津軽 / 太宰治

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地名一覧

津軽半島

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津軽半島の東海岸は、昔から外ヶ浜と呼ばれて船舶の往来の繁盛だつたところで

の僻陬と見なされてゐたのだから、その極北の津軽半島などに到つては熊や猿の住む土地くらゐに考へられてゐたかも知れ

津軽地方

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事だが、九州、西国、大和などに較べると、この津軽地方などは、ほとんど一様に新開地と言つてもいいくらゐのものなのだ。全国

、いつさい避けなければならぬ。とにかく、この外ヶ浜一帯は、津軽地方に於いて、最も古い歴史の存するところなのである。さうして蟹田町

遠慮して、リンゴ酒と手紙に書いたのである。津軽地方には、このごろ、甲州に於ける葡萄酒のやうに、リンゴ酒が割合ひ豊富

移して、アトフキをはじめた。アトフキといふのは、この津軽地方に於いて、祝言か何か家に人寄せがあつた場合、お客が皆かへつ

、しかし、この観瀾山から眺められるこんもり繁つた山々は、津軽地方に於いても最もすぐれた森林地帯で、れいの日本地理風俗大系にも、蟹田

「それでも君は、負けないぢやないか。津軽地方は昔から他国の者に攻め破られた事が無いんだ。殴られるけれども

、享保十六年四十二歳に到る間、其教化する処、津軽地方のみならず近隣の国々にも及び、享保十二年、金銅塔婆建立の供養の

命ずるのやむを得ざる程であつた。随つて最北の津軽地方の如きは、住民まだ蝦夷の旧態を存するもの多く、直接鎌倉武士を以て

私は東京を出発する数日前、こんど津軽地方を一周してみたいと思つてゐますが、ついでに金木にも立寄り

の文華が小さく完成して行きづまつてゐる時、この津軽地方の大きい未完成が、どれだけ日本の希望になつてゐるか、一夜しづかに考へ

甲州

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手紙に書いたのである。津軽地方には、このごろ、甲州に於ける葡萄酒のやうに、リンゴ酒が割合ひ豊富だといふ噂を聞い

糠部と称する蝦夷地であつたが、鎌倉時代以後、ここに甲州武田氏の一族南部氏が移り住み、その勢ひ頗る強大となり、吉野、室町時代を

吉野

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氏の一族南部氏が移り住み、その勢ひ頗る強大となり、吉野、室町時代を経て、秀吉の全国統一に到るまで、津軽はこの南部と争ひ

栄町

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、塩町、蜆貝町、新蜆貝町、浦町、浪打、栄町。

奥州

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匿れ、追へば即ち山に入つた蝦夷族の版図たりし奥州、山岳重畳して到るところ天然の障壁をなし、以て交通を阻害してゐる

到るところ天然の障壁をなし、以て交通を阻害してゐる奥州、風波高く海運不便なる日本海と、北上山脈にさへぎられて発達しない鋸歯

しない鋸歯状の岬湾の多い太平洋とに包まれた奥州。しかも冬期降雪多く、本州中で一番寒く、古来、数十回の凶作に襲来

寒く、古来、数十回の凶作に襲来されたといふ奥州。九州の耕地面積二割五分に対して、わづかに一割半を占

に対して、わづかに一割半を占むる哀れなる奥州。どこから見ても不利な自然的条件に支配されてゐるその奥州は、

から見ても不利な自然的条件に支配されてゐるその奥州は、さて、六百三十万の人口を養ふに、今日いかなる産業に拠つてゐるであらう

どの地理書を繙いても、奥州の地たるや本州の東北端に僻在し、衣、食、住、いづれも

粗食に甘んじてゐる、といふ。真偽や如何。それほど奥州の地は、産業に恵まれてゐないのであらうか。高速度を以て誇り

てゐないのであらうか。否、それは既に過去の奥州であつて、人もし現代の奥州に就いて語らんと欲すれば、まづ文芸

、それは既に過去の奥州であつて、人もし現代の奥州に就いて語らんと欲すれば、まづ文芸復興直前のイタリヤに於いて見受けられ

イタリヤに於いて見受けられたあの鬱勃たる擡頭力を、この奥州の地に認めなければならぬ。文化に於いて、はたまた産業に於いて然り

膨脹時代にあつた大和民族が各地方より北上してこの奥州に到り、蝦夷を征服しつつ、或ひは山に猟し、或ひは川に漁し

事はあらじ、西は鬼界屋玖の嶋より東は奥州の外ヶ浜まで号令の行届かざるもなし。往古は屋玖の島は屋玖国とて

は屋玖の島は屋玖国とて異国のやうに聞え、奥州も半ば蝦夷人の領地なりしにや、猶近き頃まで夷人の住所なりし

かの佐藤理学士の言説の如く、「人もし現代の奥州に就いて語らんと欲すれば、まづ文芸復興直前のイタリヤに於いて見受けられ

イタリヤに於いて見受けられたあの鬱勃たる擡頭力を、この奥州の地に認めなければならぬ。文化に於いて、はたまた産業に於いて然り

かしこくも明治大帝の教育に関する大御心はまことに神速に奥州の津々浦々にまで浸透して、奥州人特有の聞きぐるしき鼻音の減退と

平泉の栄華があり、文治五年、源頼朝に依つて奥州は平定せられ、もうその頃から、私たちの教科書はいよいよ東北地方から遠ざかり、

「奥羽とは奥州、出羽の併称で、奥州とは陸奥州の略称である。陸奥とは、

「奥羽とは奥州、出羽の併称で、奥州とは陸奥州の略称である。陸奥とは、もと白河、勿来の二関以北

九州

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だらう。ひらき直つて言ふまでも無い事だが、九州、西国、大和などに較べると、この津軽地方などは、ほとんど一様に新開地と

古来、数十回の凶作に襲来されたといふ奥州。九州の耕地面積二割五分に対して、わづかに一割半を占むる

五能線

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の三時、それから奥羽線で川部まで行き、川部で五能線に乗りかへて五時頃五所川原に着き、それからすぐ津軽鉄道で津軽平野を

湯河原

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を奇怪に高ぶらせ、宿の女将をして、熱海、湯河原の宿もまたまさにかくの如きかと、茅屋にゐて浅墓の幻影に

秋田市

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時代には多賀城(今の仙台市附近)秋田城(今の秋田市)を築いて蝦夷を鎮められたと伝へられてゐるだけで津軽の名前は

岩木川

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国、南・中・北、三津軽郡に亘る平野。岩木川の河谷なり。東は十和田湖の西より北走する津軽半島の脊梁をなす山脈を

海岸一帯の砂丘(屏風山と称す)に擁蔽せらる。岩木川は其本流西方よりし、南より来る平川及び東より来る浅瀬石川と弘前市の

津軽平野の風景には、うつとりしてしまつた。岩木川が細い銀線みたいに、キラキラ光つて見える。その銀線の尽きるあたりに、古代

の地域にはひる。私たちは眼を転じて、前方の岩木川のさらに遠方の青くさつと引かれた爽やかな一線を眺めよう。日本海である

つて、何だか眼がくるめくやうだ。さうして岩木川が、両岸のその緑の草を舐めながら、白く光つて流れてゐる。

外ヶ浜

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、若狭などとさかんに船で交通をはじめて次第に栄え、外ヶ浜に於いて最も殷賑の要港となり、明治四年の廃藩置県に依つて青森県

津軽半島の東海岸は、昔から外ヶ浜と呼ばれて船舶の往来の繁盛だつたところである。青森市からバスに乗

存するところなのである。さうして蟹田町は、その外ヶ浜に於いて最も大きい部落なのだ。青森市からバスで、後潟、蓬田を通り

もまあ二時間ちかくで、この町に到着する。所謂、外ヶ浜の中央部である。戸数は一千に近く、人口は五千をはるかに越えて

あらう。蟹田、蓬田、平館、一本木、今別、三厩、つまり外ヶ浜の部落全部が、ここの警察署の管轄区域になつてゐる。竹内運平といふ

蟹田に限らず、外ヶ浜一帯のどの漁村でも、また、外ヶ浜だけとも限らず、津軽の西海岸の漁村に於いても、全く同様である

外ヶ浜の昔噺は、これ位にしてやめて、さて、私たちのバスはお昼

を、これから一つ見に行かうぢやないか、と外ヶ浜の案内者N町会議員は言ひ出した。

来て本覚寺を見なくちや恥です。貞伝和尚は、外ヶ浜の誇りなんだ。さう言ひながら、実は、僕もまだ見てゐない

た。表二階の小綺麗な部屋に案内された。外ヶ浜の宿屋は、みな、町に不似合なくらゐ上等である。部屋から、すぐ

振りも、あまりかまはない子であつた。帰途は、外ヶ浜に於ける「いまだ老いざる健脚家」も、さすがに疲れて、めつきり無口

大阪

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らしく、津軽の米の大部分はここから積出され、また大阪廻りの和船の発着所でもあつたやうだし、水産物も豊富で、

平泉

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てゐなかつた。それから藤原氏三代百余年間の平泉の栄華があり、文治五年、源頼朝に依つて奥州は平定せられ、

にふさがりて」と書いてあるが、それだつて北は平泉、いまの岩手県の南端に過ぎない。青森県に到達するには、その二倍

岩代

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しまつてゐる。鴎外の「山椒大夫」には、「岩代の信夫郡の住家を出て」と書いてゐる。つまりこれは、岩城といふ字

富士山

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浮んでゐる感じなのである。したたるほど真蒼で、富士山よりもつと女らしく、十二単衣の裾を、銀杏の葉をさかさに立てた

大鰐

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於いて育ちながら、金木、五所川原、青森、弘前、浅虫、大鰐、それだけの町を見ただけで、その他の町村に就いては

つぎは大鰐温泉といふ事になるのかも知れない。大鰐は、津軽の南端に近く、秋田との県境に近いところに在つて、温泉

のことごとくが必ずしも愉快とは言へないのに較べて、大鰐の思ひ出は霞んではゐても懐しい。海と山の差異であらうか。

小泊

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た。もちろん打合せも何もしてゐるわけではない。小泊の越野たけ。ただそれだけをたよりに、私はたづねて行くのである。

、津軽鉄道の終点の中里に九時に着いて、それから小泊行きのバスに乗つて約二時間。あすのお昼頃までには小泊へ

に乗つて約二時間。あすのお昼頃までには小泊へ着けるといふ見込みがついた。日が暮れて、けいちやんがやつとお家

しまつた。バスは、かなり込んでゐた。私は小泊まで約二時間、立つたままであつた。中里から以北は、全く私の

述べたが、津軽平野の歴史の中心は、この中里から小泊までの間に在つたものらしい。バスは山路をのぼつて北に進む

さんであり、金木に於けるアヤであり、さうして小泊に於けるたけである。アヤは現在も私の家に仕へてゐるが、

また江戸時代には、その北方の小泊港と共に、津軽の木材、米穀を積出し、殷盛を極めたとかいふ話であるが、

「あした小泊へ行つて、」引返して、また長い橋を渡りながら、私は他の事を言つた。

私はたけのゐる小泊の港へ行くのを、私のこんどの旅行の最後に残して置いたのである。

いや、小泊へ行く前に、五所川原からすぐ弘前へ行き、弘前の街を歩いてそれから大鰐温泉へでも行つて一泊して

あす、五所川原からまつすぐに、小泊へ行つてしまはうと思ひ立つたのである。

「あすは小泊の、たけに逢ひに行くんださうです。」けいちやんは、何かとご自分の支度でいそがしいだらうに、

「久し振りだなう。どこへ。」「いや、小泊だ。」私はもう、早くたけに逢ひたくて、他の事はみな上の空である。

お昼すこし前に、私は小泊港に着いた。ここは、本州の西海岸の最北端の港である。

ふらりと舞ひもどつてこんどは一気に同じ海岸の北端の小泊港まで来てしまつたといふわけなのである

たけを見たくて、はるばると小泊までたづねて来てくれたかと思ふと、

仙台市

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また、それつ切り沈んで、奈良時代には多賀城(今の仙台市附近)秋田城(今の秋田市)を築いて蝦夷を鎮められたと伝へられ

丹後

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「奥州津軽の外ヶ浜に在りし頃、所の役人より丹後の人は居ずやと頻りに吟味せし事あり。いかなるゆゑぞと尋ぬる

事あり。いかなるゆゑぞと尋ぬるに、津軽の岩城山の神はなはだ丹後の人を忌嫌ふ、もし忍びても丹後の人此地に入る時は

岩城山の神はなはだ丹後の人を忌嫌ふ、もし忍びても丹後の人此地に入る時は天気大きに損じて風雨打続き船の出入無く、津軽

及ぶとなり。余が遊びし頃も打続き風悪しかりければ、丹後の人の入りて居るにやと吟味せしこととぞ。天気あしければ、いつ

して、もし入込み居る時は急に送り出すこととなり。丹後の人、津軽領の界を出れば、天気たちまち晴て風静に成なり

青森、三馬屋、そのほか外ヶ浜通り港々、最も甚敷丹後の人を忌嫌ふ。あまりあやしければ、いかなるわけのありてかくはいふ事

寿姫出生の地なればとて安寿姫を祭る。此姫は丹後の国にさまよひて、三庄太夫にくるしめられしゆゑ、今に至り、其

、差当りたる天気にさはりあることなれば、一国こぞつて丹後の人を忌嫌ふ事にはなりぬ。此説、隣境にも及び

へんな話である。丹後の人こそ、いい迷惑である。丹後の国は、いまの京都府の北部で

な話である。丹後の人こそ、いい迷惑である。丹後の国は、いまの京都府の北部であるが、あの辺の人は、この

事を堅く信じ、につくき山椒大夫を呪ふあまりに、丹後の人が入込めば津軽の天候が悪化するとまで思ひつめてゐたとは、

能登

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あつたといふ。それから近江、越前、越後、加賀、能登、若狭などとさかんに船で交通をはじめて次第に栄え、外ヶ浜に於いて最も

深浦町

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深浦町は、現在人口五千くらゐ、旧津軽領西海岸の南端の港である。江戸

越前

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すでに人家が千軒くらゐあつたといふ。それから近江、越前、越後、加賀、能登、若狭などとさかんに船で交通をはじめて次第に栄え

青森市

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この海岸の小都会は、青森市である。津軽第一の海港にしようとして、外ヶ浜奉行がその経営に

で、そそくさとこの町を通り抜ける。けれども私は、この青森市に四年ゐた。さうして、その四箇年は、私の生涯に於い

この中学校は、いまも昔と変らず青森市の東端にある。ひらたい公園といふのは、合浦公園の事である。さう

のは、寺町の豊田家である。二十代ちかく続いた青森市屈指の老舗である。ここのお父さんは先年なくなられたが、私はこのお父さん

忘れる事が出来ない。この二、三年来、私は青森市へ二、三度行つたが、その度毎に、このお父さんのお墓へ

。それから、隅田川に似た広い川といふのは、青森市の東部を流れる堤川の事である。すぐに青森湾に注ぐ。川といふもの

。青森に就いての思ひ出は、だいたいそんなものだが、この青森市から三里ほど東の浅虫といふ海岸の温泉も、私には忘れられない

て出発し直してゐるに違ひないと思はれる。ただ、青森市の血気さかんな粋客たちが、或る時期に於いて、この寒々した温泉

、頗る良心的な語り方で、大真面目に唸つてゐる。青森市にも昔から粋人が少くなかつたやうであるが、芸者たちから、兄さんうまい

のが弘前市の街の名である。それに較べて、青森市の街々の名は、次のやうなものである。浜町、新浜町、大町、

けれども私は、弘前市を上等のまち、青森市を下等の町だと思つてゐるのでは決してない。鷹匠町、紺屋町などの

名前の町があるものだ。なるほど弘前市の岩木山は、青森市の八甲田山よりも秀麗である。けれども、津軽出身の小説の名手、葛西

の城下まちである。青森県の県庁を、弘前市でなく、青森市に持つて行かざるを得なかつたところに、青森県の不幸があつたと

不幸があつたとさへ私は思つてゐる。私は決して青森市を特にきらつてゐるわけではない。新興のまちの繁栄を見るのも

T君は青森に出て来て勉強して、それから青森市の或る病院に勤めて、患者からも、また病院の職員たちからも、かなり

の桜は、いま、満開だといふ話であつた。青森市の街路は白つぽく乾いて、いや、酔眼に映つた出鱈目な印象を述べる

、酔眼に映つた出鱈目な印象を述べる事は慎しまう。青森市は、いま造船で懸命なのだ。途中、中学時代に私がお世話になつ

と呼ばれて船舶の往来の繁盛だつたところである。青森市からバスに乗つて、この東海岸を北上すると、後潟、蓬田、蟹田、

町は、その外ヶ浜に於いて最も大きい部落なのだ。青森市からバスで、後潟、蓬田を通り、約一時間半、とは言つても

翌る朝、眼をさますと、青森市のT君の声が聞えた。約束どほり、朝の一番のバスで

東北地方

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は平定せられ、もうその頃から、私たちの教科書はいよいよ東北地方から遠ざかり、明治維新にも奥州諸藩は、ただちよつと立つて裾をはたいて坐り直し

胆沢城

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、坂上田村麻呂が遠く北へ進んで蝦夷の根拠地をうち破り、胆沢城(今の岩手県水沢町附近)を築いて鎮所となしたとあるが、津軽

小石川

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あるが、かりに東京に例をとるならば、金木は小石川であり、五所川原は浅草、といつたやうなところでもあらうか。ここに

本覚寺

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今別には本覚寺といふ有名なお寺がある。貞伝和尚といふ偉い坊主が、ここの住職

に修業する事十五年、二十九歳の時より津軽今別、本覚寺の住職となつて、享保十六年四十二歳に到る間、其教化する処、津軽

で噴き出し、「まあ、とにかく行つて見よう。今別へ来て本覚寺を見なくちや恥です。貞伝和尚は、外ヶ浜の誇りなんだ。さう言ひ

「それぢや、その本覚寺に立寄つて、それからまつすぐに三厩まで歩いて行つてしまはう。」私は玄関

蟹田

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「ありがたう。けふおひる頃までに、蟹田のN君のところへ行かうと思つてゐるんだけど。」

の発着所にいそいだ。どうだね、君も一緒に蟹田へ行かないか、と昔の私ならば、気軽に言へたのでもあらう

乗つて、この東海岸を北上すると、後潟、蓬田、蟹田、平館、一本木、今別、等の町村を通過し、義経の伝説で名高い

通じていちばん堂々として目立つ建築物の一つであらう。蟹田、蓬田、平館、一本木、今別、三厩、つまり外ヶ浜の部落全部が、ここの

弘前の人の著した「青森県通史」に依れば、この蟹田の浜は、昔は砂鉄の産地であつたとか、いまは全く産しない

あとで調べて知つた事で、それまでは私は、蟹田は蟹の名産地、さうして私の中学時代の唯一の友人のN君

蟹田のN君の家では、赤い猫脚の大きいお膳に蟹を小山のやう

の青年たちの信頼を得て、二、三年前、蟹田の町会議員に選ばれ、また青年団の分団長だの、何とか会の幹事だ

会の幹事だのいろいろな役を引き受けて、今では蟹田の町になくてならぬ男の一人になつてゐる模様なのである。

、Mさんといふ小説の好きな若い人も、私が蟹田に来る事をN君からでも聞いてゐたらしく、はにかんで笑ひながらやつ

旧知の間柄のやうである。これから、すぐ皆で、蟹田の山へ花見に行かうといふ相談が、まとまつた様子である。

ものものしい身支度をする必要は全然なかつた。その山は、蟹田の町はづれにあつて、高さが百メートルも無いほどの小山なの

は、干物と山菜で食事をしてゐる。これは、蟹田に限らず、外ヶ浜一帯のどの漁村でも、また、外ヶ浜だけとも限らず

津軽の西海岸の漁村に於いても、全く同様である。蟹田はまた、頗る山菜にめぐまれてゐるところのやうである。蟹田は海岸の町

はまた、頗る山菜にめぐまれてゐるところのやうである。蟹田は海岸の町ではあるが、また、平野もあれば、山もある。

の人たちに、あはれまれてゐると知つたら、蟹田の人たちは、くすぐつたく思ふだらう。蟹田地方には、蟹田川と

知られてゐる。」といふ説明が附せられてある。蟹田の人たちは誇らじと欲するも得べけんやである。しかも、この津軽

は思はれるだらうが、しかし、この観瀾山から見下した蟹田の町の気配は、何か物憂い。活気が無いのだ。いままで私は

であるから、ここらで少し、悪口を言つたつて、蟹田の人たちはまさか私を殴りやしないだらうと思はれる。蟹田の人

たちはまさか私を殴りやしないだらうと思はれる。蟹田の人たちは温和である。温和といふのは美徳であるが、町を

、かへつて悪い事ではあるまいかと思はせるほど、蟹田の町は、おとなしく、しんと静まりかへつてゐる。河口の防波堤も半分つくりかけて

瀾山から、それが全部見えるといふわけではないが、蟹田には、どうも建設の途中で投げ出した工事が多すぎるやうに思はれる。

が強く吹いて、N君の家の戸障子をゆすぶり、「蟹田つてのは、風の町だね。」と私は、れいの独り合点の

その日、蟹田の観瀾山で一緒にビールを飲んだ人たちも、たいていその五十年配の

も、逢つてやつて下さい。たのみます。リンゴ酒なら、蟹田には、いくらでもありますから、家へ来て、リンゴ酒を、ね

をバスにも乗らずてくてく歩いて夜中の十二時頃に蟹田の家へたどり着き、伯父さん、伯父さん、と言つて玄関の戸を叩き、

はじめは蟹田から船でまつすぐに竜飛まで行き、帰りは徒歩とバスといふ計画であつた

はつてゐたものが一つあつた。それは私が蟹田でつい悪口を言つてしまつたあの五十年配の作家の随筆集が、M

愛読者といふものは偉いもので、私があの日、蟹田の観瀾山であれほど口汚くこの作家を罵倒しても、この作家に対するM

来て、三厩で昼食をとり、それからバスでまつすぐに蟹田のN君の家へ帰つて来た。歩いてみると、しかし、津軽も

はない。その翌々日の昼頃、私は定期船でひとり蟹田を発ち、青森の港に着いたのは午後の三時、それから奥羽線

金木町に着いた時には、もう薄暗くなつてゐた。蟹田と金木と相隔たる事、四角形の一辺に過ぎないのだが、その

ほど前です。東海岸で、手間どつてしまひました。蟹田のN君には、ずいぶんお世話になりました。」N君の事は、

で?」と嫂は小声で私に言つた。私は蟹田の蟹を少しお土産に持つて来たのだ。

津軽平野

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金木は、私の生れた町である。津軽平野のほぼ中央に位し、人口五、六千の、これといふ特徴もないが

ない状態なので、山を越えて津軽半島西部の広い津軽平野に住んでゐる人たちは、この外ヶ浜地方を、カゲ(山の陰の意

四 津軽平野

「津軽平野」陸奥国、南・中・北、三津軽郡に亘る平野。岩木川の河谷なり

、全流程二十二里八町の岩木川に沿うてひらけた津軽平野を中心に、東は青森、浅虫あたり迄、西は日本海々岸を北から下

かへて五時頃五所川原に着き、それからすぐ津軽鉄道で津軽平野を北上し、私の生れた土地の金木町に着いた時には、もう薄暗くなつ

山はやはり弘前のものかも知れないと思ふ一方、また津軽平野の金木、五所川原、木造あたりから眺めた岩木山の端正で華奢な姿も忘れ

とは言つたものの、眼前に展開してゐる春の津軽平野の風景には、うつとりしてしまつた。岩木川が細い銀線みたいに、キラキラ

たぬかのうちに、木造駅に着いた。ここは、まだ津軽平野の内である。私は、この町もちよつと見て置きたいと思つてゐ

て約三十分くらゐで鳴沢、鰺ヶ沢を過ぎ、その辺で津軽平野もおしまひになつて、それから列車は日本海岸に沿うて走り、右に

か、と馬鹿らしい事を大真面目で考へて、ぼんやり窓外の津軽平野を眺め、やがて金木を過ぎ、芦野公園といふ踏切番の小屋くらゐの小さい駅に

に着く。人口、四千くらゐの小邑である。この辺から津軽平野も狭小になり、この北の内潟、相内、脇元などの部落に到ると水田

到ると水田もめつきり少くなるので、まあ、ここは津軽平野の北門と言つていいかも知れない。私は幼年時代に、ここの金丸

港の繁栄などに就いては前にも述べたが、津軽平野の歴史の中心は、この中里から小泊までの間に在つたものらしい。バス

戸塚

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に来た事はあるが、東京に来てからも、戸塚の私のすぐの兄の家へ、ちよいちよい遊びに来て、さうし

相内

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この辺から津軽平野も狭小になり、この北の内潟、相内、脇元などの部落に到ると水田もめつきり少くなるので、まあ、ここ

八甲田山

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町があるものだ。なるほど弘前市の岩木山は、青森市の八甲田山よりも秀麗である。けれども、津軽出身の小説の名手、葛西善蔵氏は

弘前市

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をはじめたのか。私はその責任の全部を、この弘前市に負はせようとは思はないが、しかし、その責任の一斑は弘前市に引受けて

負はせようとは思はないが、しかし、その責任の一斑は弘前市に引受けていただきたいと思つてゐる。義太夫が、不思議にさかんなまちなの

をかいて勉強致してゐるこの様な可憐な旦那は、弘前市の方に多く見かけられるやうに思はれる。つまり、この弘前市には、未だに

弘前市の方に多く見かけられるやうに思はれる。つまり、この弘前市には、未だに、ほんものの馬鹿者が残つてゐるらしいのである。永慶

若党町、小人町、鷹匠町、五十石町、紺屋町、などといふのが弘前市の街の名である。それに較べて、青森市の街々の名は、次

けれども私は、弘前市を上等のまち、青森市を下等の町だと思つてゐるのでは決してない

決してない。鷹匠町、紺屋町などの懐古的な名前は何も弘前市にだけ限つた町名ではなく、日本全国の城下まちに必ず、そんな名前の

城下まちに必ず、そんな名前の町があるものだ。なるほど弘前市の岩木山は、青森市の八甲田山よりも秀麗である。けれども、津軽出身

弘前市。現在の戸数は一万、人口は五万余。弘前城と、最勝院の五重塔

そのやうな事が書かれてある。けれども私は、弘前市を説明するに当つて、それだけでは、どうしても不服なので

所在地は、旧藩の城下まちである。青森県の県庁を、弘前市でなく、青森市に持つて行かざるを得なかつたところに、青森県の不幸

見るのも、また爽快である。私は、ただ、この弘前市の負けてゐながら、のほほん顔でゐるのが歯がゆいのである。負けてゐる

のは自然の人情である。私は何とかして弘前市の肩を持つてやりたく、まつたく下手な文章ながら、あれこれと工夫して

と工夫して努めて書いて来たのであるが、弘前市の決定的な美点、弘前城の独得の強さを描写する事はつひに出来な

西方よりし、南より来る平川及び東より来る浅瀬石川と弘前市の北にて会合し、正北に流れ、十三潟に注ぎて後、海に

歩くのも大儀になつて来て、大鰐温泉はあきらめ、弘前市には、いよいよ東京へ帰る時に途中でちよつと立寄らうといふ具合に予定を変更

中里

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の一番の汽車でここをお立ちにならないと、中里からのバスに間に合ひませんよ。大事な日に、朝寝坊をなさら

津軽鉄道を北上し、金木を素通りして、津軽鉄道の終点の中里に九時に着いて、それから小泊行きのバスに乗つて約二時間。

私は小泊まで約二時間、立つたままであつた。中里から以北は、全く私の生れてはじめて見る土地だ。津軽の遠祖と言はれる

満洲

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この旅行に出る前に、満洲の兵隊たちのために発行されてゐる或る雑誌に短篇小説を一つ送る

れたことを推測せしめる。今昔物語に、安倍頼時が満洲に渡つて見聞したことを載せたのは、これらの考古学及び土俗学

本州

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青森県の誕生すると共に、県庁所在地となつていまは本州の北門を守り、北海道函館との間の鉄道連絡船などの事に到つては

尽きる個所である。ここの岬は、それこそ、ぎりぎりの本州の北端である。けれども、この辺は最近、国防上なかなか大事なところで

して、それからさらに海岸の波打際の心細い路を歩いて本州の北端、竜飛岬まで行つたのであるが、その三厩竜飛間の荒涼索莫

の多い太平洋とに包まれた奥州。しかも冬期降雪多く、本州中で一番寒く、古来、数十回の凶作に襲来されたといふ奥州。

どの地理書を繙いても、奥州の地たるや本州の東北端に僻在し、衣、食、住、いづれも粗樸、とある

、どんな文学的な形容詞も思ひ浮ばないのと同様に、この本州の路のきはまるところの岩石や水も、ただ、おそろしいばかりで、私は

庇護し合つて立つてゐるのである。ここは、本州の極地である。この部落を過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばかり

だ。路が全く絶えてゐるのである。ここは、本州の袋小路だ。読者も銘肌せよ。諸君が北に向つて歩いてゐる時

六本ばかりと言つたはうがよい。今夜は、この本州の北端の宿で、一つ飲み明かさうぢやないか。」と、へんな策略

こんどは、ひどかつた。彼も本州の北端の宿へ来て、気宇が広大になつたのか、仰天するほど

たちに蝦夷の土地と思ひ込まれて軽蔑されてゐる本州の北端で、このやうな美しい発音の爽やかな歌を聞かうとは思はな

「津軽」本州の東北端日本海方面の古称。斉明天皇の御代、越の国司、阿倍比羅夫

今の北海道アイヌの祖先は、古くから北海道に住んで、本州の文化に触れること少く、土地隔絶、天恵少く、随つて石器時代にも、

てゐる。かうして見ると、津軽人の祖先も、本州の北端で、決してただうろうろしてゐたわけでは無かつたやうでも

の為に設立せられたもののやうであるが、この本州の北端の原野に、もつたいないくらゐの堂々たる設備である。秩父の宮様

すこし前に、私は小泊港に着いた。ここは、本州の西海岸の最北端の港である。この北は、山を越えてすぐ東海岸の

気持をこそ、夢見るやうな気持といふのであらう。本州の北端の漁村で、昔と少しも変らぬ悲しいほど美しく賑やかな祭礼が、

た。国運を賭しての大戦争のさいちゆうでも、本州の北端の寒村で、このやうに明るい不思議な大宴会が催されて居る。

居る。古代の神々の豪放な笑ひと闊達な舞踏をこの本州の僻陬に於いて直接に見聞する思ひであつた。海を越え山を越え

秩父

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北端の原野に、もつたいないくらゐの堂々たる設備である。秩父の宮様が弘前の八師団に御勤務あそばされていらつしやつた折

津軽鉄道

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を求め、そんな駅は無いと言はれ憤然として、津軽鉄道の芦野公園を知らんかと言ひ、駅員に三十分も調べさせ、たうとう芦野公園の切符を

最勝院

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現在の戸数は一万、人口は五万余。弘前城と、最勝院の五重塔とは、国宝に指定せられてゐる。桜の頃の弘前公園は

北海道

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に、県庁所在地となつていまは本州の北門を守り、北海道函館との間の鉄道連絡船などの事に到つては知らぬ人もあるまい

を送り迎へした伝統のあらはれかも知れない。昔は北海道へ渡るのに、かならず三厩から船出する事になつてゐたので、この

今の秋田)渟代(今の能代)津軽に到り、遂に北海道に及ぶ。これ津軽の名の初見なり。乃ち其地の酋長を以て津軽

嘗て帰附せざるもの、悉く内属すとあり。渡島は今の北海道なり。津軽の陸奥に属せしは、源頼朝奥羽を定め、陸奥の守護の

出来ない。所謂日本の先住民族の一種であるが、いま北海道に残つてしよんぼりしてゐるアイヌとは、根本的にたちが違つて

優位をしめてゐる程であるとも言はれ、今の北海道アイヌの祖先は、古くから北海道に住んで、本州の文化に触れること少く、

とも言はれ、今の北海道アイヌの祖先は、古くから北海道に住んで、本州の文化に触れること少く、土地隔絶、天恵少く、随つて

加賀

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軒くらゐあつたといふ。それから近江、越前、越後、加賀、能登、若狭などとさかんに船で交通をはじめて次第に栄え、外ヶ浜に於い

富士登山

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に服装に凝つて、鍔のひろい麦藁帽に兄が富士登山の時に使つた神社の焼印の綺麗に幾つも押されてある白木の杖、

鯵ヶ沢

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領西海岸の南端の港である。江戸時代、青森、鯵ヶ沢、十三などと共に四浦の町奉行の置かれたところで、津軽藩の最も

義経寺

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「登つて見ようか。」N君は、義経寺の石の鳥居の前で立ちどまつた。松前の何某といふ鳥居の寄進

秋田城

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つ切り沈んで、奈良時代には多賀城(今の仙台市附近)秋田城(今の秋田市)を築いて蝦夷を鎮められたと伝へられてゐるだけで

関東

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蜜柑などに較べると、はるかに歴史は浅いのである。関東、関西の人たちは、津軽と言へばすぐに林檎を思ひ出し、さうして

果ては自分の命までも、といふ愛情の表現は、関東、関西の人たちにはかへつて無礼な暴力的なもののやうに思はれ、

蝦夷

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た大和民族が各地方より北上してこの奥州に到り、蝦夷を征服しつつ、或ひは山に猟し、或ひは川に漁して、いろいろな

は慎しむべきであらう。とにかく、この辺には、昔の蝦夷の栖家の面影は少しも見受けられず、お天気のよくなつて来たせゐ

て、日本東北の限りなり。むかし源義経、高館をのがれ蝦夷へ渡らんと此所迄来り給ひしに、渡るべき順風なかりしかば数日

むかし源義経、高館をのがれ蝦夷へ渡らんと此所迄来り給ひしに、渡るべき順風なかりしかば数日

たまらない気持になつた。いまでも中央の人たちに蝦夷の土地と思ひ込まれて軽蔑されてゐる本州の北端で、このやうな

以て津軽郡領とす。此際、遣唐使坂合部連石布、蝦夷を以て唐の天子に示す。随行の官人、伊吉連博徳、下問に応じ

に示す。随行の官人、伊吉連博徳、下問に応じて蝦夷の種類を説いて云はく、類に三種あり近きを熟蝦夷、次を麁蝦夷、遠き

次を麁蝦夷、遠きを都加留と名くと。其他の蝦夷は、おのづから別種として認められしものの如し。津軽蝦夷の

。平安時代になつて、坂上田村麻呂が遠く北へ進んで蝦夷の根拠地をうち破り、胆沢城(今の岩手県水沢町附近)を築いて鎮所と

あつた。随つて最北の津軽地方の如きは、住民まだ蝦夷の旧態を存するもの多く、直接鎌倉武士を以てしては、これを統治

して、小川博士は、大和朝廷の大官たちが、しばしば蝦夷、東人、毛人などと名乗つたのは、一つには、奥羽地方人

、津軽に於いて安東氏一族の間に内訌あり、遂に蝦夷の騒乱となるに到つて、幕府の執権北条高時、将を遣はして

今別

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を北上すると、後潟、蓬田、蟹田、平館、一本木、今別、等の町村を通過し、義経の伝説で名高い三厩に到着する。所要時間

建築物の一つであらう。蟹田、蓬田、平館、一本木、今別、三厩、つまり外ヶ浜の部落全部が、ここの警察署の管轄区域になつてゐる

てゐたし、三厩以南の各部落、殊にも三厩、今別などに到つては瀟洒たる海港の明るい雰囲気の中に落ちつき払つた生活を展開し

顔を見ると、飲まずには居られないんだ。今別のMさんが配給のお酒を近所から少しづつ集めて置くつて言つてゐ

船も出るのではなからうかと思はれた。とにかく、今別のMさんのお家へ立寄り、船が出るやうだつたら、お酒をもらつ

、船が出るやうだつたら、お酒をもらつてすぐ今別の港から船に乗らうといふ事にした。往きも帰りも同じ陸路を

はお昼頃、Mさんのゐる今別に着いた。今別は前にも言つたやうに、明るく、近代的とさへ言ひたいくらゐの港町で

今別には本覚寺といふ有名なお寺がある。貞伝和尚といふ偉い坊主が

も記載せられてある。すなはち、「貞伝和尚は、今別の新山甚左衛門の子で、早く弘前誓願寺に弟子入して、のち磐城平、

かけて、ひとりで噴き出し、「まあ、とにかく行つて見よう。今別へ来て本覚寺を見なくちや恥です。貞伝和尚は、外ヶ浜の誇りな

五所川原

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さうして二十年間、津軽に於いて育ちながら、金木、五所川原、青森、弘前、浅虫、大鰐、それだけの町を見ただけで、その

である。それから三里ほど南下し、岩木川に沿うて五所川原といふ町が在る。この地方の産物の集散地で人口も一万以上あるやうだ

に東京に例をとるならば、金木は小石川であり、五所川原は浅草、といつたやうなところでもあらうか。ここには、私の

、この叔母を慕つてゐたので、実にしばしばこの五所川原の叔母の家へ遊びに来た。私は、中学校にはひるまでは、

に来た。私は、中学校にはひるまでは、この五所川原と金木と、二つの町の他は、津軽の町に就いて、ほとんど何

わからない。私はこの津軽の序編に於いて、金木、五所川原、青森、弘前、浅虫、大鰐に就いて、私の年少の頃の思ひ出を展開

ものかも知れないと思ふ一方、また津軽平野の金木、五所川原、木造あたりから眺めた岩木山の端正で華奢な姿も忘れられなかつた

に依れば「敷かさつてゐるほど」一ぱい生えて、五所川原、木造あたりの遠方から取りに来る人もあるといふ。

へ遊びに行つたその翌日、私は金木を出発して五所川原に着いたのは、午前十一時頃、五所川原駅で五能線に乗りかへ、

も、気早やな性格は、やはり往年のままである。五所川原の私の叔母の家族が、そのハイカラ町に住んでゐるのである。私

時代の思ひ出がたくさんある。四、五年前、私は五所川原の或る新聞に次のやうな随筆を発表した。

「叔母が五所川原にゐるので、小さい頃よく五所川原へ遊びに行きました。旭座の舞台

「叔母が五所川原にゐるので、小さい頃よく五所川原へ遊びに行きました。旭座の舞台開きも見に行きました。小学校

七つか、八つの頃、五所川原の賑やかな通りを歩いて、どぶに落ちました。かなり深くて、水が

五所川原の人たちは遊び好きだから、それはずいぶん賑はふ事だらうと思つた

て置いたのである。いや、小泊へ行く前に、五所川原からすぐ弘前へ行き、弘前の街を歩いてそれから大鰐温泉へでも行つ

でちよつと立寄らうといふ具合に予定を変更して、けふは五所川原の叔母の家に一泊させてもらつて、あす、五所川原からまつすぐに

叔母の家に一泊させてもらつて、あす、五所川原からまつすぐに、小泊へ行つてしまはうと思ひ立つたのである。けいちやんと一緒に

忘れてゐるみたいであつた。一番の八時の汽車で五所川原を立つて、津軽鉄道を北上し、金木を素通りして、津軽鉄道の終点の中里

忘れ得ぬ人は、青森に於けるT君であり、五所川原に於ける中畑さんであり、金木に於けるアヤであり、さうして小泊に

関西

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に較べると、はるかに歴史は浅いのである。関東、関西の人たちは、津軽と言へばすぐに林檎を思ひ出し、さうしてこの扁

自分の命までも、といふ愛情の表現は、関東、関西の人たちにはかへつて無礼な暴力的なもののやうに思はれ、つひには

岩木山

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に必ず、そんな名前の町があるものだ。なるほど弘前市の岩木山は、青森市の八甲田山よりも秀麗である。けれども、津軽出身の小説の

にかう言つて教へてゐる。「自惚れちやいけないぜ。岩木山が素晴らしく見えるのは、岩木山の周囲に高い山が無いからだ。他の

「自惚れちやいけないぜ。岩木山が素晴らしく見えるのは、岩木山の周囲に高い山が無いからだ。他の国に行つてみろ。あれくらゐ

月二十八日より八月一日に到る三日間、津軽の霊峰岩木山の山頂奥宮に於けるお祭りに参詣する人、数万、参詣の行き帰り躍りながら

弘前城を訪れ、お城の広場の一隅に立つて、岩木山を眺望したとき、ふと脚下に、夢の町がひつそりと展開して

だりして、ごちやまぜになつて、たうとう津軽の岩木山がその伝説を引受ける事になつたのではないかと思はれる。しかし、

ではなかつた。津軽富士と呼ばれてゐる一千六百二十五メートルの岩木山が、満目の水田の尽きるところに、ふはりと浮んでゐる。実際、軽く

が、弘前から見るといかにも重くどつしりして、岩木山はやはり弘前のものかも知れないと思ふ一方、また津軽平野の金木、五所川原

一方、また津軽平野の金木、五所川原、木造あたりから眺めた岩木山の端正で華奢な姿も忘れられなかつた。西海岸から見た山容は、

ある。崩れてしまつて、もはや美人の面影は無い。岩木山の美しく見える土地には、米もよくみのり、美人も多いといふ伝説もある

、むしろ逆ぢやないかとさへ私には疑はれた。岩木山の美しく見える土地には、いや、もう言ふまい。こんな話は、えてして差しさ

江戸

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の俳人の句を一つ読んだ記憶もあるし、あるいは江戸の通人には、珍味とされてゐたものかも知れない。いづれに

金木

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生れ、さうして二十年間、津軽に於いて育ちながら、金木、五所川原、青森、弘前、浅虫、大鰐、それだけの町を見ただけで

金木は、私の生れた町である。津軽平野のほぼ中央に位し、人口

のであるが、かりに東京に例をとるならば、金木は小石川であり、五所川原は浅草、といつたやうなところでもあらうか。

た。私は、中学校にはひるまでは、この五所川原と金木と、二つの町の他は、津軽の町に就いて、ほとんど何も知ら

か、わからない。私はこの津軽の序編に於いて、金木、五所川原、青森、弘前、浅虫、大鰐に就いて、私の年少の頃の思ひ出

ある。小学校の頃、遠足に行つたり何かして、金木の近くの幾つかの部落を見た事はあつたが、それは現在の

つてはゐないのである。中学時代の暑中休暇には、金木の生家に帰つても、二階の洋室の長椅子に寝ころび、サイダーをがぶがぶラツパ

着いた時には、もう薄暗くなつてゐた。蟹田と金木と相隔たる事、四角形の一辺に過ぎないのだが、その間に

一周してみたいと思つてゐますが、ついでに金木にも立寄り、父母の墓参をさせていただきたいと思つてゐますから、

家へお嫁に行き、その新郎と一緒にちよいちよい金木へ遊びに来るらしく、その時も、お二人でやつて来てゐたの

は、私たちの一ばん上の姉の末娘で、まだ嫁がず金木の家へいつも手伝ひに来てゐる素直な子である。その二人の姪

綾足くらゐのものらしいが、実はこれも、この前に金木へ来た時、兄の持つてゐる綾足の画を見せてもらつて、

「へえ? ちつとも、知らなかつた。金木には過ぎたるものぢやないですか。」さう言ひながら、私は、へんに

弘前のものかも知れないと思ふ一方、また津軽平野の金木、五所川原、木造あたりから眺めた岩木山の端正で華奢な姿も忘れられな

、あれが隣村の分村、とアヤの説明を聞きながら、金木も発展して、賑やかになつたものだと、しみじみ思つた。そろそろ、山

家へ帰つて兄に、金木の景色もなかなかいい、思ひをあらたにしました、と言つたら、兄は

翌る日は前日の一行に、兄夫婦も加はつて、金木の東南方一里半くらゐの、鹿の子川溜池といふところへ出かけた。出発

里ちかくも遠くへ出歩くなどは、嫂にとつて、金木へお嫁に来てはじめての事かも知れない。その日も上天気で

した。私は小学校二、三年の時、遠足で金木から三里半ばかり離れた西海岸の高山といふところへ行つて、はじめて海を

いちども行つた事がない。高山といふのは、金木からまつすぐ西に三里半ばかり行き車力といふ人口五千くらゐのかなり大きい村を

ある。鹿の子川溜池へ遊びに行つたその翌日、私は金木を出発して五所川原に着いたのは、午前十一時頃、五所川原駅で五能線

ここは、私の父が生れた土地なのである。金木の私の家では代々、女ばかりで、たいてい婿養子を迎へてゐる。父

五つ年上の、にぎやかな人で、昔からちよいちよい金木へも遊びに来て私とは顔馴染である。私がいま、たづねて行つ

この家の間取りは、金木の家の間取りとたいへん似てゐる。金木のいまの家は、私の父

の間取りは、金木の家の間取りとたいへん似てゐる。金木のいまの家は、私の父が金木へ養子に来て間もなく自身

似てゐる。金木のいまの家は、私の父が金木へ養子に来て間もなく自身の設計で大改築したものだといふ

話を聞いてゐるが、何の事は無い、父は金木へ来て自分の木造の生家と同じ間取りに作り直しただけの事なのだ

八時の汽車で五所川原を立つて、津軽鉄道を北上し、金木を素通りして、津軽鉄道の終点の中里に九時に着いて、それから小泊

を大真面目で考へて、ぼんやり窓外の津軽平野を眺め、やがて金木を過ぎ、芦野公園といふ踏切番の小屋くらゐの小さい駅に着いて、金木

「前に金木にゐた事があるんです。さうして、いまは、五十くらゐのひと

「久し振りだなあ。はじめは、わからなかつた。金木の津島と、うちの子供は言つたが、まさかと思つた。まさか、来

それがこんなにおとなになつて、みな夢のやうだ。金木へも、たまに行つたが、金木のまちを歩きながら、もしやお前がその

みな夢のやうだ。金木へも、たまに行つたが、金木のまちを歩きながら、もしやお前がその辺に遊んでゐないかと、

於けるT君であり、五所川原に於ける中畑さんであり、金木に於けるアヤであり、さうして小泊に於けるたけである。アヤは

弘前城

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に包まれその健在を誇つてゐる事である。この弘前城が控へてゐる限り、大鰐温泉は都会の残瀝をすすり悪酔ひする

、最後のたのみの大綱は、ここから三里北方に弘前城が、いまもなほ天守閣をそつくり残して、年々歳々、陽春には桜花

、ここに現在の青森県が誕生したといふ経緯は、弘前城の歴史であると共にまた、津軽の歴史の大略でもある。津軽

、この弘前城であるといふ。それより代々の藩主この弘前城に拠り、四代信政の時、一族の信英を黒石に分家させて

牧の時に到り、やうやく完成を見たのが、この弘前城であるといふ。それより代々の藩主この弘前城に拠り、四代信政

弘前城。ここは津軽藩の歴史の中心である。津軽藩祖大浦為信は、関ヶ原

書いて来たのであるが、弘前市の決定的な美点、弘前城の独得の強さを描写する事はつひに出来なかつた。重ねて言ふ

保守できるとは、きまつてゐないではないか。弘前城が控へてゐる限り、大鰐温泉は都会の残瀝をすすり悪酔するなど

まだまだあいまいである。桜花に包まれた天守閣は、何も弘前城に限つた事ではない。日本全国たいていのお城は桜花に包まれ

弘前市。現在の戸数は一万、人口は五万余。弘前城と、最勝院の五重塔とは、国宝に指定せられてゐる。桜の

言へば「希望的観測」を試みて、私はこの愛する弘前城と訣別する事にしよう。思へば、おのれの肉親を語る事が至難な

は何の事やらおわかりにならぬかも知れないが、弘前城はこの隠沼を持つてゐるから稀代の名城なのだ、といまに

、ぞつとした事がある。私はそれまで、この弘前城を、弘前のまちのはづれに孤立してゐるものだとばかり思つてゐ

ゐるが、弘前高等学校の文科生だつた私は、ひとりで弘前城を訪れ、お城の広場の一隅に立つて、岩木山を眺望した

あつたとか、いまは全く産しないが、慶長年間、弘前城築城の際には、この浜の砂鉄を精錬して用ゐたさうで、

青森

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て二十年間、津軽に於いて育ちながら、金木、五所川原、青森、弘前、浅虫、大鰐、それだけの町を見ただけで、その他

、ほとんど何も知らなかつたと言つてよい。やがて、青森の中学校に入学試験を受けに行く時、それは、わづか三、四時間の

この地方の産物の集散地で人口も一万以上あるやうだ。青森、弘前の両市を除いて、人口一万以上の町は、この辺には

とつて忘れがたい期間であつたとも言へるであらう。青森に就いての思ひ出は、だいたいそんなものだが、この青森市から三里ほど東

青春も川から海へ流れ込む直前であつたのであらう。青森に於ける四年間は、その故に、私にとつて忘れがたい期間

、雪がひそひそ降つてゐるのはいいものだ。最近は青森港も船舶輻湊して、この桟橋も船で埋つて景色どころではない

のやうに思はれる。ついでだから、弘前の町名と、青森の町名とを次に列記してみよう。この二つの小都会の性格

に個性がないやうに思はれる。弘前の土手町に相当する青森の商店街は、大町と呼ばれてゐる。これも同様のやうに思はれる

於いて最も繁華な商店街である。それらに較べると、青森の花街の名は、浜町である。その名に個性がないやうに思は

。私はこの津軽の序編に於いて、金木、五所川原、青森、弘前、浅虫、大鰐に就いて、私の年少の頃の思ひ出を展開し

頗る現実的な事を一心に念ずる下品な有様となつた。青森には、朝の八時に着いた。T君が駅に迎へに来

いよいよ寒く、心頭滅却の修行もいまはあきらめて、ああ早く青森に着いて、どこかの宿で炉辺に大あぐらをかき、熱燗のお

たのを私は聞いて覚えてゐる。のちT君は青森に出て来て勉強して、それから青森市の或る病院に勤めて、

「何か召上りませんか。青森にも、このごろは、おいしいおさかなが少くなつて。」

何だか安心で、気強いのである。T君は、青森の病院の、小説の好きな同僚の人をひとり連れて来てゐた

地方の人たちもこの林檎栽培にむきになりはじめて、青森名産として全国に知られたのは、大正にはひつてからの

人の作品など、いいはうなんでせう?」と青森の病院のHさんは、つつましく、取りなし顔に言ふ。

君は翌朝早々、私たちのまだ眠つてゐるうちにバスで青森へ帰つた。勤めがいそがしい様子である。

はひつてゐるのださうで、その子が或る土曜日に青森から七里の道をバスにも乗らずてくてく歩いて夜中の十二時頃

あるさうだ。三人の遺児のうち、一番の総領は青森の工業学校にはひつてゐるのださうで、その子が或る土曜日に

ならず、役人よりも毎度改むる事、珍らしき事なり。青森、三馬屋、そのほか外ヶ浜通り港々、最も甚敷丹後の人を忌

一里なり。此間土地低平、支流溝渠網の如く通じ、青森県産米は、大部分此平野より出づ。

翌々日の昼頃、私は定期船でひとり蟹田を発ち、青森の港に着いたのは午後の三時、それから奥羽線で川部まで

の岩木川に沿うてひらけた津軽平野を中心に、東は青森、浅虫あたり迄、西は日本海々岸を北から下つてせいぜい深浦あたり

旧津軽領西海岸の南端の港である。江戸時代、青森、鯵ヶ沢、十三などと共に四浦の町奉行の置かれたところで、津軽

ところがあつた。見よ、私の忘れ得ぬ人は、青森に於けるT君であり、五所川原に於ける中畑さんであり、金木に於け

秋田

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に碇ヶ関といふところがあつて、そこは旧藩時代の津軽秋田間の関所で、したがつてこの辺には史蹟も多く、昔の

のかも知れない。大鰐は、津軽の南端に近く、秋田との県境に近いところに在つて、温泉よりも、スキイ場のために

、ここに人々は、思ひ思ひの地に定著して、或ひは秋田、荘内、津軽の平野に米を植ゑ、或ひは北奥の山地に殖林を

建立の供養の時の如きは、領内は勿論、南部、秋田、松前地方の善男善女の雲集参詣を見た。」といふやうな事

、阿倍比羅夫出羽方面の蝦夷地を経略して齶田(今の秋田)渟代(今の能代)津軽に到り、遂に北海道に及ぶ。これ津軽の

十五年豊臣秀吉に謁せんとして発途せしも、秋田城介安倍実季、道を遮り果さずして還る。十七年、鷹、馬

つ切り沈んで、奈良時代には多賀城(今の仙台市附近)秋田城(今の秋田市)を築いて蝦夷を鎮められたと伝へられてゐる

政をお輔けになり、阿倍比羅夫をして、今の秋田・津軽の地方を平げしめられた。」といふやうな文章があつて

交通が頗る自由に行はれたのは想像し難くない。秋田附近から五銖銭が出土したことがあり、東北には漢文帝武帝を

千余人、つぎに三百余人の多人数が、それぞれ今の秋田地方に来着した事実で、満洲地方と交通が頗る自由に行はれた

「秋田には、偉い人がゐます。」とお婿さんに向つて低く言つ

背中を丸めてお婿さんの顔を見つめ、「やつぱり、秋田には、根強いものがあると思ひます。」

、この辺以南は、昔からの津軽領ではなく、秋田領であつたのを、慶長八年に隣藩佐竹氏と談合の上

たら大過ないのではあるまいか。西海岸の特産で、秋田地方がむしろ本場のやうである。東京の人たちは、あれを油つ

仙台

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て仕立てた縫紋の一重羽織と大島の袷、それから仙台平の袴を忍ばせてゐた。いつ、どんな事があるかもわからない

福島

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県の地は、明治の初年に到るまで岩手・宮城・福島諸県の地と共に一個国を成し、陸奥といひ、明治の初年に

京都

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国大館二千石を加増す。十二年十二月五日、京都にて卒す。年五十八。

としをとると自分の生れて育つた土地の景色が、京都よりも奈良よりも、佳くはないか、と思はれて来るものです、

奈良

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、はじめて津軽の名前が浮び上り、また、それつ切り沈んで、奈良時代には多賀城(今の仙台市附近)秋田城(今の秋田市)を築い

に論断してゐるやうである。「続日本紀には奈良朝前後に粛慎人及び渤海人が、日本海を渡つて来朝した記載

と自分の生れて育つた土地の景色が、京都よりも奈良よりも、佳くはないか、と思はれて来るものです、と答へた

千葉

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四十分で、深浦へ着くのだが、この港町も、千葉の海岸あたりの漁村によく見受けられるやうな、決して出しやばらうとせぬ

浅草

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に例をとるならば、金木は小石川であり、五所川原は浅草、といつたやうなところでもあらうか。ここには、私の叔母

東京

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譬喩でわれながら閉口して申し上げるのであるが、かりに東京に例をとるならば、金木は小石川であり、五所川原は浅草、といつ

ゐたほどでした。かねて少年雑誌で習ひ覚えてあつた東京弁を使ひました。けれども宿に落ちつき、その宿の女中たちの

、それは、あきらめ切れない。ここは浅虫に較べて、東京方面との交通の便は甚だ悪い。そこが、まづ、私にとつ

の家へ遊びに行つたし、高等学校を卒業と同時に東京の大学へ来て、それつきり十年も故郷へ帰らなかつたの

なかつたし、高等学校時代には、休暇になると必ず東京の、すぐ上の兄(この兄は彫刻を学んでゐたが、二十七

置きたくて、或る年の春、乞食のやうな姿で東京を出発した。

ゐる。私にも、この寒さは意外であつた。東京ではその頃すでに、セルの単衣を着て歩いてゐる気早やな人も

かう言はうと思つてゐた。「なれたせゐか、東京のごはんのはうがおいしい。副食物だつて、ちやうど無くなつたと思つ

、このごはんは白米です、おなかが破れるほど食べて下さい、東京はひどいつて話ぢやありませんか、としんからの好意を以て

と愛情の乞食だ、白米の乞食ではない! と東京の人全部の名誉のためにも、演説口調できざな大見得を切つて

の食料不足を訴へるので、地方の人たちは、東京から来た客人を、すべて食べものをあさりに来たものとして軽蔑し

人間としての誇りは持ち堪へてゐたいものだ。東京の少数の例外者が、地方へ行つて、ひどく出鱈目に帝都の食料不足

て歎願する人がたまにあるとかいふ噂を聞いた。東京の人みなが、確実に同量の食料の配給を受けてゐる筈である

ものは、とかく滑稽な形であらはれがちのものである。東京の人の中には、意地も張りも無く、地方へ行つて、自分

、こんな事を言ふのは甚だてれくさいのであるが、東京の人は、どうも食ひ物をほしがりすぎる。私は自身古くさい人間の

君もそれ以上私に食べものをすすめはしなかつたし、東京の食べ物はどんな工合であるかなどといふ事は、一ぺんも話題に

、私の生家の八十八歳の祖母などに至つては、「東京は、おいしいものが何でもあるところだから、お前に、何かおいしい

の奴が、君の手紙を見て、これは太宰が東京で日本酒やビールを飲みあきて、故郷の匂ひのするリンゴ酒を一つ飲ん

はその夜、文学の事は一言も語らなかつた。東京の言葉さへ使はなかつた。かへつて気障なくらゐに努力して、純粋

金木の私の生家に遊びに来た事はあるが、東京に来てからも、戸塚の私のすぐの兄の家へ、ちよいち

である。私はN君よりも二、三年おくれて東京へ出て、大学に籍を置いたが、その時からまた二人の交遊

なのである。N君は中学校を卒業してから、東京へ出て、或る雑誌社に勤めたやうである。私はN君より

のは、大正にはひつてからの事で、まさか、東京の雷おこし、桑名の焼はまぐりほど軽薄な「産物」でも無いが、紀州

仕事が、どういふわけか、畏敬に近いくらゐの感情で東京の読書人にも迎へられてゐる様子で、神様、といふ妙な

いやしいものだ。私にはこのいやしい悪癖があるので、東京の文壇に於いても、皆に不愉快の感を与へ、薄汚い馬鹿者とし

から少しわけてやれ。待て、をばさんにやつちやいかん。東京のお客さんに、うちの砂糖全部お土産に差し上げろ。いいか、忘れちやいけない

、たてつづけに奥さんに用事を言ひつけるのである。「おい、東京のお客さんを連れて来たぞ。たうとう連れて来たぞ。これが

、この愛情の過度の露出のゆゑに、どんなにいままで東京の高慢な風流人たちに蔑視せられて来た事か。「かい給へ

他国の人には無理なところがあるかも知れない。東京の人は、ただ妙にもつたいぶつて、チヨツピリづつ料理を出すからなあ。

「いつ、東京を?」と嫂は聞いた。

私は東京を出発する数日前、こんど津軽地方を一周してみたいと思つ

「ばか。これが、東京のはやりさ。」

神様から、そのふるさとを取りあげられる。所詮、私は、東京のあばらやで仮寝して、生家のなつかしい夢を見て慕ひ、あちこちうろつき

は、ほとんど無かつたんですがね。僕なんか、はじめて東京へ行つた時、牛が荷車を挽いてゐるのを見て、奇怪に

歩くのも何年振りであらうか。十年ほど前、東京の郊外の或る野道を、兄はやはりこのやうに背中を丸くして黙

、などと無礼な忖度をしてみるやうになつて、東京の草屋に於ける私の仮寝の夢にも、父があらはれ、実は

雪のまだ深く積つてゐた頃、私の父は東京の病院で血を吐いて死んだ。ちかくの新聞社は父の訃を号外

声をかけたら、Mさんはぎよつとして、こいついよいよ東京を食ひつめて、金でも借りに来たんぢやないか、などと

ので、最も重宝だし、子供の遊び場としても東京の歩道のやうな危険はなし、雨の日もこの長い廊下は通行人に

も、田の草取りをしましたよ。まあ、こんどは東京のあんた達にも、おいしいごはんがどつさり配給されるでせう。」たのもしい

て町の郵便局へ行き、葉書を一枚買つて、東京の留守宅へ短いたよりを認めた。子供は百日咳をやつてゐるの

、どうしようかと大いに迷つた。まだ日は高い。東京の草屋の子供の事など、ふと思つた。なるべく思ひ出さないやうにして

た人には賞品、などといふ話もしばしば聞いた。東京へ来るハタハタは古くなつてゐるし、それに料理法も知らないだらう

西海岸の特産で、秋田地方がむしろ本場のやうである。東京の人たちは、あれを油つこくていやだと言つてゐるやうだ

、ただ、ハタハタだけが有名であつた。ハタハタは、このごろ東京にも時たま配給されるやうであるから、読者もご存じの事と思ふが

「時代だぢやあ。あんたが、こんな姿で東京からやつて来るやうになつたものなう。」と、それでも嬉しさうに

を撫でながらゆつくり橋を渡つて行つた。いい景色だ。東京近郊の川では、荒川放水路が一ばん似てゐる。河原一面の緑の

なつて来て、大鰐温泉はあきらめ、弘前市には、いよいよ東京へ帰る時に途中でちよつと立寄らうといふ具合に予定を変更して、けふ

最後に小泊へ行かうと思つてゐたのだが、東京からわづかしか持つて来ない私の旅費も、そろそろ心細くなつてゐたし

「あ、弘前には、東京へ帰る時に、ちよつと立ち寄らうと思つてゐますから、病院にもき

番の小屋くらゐの小さい駅に着いて、金木の町長が東京からの帰りに上野で芦野公園の切符を求め、そんな駅は無いと言は

無からう。どこかへ、ちよつと外出したのか。いや、東京と違つて、田舎ではちよつとの外出に、店にカアテンをおろし、

た。間口三間くらゐの小ぢんまりした金物屋である。東京の私の草屋よりも十倍も立派だ。店先にカアテンがおろされて

浜町

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青森市の街々の名は、次のやうなものである。浜町、新浜町、大町、米町、新町、柳町、寺町、堤町、塩町、蜆貝町

ある。それらに較べると、青森の花街の名は、浜町である。その名に個性がないやうに思はれる。弘前の土手町に相当

住吉

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きりして来るかも知れない。本町、在府町、土手町、住吉町、桶屋町、銅屋町、茶畑町、代官町、萱町、百石町、上鞘師町

上野

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十七時三十分上野発の急行列車に乗つたのだが、夜のふけると共に、ひどく

徳川家康の軍に従ひ、西上して大垣に戦ひ、上野国大館二千石を加増す。十二年十二月五日、京都にて卒す。

小さい駅に着いて、金木の町長が東京からの帰りに上野で芦野公園の切符を求め、そんな駅は無いと言はれ憤然として

高田馬場

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。N君の当時の下宿は池袋で、私の下宿は高田馬場であつたが、しかし、私たちはほとんど毎日のやうに逢つて遊んだ。

池袋

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二人の交遊は復活した。N君の当時の下宿は池袋で、私の下宿は高田馬場であつたが、しかし、私たちはほとんど毎日の

銀座

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また、コモヒの町である。コモヒといふのは、むかし銀座で午後の日差しが強くなれば、各商店がこぞつて店先に日よけの

隅田川

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、私はしばらくぼんやりしてゐた。橋の下には隅田川に似た広い川がゆるゆると流れてゐた。全くぼんやりしてゐる経験

桟橋も船で埋つて景色どころではない。それから、隅田川に似た広い川といふのは、青森市の東部を流れる堤川の事で

浅虫

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津軽に於いて育ちながら、金木、五所川原、青森、弘前、浅虫、大鰐、それだけの町を見ただけで、

この青森市から三里ほど東の浅虫といふ海岸の温泉も、私には忘れられない土地である。

言つてやりたいところでもあらうか。この浅虫の海は清冽で悪くは無いが、しかし、旅館は、必ずしもよいとは

読者は、私の直覚など信じないはうがいいかも知れない。浅虫も、いまは、つつましい保養の町として出発し直してゐるに違ひないと

津軽に於いては、浅虫温泉は最も有名で、つぎは大鰐温泉といふ事になるのかも知れない

私も少年の頃あそびに行つたが、浅虫ほど鮮明な思ひ出は残つてゐない。

けれども、浅虫のかずかずの思ひ出は、鮮やかであると同時に、その思ひ出のことごとくが必ずしも愉快とは言へない

いま見ると、やはり浅虫のやうに都会の残杯冷炙に宿酔してあれてゐる感じがするであらうか。

私には、それは、あきらめ切れない。ここは浅虫に較べて、東京方面との交通の便は甚だ悪い。

私はこの津軽の序編に於いて、金木、五所川原、青森、弘前、浅虫、大鰐に就いて、私の年少の頃の思ひ出を展開しながら、

津軽平野を中心に、東は青森、浅虫あたり迄、西は日本海々岸を北から下つてせいぜい深浦あたり迄