秀吉・家康二英雄の対南洋外交 / 国枝史郎

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地名一覧

関東

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為でもあるのです。というのは、今回そのため関東の浦賀を碇泊所としますがこれは貴国にとっても便利のことと

マニラ

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たからである。孫七郎は、その兄、喜右衛門と共にマニラに住み、貿易を業とし、盛大をきわめていたが、機智に富み

ところでその結果はどうかというに、マニラに戻った孫七郎の手によって、この文書を渡された総督のマリニャスは

あったので秀吉はその乞いを許したが、その後そのマニラの使者の中の三人の宣教師が、人質として日本にとどまったの

慶長六年のことであったが、マニラの大守テイヨから久しぶりに来翰あり、日本人が支那人と共同して暴動をする

両国

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いと希望し、同じ年に、また同じ王から来書があるや、両国の交際のいよいよ厚くなることを喜ぶと云い、更に同国に内乱があって干戈

東京

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日本と南洋諸国、即ち呂宋、媽港、安南、東京、占城、柬埔塞、暹羅、太泥等と貿易をしたのは相当

浦賀

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もあるのです。というのは、今回そのため関東の浦賀を碇泊所としますがこれは貴国にとっても便利のことと思い

送った。そこで呂宋は意を安んじて、同年船を浦賀に向け、書状及び贈物を献じ、爾来盛んに通商貿易をした。しかし