貝殻追放 011 購書美談 / 水上滝太郎
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いふ惚れ込んだ本屋があつて、東京に居る時は勿論、神戸にゐても大連にゐても、遙々注文して其の店から送つて
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それを懷にして手近の三田通りから始めて、本郷神田の古本屋を閑さへあれば漁り歩いた。夜は縁日の夜店のかんてらの油煙
冬の寒い夜の事であつた。神田の夜店を漁りに行つて、有斐閣の前あたりだつたと覺えてゐる
十年以上もたつてゐる今日に到つて、未だ彼の神田の夜店の古本屋のおやぢの姿を、憎惡の念を抱かずに思ひ出す
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其處で自分は上野の圖書館に通つて、あらゆる文藝雜誌を借覽して「泉鏡花先生
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人を馬鹿にした者に違ひない。見榮坊の東京の人間の弱味が自分をして前後の分別も無くなさしてしまつた
馴染の三田通りの福島屋といふ惚れ込んだ本屋があつて、東京に居る時は勿論、神戸にゐても大連にゐても、遙々注文
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彼一流の高調子で始めた。その中で泉先生の「日本橋」についての一節を、自分は此處に傳へようと思ふ。
のがらくた本の間に見出した。彼は迂濶にも「日本橋」の出版の豫告を知らなかつたので、菊判帙入の美本
の本を一巡見て居た時、泉鏡花先生の新作「日本橋」を他のがらくた本の間に見出した。彼は迂濶にも「日本橋
の品をなかなか持つて來ないので聞えてゐる。「日本橋」の發送も勿論惡氣は無いが等閑にされてゐたのに
今日は來るか明日は屆くかと、毎日「日本橋」を待暮したが、一週間たつても十日たつても屆か
小僧の視線を不愉快に思ひながら、幾度手に取上げて「日本橋」を開いて見たかわからない。
訪れたが、その日迄は二册並んでゐた「日本橋」がいつもの場所に一册しか見えなかつた。失敗つた。誰
が、その時はなんだか他人も自分のやうに『日本橋』に思ひをかけてゐるやうに思はれて爲方がなかつた。」
徒らに手に取上げては又もとの書棚にかへす「日本橋」に不思議な愛着を感じて來た。あてにならない福島屋の送本を
と考へても、いつたん執心を掛けた町角の本屋の「日本橋」を、自分の讀まないうちに先きに誰かに讀まれてしまふ事
間會社の事務室の机にむかつても、誰かが「日本橋」の殘りの一册を自分から奪つて行く不安が胸中を往來した
つた。その道筋の川にかかつてゐる橋の名の日本橋といふのさへ自分を嘲笑する爲めに名づけられたもののやうに思はれ
なつた或日、彼は漸く福島屋から送つて來た「日本橋」を受取つたが、それと同時に待焦れてゐた月給日も到
日の間毎日毎日寂しい懷をなげきながら眺めてゐた「日本橋」を手に入れた。福島屋からの一册は現に手に持つてゐる
なつた自分の失敗談を冒頭にふつて、梶原君が「日本橋」を手に入れた一事を購書美談として世の人に傳へよう