赤坂城の謀略 / 国枝史郎

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地名一覧

生駒

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を遠く囲繞して、秋篠の郷や外山の里や、生駒の嶽や志城津の浜や、住吉や難波の浦々に――即ち大和、

隅田

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それを追って、隅田、高橋の勢が、天王寺付近にさしかかった時、伏兵が三方からあらわれた

云うと正遠は、ユサリと一膝すすめたが、「先般隅田、高橋の勢の、五千余騎をさえ渡辺の橋にて、追い崩しましてござり

赤坂城

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赤坂城の謀略

と正成は思い、この赤坂城にそれ以前から、お籠りあそばされた護良親王様を、まず第一に落し

二十町あまりも落ちのびた時、今まで籠城していた赤坂城に――寄手の関東勢二十余万人を、釣塀、投大木、熱湯かけで

を、釣塀、投大木、熱湯かけで、防ぎ苦しめた赤坂城に、焔が高く上ったのが見えた。

であり、闇夜を赤く染めているものは、燃えている赤坂城の火の光であった。

「まこと君にはその後間もなく、赤坂城を復されましてござりまする」

正成が赤坂城を捨てて出た後へ、六波羅の命で入城し、城を修理して

河内

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河内の国の一豪族の身が、一天万乗の君に見出され、たのむぞよとの

の夜のことであった。正成の天王寺の陣営で、河内の国の住人和田孫三郎は、額の汗をふきふき、正成へ情勢を報知せてい

の浜や、住吉や難波の浦々に――即ち大和、河内、紀伊の、山々谷々浦々に、篝や松明がおびただしく焚かれ、今にも

関東

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六波羅探題北條時益、同じく北條仲時によって、わざわざ関東から呼びよせられ、京都守護をまかせられた、武功名誉の公綱であった。隅田

が、もろくも正成のために渡辺の橋で破られ、関東の武威を失墜するや「大軍すでに利を失いました後、小勢を以て

て向いますること、如何あらんかとは存じまするが、関東を罷り出でまする際、このようなお大事に巡り合い、命を軽ういたすを以て

ませぬ。何はあれ一人にても駈け向い、落ちました関東の武威を揚げますこと、肝要のことかと存ぜられまする」と、こう言上

であろう。西鳥来テ東魚ヲ食ウ。これは何者か関東を滅す。という予言に相違ない。日西天ニ没スとあるは、帝

難波

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里や、生駒の嶽や志城津の浜や、住吉や難波の浦々に――即ち大和、河内、紀伊の、山々谷々浦々に、篝や

秋篠

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天王寺を遠く囲繞して、秋篠の郷や外山の里や、生駒の嶽や志城津の浜や、住吉や

天王寺

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そこで正成は悠々と、天王寺の地へ陣を敷き、京都へ攻めのぼるべき気勢を示した。

七月××日の夜のことであった。正成の天王寺の陣営で、河内の国の住人和田孫三郎は、額の汗をふきふき、正成

の空の白むと見るや、七百余騎を引率し、天王寺さして驀地に押し寄せ、古宇都の民家へ火をかけて、鬨の声をドッとあげた

はるかの彼方に天王寺があって、その辺に敷いてある公綱の陣から、立ちのぼる篝の火が

「では明日わが君には、天王寺をお討ちあそばすので?」

「さよう予めご計画あそばして、天王寺をご退陣あそばしましたので?」

日はよく晴れた秋日和で、松林では鳩が啼き、天王寺の塔の甍には、陽が銀箔のようにあたっていた。

京都守護

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、同じく北條仲時によって、わざわざ関東から呼びよせられ、京都守護をまかせられた、武功名誉の公綱であった。隅田、高橋の両武将が

赤坂

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河内摂津の間に、隠顕出没して再挙を計るべく、赤坂の城をこうして開いたのは、元弘元年十月の、二十一日の

はふたたび活動をはじめ、わずか五百の兵を以て、まず赤坂の城を攻め、城将湯浅定仏を降し、その兵を合わせて二千となし

「わしは赤坂を落ちる時にも、必ず後日奪回いたすと、こう決心して落ちたのじゃ

長崎

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寄手の大将長崎四郎左衛門尉、この人の陣屋の厩の前に、さしかかった時であった

京都

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川に溺れて死に、全軍ことごとく意気沮喪し、二将は京都へ引あげた。

そこで正成は悠々と、天王寺の地へ陣を敷き、京都へ攻めのぼるべき気勢を示した。

、同じく北條仲時によって、わざわざ関東から呼びよせられ、京都守護をまかせられた、武功名誉の公綱であった。隅田、高橋の両

京都あまりに無勢とあって、両六波羅探題北條時益、同じく北條仲時に

、正成の陣営のその後へ、自身直ちに陣を敷き、やがて京都へ早馬を立て勝利の旨を南六波羅へ申しやった。

「公綱明朝陣を引き、京都へ帰って行くからじゃ」

正成の予言は的中し、翌朝公綱は陣を撤し、京都をさして帰って行き、代って正成が天王寺へ這入った。

宇都宮

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と、その時二度目の討手として、宇都宮治部大輔公綱が、向い来るという取沙汰が聞えて来た。

「……そのような事情にござりまして、宇都宮公綱宿所にも帰えらず、六波羅殿よりすぐに打ち立ち、主従わずかに十五

坂東一と称さるる人物。従う紀清両党の兵は、宇都宮累世養うところのもの、戦場に於て命を棄つること、塵埃の

「宇都宮公綱は律義者じゃ。義に厚く情に脆い。坂東武者の典型でも

一方宇都宮治部大輔公綱は、東の空の白むと見るや、七百余騎を引率

正成の予想に狂いがなく、その後宇都宮公綱は、宮方に帰順して忠節を励んだ。

住吉

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湯浅定仏を降し、その兵を合わせて二千となし、住吉天王寺辺へ打って出で、渡辺橋の南に陣を敷いた。

外山の里や、生駒の嶽や志城津の浜や、住吉や難波の浦々に――即ち大和、河内、紀伊の、山々谷々浦々に