イノチガケ ――ヨワン・シローテの殉教―― / 坂口安吾

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地名一覧

琉球

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の年に四名のドミニカンが二名の従者を随へて琉球に辿りついたが、捕はれて長崎へ送られ、皆殺された。刑

駿府

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ビベロは駿府に於て家康に謁見したが、家康は二段から成る台の上に

大阪

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彼等は京都で耳を截りそがれ、京、大阪、堺の街を引廻された上、長崎へ護送。この途中、京都の大工

東北地方

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名潜入。前者四名は一六二二年いづれも火あぶり。バラジヤスは東北地方に潜入、一六三八年、仙台で捕へられて江戸へ送られ、芝で火あぶり

二条城

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即刻出頭せよと伝へた。フロイスは黒い法衣をまとふて二条城の工事場へ行つた。

博多

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秀吉が九州征伐を終へて博多へ来たとき、従管長コエリョは山口からやつて来て謁見して戦捷祝賀

丁度その頃平戸に来ていた二艘のポルトガル商船を博多へ廻航させようとして布教長コエリョに命じたところ、コエリョは航路危険と

有馬

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城の下の水辺に壮大な南蛮寺が建立され、有馬と並んでセミナリヨ(神父を教師にした洋風の学校)が設けられて、

命令の使者が立つた。小西、大友、黒田、蒲生、有馬、大村など切支丹大名は沢山あつたが、彼等には沙汰がなく、唯

マニラ

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発せられてゐたのであつた。したがつて、マニラに勢力をもつフランシスコ会、ドミニコ会、オグスチノ会は日本伝道を欲してゐた

日本の教師追放令がマニラに伝はり、日本教会全滅といふ大袈裟な誤報となつて飛んできた。

折からマニラのイスパニヤ商人達は、日本に於けるポルトガル商人の勢力を駆逐して貿易を

さういふ機運のあるところへ、秀吉の使節と自称してマニラに現はれた野心児原田孫七郎が日比通商と教師派遣を説いたから、三者

・ラザロの寺をつくり、京都にはボルチュンクラ寺院をたてゝマニラから豊富な資金がくるにまかせて華々しく布教につとめ、又、癩病院をもうけ

全体の問題からイスパニヤ人を主とする逮捕令に変更。マニラから来た教師のみを死刑と決定。

ビベロ・イ・ベラスコは新イスパニヤ(メキシコ)へ赴くためにマニラを出帆したが、難破して日本に漂着、家康の手厚いもてなしを受けた

全部と日本人信徒の中の重立つ人々四百余名は天川とマニラへ追放されることとなり、続々長崎へ送られてきたが、船の

艘の船に分乗して、教師信徒四百余名天川とマニラへ追放。尚少数の教師は潜伏して日本に残つた。

この殉教はマニラに伝はり、彼の地の信徒に大きな感動をひきおこした。必要ならば尚

一六二三年。前年の大殉教はマニラの神父達を刺戟して、その血をキリシトに捧げるために、更に十名

特異の人で、即ちマストリリを除く潜入教師がすべて天川やマニラに於て、計画を立て、潜入後は潜伏の信徒と連絡して潜伏布教

マニラから日本へ渡る航海では、暴風と海賊船に苦しめられたが、その都度奇蹟

マストリリの殉教がマニラや天川へ伝はると共にかういふ伝説が流布した。やがてこの伝説

て、翌年七月二十一日呂宋へ向けて出帆。九月マニラに上陸した。

て北京へ向つて出発したが、シドチはひとり別れてマニラにとゞまり、さて愈日本潜入の機会をうかゞふことゝなつた

そのころマニラには三千余人の日本人が住んでゐた。彼等はひとつの部落を

た切支丹の子孫もゐたが、三年前漂流してマニラへ着いたといふ十四名の漁師がゐて、シドチは特にこの人々から日本

命を的の航海を引受けるといふ者もなかつた。遥々マニラまで辿りつきながら、一歩のところで思ふにまかせぬ悲運に日夜焦躁したが

一七〇八年八月二十三日、聖三位号に乗込み、マニラ出帆。

として一名の日本人を乗込ませた。この日本人はマニラに漂流した漁夫の一人で、今この船の船員であつた。

シドチはマニラで日本の武士の服装を一揃もとめて来たが、これとて確たるよりどころが

して贈つた黄金の延金百八十一枚と粒百六十、ほかにマニラで手に入れた日本の金貨若干と少量の食物であつた。

を企てゝゐた――企てもしなかつたが、マニラの方では企てゝゐると思つてゐた――典型的な侵略家であつ

安土

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信長の居城安土には、城の下の水辺に壮大な南蛮寺が建立され、有馬と

経て差出した願書に許可を与へて免許状を下附し、安土の南蛮寺とセミナリヨを大坂に移させてその献堂式には自ら参列、又

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彼等は京都で耳を截りそがれ、京、大阪、堺の街を引廻された上、長崎へ護送。この途中、京都の大工で洗礼名

長崎奉行所

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さくれ」と答へるぐらゐで異体が知れない。昔の長崎奉行所なら一目でそれと分る切支丹祭具で、捕吏達が鵜の目鷹の目嗅ぎま

薩摩

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の刀を抜きとつて遠くへ投げすてゝ、ことぎれた。薩摩にも迫害が起つて、レオ七右衛門は片手にロザリオを片手に聖母の油絵

の援助を得てゴアに渡り、遂に単独日本に潜入、薩摩に上陸して日向の沿岸を伝ひ江戸へと志したが、日向の櫛

人に従者三名、支那人に扮して来たが、薩摩の一角で岩に乗上げて、捕はれた。長崎へ送られて、火責め

一六三七年九月十九日、薩摩の一角に上陸。上陸に当つてアンドレ籠手田といふ信徒と連絡したが、

このことが薩摩の国守にきこえ、宮の浦といふ所に牢をつくつてこの男を保護

に茶褐色の袖細の綿入を着てゐた。これは薩摩の国守が与へたものであつた。すでに厳寒の候であるから、これだけ

粟生村

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の国馭謨郡の海上屋久島に出漁して、その島の粟生村といふ所に泊つてゐた阿波の国久保浦の漁師、船頭市兵衛その他七

有馬村

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たといふことであり、日本側の記録によれば、有馬村で、角蔵三吉といふ二名の者が、切支丹の画を祀つてゐるところ

九州

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一五四七年一月、一艘のポルトガル商船が九州の一角に坐礁して引卸しにかゝつてゐると、丘の上から

水夫達は当惑したが、見れば一人はかねて九州ヒヤマレゴ(該当地不詳)の港で面識のある者であるから、とにかくボートに

畿内

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である。しかも予ての想像通り方言のごちやまぜで、畿内、山陰、西南海道の方言が主で、これを伊太利亜の巻舌で発音するから

建仁寺

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謁見して布教の免許を受けることができたのも、建仁寺の一禅僧の斡旋であつた。

パレルモ

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シドチはシシリヤのパレルモに生れ、貴族の子弟であつたが、羅馬に学んで、枢機官フェルラリの

筑前

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信雄やその叔父織田有楽斎など有力な大名も洗礼を受け、筑前山門の城主田中吉政も洗礼を受けてバルトロメヨと名乗り、家臣八百三十人もつゞいて

蝦夷

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デオゴは奥羽に潜入布教して蝦夷にまで進んだが、一六二四年、仙台領の下嵐江鉱山で坑夫信徒六十名と

ナポリ

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即ち、一六三三年のこと、ナポリの府知事が聖母無原始胎胆礼を執行しようとしてマストリリに祭式の補助

平戸

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なるためには何か理由がある筈で、丁度その頃平戸に来ていた二艘のポルトガル商船を博多へ廻航させようとして布教

長崎奉行は佐賀、平戸、島原の三藩から援軍を繰出させ、総勢数万。長崎から浦上への

江戸

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長崎で穴つるし、山本は小倉で火あぶり。バルレトは一六二〇年江戸附近で衰弱の極行き倒れた。

は東北地方に潜入、一六三八年、仙台で捕へられて江戸へ送られ、芝で火あぶり。伴天連火刑の最後となつた。

。カルバリョ火あぶり。フランシスコ会のフランシスコとラウレルも火あぶり。ゴメスは江戸で穴つるし。カブリエルは一六三二年捕へられて殺され方は不明。ルカスは

この年、江戸で原主水はじめ五十名、芝で火あぶり。つゞいて、その妻子二十六名、同

潜入。トメ六左衛門は一六三三年長崎附近で行き倒れ。ミゲル益田は江戸で穴つるし。ペトロ・カッスイも同じく江戸で穴つるし。四人目のトメイ次兵衛は金鍔

行き倒れ。ミゲル益田は江戸で穴つるし。ペトロ・カッスイも同じく江戸で穴つるし。四人目のトメイ次兵衛は金鍔次兵衛(又は次太夫とも云ふ)

を追ひ廻したが、労して効なく、この時すでにトメイは江戸へ逐電して、将軍家のお小姓組の間を伝道して廻つてゐた

、長崎へ送られ、幕府の特命によつて更に長崎から江戸へ送られ、将軍に差出す教理要略を書き残して、一六三四年、江戸市中引廻し

日本に潜入、薩摩に上陸して日向の沿岸を伝ひ江戸へと志したが、日向の櫛の津で捕へられた。

日本潜入を決意し、潜伏布教を問題とせず、直接江戸へ上つて将軍に直談判し、布教の公許をもとめるために潜入した。

マストリリはひとり陸路江戸を指して日向の浜辺を進む途中、林の中で焚火中に捕はれ

男は長崎を忌み嫌ふ様子で、ひたすら江戸へ行きたがる様子であつたが、この男の望みにまかせるわけには行かない

如何様にしても江戸へ上り、将軍に拝謁して宗門の説明をなし改宗をすゝめたい所存であつ

屋久島で日本人に話しかけたのも一隻の船を雇つて江戸へ行きたい為であつたと答へた。今も唯願ふところは、江戸へ

為であつたと答へた。今も唯願ふところは、江戸へのぼつて将軍に拝謁したいこと、この一つのみであると言ふ

その三 江戸

この報告が江戸へ来て、新井白石が初めて之を耳にしたのは宝永五年十二

白石を召し寄せて、大隅の国へついた西洋人が近々江戸へ送られてくる筈であるからその来由を訊問せよと命じ、長崎奉行の

ずらはすのみで恂に本意なく思つてゐる。あまつさへ江戸へ来てのちは、すでに年も暮れようとし、ほどなく雪の降る季節に

の歳月を費してやうやく一念を貫き、かうして今や江戸へ着くことが出来たのである。逃げるなどゝは思ひも寄らないことで

西洋の文字でローマと記してある。その他和蘭であれ江戸であれコンパスで測つて、さし違へたといふことがない。

風波をしのいで日本の土を踏むことができ、遂に国都江戸に到着することも出来たが、折しも今日は本国では新年の初の

ローマ

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一六二二年。嘗て支倉六右衛門をローマへ伴ふた伴天連ソテロは日本人入満ルイス笹田を随へて潜入、直ちに捕へられ

合せてみても殆んど要領を得ず、イタリヤ、パレルモ、ローマ、フランス、カナリヤ、天主、父、子、聖霊などゝいふ単語がポツ/\

ついたといふ長崎からの報告が話題に上つて、ローマ、ロクソン、ナンバン、カステイラ、キリシタンといふ言葉などが聞きとれたが、ローマはとにかく

、ナンバン、カステイラ、キリシタンといふ言葉などが聞きとれたが、ローマはとにかくとして、ロクソン、カステイラなどは甲必丹にも意味が分らな

ところが例の和蘭版地図を取出して、ローマはどのへんだと訊ねたところが、シローテは通詞に向てチルチヌスはありませ

と問ふてみると、和蘭語ではパッスルといふもの、ローマの言葉ではコンパスといふものゝことであると言ふ。ところが驚いたこと

ゝ此処ですと言ふ。そこを見ると成程西洋の文字でローマと記してある。その他和蘭であれ江戸であれコンパスで測つて、さし

事情のみを尋ねたがわづかに前後三回の審問だけでローマの何処たるかすら知らなかつた白石が、欧羅巴各国のみならず東洋

奪ふ手段であると信じさせた為である。然るに我ローマの国は国がひらかれてこのかた千三百八十余年寸土尺地といへども他国を

にならぬ高級な国民だと言ひ、西洋最高の文明国はローマだが、日本の文化のみは蓋し之にも劣る所がないなどゝ途方も

大坂城

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が、ロドリゲスやオルガンチノはこの最中にも通辞といふ名目で大坂城に出入を許され、他日を期して秀吉の怒りを和げることに力めて、

通辞の役で大坂城に出入してゐたロドリゲスの奔走で石田三成を動かすことができ、その斡旋

切支丹屋敷

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れて捕へられ、長崎へ送られ、更に江戸小石川の切支丹屋敷へ移された。こゝで様々の拷問、誘惑を受けて、全員残らず背教

は一度ころび、後に立直つて死んだ。フランシスコ・カッサロは切支丹屋敷の独房へ女と一緒に入れておかれ誘惑に負けてころび、いくばくもなく

その本名は不明であるが、棄教して妻を娶り、切支丹屋敷に住んで南甫といふ名で呼ばれてゐたが、一六七八年、七十九

附添ひ、十一月朔日江戸表へつき、小石川茗荷谷の切支丹屋敷へ入れられた。

之に対して家宣は中策を採用し、囚人として切支丹屋敷に住はしむべしと命令。一国の使臣としてその宋門の無実

彼等は罪人の子供で幼時から切支丹屋敷に養はれ、日本へ潜入とらはれた広東人、背教後は黒川寿庵と

島原

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火あぶり。ゾラとガスパル定松は肥前肥後に潜伏布教、一六二六年島原で捕はれて長崎で火あぶり。シモン・エンポは一六二三年江戸芝で火あぶり。

長崎奉行は佐賀、平戸、島原の三藩から援軍を繰出させ、総勢数万。長崎から浦上への往還筋

一六三七年。天草と島原の間の湯ヶ島に切支丹が会合して、次のやうな触れ状をつくり、島原

教会の記録によれば、島原の領主が暴政を擅にして人民を窘げ、年貢の外にあらゆる名目

比叡山

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のは奇妙千万なと語つて、「貴公は千五百年前、比叡山でをれをつかまへて絹五十反売りつけをつた仁ではないか。今度も

年前に絹を買ふことができたか、又、比叡山は開かれてから千年にも満たない山だといふではないか、

鹿児島

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他の者を従へ、パウロの案内によつてその故郷鹿児島へ上陸したのは一五四九年八月十五日、聖母まりや昇天祭の日

鹿児島に福昌寺の忍室といつて博識の聞え高い老僧があつた。サビエル

に心服、自力の本拠を失つた一人であつた。後年鹿児島を訪れた法弟アルメーダに向つて、自分には禅僧としての地位名望

京都

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中国から京畿を廻つたが、当時は戦乱の最中で、京都は衰微の極に達し、布教どころではなかつた。この道中、喜捨は

ものだと大声で罵つた。会談二時間に及んで、京都居住と布教の免許を与へた。

或る日のこと、信長は京都へ来たついでにオルガンチノとロレンソを招いて、彼等を別室へ伴つ

もつゞいて信者となつた。秀吉の弟大和大納言秀長や京都の所司代前田玄以は信者ではなかつたけれども、切支丹に同情して保護

僧院をたてゝ、長崎にサン・ラザロの寺をつくり、京都にはボルチュンクラ寺院をたてゝマニラから豊富な資金がくるにまかせて華々しく布教

つて来た。ジュスト高山は死を覚悟して自首。京都所司代前田玄以の長子左近はその弟従弟と共に八名の近臣を伴

殉教の覚悟をかためて逮捕を待ち、諸国の信者は陸続京都へ集つて来た。ジュスト高山は死を覚悟して自首。京都所司代

へ護送。この途中、京都の大工で洗礼名をカユース、同じく京都の信者で洗礼名をペトロとよぶ二名の者が護送の一行と共に

の街を引廻された上、長崎へ護送。この途中、京都の大工で洗礼名をカユース、同じく京都の信者で洗礼名をペトロとよぶ二名

彼等は京都で耳を截りそがれ、京、大阪、堺の街を引廻された上

この年、十月十七日、京都で五十二名の殉教があつた。

長崎

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信者達は感動して泣いてしまつたと云ふ。又長崎に初めてトドス・サントス寺院ができて、復活祭の祝をした時、その

大坂に「ペレムの家」といふ僧院をたてゝ、長崎にサン・ラザロの寺をつくり、京都にはボルチュンクラ寺院をたてゝマニラから

志願、合計二十六名となり、一五九七年二月五日、長崎立山の海にひらかれた丘の上でクルスにかけられて突殺さ

れ、京、大阪、堺の街を引廻された上、長崎へ護送。この途中、京都の大工で洗礼名をカユース、同じく京都の信者で

許されなかつたので、くづれ落ちるにつれて集められ、長崎のコレヂヨの祭壇の下へ安置されたが、ヨハネとシモンの首だけ

余名は天川とマニラへ追放されることとなり、続々長崎へ送られてきたが、船の準備と順風の都合で、出帆は

長崎の感情は激発し、日と共に亢奮の坩堝に落込み、信徒達は

の月曜に殉教覚悟の示威行列。その翌日はアゴスチノ会が長崎全市を練り歩き、最も自重してゐたゼスス会も堪りかねて示威行列。

に潜伏布教、一六三三年周防で捕はれて、コスタは長崎で穴つるし、山本は小倉で火あぶり。バルレトは一六二〇年江戸附近で衰弱の

は肥前肥後に潜伏布教、一六二六年島原で捕はれて長崎で火あぶり。シモン・エンポは一六二三年江戸芝で火あぶり。コスタと山本デオニソは

、捜査に追はれて田舎小屋で行き倒れ。パセオは一六二六年長崎で火あぶり。ゾラとガスパル定松は肥前肥後に潜伏布教、一六二六年島原で捕

アダミは潜入後十九年間潜伏布教、一六三三年長崎で穴つるし。コウロスは潜入後二十年潜伏布教、捜査に追はれて田舎

日本人伴天連シスト・トクウンは長崎で穴つるし。

、血といのちの布教を決意、公然法服を着て、長崎の入口に小屋をつくつて説教をはじめた。聴衆三千余人。翌日は伊木

の五人は各地に散つて潜伏布教、グチエレスは一六二九年長崎附近で捕へられて穴つるし。デエゴとマルチノは消息不明、アントニヨは一六二七年

又、長崎では、十一月十八日、潜伏教師をかくまつた徳庵、レオナルド木村、

の船頭平山常陳の船で潜入。直ちに捕へられて長崎で火あぶり。平山常陳も火あぶり。ほかに累連者十二名は首を

で捕はれて一六二二年田平で火あぶり。ボルセスは一六三三年長崎で穴つるし。

この年の九月十日に、長崎立山で五十五人の殉教があつた。三十名の日本人信徒が斬首さ

この年は、この外にも、長崎附近だけで百数十名の殉教があつた。

殺され方は不明。ルカスは長崎で穴つるし。エルキシヤ同じく長崎で穴つるし。ベルトランは一六二六年癩病小屋に潜伏中逮捕。その宿主でマルタ

は一六三二年捕へられて殺され方は不明。ルカスは長崎で穴つるし。エルキシヤ同じく長崎で穴つるし。ベルトランは一六二六年癩病小屋に潜伏

の伴天連が四人、故国へ潜入。トメ六左衛門は一六三三年長崎附近で行き倒れ。ミゲル益田は江戸で穴つるし。ペトロ・カッスイも同じく江戸で

トメイは潜入後、長崎奉行竹中采女の馬廻り役に入込んで、自由に役所牢屋に出入すること

、島原の三藩から援軍を繰出させ、総勢数万。長崎から浦上への往還筋から大村湾の西海岸全体の山中到る所に関所を設け、

長崎奉行は佐賀、平戸、島原の三藩から援軍を繰出させ、総勢数万

ひ戻り、一六三五年から七年へかけて二年間、又々長崎で大騒動をまきおこした。

も多くなり、役人に嗅ぎつけられてきたので、再び長崎へ舞ひ戻り、一六三五年から七年へかけて二年間、又々長崎で

一六三七年、長崎の戸町番所に近い山の穴の中で捕はれ、十二月六日

てのち、長崎へ送られ、幕府の特命によつて更に長崎から江戸へ送られ、将軍に差出す教理要略を書き残して、一六三四年、江戸

の余地がなく、ビエイラは大坂で捕はれてのち、長崎へ送られ、幕府の特命によつて更に長崎から江戸へ送られ、将軍

二百人の警衛づきで長崎へ引立てられ、水責の後、梯子責で失神、三日目に焼鏝

の従者を随へて琉球に辿りついたが、捕はれて長崎へ送られ、皆殺された。刑の執行が秘密にされて殺さ

、薩摩の一角で岩に乗上げて、捕はれた。長崎へ送られて、火責め、水責めの拷問で六ヶ月責めつけられたが一人も

に扮して来たが、直ちに怪しまれて捕へられ、長崎へ送られ、更に江戸小石川の切支丹屋敷へ移された。こゝで様々の

昔、長崎にうたはれた小唄であるが、オランダ以外の紅毛船の航通もこれ

シドチの潜入に先立つ六十余年、島原の乱の年に長崎で殉教したマルセロ・フランシスコ・マストリリといふ神父があつた。

の一生の最初の奇蹟で、これから以後といふものは長崎で命を断つまで実に至る所で奇蹟を起した。印度で、日本で

長崎へ送られて馬場三郎左衛門の取調べを受け、水責、梯子責の拷問

ては天地鳴動したといふやうな件から始まつて、長崎の公廷へ引出されるや、彼の頭上に光彩がかゝつて消えないの

刑死をまぬかれぬ定めであるから、たつて水が欲しいなら長崎へ往けといふ返事であつたと言ふ。

断片を録したものを報告に添へて差出したが、長崎奉行所でオランダ人に訊きただしてみても、なんのことやら要領を得ない。

の浦といふ所に牢をつくつてこの男を保護、長崎奉行所へ報告した。ローマだとかロクソンだとか、この男の言ふ

とにかく長崎へ護送させることになつたが、冬の末で海は荒れつゞき、

、多くの舟でひき、網場といふ所へ上陸、陸路長崎へついた。

男は長崎を忌み嫌ふ様子で、ひたすら江戸へ行きたがる様子であつたが、この

陽暦十二月二十日長崎へついて、第一回審問は二十三日に行はれた。その三日間シドチ

長崎奉行永井讃岐守に別府播磨守の両名。通訳として和蘭の甲必

さくれ」と答へるぐらゐで異体が知れない。昔の長崎奉行所なら一目でそれと分る切支丹祭具で、捕吏達が鵜の目鷹の目

八月一人の蕃夷が大隅海上の島へついたといふ長崎からの報告が話題に上つて、ローマ、ロクソン、ナンバン、カステイラ、キリシタン

れてくる筈であるからその来由を訊問せよと命じ、長崎奉行の注進状の写しを与へた。白石の自信たつぷりの断言を家宣

長崎奉行がなまじ和蘭語などで訊問したからこんがらかつてしまつたので

年九月二十五日ヨワン・シローテは牢輿に乗せられ、長崎出発。大通詞今村源右衛門、稽古通詞加福喜七郎、品川丘次郎その他二十六名

、伊太利亜と和蘭は同じ欧羅巴の地続きであるし、長崎と陸奥ほど遠くは離れてゐない。だから和蘭語を元にして

食物にも限度があるといふことで、長崎以来一定の食事をしてゐたが、平日は午と日没後とに二

仙台

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の下嵐江鉱山で坑夫信徒六十名と共に捕へられ、仙台へ送られて、二月十八日の厳寒、広瀬川畔へ水溜を掘り杭

に潜入布教して蝦夷にまで進んだが、一六二四年、仙台領の下嵐江鉱山で坑夫信徒六十名と共に捕へられ、仙台へ送ら

年いづれも火あぶり。バラジヤスは東北地方に潜入、一六三八年、仙台で捕へられて江戸へ送られ、芝で火あぶり。伴天連火刑の最後と

佐賀

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だから同志打ちの危険があるので合印しをつくり、佐賀勢は藁の占縄、平戸勢は大小の鞘に白紙三つ巻、

長崎奉行は佐賀、平戸、島原の三藩から援軍を繰出させ、総勢数万。長崎から

蒲生

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た美女が手にはいらぬ腹癒せには千利久を殺し、蒲生秀行の会津百万石を没収した。有馬の小娘ひとりのことでも、

、棄教命令の使者が立つた。小西、大友、黒田、蒲生、有馬、大村など切支丹大名は沢山あつたが、彼等には沙汰が

大久保

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大久保相模守は命を受けて上洛、南蛮寺を焼き毀し、手当り次第に信徒

品川

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られ、長崎出発。大通詞今村源右衛門、稽古通詞加福喜七郎、品川丘次郎その他二十六名の者が附添ひ、十一月朔日江戸表へ