あさひの鎧 / 国枝史郎
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則村も、必ずお味方仕ると、いさぎよき誓約にござりまする。伊予にありましては土居、得能、勤王の兵を挙げますこと、火を睹
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近畿地方はいうまでもなく、山陰、山陽の方面まで、数年の間に良人を
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「丹後の国をふり出しに、但馬、因幡、播磨、摂津と、打って廻りましてござりまして……」
秦氏の一族と合体したりしたが、宗家は代々摂津、和泉、河内、この三国に潜在して、勢力を揮ったということ
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あがりましたる際におきましては、一族郎党をこぞりまして、金剛山の険によりお味方仕ると力強き誓言、播磨の赤松則村も、必ずお味方仕る
林をぬきんでて聳えているのは、四千尺に近い金剛山で、秋日に蒼い山肌が、瑠璃のような色に澄んでみえた。
ではこの辺りは千早と金剛山との、中間にあたっていなければならない。
その谷の道の左右には、金剛山の山脈が、眉を圧して逼って来ていて、それにも老樹や灌木が
塗り机に肘をもたせかけ、以前偶然行ったことのある、金剛山の谷間の城門のような岩壁のことを、思い出していた桂子は云った。
この頃金剛山の方角から、数十人の人影が、この林つづきをこの方角へ、さんざめきながら歩いて
「私は近くの金剛山へ分け入り、しばらく世の中のなりゆきを眺め……」
で、中途で正成と別れ、正成は金剛山へ分けのぼったが、宮は十津川へ入られたのである。
「平賀坊よお主どうする。……河内国金剛山へ、楠木多門坊を訪ねて行き、その後の様子知りたい、などと昨日あたりまで申し
千早に城を築くといって、中途で別れ金剛山へ登った、楠木正成へ使者を送り、その後の様子を尋ねなければならない。
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おかせられては、二度目の座主をお罷めあそばされ、叡山の大塔にご起居ましまし、もっぱら武事を御練磨あそばされ、叡山大衆三千の心
の大塔にご起居ましまし、もっぱら武事を御練磨あそばされ、叡山大衆三千の心を、収攬せられおられますそうな」
「叡山の裏山へあらわれた時にも、側へ来ずに辞儀ばかりしていた
叡山の衆徒は感奮し、大塔宮様ともどもに、車駕を西塔に迎えたてまつり、おり
叡山の裏山でのあの事件後、浮藻を助け出して事情を聞くと、飛天夜叉の桂子
連続した叡山の裏山の危難、やっと遁がれて旅へは出たが、その旅も決して
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ではわしも戦死ときめて、戦死した後では熊野へでも行こうよ」
藤代より切目王子、次いで熊野と辿り辿り、漸次一行は十津川の方へ向かった。
を輩出させている、十津川一帯の豪族や、吉野、熊野、高野の衆徒に、令旨を伝えて味方につけ、義兵を挙げさせるという
高野山や熊野の衆徒へも、令旨を送って奮起させよう。
「神武天皇様ご東征の際、熊野において八咫烏が道案内をいたしまして以来、熊野地方も宮方でござって、
ござって、王事に尽くしたものでございまするが、現在の熊野の別当職、定遍僧都は遺憾ながら無二の武家方でございますれば、大塔
は遺憾ながら無二の武家方でございますれば、大塔宮様熊野におわすと知らば、よもや見遁がしはいたしますまい……」
…で大塔宮様におかれましても、そのような熊野においで遊ばすより、この十津川へお越し遊ばしたなら、私はじめ郷民こぞって
「笠置を落ち、赤坂を捨て、熊野へ入り、熊野を脱し、この十津川へ参ったも、郷民昔より王事に尽くし
「笠置を落ち、赤坂を捨て、熊野へ入り、熊野を脱し、この十津川へ参ったも、郷民昔より王事に尽くし、誠忠である
「思うにそなた慾にかられて、熊野の別当定遍あたりへ……」
姿に身をやつされ、八人のお供を従えて、熊野の方へ落ち行かれたが、十津川を経て吉野か高野へ、いずれはご
(熊野、十津川、吉野といえばいわば俺の縄張り領分、その辺に事実お忍びなら
そこで顔見知りの熊野の別当、定遍僧都に告げようものと、今走っているのであった。
は、大塔宮様一行が山伏姿に身をやつされ、熊野から十津川方面へご潜行あそばされたということであった。
しかし、単独では事なしがたい。無二の武家方の熊野の別当、定遍僧都のもとをたずねて、力を合わせて事を行なおうと
のもとをたずねて、力を合わせて事を行なおうと、熊野に向かって、さらに進んだ。
「熊野の定遍の悪巧みだな!」
「熊野の別当定遍殿が、こうも辛辣に敵対するからは……」
「熊野にいるのよ、定遍様の館に」
竹原館へ入らせられてより、大塔宮は熊野、高野、吉野方面の衆徒の動静や、京都の動静へ御心を配られ
熊野の定遍が狡智をもって立てた、例の立て札が功を奏し、吉野
のお言葉をうけたまわりたさに、比叡山から赤坂から、熊野からこの地へまで、お後慕うて参りましたもの。……この館に
してもわしの後を慕って、比叡山から赤坂、熊野と、この土地へまで来たとは気の毒、話して事情を訊ねるとしよう)
ながらも大弥太こと、天魔に心魅入られましたと見え、熊野の定遍の味方につき、家を明けましてござりまするが、父、兵衛
、御住居を御移しになるばかり、しかもやがては高野も熊野も、御手にお入れあそばさるるご方寸、しかれば十津川は交通の要路、
「熊野の定遍から密使が参り、大塔宮様を討ってとるようにと、兄
はたしてその後大塔宮様が、熊野から十津川の方へご潜行なされ、鬼火の姥はその後を追ったと、
熊野から十津川、芋ヶ瀬から玉置と、大塔宮様を討ち奉ろうと、鬼火の
せられた大塔宮は、高野の衆徒、吉野の衆徒、熊野の衆徒、野武士、山伏、宮方にお味方の諸豪族に守護され厳しい関東軍
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「名古屋の前司候うなり、美福門はわが手にて攻める、余人かならず手出し給うな」
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の一族と合体したりしたが、宗家は代々摂津、和泉、河内、この三国に潜在して、勢力を揮ったということである
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にましまし、文保二年二月二十六日、仏門に帰せられ比叡山に上らせられ、梨本門跡とならせられた、尊雲法親王に御在された
比叡山の裏山の谷川で、三人の女が泳いでいた。
ではどうしてこのようなところへ――比叡山の裏山というようなところへ、彼女はやって来たのであろう?
ことにこの頃の比叡山の裏山には、そういう廃人や落伍者ばかりでなく、盗賊、追い剥ぎ、悪祈祷
同じ比叡山の裏山の、山の斜面に瘤のように、はみ出している丘の上に
そうして比叡山の洞窟にこもって、その調伏にとりかかった。
いう、その袈裟太郎の風のような姿が、夜の比叡山の裏山の木の間を、やがて京の方へ走って行くのが見られた。
御皇子にましまし、梨本御門跡とならせたまい、つづいて比叡山延暦寺の、天台座主に座らせられたまいし、尊雲法親王様におかせられ
そうしてその御方にお縋りしようため、比叡山へ分け登った。
風見の袈裟太郎と連れ立って、二条の桂子の館からこの比叡山の裏山の、谷に添った山路を走って来た、土岐小次郎の端麗な
比叡山の裏山で起こった事件! ……あの事件以来浮藻と小次郎とは、行方不明
比叡山の裏山にいた頃の頼春と、何んとひとが違っていることか!
六波羅討伐の挙兵の際には、主上比叡山へ鸞輿を巡らさる。――というところの御打ち合わせであった。
竜の御衣をお着せになり、御輿に乗らせて比叡山へ遣わし、
とおぼしめし、比叡山を捨てて大和路より、主上のおわす笠置へ入られ、さらに笠置もあや
比叡山の裏山で、左の腕を斬り落とされ、谷の底へころがり落ちた時、偶然
宮家は比叡山の元天台座主、僧家としても智行兼備の御方、何んのご躊躇
ませ。……許すとのお言葉をうけたまわりたさに、比叡山から赤坂から、熊野からこの地へまで、お後慕うて参りましたもの。
……それにしてもわしの後を慕って、比叡山から赤坂、熊野と、この土地へまで来たとは気の毒、話して事情を
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藤代より切目王子、次いで熊野と辿り辿り、漸次一行は十津川の方へ向かった。
吉野十八郷のその中でも、芋ヶ瀬、十津川、蕪坂といえば、肥沃の地として知られていたが、
正成と別れ、正成は金剛山へ分けのぼったが、宮は十津川へ入られたのである。
ではない。が、ただ俺としては狭くるしい、この十津川などに埋ずもれて、豪族でござるの土豪でござるのと、いわば井の
熊野詣での山伏や、吉野参りの道者などが、この十津川へは絶えず入り込んで来た。
十津川は山伏や行者や修験者の、往来の中軸にあたっていた。
「それに十津川の郷民とくると、武勇絶倫ということでござるな」
ではございまするが、頼み甲斐ある人間どもの巣、それが十津川でございます」
ましても、そのような熊野においで遊ばすより、この十津川へお越し遊ばしたなら、私はじめ郷民こぞって、お味方仕りご起居も安泰
「大塔宮様ご一行、まこと十津川へおしのびあらせられたら、兵衛殿には心をこめられ、真実お味方あそばさ
「ご承知のとおりこの十津川は、分内こそ狭くはございまするが、四方嶮岨でございまして、十里
落ち、赤坂を捨て、熊野へ入り、熊野を脱し、この十津川へ参ったも、郷民昔より王事に尽くし、誠忠であることを知ったから
のお供を従えて、熊野の方へ落ち行かれたが、十津川を経て吉野か高野へ、いずれはご潜行なさるるであろう。居場所を突き止め密告
(熊野、十津川、吉野といえばいわば俺の縄張り領分、その辺に事実お忍びなら、探す
十津川の錦旗
「大弥太殿は十津川のお方、地理にも人情にも詳しゅうござれば、申すお言葉も正鵠を
「あの十津川と申します土地は、嶮岨ならびなき地ではあり、郷民と申せば勇猛の
「いずれにいたしても十津川を去るべく、ひそかに用意いたすよう」
熊野も、御手にお入れあそばさるるご方寸、しかれば十津川は交通の要路、再々お通りあそばさるれば、そのつどお眼にかかれまする。
「今夜大塔宮護良親王様には、十津川の郷をお出ましになり、明日小原に差しかかられまするが、大不忠の者あらわれ
「宮家が十津川へおいでになり、戸野兵衛や竹原入道が、お味方となってご守護
をこめて、お守りしている宮様じゃ、それが突然十津川を立たれ、小原で大難にお遭いあそばす、しかもそのことが前の日にわかる。
はたしてその後大塔宮様が、熊野から十津川の方へご潜行なされ、鬼火の姥はその後を追ったと、そういう
「怨む! わしは、お前を怨む! 十津川の辻で、立て札の前で、お前があんなことさえ云わなかったら、わしは
こやつら二人が申しおった。……わしの手を引き十津川からここまで、息せき案内をしてくれた早瀬! ……頼む、急いで
と共に、そうして戸野の大弥太と共に、十津川へ入り込んで来たのであった。
熊野から十津川、芋ヶ瀬から玉置と、大塔宮様を討ち奉ろうと、鬼火の姥と
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朝日が葛城の山脈の上へ昇り、霧が次第に晴れて来た。
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「熊野三山の別当定遍、そのように武家方でござるかな」
「熊野三山の別当定遍、関東よりの御教書なりと申し、大塔宮様にお味方する
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飛び出して来るか、とんと見当がつかぬものさ。……四国、中国、九州あたりには、気心の知れない大小名どもが、様子をうかがっ
国に、結城宗広は陸奥の国に、土居、得能は四国の地に、名和長年は伯耆の国に、菊池武時は九州の地に、
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と合体したりしたが、宗家は代々摂津、和泉、河内、この三国に潜在して、勢力を揮ったということである。
(これはまたわしをカツグ気だな。河内産まれのこの爺は、これでなかなか剽軽者で冗談を仕掛けるから油断が出来
「いつぞや河内の林の中で、桂子様からわたしたち二人は、どこへなりと行ってくらす
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の義士を輩出させている、十津川一帯の豪族や、吉野、熊野、高野の衆徒に、令旨を伝えて味方につけ、義兵を挙げさせる
吉野は嶮岨要害の地、ここへ城など築き設けたなら、関東の大軍押し寄せて
たものでございまするし、壬申の乱のみぎりには、吉野を出られました大海人の皇子、天武の帝でございまするが、このお方
て、熊野の方へ落ち行かれたが、十津川を経て吉野か高野へ、いずれはご潜行なさるるであろう。居場所を突き止め密告した者に
(熊野、十津川、吉野といえばいわば俺の縄張り領分、その辺に事実お忍びなら、探すに手間
さらに吉野の衆徒からも、また高野の衆徒からも、
ず、宮家には槇野城へおはいりになり、その後吉野へ城を構えられ、そこへお籠りあそばされ、三千の武士や衆徒に守護
吉野の城戦
六万余騎の勢を率い、大塔宮の籠らせたまえる吉野の城へ押し寄せた。
そのため大塔宮のご意見によって、権勢を剥がれた吉野の執行、岩菊丸が逆怨みをし、寄せ手の勢に内通し、裏山づたいに
そこで吉野の宮方に加わり、今日まで働いて来たのであった。
吉野の軍に加わって、日夜働いている間にも、やはりこのことが気に
高野山に入らせられた大塔宮は、高野の衆徒、吉野の衆徒、熊野の衆徒、野武士、山伏、宮方にお味方の諸豪族に守護
ある日吉野の山路を、二人の旅人が通っていた。
その後小次郎が一雑兵として、吉野の官軍に従って、働いていたということを耳にした。
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「いよいよ関東の兵ども、赤坂城を目ざしまして、押し寄せましてござります」
の城内でござりましたら、士気旺盛と申しますより、ほとんど関東の寄せ手の勢など、眼中にないといったように、静まり返っておりまする」
「昔平ノ重衡は、囚人として東海道を、関東へ降る道すがら、何んとかいう駅で白拍子の千寿と……で、わし
「それはわしはな、関東の人たちに、面目ないことをしているのだよ」
まだよいが、その他に続々と旗上げされたら、いかな関東の力でも、抑えることは出来ないからのう」
雨に叩かれ風に吹かれ、関東の兵の襲撃を避け、忍び忍びに落ちられるのであった。
の城が小城であり、兵も少く兵糧も乏しく、とうてい関東の大軍を引き受け、長期に渡って戦うことが不可能であるからではあった
は嶮岨要害の地、ここへ城など築き設けたなら、関東の大軍押し寄せても、相当長期防禦出来よう。その地勢も調べてみたい。
宮様ご一行など、この地にお籠もりあそばされて、関東討伐北条氏覆滅の、策源地なんどにいたしましたならば、まことに恰好と存ぜ
ノ車ノ庄ヲ恩賞ニ充テ行ナワル可キ由、関東ノ御教書有之、ソノ上ニ定遍先ズ三日ガ中ニ六千貫ヲ与
「熊野三山の別当定遍、関東よりの御教書なりと申し、大塔宮様にお味方する者は、陰謀与党の
様にお味方する者は、陰謀与党の輩と認め、関東へいちいち注進いたす趣き、で、今日大塔宮様を、この道より左右なくお
この地をお通りになられた。通してはわれら関東に対して済まぬ。そこで御旗を頂戴し、一合戦仕ったと…
飛ばし、宮方の武士を募らせられ、千早城に拠って関東の大軍、三十万を相手にし、微動だもしない楠木正成と、よく連絡
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「丹後の国をふり出しに、但馬、因幡、播磨、摂津と、打って廻りまして
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「鎌倉の悪虐日ごとに増し、両六波羅の非義非道、事ごとに加わるとの
勝利! 何んの疑がい! つもっても見よ当今の鎌倉、また南北六波羅の殿ばら、奢り増長我慢熾烈、神明仏陀の怒りの矢先、
頼まれたお方を裏切るとは! ……我は鎌倉譜代の武士、六波羅の重恩受けたる身、七百余騎を預かりおる、軍奉行
いたしましたるところ、宮方ご謀反内通者あって分明、そこで鎌倉へ注進し、兵を乞うとの意外の話……」
軍事とをつかさどる重職で、その威権の重いことは、鎌倉の執権につぐほどであり、必ず北条氏一族に限って、任ぜられることに
当分穏便じゃとよ。……それにそういう一大事は、鎌倉よりの指揮を受けねば、行ないがたいということじゃ」
「いつ鎌倉から指揮が来るのじゃ?」
「早馬鎌倉へ馳せつくのさえ、相当日数がかかる筈じゃ。それからいろいろ評定があって
手へ渡ろうものなら、著名な公卿や豪族が、六波羅や鎌倉の手によって、捕えられたり攻められたりして、一大騒動が起こらなけれ
れて、安楽におくらしなさりませ。……やがては六波羅も鎌倉も亡び、世は宮方となりましょう。……それまではただひっそりと、つつましく
こう合槌をうったのは、以前は鎌倉の犬飼いであったが、あやまって長崎高資の犬を、自分の犬が
と共に、如上の僧侶たちは捕縛され、京から鎌倉へ護送されたが、なお北条家では心休まらず、わけても両六波羅
「日野資朝卿は佐渡の地で、俊基卿は鎌倉の地で、つい最近首を斬られてしまった。……大塔宮様は
「いざ事あらば鎌倉へとな、われら日頃から思っていたのじゃ。……範覚殿
「さようで、私も、いざ鎌倉となれば、代々仏法にご帰依なされ、執権の身で入道となられ
鎌倉の幕府も、京都の朝廷も、動揺せざるを得ない大事件が起こった
日をもって、全く両六波羅を亡ぼしおえ、新田義貞が鎌倉に討ち入り、同じ月の二十一日に、北条一族を亡ぼして、頼朝以来の武家
宮家には、お渡りあそばさるる御身の上となられ、遥々鎌倉へ移らせられ、苛察冷酷の典型的悪将、尊氏の舎弟直義の手にて
諏訪頼重父子に奉ぜられ、信濃において兵をあげ、鎌倉へ攻めのぼって来たからである。
時行の兵と戦ったが、戦い利あらず敗北し、鎌倉の地にとどまることさえ出来ず、西をさして落ちることになった。
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、あれほどの功をたてましたに、酬いられずに奥州落ち、安宅の関では弁慶の忠義、やっと関守をたぶらかし、脱け出すことは出来
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、とんと見当がつかぬものさ。……四国、中国、九州あたりには、気心の知れない大小名どもが、様子をうかがっているからのう
の地に、名和長年は伯耆の国に、菊池武時は九州の地に、そうして足利高氏さえ、鎌倉幕府を見限って宮方にひそかに
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野長瀬兄弟の陣から脱けて、桂子たちのいる小松原へ、風見の袈裟太郎が帰って来たのは、それから程経た頃
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正成が赤坂へ城を築いて、北条氏討伐の兵を挙げた。で、いずれは関東軍
あろう。と、神の界に属しまつる御一方が、この赤坂へおいで遊ばす筈だ。……それまでどこにいようとままよ」
赤坂からはおおよそ三里。それぐらい距った地点らしかった。
と、赤坂の城からぬけ出して来た、風見の袈裟太郎が注進に及んだ。
「赤坂の城内でござりましたら、士気旺盛と申しますより、ほとんど関東の寄せ手の勢
赤坂の方へ行ったという。
そこで二人は赤坂をさして、こうして旅をして来たのであった。
「汝らどこへ行こうとしたぞ? 赤坂であろう、赤坂の城へ!」
汝らどこへ行こうとしたぞ? 赤坂であろう、赤坂の城へ!」
最近首を斬られてしまった。……大塔宮様は赤坂の城へ、ご入城遊ばしてお遁がれじゃ。……この方々を糾問し
「でも、あのお方は笠置攻めから、この赤坂の城攻めまで、神妙にご従軍されたがな」
現われ出で、罵ったり笑ったり歌ったりしながら、谷間の道を赤坂の方へ、さも元気よく行くかと思うと、そっちの方からは同じよう
を落としたりしながら、碗で酒をあおりあおり、今日の赤坂の戦いについて、批評や噂をやっていた。
(笠置の城が陥落して、大塔宮様が赤坂の城へ、遁がれてお入り遊ばされたそうな。この御方にお眼
赤坂のほとりの雑木林の中で、野武士と若い女とに、ついて来るように
宮家が楠木正成と共に、赤坂の城をふりすてたのは、赤坂の城が小城であり、兵も少く兵糧
楠木正成と共に、赤坂の城をふりすてたのは、赤坂の城が小城であり、兵も少く兵糧も乏しく、とうてい関東の大軍を引き受け
「笠置を落ち、赤坂を捨て、熊野へ入り、熊野を脱し、この十津川へ参ったも、郷民昔
で耳にした噂というのは、大塔宮様が赤坂を脱し、山伏姿に身をやつされ、八人のお供を従えて、熊野
間もなく赤坂の城が落ち、大塔宮様や楠木正成が、自害をして果ててしまっ
と終始一貫、笠置の城へも籠もったのであり、赤坂の城へも籠もったのであるが、熊野落ちの際ひき別れ、一人京
「千早に城を築く以前に、赤坂の城を奪回仕り、関東方の胆を寒からしむる所存」
…許すとのお言葉をうけたまわりたさに、比叡山から赤坂から、熊野からこの地へまで、お後慕うて参りましたもの。……
それにしてもわしの後を慕って、比叡山から赤坂、熊野と、この土地へまで来たとは気の毒、話して事情を訊ねると
その桂子はあの時から間もなく、赤坂の城が落ちたので、京都の自分たちの住居へ、衆を連れて
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さてその赤坂城の可哀そうなほどの姿を、遠望出来る館の縁に、飛天夜叉の桂子が
なのであるが、主人と家来とはうち揃って、赤坂城へ入城した。女子供は和泉あたりの縁者のもとへ立ちのいた。で、この
楠木正成が赤坂城を築いて、北条氏討伐の旗上げをしたと、人の噂で聞いた
の心持ちは、宮方にあるに相違ない。ひょっとかすると赤坂城へはいって、宮方にお尽くししているかもしれない)
「いよいよ関東の兵ども、赤坂城を目ざしまして、押し寄せましてござります」
や、回天の秘策を御胸に持たれ、正成のこもる赤坂城へ、数日前にお入りあそばされたのであった。
「拙者の陣前を忍びやかに、赤坂城の方へ歩みおりましたそうで」
という、さわやかな挨拶が赤坂城の、櫓の中で交わされた。
「赤坂城を落ちさせられた大塔宮様には、山伏に姿をおやつしになり、
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一族四方へ流遇し、その一派は武蔵へ流れ、これは高麗の帰化人であるところの、背奈氏と合してその土地に住み、他
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露を踏み、萩を分け、妻を恋い、野の中に、鳴いている鹿の声であっ
と御心にかかり、宮家は萩と卯木との叢を、向こうの方へ廻って行かれた。
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大木戸の異変
に身分を調べられたり、そのある者は怪しまれて、大木戸の横手の詰め所の構内へ、乱暴に連れて行かれたり、そうでない者
を脱け出し他国へ走ろう。とり逃がしては一大事、是が非でも大木戸で捕えねばならぬ』と。……で、この金地院範覚様が、
そういう混乱を後にして、大木戸の方へ寂しそうに、肩を下げ首を垂れた盲人が一人おぼつかなげに
が裾のあたりへ、血のしぶきを付けた姿で、大木戸を通りぬけ、伏見街道へ出たのに、注意を払おうとはしなかった。
一行は大木戸の前まで来た。
と、大木戸まで来るとけたたましい声で、こう姥は呼ばわった。
「大木戸で逢った……」
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伊勢平氏美濃侍、近江の山本姉川衆、伊賀の服部三河の足助、矢矧衆の兵どもが、色さまざまの旗標立て、黄
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※ それこそめでたいめでたいめでたい! ……新築をした大館の、飾りに植えた神木の藤じゃ! ……棚の大きさ二十間三十間
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鹿ヶ瀬、蕪坂、湯浅、阿瀬川、小原、芋瀬、中津川、吉野十八郷の荘司ばら、こぞってお味方仕るか、すくなくも表立って指さす
中津川の郷の四辻にも、同じような立て札が立っていて、黒木売りや
、草をひらき藪をくぐり、木立ちを分けて一散に、中津川の方へひた走り、桂子、浮藻、小次郎、鶏娘、幽霊女たちは桂子を
、恥じをお忍びあらせられて、御道を変えられ中津川の方へ、ひとまず御落ちあそばしませ! ……意外のお味方その方面より
ではない天の告げじゃ! ……信じてよかろう、中津川の方へ行こうぞ!」
この頃大塔宮ご一行は、中津川の郷の方角へ、足をいそがせ辿っておられた。
こうしてご一行は辿りに辿り、やがて中津川の峠路にかかった。
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や、多治見ノ四郎二郎に口説かれて、北条氏調伏、六波羅征め、関東退治のこの陰謀の中へ、その一員として加わって、
を知ろうとし、そうして一方には六波羅方や、六波羅に心を寄せている諸臣の、猜疑の眼をたくみに眩ませて、
(禁裡様方にお味方すれば、六波羅方に背かねばならぬ。……舅の斎藤太郎左衛門殿にも……)
「今は急速に兵を挙げ、一挙に六波羅を討伐し、探題北条範貞を誅し、宮方の堅き決心のほどを、
「六波羅勢だ!」
「六波羅方の討手ではござらぬ。しかも小勢十数人の、野武士か夜盗か忍び
「六波羅方へ渡ろうものなら」
ない、ではいっそのこと返り忠をして、武家方すなわち六波羅方へつこうか? 一族の十郎頼兼や、多治見ノ四郎二郎と戦わねば
(この深夜に女の身一人で、三条堀川からこの六波羅まで、何用あって来たのであろう?)
となり、無礼講と称しては相集まり、その実ひそかに六波羅征めの……」
「六波羅にては、兵どもを集め、到着づけはじめましてござります!」
この六波羅の探題は、京都及び畿内近国、関西諸国一般の政務と、軍事とをつかさどる
は頼春! ……そちが、頼春が! ……六波羅方にいようとは! ……おおおおさてはおのれが裏切り! ……
数十人の六波羅の甲胄武士が、鋭い眼を八方へ配りながら、関門を通る人々の姿を
「土岐蔵人頼春といえば、六波羅、北面ひっくるめての、美男の武士だということじゃの」
勢がひきあげた時、彼も雑ってひきあげたが、しかし六波羅の探題へも帰らず、自分の館へも帰って行かず、甲胄ぬぎすて庶人
「六波羅から出ました兵の数、おおよそ五百騎にござりまして、今街道を走ら
れたのだ。そうして返り忠の武士として、六波羅方にお仕えし、安閑と生活なさることを恥じ、行方不明になられたの
とらえたてまつり、ともかくもせんものと計画し、この旨を六波羅へ申しやった。
落城後御いたわしくも、賊軍の手にお渡りになり、六波羅へ入御あそばされたとばかり、世上の取り沙汰で耳には入れたが
六波羅北の探題邸を、子を取られた鬼子母神のように、部屋から部屋、
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―大塔宮ヲ討チ奉リタラン者ニハ、非職凡下ヲイワズ、伊勢ノ車ノ庄ヲ恩賞ニ充テ行ナワル可キ由、関東ノ御教書有之、
宮家は令旨を竹原入道に与え、伊勢の国へ兵を出し、平定すべくお命じになった。
ませ! ……宮様の御令旨かしこんで、近々伊勢へ打って出ようと、あのご老体で東奔西走、昨日もお留守今日もお出かけ、
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河内国赤坂の地へ、楠木正成が城を築き、宮方ご加担武家討伐の、義兵
「平賀坊よお主どうする。……河内国金剛山へ、楠木多門坊を訪ねて行き、その後の様子知りたい、などと昨日
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て来たところの、白拍子鞍馬を膝へ引きよせ、これは五条の白拍子の、千山というのを胸へ寄らせ、悦に入っている坊主頭
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を蔽い隠したが、それが大岩石層から徐々に離れ、葛城山の方へ谷を越え、悠々と渡って行ったことである。
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高野山や熊野の衆徒へも、令旨を送って奮起させよう。
であるところの、吉水院真遍に道案内をさせ、高野山を目ざして宮家を落とし、一息ついた彦四郎義光は、二の木戸の高楼へ
高野山に入らせられた大塔宮は、高野の衆徒、吉野の衆徒、熊野の衆徒
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「丹後の国をふり出しに、但馬、因幡、播磨、摂津と、打って廻りましてござりまして……」
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ここは五条松原で、六波羅探題の大屋敷が、篝火、幔幕、槍、長柄、弓矢によって厳めしく、さも
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「村上坊ではなかったかな、吉野山に参詣し、庵室になるべき地形見立てようと、数日来大分意気ごんでい
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「伏見か奈良か、宇治か大津か、その辺を打って廻ります所存……」
某の公卿の一族を、宇治の方へ落としてやったのも、某の豪族の一族を、南海の方
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にましまし、梨本御門跡とならせたまい、つづいて比叡山延暦寺の、天台座主に座らせられたまいし、尊雲法親王様におかせられては、
「車駕、延暦寺に幸す」と宣せられた。
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ある。その乞食の――その頼春の左の腕は、比叡の裏山で、小次郎その人が斬り落としたのであったが、それも小次郎に
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「日野資朝卿は佐渡の地で、俊基卿は鎌倉の地で、つい最近首を斬られてしまっ
のいたいたしい敗戦となり、本院には隠岐の島へ、新院には佐渡の島へ、中院には土佐の国へ、この日本に武将あって以来、
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京都二条の外れにあたって、宏大な古館が立っていた。
この六波羅の探題は、京都及び畿内近国、関西諸国一般の政務と、軍事とをつかさどる重職で、その
ないのだが、そうして宮方に味方している、京都在住の者どもの名は、連判状がなかろうと、だいたいのところ目星がつき
の朝飯前だと、このように申して油断に油断し、京都や、淀や、神崎などより、めし連れました遊君を侍らせ、乱痴気
この月十五日に関東軍は、総勢こぞって京都を立ち大和路と佐々良路と天王寺路と、そうして伊賀路の四
のあかるくともしつらねた、その部屋の正面に毛皮を敷き、京都五条から連れて来たところの、白拍子鞍馬を膝へ引きよせ、これは五条
その杯を両手で受けながら、関東北条家の歴々と、京都一流の白拍子遊君が、紅紫繚乱として入り乱れている、晴れがましいこの場の
で、二人は京都へ帰り、桂子の館へ行ってみた。
背奈氏と合してその土地に住み、他の一派は京都洛外の、太秦辺に住居して秦氏の一族と合体したりした
――京都で耳にした噂というのは、大塔宮様が赤坂を脱し、
大塔宮は熊野、高野、吉野方面の衆徒の動静や、京都の動静へ御心を配られ、村上彦四郎以下八人の家臣や、竹原
そうして宮家御自身には、一挙に京都へ征め上り、両六波羅を滅ぼそうものと、よりより軍備あそばされた。
時から間もなく、赤坂の城が落ちたので、京都の自分たちの住居へ、衆を連れて引き揚げた。
鎌倉の幕府も、京都の朝廷も、動揺せざるを得ない大事件が起こった。
この頃桂子は浮藻や小次郎と、京都二条の自分の館に、陰惨として住んでいた。
遣わされ、勤王の兵を募られつつ、一方には直ちに京都六波羅を、ご討伐あそばさるるご計画と、こういう形勢になってしまった
この頃範覚は京都の町を、銀河を頭上にいただきながら、朗らかな顔をして歩いて
女も鶏娘も、風見の袈裟太郎も館を去り、京都二条のあの館は、無人の廃屋になったという。
その高氏が京都へ入り、両六波羅を討伐し、この年の五月七日をもって
あの夜京都の二条の外れの、桂子の館の築地の外で、気絶して
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のご親政となられ、いかに日本安らかになったか。大津、葛葉の二関の他は、関所ことごとく開放し、商売往来の弊を
「伏見か奈良か、宇治か大津か、その辺を打って廻ります所存……」
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田楽にその日を過ごす。補佐する高資に至っては――長崎高資に至っては、貪慾にして苛察の小人、賄賂を貪り訴訟
は、以前は鎌倉の犬飼いであったが、あやまって長崎高資の犬を、自分の犬が食い殺した咎で、右の手を肘
高時は大いに狼狽したが、長崎高資の謀を用い承久の例に則って、人臣の身としては
判官秀朝や、佐々木入道貞氏や、大和弥六左衛門ノ尉や、長崎四郎左衛門ノ尉や、北条駿河八郎や、宇佐美摂津前司や、武田伊豆守や
長崎次郎殿もびっくり
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「伏見か奈良か、宇治か大津か、その辺を打って廻ります所存……」
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近い座では、佐々良路の先頭を承わって来た、金沢武蔵右馬助が、千葉介貞胤を相手とし、神崎の遊君人丸や
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、北条駿河八郎や、宇佐美摂津前司や、武田伊豆守や、渋谷遠江守、足利治部大輔高氏や、結城七郎左衛門ノ尉親光などが、
そういう評定もしたのであったが、本間党と渋谷党とが、承引しようとはしなかった。
本間、渋谷の手の者が、真っ先立って突き進み、堀の中へこみ入りこみ入り、忽ち切岸の
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「槇野城の上野房聖賢のもとへは、たしか兄上には使者をつかわされ、宮家へ
新田義貞は上野に、赤松則村は播磨の国に、結城宗広は陸奥の国に、土居