丸の内 / 高浜虚子
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京阪地方から上京する旅客は、横浜を過ぎて大森あたりから、漸く帝都に近くなったという感じがするであろう
「昨日でした。すぐ横浜に行って又引返して来たのです。」
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空腹を充たす。弁当、すし、天どん、うなぎどんぶり、しるこ、萩の餅、そばなどの食堂もあれば、ランチ、ビイフステーキ、ポークカツレツ、蠣フライ、
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いて、屡々用事があって麹町の内幸町に行った。竹橋を渡って和田倉門をはいり、二重橋前を桜田門に出で、それから
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「喜望峰を廻って行くとその位だそうです。」
「喜望峰!」と一同は皆又男の顔を見た。
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夕焼けの雲が赤くなっているのは、九階(精養軒のある所)の屋根の上の僅かの空でそれと知る。
。何事であろうと上を仰いで見ると、九階の精養軒の一つの窓に、白い洋服を著て髪を美しくわけたボーイと赤い
九階の精養軒でボーイや女給が雪を投げてひまをつぶしているのも道理ある事で
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震災の時、私は鎌倉から横須賀まで歩いて、関東丸に乗って品川湾に著いた。その夜は
、右往左往に歩いている男女のそわそわしている状態は、鎌倉、横須賀辺に比べて更に甚だしかった。それから芝公園に入った時避難民
朝鎌倉からの私を乗せた汽車が東京駅に著いた時には黒山のような人
等の旅人はもとより、日々通勤する人(遠くは逗子、鎌倉より、近くは大森、品川より)の眼を知らず識らずの間に楽しま
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翌朝芝浦に上陸して見ると、右往左往に歩いている男女のそわそわしている状態は
帝都かという浅ましい感じもまたしないことはなかろう。殊に芝浦あたりからのバラック建や、その間に残っている廃墟のような煉瓦の堆積
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丸の内
いうような目抜きの場所は悉く焼尽してしまって、わが丸の内だけが無事であったのだもの。それに丸ビルに新しく出来た商店街だけ
鉄道協会とか、電気倶楽部とかその他丸の内所在の建物で俳句会の催される時も、大概四時五時頃から七
それのみならず、この丸の内の各ビルデングではそれぞれ娯楽機関が設けられて、囲碁、将棋、謡曲、和歌
も時事も宏壮な家屋を新築した。大きな新聞社は皆丸の内に集まって来る勢いが見える。
な試みを敢てして、単調を破るべきである。折角丸の内に建ち並んでいる屋根のうちで異彩を放っていたものを、一朝にし
限りバラック建の中を通って来て、突として丸の内に入ると、はじめて宏壮な建物を迎えて、何となく愉快な感じがする
東京もやがては欧米の都市を見るようになるであろう。丸の内に少しばかり建ち並んでいる建築を珍しそうにいうのも、今暫くの間で
その時分の丸の内はただ暗く静かに、又さびしく物騒な天地であった。夜分などはこの明治
大正十二年、丸の内ビルデング即ち丸ビルが出来て、この丸の内の空気に一大変革をもたらした。
だ。その馬小屋を取りのぞけばあとはそのまま広野である。丸の内は昔からお城とお濠と広野――草原――がある事に相場
今の丸の内は大きなビルデングが目覚しく突っ立っている。また現に突立ちつつある。八重洲ビルデングだとか
ある。ガードの下に巣くうている小店もある。今の丸の内の文明は先ず新開町の田圃の中に建物がぼつ/\建ちはじめた位の
それは寛永、元禄、天保、文化、嘉永等数枚の丸の内の地図であった。
その地図を見ると、古くからこの丸の内は大名屋敷がかず多く並んでいたものと見える。その屋敷も時代時代に
か何かをめぐらしたその大邸宅が並んでいたこの丸の内は夜にでもなったら定めて淋しい事であったろう。
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は、鎌倉、横須賀辺に比べて更に甚だしかった。それから芝公園に入った時避難民の群衆に驚かされて、公園を抜けてから、
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その男も矢張り俳句を作る男で新潟の片田舎のものであった。それが商売の方が面白く行かないためか
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、私は鎌倉から横須賀まで歩いて、関東丸に乗って品川湾に著いた。その夜は風波が荒くて上陸が出来ず、或士官
通勤する人(遠くは逗子、鎌倉より、近くは大森、品川より)の眼を知らず識らずの間に楽しませるものは、これ等
その頃は品川から浅草迄通っている鉄道馬車があるばかりであった。急ぐ時でも人力車
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十字路に設けられているあらゆる店は、悉く繁昌した。東京繁昌の中心は丸ビルにあるかの観を呈した。
新しく出来た商店街だけが無事であったのだもの。大東京の客は皆この丸ビルに集まった。一時は食堂、呉服店のみならず
日本橋銀座等の繁昌はもとの通りとなった。しかしながら東京停車場を前に控えた大玄関の丸の内一帯は震災前とは一大変化を来し
大玄関に対して東京市の正門は東京駅である。
やがて遠からぬうちに東京地下鉄道のステーションがこの東京駅の前に出来るのだとかいう事も聞い
大新聞が街を隔てて相聳えている。それに近く東京朝日も時事も宏壮な家屋を新築した。大きな新聞社は皆丸の内に集まっ
遠からずそれ等の高層建築は垣の如く建ち並んで、わが東京もやがては欧米の都市を見るようになるであろう。丸の内に少しばかり建ち並ん
は置くまい。それ等の人の個々の力はやがて新東京を建設するのである。
現在の東京はまだ震災のあとがまざ/\と残っていて、それ等の
て、打ちくつろいだ姿をして、細君や子供を携えて東京へ遊びに出かけるのである。それ等が丸ビルの売店をひやかしたり、
さげた客が市電から降りる。それ等が泥濘を踏んで東京駅頭に立つ。
私は郵便物を自分で東京中央郵便局に持って行く事が屡々ある。中央郵便局はすぐ東京駅前にある
やがて立派な建築をするということである。そうすれば東京駅頭に又美しい建物が一つふえるであろう。立派な建築が出来たらこんな
二、三日で行けるようになるかも知れぬ。ちょっと東京見物に帰って来るという事も出来るようになるかもしれぬ。」
看板が沢山掛け連ねてある。同じ棟の半分を占めている東京何々株式会社という前までその絵看板が連なっている。その前を自動車や
た時の感じは場末の盛り場といった感じである。東京の正門を出る二、三十歩で忽ち場末の盛り場があるという事は
おるが、ただ変らぬのは鍛冶橋内、即ち今の東京市庁のあるあたりが土佐と阿波の藩邸であったことと今の鉄道
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激増した。それはその筈である。日本橋、京橋、神田というような目抜きの場所は悉く焼尽してしまって、わが丸の内だけが
明治の三十五年頃、私は神田の猿楽町に住まっていて、屡々用事があって麹町の内幸町に行った
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俄に客が激増した。それはその筈である。日本橋、京橋、神田というような目抜きの場所は悉く焼尽してしまって、
その後三越、松屋等が復興してから、又日本橋銀座等の繁昌はもとの通りとなった。しかしながら東京停車場を前に
プラットホームに立って、顧みて日本橋、京橋方面を見ると、そこにも三越や、三井銀行や、日本銀行や
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その後三越、松屋等が復興してから、又日本橋銀座等の繁昌はもとの通りとなった。しかしながら東京停車場を前に控え
で昼飯を食ったりするのも稀にある。然し大概は銀座や三越や又浅草あたりに行くのであろう。
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を左に取る人もある。また目黒行、中渋谷行、新宿行、水天宮行の円太郎に乗る人もある。そしてその多くは丸ビル
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。また三菱本館の前を左に取る人もある。また目黒行、中渋谷行、新宿行、水天宮行の円太郎に乗る人もある。
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それが漸く新橋を過ぎて、わが丸の内にはいるとはじめて面目が改まって、やや帝都の帝都
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度いが、場所によるとそれ程にはいかぬ。上野からはいって来た方面はむしろ歯が抜けたように立っていると
上野から電車で来るにしても、西も東も見る限りバラック建の中
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今遠く永田町に建っている議事堂の鉄骨を眺めると、何となく心強いような感じが
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。竹橋を渡って和田倉門をはいり、二重橋前を桜田門に出で、それから司法省の前を通って行くのであるが、
併しこの諸官省は総て桜田門外に移転される事に内定していると聞いた。諸官省が、
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の猿楽町に住まっていて、屡々用事があって麹町の内幸町に行った。竹橋を渡って和田倉門をはいり、二重橋前を桜田門
又乗る客も今の様には急がしくなかった、私が内幸町に通う時でも、そこで用事をすませて帰って来れば、それで
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は神田の猿楽町に住まっていて、屡々用事があって麹町の内幸町に行った。竹橋を渡って和田倉門をはいり、二重橋前
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その頃日比谷はまだ公園にならず、草の生えた空地であった。練兵はもう
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その頃は品川から浅草迄通っている鉄道馬車があるばかりであった。急ぐ時でも人力車より早い
するのも稀にある。然し大概は銀座や三越や又浅草あたりに行くのであろう。
には、その中に巣くうている店がある。之は浅草の仲見世の売店の下等のようなものである。洋品店、床屋、鮓店
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客が激増した。それはその筈である。日本橋、京橋、神田というような目抜きの場所は悉く焼尽してしまって、わが丸の内
プラットホームに立って、顧みて日本橋、京橋方面を見ると、そこにも三越や、三井銀行や、日本銀行や、千代田
の東京駅のあたりも闇の続きで、その向うに僅かに京橋辺の灯が見えた。