、邪魔をするどころか賛成をして、あべこべにお
ようがない。ついてはその方個人として出かけて館林様の行動を監視し、もし出来たら邪魔をするがよいと、こういう
知らなかったので、それにお町奉行の依田様から、館林様が名古屋へ行かれて、何やら大事をやられるらしい。尾張は御三家
と今でも心を安んじている。頭領とも云うべき館林様が、それだけの大事業をしておられるのに、潮湯治客
が、我輩としては館林様から、あの六人の無頼漢どもを、離間させたことだけはよかっ
館林様には六人男どもが、本当に自分を裏切ったものと思い、
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出世をしたのであるから。すなわち侍医法眼となり、浜町に二千坪の屋敷を持つようになったのであるから。
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方面の友人には、蜀山人だの宿屋飯盛だの、山東京伝だの式亭三馬だのそう云ったような人達があり、また当時
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にて、居間長押釘隠し等は、金銀無垢にて作り、これは銀座の者どもより、賄賂として取り候ものの由、不届き至極。
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だ。……そこで藤兵衛は申し上げます、浅草を出て品川まで、すぐにもお出かけなさいませ! 助けるお方が出て参りましょう!
と歩き出した、浅草の境内から誓願寺通りへ抜け、品川の方へ歩いて行く。神田の筋へ来た頃には、町へ
を救ってくれるのなら。で彼女は云われるままに、品川へ行こうとしているのであった。一人の立派なお武家様が
を乗せた駕籠が、三月の月に照らされながら、品川の方へ揺れて行く後から、袴なしの羽織姿の、その立派な
十二神貝十郎とは、品川の方へ進んで行った。品川の一角、高輪の台、海を見下ろした高台に、宏大な屋敷が立っ
お島を乗せた駕籠と、与力十二神貝十郎とは、品川の方へ進んで行った。品川の一角、高輪の台、海を見下ろし
十郎がそれと続いて、邸から出て駕籠に乗り、品川にある和蘭客屋を、訪ねたのも間もなくのことであった
栄(今は鷹匠町の町道場の主)、土方家の浪人品川長康(今は虚無僧として一所不住)、大久保家の旧家臣高橋
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なお方が、お立ち合いの中に雑っておられる。日本橋の大町人、帯刀をさえも許されたお方、名は申さぬが
父母に逝かれた孤児であった。が、日本橋の店の方は、古い番頭や手代達によって、順調に経営さ
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から誓願寺通りへ抜け、品川の方へ歩いて行く。神田の筋へ来た頃には、町へ灯火が点きはじめた。
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浪人品川長康(今は虚無僧として一所不住)、大久保家の旧家臣高橋成信(今は七ツ寺の大道売卜者)、青山
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この頃京橋の、館林様の邸内の、奥まった部屋で館林様は、女勘助や
京橋の中ほどまで来た時である、彼女はすっかり疲労れてしまった。こんなに
(しまった!)――で京一郎は逃げた。ここは京橋の一画で、本通りから離れた小路であった。両親に内証で町道場へ
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二月が来て春めいた。隅田川に沿った茶屋の奥の部屋で、お品と新八郎とが媾曳きを
隅田川の畔、小梅の里に、風雅と豪奢とを兼ね備えた、柏屋の寮