血曼陀羅紙帳武士 / 国枝史郎
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そうじゃ。ところが、不思議なことには、この二人、甲州の大尽、鴨屋方に推参し、三戸前の土蔵を破り、甲州小判
左衛門方を襲い、天国の剣と財宝とを奪い、さらに甲州の鴨屋を襲って、巨額の財宝を手に入れたのを最後とし
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聞こえたので、伊東頼母は足を止めた。ここは甲州街道の府中から、一里ほど離れた野原で、天保××年三月十六日の
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「府中の火祭り賭場は有名、関東の親分衆が、駒箱を乾児衆に担がせ、いくらともなく出張っ
。拙者は、松戸の五郎蔵殿のもとへ参るつもりじゃ。関東には鼻を突くほど、立派な親分衆がござるが、五郎蔵殿ほど、我々
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、どの親分のもとへ参らるる気かな。拙者は、松戸の五郎蔵殿のもとへ参るつもりじゃ。関東には鼻を突くほど、立派な
、ちょうど今日、府中の火祭りの日でございましたが、松戸の五郎蔵と申す、博徒の頭が参り、父と、密談いたしおりましたが
「父を脅かす者は、松戸の五郎蔵なのでございます。父は妾に申しました。『五郎蔵が殺し
群の中には、松戸の五郎蔵もいた。寝巻姿ではあるが、長脇差しを引っ下げ、抜け上がって
たち飯塚家に、わけても父薪左衛門に仇をする、松戸の五郎蔵という博徒の親分が、何故父親に仇をするのか、五郎蔵の
「はい、過ぐる年、松戸の五郎蔵という、博徒の親分が参りまして、お父様と、お話しいたしまして
(その後、来栖勘兵衛は、故郷の松戸へ帰り、博徒の頭になった筈だ)
と、井戸端まで辿りついた男は喚いた。松戸の五郎蔵の乾児の、中盆の染八であった。
て行って、頼母の居場所を探りたくはあったが、松戸の五郎蔵一味が、まだ府中にいて、この身の現われるのを待ち、討ち取ろう
松戸の五郎蔵と、その乾児たちであった。
を云って、今後はかえって生活よくなろうぞ。我々は、松戸の五郎蔵親分に腕貸しいたし、刀傷を受けました者でござると、
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、それから間もなくのことで、娘の家は、府中から一里ほど離れたところにあった。鋲打ちの門や土塀などに囲まれ
「そうそう」と角右衛門が云った。「今日から府中は火祭りだったのう。あの火がそうじゃ」
「府中の火祭り賭場は有名、関東の親分衆が、駒箱を乾児衆に担が
勝負をやる筈。拙者、明日は早々ここを立って、府中へ参るつもりじゃ」これは山口という武士であった。
「わたくしも明日は府中へ参ります所存。この頃中不漁で、生物にもありつかず、やるせのうござれ
「五年前の、ちょうど今日、府中の火祭りの日でございましたが、松戸の五郎蔵と申す、博徒の頭が
ここ、府中の宿は、火祭りで賑わっていた。家々では篝火を焚き、夜に
になり、三日を費やし、三日目の今日、ようやく府中へ来たのであった。
溜っている露を、足に冷たく感じながら、頼母は、府中の方へ歩いて行った。
府中の方へ流れて行く、幅十間ばかりの、髪川という川が、
「拙者は、府中の武蔵屋に泊まっておる」
編笠の武士、すなわち、伊東頼母は、そう、今日、府中へ来ると、五郎蔵一家が、武蔵屋へ宿を取っていると聞き、近寄る
この夜が更けて、子の刻になった時、府中の旅籠屋、武蔵屋は寝静まっていた。
? 何んでもなかった、三日前の夜、府中の武蔵屋で、ああいう騒動を惹き起こしたが、切り抜けて遁がれた。遁がれ
を探し出し、敵わぬまでも勝負しようと、武蔵屋を出で、府中をはじめ、近所のそちこちを、今日まで三日間さがし廻った。だが左門の
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日の月が、朧ろに照らしていた。頼母は、江戸へ行くつもりで、街道筋を辿って来たのであったが、いつどこ
させたのは忠右衛門である」と云い、遊学先の江戸から馳せ帰り、一夜、忠右衛門を往来に要して討ち取り、行衛を眩ました。こうなっ
、この時代の風習として、家庭にいないで、江戸へ出、学問に精進していたからである。そう、頼母も左門も
からである。そう、頼母も左門も、幼少の頃から江戸に遊学し、頼母は、宣長の門人伴信友の門に入り、国学を修め
ましょうとも、女の身の妾などにしてからが、江戸におりました頃、歌舞伎を見物、水の垂れそうに美しい、吉沢あやめの
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足利時代に、下総、常陸等を領していた、管領千葉家の重臣の遺流だったので、現在の領主、堀田備中守も
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さからか、四人の者は、雨戸の間に、目白のように押し並び、しばらくは雑談に耽ったが、やがて部屋の中へはいっ
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塚の岩組から、栓かのように横へはみ出している小岩、それに取り縋っている全身血だらけの武士の姿であった。
と、その時まで、塚の真下に、小岩を抱いて、奄々とした気息で、伏し沈んでいた典膳が、最後
したに過ぎなかった。栓のように見えていた小岩は、穴倉の上置きの磐石を辷らせる、槓桿だったらしい。その槓桿を
この時典膳の体が、小岩を抱いたまま、前方へのめり、それと同時に、穴倉の光景は消え