子規居士と余 / 高浜虚子

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地名一覧

道灌山

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に居士及自己を欺いておいたところで、いつかは道灌山の婆の茶店を実現せずにはおかなかったのである。須磨の保養

たとはいえぬのであるが、それでも此の道灌山の破裂以来も、なお他の多くの人よりも比較的親しく厚い交誼を受け薫陶

ばならぬ運命に在ったので、その最初の発現が道灌山の出来事であったともいえるのである。更に一歩を進めて言えば、

三十五年までおよそ六年間の両者の間の交遊は寧ろその道灌山の出来事の連続であったともいえるのである。かつて碧梧桐君は「居士

もしくは間接に種々の忠言を試みることを忘れなかった。もう道灌山でお互に絶縁を宣言した間柄の余に対して居士はなおその事

松山で初めて居士に逢ってから神戸病院、須磨保養院、道灌山に至るまでの余は居士の周囲に在る一人として自ら影の濃い感じ

渡ってから居士と余との関係はまた一変した。道灌山で一度破れた特別の関係がまた違った形で結ばれることになった。

に妻子を控えていた余は決してその昔し――道灌山以前に――余が居士の周囲に影の濃かった時代に比べると何処と

伊予

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明治三十年の一月に伊予の松山で柳原極堂君の手によって俳諧雑誌が発刊された。それ

軽井沢

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余はそれに同行二人、行雲、流水と書き添えて、まず軽井沢まで汽車に乗り、そこから仲山道、木曾路と徒歩旅行を試み、美濃の

東京市

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、まずそういう処に出席するよりもと、寧ろ広漠な東京市中をただ訳もなく彷徨き廻る日の方が多かった。浅草の観音堂から玉乗り

余はまた広漠な東京市中を訳もなく彷徨き廻るのであった。

訪わねば碧梧桐君が余を訪うて二人でよくぶらぶらと東京市中を歩き廻った。

伊豆

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した心持のものはもう見られなくなった。その旅中伊豆の三島から一葉の写真を余の下宿に送ってくれた。それは菅笠

箱根

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。そうして余は二、三日滞在の上帰路は箱根を越え、富士川を渡り、岩淵停車場まで徒歩し、始業の時日が差迫った

嵐山

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た。たしかこの日であったと思う。二人が連立って嵐山の紅葉を見に行ったのは。

た。船に積まれた御馳走の皆無になるまで二人は嵐山の山影を浴びて前途の希望を語り合った。後年子規居士は、自分はあの

御覧や。」と居士は更に忠告した。去年京都の嵐山で前途を語り合った時とは総ての調子がよほど違っていた。これも

大悲閣

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挙げた。それから船に御馳走と酒とを積み込ませて大悲閣まで漕ぎ上ぼせた。船に積まれた御馳走の皆無になるまで二人は

大阪

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あった。ある時は古白君と連立って帰郷し、帰路大阪へ立寄って文楽を一緒に聞いた事もあった。

虚子という顔振れであった。栗本勇之助君は今は大阪の弁護士、金光君は今は亀山姓を名乗って台湾総督府の警務総長、虎石

はもう東京に帰っていた。松山からの帰途須磨、大阪を過ぎり奈良に遊んだが、その頃から腰部に疼痛を覚えると言って余

淡路町

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」と笑いながら余に言ったことがあった。余は淡路町の下宿に「大文学者」という四字を半紙に書いて壁に張りつけながら

南禅寺

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洋服に美くしい靴を穿いていた。二人はまず南禅寺へ行って、それから何処かをうろついて帰りに京極の牛肉屋で牛肉と

加賀

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余の家の南側は小路にはなって居るが、もと加賀の外邸内であるのでこの小路も行き止りであるところから、豆腐売りでさえ

根岸

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居士が根岸の住みなれた庵に病躯を横たえてから一月ばかり後のことであった

居士が余に別れて独り根岸の家に帰って後ちの痛憤の情はその夜居士が戦地に在る飄亭

名古屋

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で徒歩旅行を始めたのであった。けれどもそれは名古屋を過ぎ池鯉府に行って遂に底豆を踏み出し、行こうか帰ろうかと刈谷の

八ツ橋

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下宿していた。ある日、すぐ近処の聖護院の八ツ橋を買って食っているとそこへ突然余の名を指して来た客が

本郷

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から玉乗り、浪華踊、向島、上野、九段、神田、本郷の寄席を初めとして、そんな処に日を消し夜を更かすことも珍らしく

北海道

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非風君は北海道に去り、古白君は逝き、子規、飄亭両君は従軍したその頃の東京

京極

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まず南禅寺へ行って、それから何処かをうろついて帰りに京極の牛肉屋で牛肉と東山名物おたふく豆を食った。

小金井

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た案内状とパッスを居士は余に持って帰ってくれて小金井の桜を見に行けと勧めた。余はこの時初めて汽車の二等に

勧めた。余はこの時初めて汽車の二等に乗って小金井の桜なるものを見に行った。その紀行文を『日本新聞』に書かなけれ

須磨

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いよいよ須磨の保養院に転地するようになったのはそれから間もないことであっ

須磨にて虚子の東帰を送る

一方に子規居士は須磨に在って静養の傍ら読書や執筆やに日を送った。『日本新聞』

』を以って始まると言っていいのである。それから須磨を引上げて松山に帰省してからは、折節松山中学校に教鞭を取りつつあっ

の冬はもう東京に帰っていた。松山からの帰途須磨、大阪を過ぎり奈良に遊んだが、その頃から腰部に疼痛を覚えると言っ

いる居士の顔色は予想しておったよりも悪かった。須磨の保養院にいた時の再生の悦びに充ちていた顔はもう見る

の茶店を実現せずにはおかなかったのである。須磨の保養院で初めて居士から話を聞いた時に、截然として謝絶する

いうのではないが少し買わせた。虚子と共に須磨に居た朝の事を話しながら外を眺めて居ると、たまに露でも

居士の面目を発揮したものである。この文中に「須磨に居た朝の事を話す」とあるのは、独りこの日ばかりでなく

ものであった。前にも書いたことがあるように須磨の静養は居士の生涯に於ける最も快適な一時期であったので、如何に

でも、どうかして話の蔓をたどってそれを須磨にさえ持って行けば、大概居士の機嫌は直おったのであった。

。この朝は初めから機嫌がよかったが、話は自然須磨に及んで居士はやや不明瞭な言葉で暫く楽しく語り合った。

松島

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名残として松島を見物した。塩釜神社の長い石段も松島の静かな眺めも何となく

として松島を見物した。塩釜神社の長い石段も松島の静かな眺めも何となく淋しかった。松島から帰った日、今の工科

長い石段も松島の静かな眺めも何となく淋しかった。松島から帰った日、今の工科大学教授加茂正雄君、昨年露国駐剳大使館一

松山城

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松山城の北に練兵場がある。ある夏の夕其処へ行って当時中学生で

上野の動物園

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▼上野の動物園にいって見ると(今は知らぬが)前には虎の檻の

松山

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松山城の北に練兵場がある。ある夏の夕其処へ行って当時中学生

人は夏目漱石君であった。何でも御馳走には松山鮨があったかと思う。詩箋に句を書いたのが席上に散らかっ

あったが三人はわざと一里半の夜道を歩いて松山に帰った。それは、

を居士は一々教えながら作るのであった。何でも松山に帰り着くまでに表六句が出来ぬかであった。そうして二

これらは居士が大学在学中二、三度松山に帰省した間の片々たる記憶である。

に膝を折って下読みにいそしむ事も多く、同時にまた松山の狭い天地を出て初めて大きな都に出たという満足の下にその

都」という小説を苦心経営したのは余がまだ松山にいる頃であったと記憶する。居士は初めこれを処女作として

それから夏季休暇は松山で過ごして碧梧桐君と相携えて東京を過ぎり仙台に遊んだのは九

が東京より来、大原氏――居士の叔父――が松山より見えるようになった頃は居士の病気もだんだんといい方に向って

いよいよもう大丈夫と極ってから大原氏は松山にかえり、碧梧桐君は母堂を伴って東京にかえり、後に残るものは

それから須磨を引上げて松山に帰省してからは、折節松山中学校に教鞭を取りつつあった夏目漱石氏の寓居に同居し、極堂、

始まると言っていいのである。それから須磨を引上げて松山に帰省してからは、折節松山中学校に教鞭を取りつつあった夏目漱石

居士は二十八年の冬はもう東京に帰っていた。松山からの帰途須磨、大阪を過ぎり奈良に遊んだが、その頃から腰部に

松山で初めて居士に逢ってから神戸病院、須磨保養院、道灌山に至るまで

明治三十年の一月に伊予の松山で柳原極堂君の手によって俳諧雑誌が発刊された。それが

『ホトトギス』が松山で出ている間は余はあまり熱心なる投書家ではなかった。子規

出すには可なり骨が折れて結果少しと存候。畢竟松山の雑誌なればこそ小生等も思う存分の事出来申候。

何分にも松山には人物なきか。熱心家なきか。貴兄を扶助する人一人もなき

仙台

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驚愕したのであった。そうしてこの時以来、仙台第二高等学校を中途退学するまで余の頭には実に文芸憧憬の情

て、余はやはり碧梧桐君などと共に二高――仙台――に行く事に極った。

夏季休暇は松山で過ごして碧梧桐君と相携えて東京を過ぎり仙台に遊んだのは九月の初めであった。この時東京で俳句会

仙台に留まることは三月ばかりに過ぎなかった。二人は協議の上また退学

日清戦争はこの仙台在学中に始まっていた。保証人の宇和川大尉は出征後間もなく戦死し

碧梧桐君と二人で仙台の第二高等学校を退学して上京してからは二人とも暫時の間根岸

京都

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在る先輩との手紙の往復の方が多くなった。いよいよ京都に行ってからも下宿の番地を知らしたきり位であまり居士とは通信

。自然その頃は子規居士との手紙の往復よりも、京都の学校に在る先輩との手紙の往復の方が多くなった。いよいよ京都

月に京都の第三高等学校に入学することになった。京都遊学が近づいて来るに従ってさすがに嫁入り前の娘のような慌だ

さて余は中学を三月に卒業して九月に京都の第三高等学校に入学することになった。京都遊学が近づいて来るに

ために中学の卒業は余よりも一年遅れその頃まだ京都へは来ていなかったのである。そうして子規居士との音信

は子規居士よりも前に知っていた。そうして京都では何人よりも一番この古白君に出逢う機会が多かった。それは余

コツコツと叩いた。柱に凭れている女中は婉転たる京都弁で何とか言っては笑った。居士も笑った。余はぼんやり

顔の浮きやかに晴れ晴れとしていた事はこの京都滞在の時ほど著しい事は前後になかったように思う。何にせよ多年

あたりの光景が画の如くに浮ぶ。何でも二人は京都の市街を歩いている時分からこの辺に来るまで殆ど何物も目に入ら

京都清遊の後、居士はたちまち筆硯に鞅掌する忙裡の人となった。けれど

という句が認めてあった。余は京都に在る間『日本新聞』は購読しなかったのであるが、この紀行

。こういうと極めて暢気なようであるが、実にその京都遊学の一年間は、精神肉体共に堪え難き苦痛と戦った時代であっ

さて京都の一年も夢の間に過ぎた。余はその前年の冬休みにも

元気を回復して、今度は碧梧桐君と相携えて再び京都に出た。それから余は同好数人と共に回覧雑誌を創めたり、

どうして文学者になるんだか見当が附かなかった。京都にいた時分は俳句の会合も羨望の一つであったのだが

作って御覧や。」と居士は更に忠告した。去年京都の嵐山で前途を語り合った時とは総ての調子がよほど違っていた

。そこで在京日数およそ二百日の後、余は空しくまた京都に逆戻りと決し、六月何日に根岸庵を出て木曾路を取ること

て、その事を京都の碧梧桐君に交渉すると、ともかく京都へ来い、大概は出来る見込みだが、一度当人に会って見ねば

た。遂に意気地なくも復校と決して、その事を京都の碧梧桐君に交渉すると、ともかく京都へ来い、大概は出来る見込みだが

で物好きに野宿などをし、岐阜からまた汽車に乗って京都に入った。旧知の山川に迎えられて、今は碧梧桐、鼠骨両君

京都に着いた翌日早速碧梧桐君と連れ立って余のクラスの受持であった服部

。それで君も知っている通り今度高等学校制が変って京都の大学予科は解散することになったから、他の学校に生徒を分配

も貫通していなかった頃で交通も不便だし、京都から移って行く文科の男は他に一人もなさそうだし、頗るしょげ

た。ところが二高に来て見ると、これはまた京都以上に細々した事が喧しかった。第一靴を脱いで上草履に穿き替え

た。余も東京に放浪中は酒でも飲むとこの京都仕込みの剣舞を遣ったが、東京の日比野雷風式の剣舞に比較して

君はやはり京都よりの転学組に属する。大谷繞石君は京都でもよく往来した。一緒に高知の人吉村君に剣舞を習ったり

坂本四方太、大谷繞石の二君はやはり京都よりの転学組に属する。大谷繞石君は京都でもよく往来した。

京都では覚えがなかった。ただ後になって余が京都着早々行李を下ろした上長者町の奥村氏の家に余が去ったあと

て第二高等学校教授をしておる。――坂本君は京都では覚えがなかった。ただ後になって余が京都着早々行李を

の警務総長、虎石君は岡崎中学校の教授、武井君は京都高等女学校の校長、林、大谷、岡本三君は揃いも揃って第二

余が京都で無声会という会を組織して回覧雑誌を遣っていた時も

書記官として亡くなった小田徳五郎君らの周旋の下に京都転学組一同は余ら二人の送別茶話会を開いてくれた。小田君が送別

古白君歿後暫くして余は京都に行った。あたかもそれは内国博覧会の開設中で疏水の横に沢山の

京都には鼠骨君がいた。鼠骨君はその頃吉田神社前の

自由に談話を交換するようになった。鼠骨君も京都から来てある期間は看護に加わり枕頭で談笑することなども珍らしくはなかっ

岐阜

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旅行を試み、美濃の山中で物好きに野宿などをし、岐阜からまた汽車に乗って京都に入った。旧知の山川に迎えられて、

鹿児島

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館に行くことになっている。」との事だ。鹿児島と聞いて余は失望した。

なったから、他の学校に生徒を分配する。君は鹿児島の造士館に行くことになっている。」との事だ。鹿児島と

駄目なのかと余はギャフンと参った。今考えれば鹿児島などかえって面白かったかとも思うのだが、その頃は造士館という

て遣って碧梧桐君を労しておいたのだが、やはり鹿児島でなけりゃ駄目なのかと余はギャフンと参った。今考えれば鹿児島など

もっとも東京から手紙で碧梧桐君に交渉した時にも鹿児島なら欠員があるから許してもいいというような話であったとの

高知

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。大谷繞石君は京都でもよく往来した。一緒に高知の人吉村君に剣舞を習ったりした。「孤鞍衝雨」など

広島

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旧暦の雛の節句前後居士は広島の大本営に向って出発した。余はどういうものだかその新橋出発当時

ではあるまいか。大本営の置かれてあった当時の広島の常軌を逸した戦時らしい空気は居士の如き人をすら足を地に

子規居士は広島に在ってこの悲報に接したのであった。けれども居士がしみじみと

神戸

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の陸羯南氏から発したもので、子規居士が病気で神戸病院に入院しているから余に介抱に行けという意味のものであっ

神戸の病院に行って病室の番号を聞いて心を躍らせながらその病室の

というのはその頃の実景であった。初め居士の神戸病院に入院したのは卯の花の咲いている頃であったが、今日

松山で初めて居士に逢ってから神戸病院、須磨保養院、道灌山に至るまでの余は居士の周囲に在る

奈良

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に帰っていた。松山からの帰途須磨、大阪を過ぎり奈良に遊んだが、その頃から腰部に疼痛を覚えると言って余のこれ

青丹よし奈良の仏もうまけれど写生にますはあらじとぞ思ふ

東京

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た余らがバッチングを遣っていると、其処へぞろぞろと東京がえりの四、六人の書生が遣って来た。余らも裾を

シャツを着、平べったい俎板のような下駄を穿き、他の東京仕込みの人々に比べあまり田舎者の尊敬に値せぬような風采であった

講堂に掲示された時余は誰にも言わず一人で東京行きを志した。一日の費用拾五銭という予算で徒歩旅行を始め

その学年の終らぬうちに余は遂に退学を決行して東京に上った。

、まずそういう処に出席するよりもと、寧ろ広漠な東京市中をただ訳もなく彷徨き廻る日の方が多かった。浅草の観音堂

退学を決行して東京に上った余は大海に泳ぎ出た鮒のようなものでどうしていい

余はまた広漠な東京市中を訳もなく彷徨き廻るのであった。

もっとも東京から手紙で碧梧桐君に交渉した時にも鹿児島なら欠員があるから許し

に遊んだのは九月の初めであった。この時東京で俳句会のようなものがあったかなかったか、そういう事は

それから夏季休暇は松山で過ごして碧梧桐君と相携えて東京を過ぎり仙台に遊んだのは九月の初めであった。この時東京

酒でも飲むとこの京都仕込みの剣舞を遣ったが、東京の日比野雷風式の剣舞に比較して舞のようだという嘲罵を受け

見せるところなど頗る人を悩殺するものがあった。余も東京に放浪中は酒でも飲むとこの京都仕込みの剣舞を遣ったが、

余もだんだん学校へは足を向けなくなった。余は東京で買った文学書類に親しんだり、文章を書いて見たりした。碧梧桐

訪わねば碧梧桐君が余を訪うて二人でよくぶらぶらと東京市中を歩き廻った。

君は逝き、子規、飄亭両君は従軍したその頃の東京は淋しかった。それでも鳴雪翁、碧梧桐君などがいたので時々

それから居士の母堂を伴って碧梧桐君が東京より来、大原氏――居士の叔父――が松山より見えるようになっ

から大原氏は松山にかえり、碧梧桐君は母堂を伴って東京にかえり、後に残るものは、また余一人となった。急に淋しく

居士は二十八年の冬はもう東京に帰っていた。松山からの帰途須磨、大阪を過ぎり奈良に遊んだ

しやに覚え候。今は小生一人意気込居候。然れども東京にて出すには可なり骨が折れて結果少しと存候。畢竟松山の雑誌

、それが三十一年の十月から余の手に渡って東京に移さるることになったのである。『ホトトギス』が余の手に

に過ぎなかったのであったが、いよいよ『ホトトギス』を東京に移して晴々しく文壇に打って出ることになってから、居士の注意も

は他人の罪でなく一に余の罪である。此の東京で『ホトトギス』を遣るようになった時も余は居士とは熟議を

「虚子が東京で雑誌を遣るそうであるが、そんな馬鹿なことをして成功するもの

高尾

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「昨日高尾に行って取って帰った紅葉をハンケチに映しているのよ。」と

新橋

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、行こうか帰ろうかと刈谷の停車場で思案した末遂に新橋までの切符を買ってしまった。子規居士は驚いて余を迎え小会

大本営に向って出発した。余はどういうものだかその新橋出発当時の光景を記憶して居らぬ。ただ居士が出発当日の根岸庵

その頃から腰部に疼痛を覚えると言って余のこれを新橋に迎えた時のヘルメットを被っている居士の顔色は予想しておった

神田

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の観音堂から玉乗り、浪華踊、向島、上野、九段、神田、本郷の寄席を初めとして、そんな処に日を消し夜を更かす

てから日暮里に間借をして家を持ち、間もなく神田五軒町に一戸を構えて父となった。余は最早放浪の児で

上野

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が多かった。浅草の観音堂から玉乗り、浪華踊、向島、上野、九段、神田、本郷の寄席を初めとして、そんな処に日

ものを古書肆から猟って来てそれらを耽読したり上野の図書館に通って日を消したりしながら、さて小説に筆を染めて

余は手荷物を預けてしまって上野ステーションの駅前の便所に這入った時、余の服装が紺飛白の単衣と白地

になってから一種名状し難い心持に閉されてとぼとぼと上野の山を歩いた。居士に見放されたという心細さはもとよりあった

▼上野の動物園にいって見ると(今は知らぬが)前には虎の

向島

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の方が多かった。浅草の観音堂から玉乗り、浪華踊、向島、上野、九段、神田、本郷の寄席を初めとして、そんな処

浅草

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中をただ訳もなく彷徨き廻る日の方が多かった。浅草の観音堂から玉乗り、浪華踊、向島、上野、九段、神田、本郷の

高田馬場

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セークスピヤの講義を聴くことをも一つの目的として高田馬場のある家に寓居を卜した。此の家はもと死んだ古白君の長く

日暮里

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て芝に下宿を営んだ。それが緒についてから日暮里に間借をして家を持ち、間もなく神田五軒町に一戸を構え