惜別 / 太宰治
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に制帽をかぶっているので、制帽が異様にもりあがって富士山の如き形になっていて、甚だ滑稽と申し上げるより他は無かった。中
であったが、ひるがえって、自分の周囲を見渡すと、富士山の形に尖った制帽であり、市街鉄道の中の過度の礼譲の美徳で
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行ってお酒を死ぬほどたくさん飲み、四日の夜は青葉神社境内において大篝火を焚き、五日は仙台市の祝勝日で、この朝
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頃すでに、独逸の膠州湾租借を始めとして、露西亜は関東州、英吉利はその対岸の威海衛、仏蘭西は南方の広州湾を各々租借し、次第
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愛し過ぎているから、そんな不満を感じるのです。僕は浙江省の紹興に生れ、あの辺は東洋のヴェニスと呼ばれて、近くには有名
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が多かった。まちの中心は流石に繁華で、東京の神楽坂くらいの趣きはあったが、しかし、まち全体としては、どこか、
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を卒業して、それから、東北一の大都会といわれる仙台市に来て、仙台医学専門学校の生徒になったのは、明治三十七年の初秋
後にも流れ伝っているのか、キリスト教の教会が、仙台市内の随処にあり、仙台気風を論ずるには、このキリスト教を必ず考慮に入れ
演じて差支え無くなったとはいうものの、それでも、仙台市内では永くこの芝居は興行せられず、時たま題をかえて演ぜられる事
は青葉神社境内において大篝火を焚き、五日は仙台市の祝勝日で、この朝、十時、愛宕山に於いて祝砲一発打揚げ
深浅を測量し、もって露国の艦隊をここに導き入れ、仙台市の全滅をたくらんでいるのではなかろうかと、何が何やら、旅順が
から、それぞれ紹介状をいただき、また仙台河北新報社の好意で、仙台市の歴史を知るために同社秘蔵の貴重な資料は片端から読破できた事は
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「え、なんです?」先生は、関西なまりを丸出しにして問いかえした。
「周さんの事なんです。」私は先生の関西なまりに接して、思わず微笑した。こんどは落ちついて言うことが出来た
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の国ではありません。僕は東京へ来て、八丁堀の偕楽園や、神田の会芳楼などで、先輩から、所謂支那料理を饗応
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仙台を発足して、四里ほどの道をぶらぶら歩いて塩釜に着いた頃には、日も既に西に傾き、秋風が急につめたく身
して、その日は塩釜神社に参拝しただけで、塩釜の古びた安宿に泊り、翌る朝、早く起きて松島遊覧の船に乗っ
へ到るには汽車の便などもあったのに、わざわざ塩釜まで歩いて行って、そこから遊覧船に乗り込んでみたのであるが、私
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五日は仙台市の祝勝日で、この朝、十時、愛宕山に於いて祝砲一発打揚げたのを合図に、全市の工場の汽笛は唸り
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なった財布を気にしながら、上海で船に乗って横浜に向った。しかしその先輩の遊学心得は少し古すぎたようである。日本
、自分がその明治三十五年、二十二歳の二月、無事横浜に上陸して、日本だ、これが日本だ、自分もいよいよこの先進国で、
ため坐っていられず、充分に座席があったのに横浜から新橋まで一時間、自分は殆ど立ったままであった。東京に着いて
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これは日本の東北地方の某村に開業している一老医師の手記である。
にしようと思っているのですからね、殊にこれはわが東北地方と関係のあることでもありますから、謂わばまあ地方文化への一つ
の仕事、というようなところであろう。このごろは、この東北地方にもしばしば空襲警報が鳴って、おどろかされているが、しかし、毎日よく晴れ
全体としては、どこか、軽い感じで、日本の東北地方の重鎮としてのどっしりした実力は稀薄のように思われた。かえって
。かえってもっと北方の盛岡、秋田などというあたりに、この東北地方の豊潤な実勢力が鬱積されているのだが、仙台は所謂文明開化
まちであった。要するに、自信も何も無いくせに東北地方第一という沽券にこだわり、つんと澄ましているだけの「伊達のまち」
のは自然の事で、これこそ仙台の開祖政宗公が東北地方全体を圧倒雄視するために用いた政策の狙いで、それが伝統的な気風に
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を始めとして、露西亜は関東州、英吉利はその対岸の威海衛、仏蘭西は南方の広州湾を各々租借し、次第にまたこれらの諸国は
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東京の市中を歩きまわったものだが、しかし、やがて牛込の弘文学院に入学して勉強するに及んで、この甘い陶酔から次第に醒め
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塩釜の古びた安宿に泊り、翌る朝、早く起きて松島遊覧の船に乗ったのであるが、その船には五、六人の
富山に登るべき事なり」とあるので、その頃すでに松島へ到るには汽車の便などもあったのに、わざわざ塩釜まで歩いて行っ
、甚だ残念、とにかくこれから富山に登って、ひとり心ゆくまで松島の全景を鳥瞰し、舟行の失敗を埋合わせようと考え、山に向っていそいだ
、「僕はどうも、景色にイムポテンツなのか、この松島のどこがいいのか、さっぱり見当がつかなくて、さっきからこの山をうろうろ
いう自信があったのである。それで私は、その松島の丘の上でも、相手が支那の人と知ってからは、大いに勇気
周さんの故郷の近くの西湖に似たと言われる松島の風景を慕って、ひとりでこっそりやって来て、それでもやっぱり憂愁を
風の音で、松島も完成されました。やっぱり、松島は、日本一ですね。」
を見落したような不安を感じ、その松のところからまた松島に引返したというのじゃないかとさえ考えられます。」
「でも、芭蕉は、この松島を西湖にたとえていたようですよ。」
から、ずいぶんお国の西湖を慕っていて、この松島も西湖にそっくりだというので、遠くから見物に来るのです。」
その日、私は周さんと一緒に松島の海浜の旅館に泊った。いま考えると、当時の私の無警戒は、
あの松島の旅館で、当時二十四歳の留学生、周さんは、だいたい以上のような事情
やら猜疑やら嘲笑やらが介入するもののようである。その松島の宿で互いに遠慮を忘れ、思う事を語って笑い、翌る日、一緒に
は、きのう、周さんからくわしく聞いた。君たちは、松島の旅館で一晩、何だか眠らずに論じ合ったそうじゃないか。周
です。僕があの人をお誘いしないで、ひとりで松島へ行ったので、それで怒っているのです。あの人こそ、Kranke です
「松島よりも松島座、ですか。」私は田舎者のくせに、周さんの前
、人皆うたがわしく見えて来て、周さんがひとりでこっそり松島へ出掛けて行ったのも、或は露国のスパイとして、かの松島湾の深浅
ように国内に活気横溢して負けるはずはない、とあの松島の旅館においても予言していたのだが、その勝利が、おそらく
な不安を感じるようになりました。いま思えば、あの松島に於ける気焔は、非常に幼稚なものでした。自分のあの頃の単純
あいそが尽きたのです。このことに就いては、あの松島の宿でも、あなたにたくさんたくさん告白した筈ですが、思想が客間の
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映して私たちを楽しませてくれた。華厳の滝や、吉野山など、殊にも色彩が見事で、いまでもあざやかに記憶に残っているが
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人物らしく、慶長十八年すでに支倉六右衛門常長を特使としてローマに派遣して他藩の保守退嬰派を瞠若させたりなどして、その余波が
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あとで考えた事だが、東京や大阪などからやって来た生徒たちを、あんなに恐れ、また下宿屋の家族たちに
という点では決して人後に落ちない私が、京、大阪どころか、海のかなたの遠い異国からやって来た留学生と、何のこだわり
として登場したのである。私は、東京、大阪から来た生徒が、東北を田舎あつかいにして軽蔑する態度にも賛成でき
には、自己嫌悪みたいなものも加えられて、東京、大阪の生徒よりも一層つよく地元の生徒を憎みたい気が起って来るのである
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にならざるを得ないのである。春になれば、上野公園の桜が万朶の花をひらいて、確かにくれないの軽雲の如く
て、先輩の留学生の世話で下宿がきまって、それから上野公園、浅草公園、芝公園、隅田堤、飛鳥山公園、帝室博物館、東京教育博物館
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の世話で下宿がきまって、それから上野公園、浅草公園、芝公園、隅田堤、飛鳥山公園、帝室博物館、東京教育博物館、動物園、帝国大学植物園、
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やって来て、あなたは今の東北帝大医学部の前身の仙台医専を卒業したお方と聞いているが、それに違いないか、
有名なお方にならなくても、ただ私たちと一緒に仙台で学び遊んでいた頃の周さんだけでも、私は尊敬して
思っているのですがね、ちょうどあなたがそのころの、仙台医専の生徒だったのではあるまいかと睨んでやって来たよう
と、魯迅が明治三十七、八年、日露戦争の頃、仙台医専にいて、そうして藤野厳九郎という先生にたいへん世話になっ
れても仕方の無いほど、当時は、学生ばかりでなく仙台市民こぞって邪心なく子供のように騒ぎまわっていた。
に這い上って、ラッパを吹いて、この軍隊ラッパがまたひどく仙台の学生間に流行して、輿論は之を、うるさしやめろ、と怒る
快勝し、つづいて遼陽戦に参加して大功を樹て、仙台の新聞には「沈勇なる東北兵」などという見出しの特別読物が次々
しと叫び、その祝賀会の相談などしている有様。殊にも仙台の第二師団第四聯隊は、榴ヶ岡隊と称えられて黒木第一軍
二月には露国に対し宣戦の詔勅が降り、私の仙台に来たころには遼陽もろく陥落し、ついで旅順総攻撃が開始せられ、
それから、東北一の大都会といわれる仙台市に来て、仙台医学専門学校の生徒になったのは、明治三十七年の初秋で、そのとし
の設備のおびただしいのに一驚し、それからもう一つ、仙台は江戸時代の評定所、また御維新後の上等裁判所、のちの控訴院と
中央の進展と敏感に触れ合っていたわけで、私は仙台市街の繁華にたまげ、また街の到るところ学校、病院、教会など開化の
かあったように記憶している。このように当時の仙台は、地理的には日本の中心から遠く離れているように見えながらも、
赴任して来たという事も聞いている。藤村の仙台時代の詩は、私も学生時代に、柄でもなく愛誦したものだ
のか、キリスト教の教会が、仙台市内の随処にあり、仙台気風を論ずるには、このキリスト教を必ず考慮に入れなければならぬと思わ
の肉、牛なべ、牛乳屋、コーヒー屋、東京にあって仙台に無いものは市街鉄道くらいのもので、大きい勧工場もあれば、パン屋あり
聞いて大いにたんのうした。そのころも、芭蕉の辻が仙台の中心という事になっていて、なかなかハイカラな洋風の建築物が立ちならん
はしかし、まあ小芝居の方で、ほかに大劇場では仙台座というのがあり、この方は千四、五百人もの観客を楽
の人たちに笑われるかも知れないが、その頃の仙台には、もう十万ちかい人口があり、電燈などもその十年前の日清
ず、毎日そわそわ仙台の街を歩きまわってばかりいた。仙台を大都会だと言えば、東京の人たちに笑われるかも知れないが
に接して、少しも勉強に手がつかず、毎日そわそわ仙台の街を歩きまわってばかりいた。仙台を大都会だと言えば、東京
にお参りして戦勝祈願をしたついでに、向山に登り仙台全市街を俯瞰しては、わけのわからぬ溜息が出て、また右方
の文明開化に興奮する一方、また殊勝らしい顔をして仙台周辺の名所旧蹟をもさぐって歩いた。瑞鳳殿にお参りして戦勝祈願
すると、私はその入学当初、ただ矢鱈に興奮して仙台の街を歩きまわってばかりいて、実は、学校の授業にも時々
、滅多に打ち解けた話をする事は無かった。それは仙台の人たちだって、かなり東北訛りは強かったが、私の田舎の言葉
たちはそれぞれ群を作って、学校にいても、また仙台のまちへ出ても、一緒に楽しそうに騒ぎまわっていたものの
人の合客があって、中にひとり私と同様に仙台医専の制服制帽の生徒がいた。鼻下に薄髭を生やし、私より
お昼すこし過ぎに仙台を発足して、四里ほどの道をぶらぶら歩いて塩釜に着いた頃
とっさのうちに了解した。ことし仙台医専に清国留学生が一名、私たちと同時に入学したという話は
なるを以て貴しとするからであろう、自分は、この仙台のまちにとって、最初の、また唯一人の清国留学生だというの
これから自分は一生涯の、おそらくは最も重大な時期を、仙台のまちに委ねてしまうのだから、つい念入りにこのまちの性格に就いて
である。しかし、こんな悪口を言っても、自分はこの仙台のまちに特に敵意を抱いているというわけでは決してない。地方の
し、順服するというのは自然の事で、これこそ仙台の開祖政宗公が東北地方全体を圧倒雄視するために用いた政策の狙い
あなたがさっき話してくれたように北方の奥地からいきなりこの仙台に出て来た人にとっては、この土地の文明開化も豪華絢爛
のことを「伊達者」といっているのは、案外、仙台のこんな気風をからかったことから始ったのではないかしらと思われるほど
の豊潤な実勢力が鬱積されているのだが、仙台は所謂文明開化の表面の威力でそれをおさえつけ、びくびくしながら君臨して
の心事を偲び、少しく勇気を得て仙台に着いた。仙台は日本の東北で最も大きい都であると聞いていたが、来て
の大先輩の悲壮の心事を偲び、少しく勇気を得て仙台に着いた。仙台は日本の東北で最も大きい都であると聞いてい
、地方の医学校へ入学の志望を述べ、やがて、この仙台医専に編入されることにきまった。東京よ、さらば。選ばれた秀才
無我夢中で、それこそあなたがさっきお話したような、あなたが仙台をはじめて見た時の興奮と同様の、いや、おそらくはそれの十倍
忘れ、思う事を語って笑い、翌る日、一緒に汽車で仙台に帰り、ではまたあした学校で、どうも、いろいろ有難う、いや僕こそ
カツレツは固くて靴の裏と来ているし、どうも仙台には、うまいものがなくて困るね。まあ、行きあたりばったりの小料理屋で
をはさんで坐り込むと、まず一葉の名刺を差し出した。仙台医学専門学校、クラス会幹事、津田憲治とある。この肩書では、彼は
の胸中に滓沈されている。それから私たちは、仙台の浅草とも称すべき東一番丁に行って、彼の所謂「行きあたりばったり
もたべさせる家があるといいんだが、どうも、仙台の鰻には筋がある。」さかんに、へんな食通振りを発揮する
さんは、僕なんかより、ずっと高い理想をもって、この仙台にやって来たのです。周さんは、お父さんの病気のため、十三
、当時、私はそんな事情はまだ知らなかったので、仙台の観客たちは、この先代萩を見てどんなに興奮しているだろう、と
に明治の中ごろになったらそんな事はなくなり、同時に、仙台の観衆もまた、この芝居を、自分たちの旧藩の事件を取扱った芝居
と称せられるものさえある程だから、この芝居も昔から仙台ではさだめし大受けであったろうと思っていたが、あとで人
て立見席にはいった。先代萩というのは、ご存知の如く仙台の伊達藩のお家騒動らしいものを扱った芝居で、榴ヶ岡の近くに政岡
座で中村雀三郎一座が先代萩をやっていたので、仙台の先代萩はどんなものかしらという興味もあり、ちょっと覗いてみたくなって
駄洒落みたいなものを気軽に飛ばす事が出来た。「このごろ仙台で活動写真がひどく人気があるようですが、あれは、どうです。」
その月光の夜から四、五日経って、何でも仙台に初雪が降った日だったと覚えている。私は学校の帰りに
日、旅順陥落公報着したりの号外を手にして仙台市民は、湧きかえった。勝った。もう、これで勝った。お正月の
新学年の開始と共に、また周さんのなつかしい顔を仙台で見た時、私は、おや? と思った。どこがどうと
は必ず周さんを応援して立ち上る。しかる時には、仙台医専の不名誉は言うもさらなり、わが文部省、外務省も、清国政府に対し
も神妙らしくしていたが、親爺が何でもこの仙台の大金持とやらで、その親爺の七光りが次第にものを言い出して
た生徒を、前から大きらいだったのである。彼は仙台の東北学院だか何だかのキリスト教の学校の出身で、まさかそのせい
に通う若い男女のキザに澄ました態度に辟易して、仙台の市中にずいぶんたくさん散在している教会堂にも、もっぱら敬遠の策を
ほしがり、それは煙草の事を意味しているらしく、仙台の子供たちさえ、いつのまにかそのパピロスという言葉を覚えてしまって
、まだ奴隷にはなっていません。」その頃、仙台に露西亜の捕虜が、多い時には二千人も来て、荒町や新
、奴隷だから笑うのかも知れません。僕はこの仙台のまちを散歩している捕虜の表情に注意していますが、あの
の患者だったという事である。私の知っている仙台時代の周さんは、近代文明を病んで苦しみ、その病床を求めて、
。そうして、事実、彼はいろんな文芸書を買い込んで仙台へ持って来た。あの人たちが競争相手だ、と言っていた。
などをこっそり覗いてみるというような有様で、東北の仙台でさえそのような盛観であったのだから、花の都の東京に
をひそめて野暮ったい風俗の私たちを睨み、文士劇などもしばしば仙台の劇場で開演せられ、俗物の私も、ついにその激流に抗しかねて
ずば人に非ず、といったような猛勢で、仙台に於ても、女学生たちは、読んでいるのかどうだかわからぬ
は思われる。ひとの話に依れば後年、魯迅自身も仙台時代の追憶を書き、それにもやはり、その所謂「幻燈事件」に依っ
敬愛の念が、ぎくしゃくと奇妙に倒錯して、ついに、仙台あなどるべからず、とでもいうような「張り合う」気持などが出て来
感じて、かたくなっている」だけなのである。「仙台の面目」とでもいうようなものに、こだわりすぎて、それで初
と、ただ、ひどくまじめな人で、いつか周さんが仙台の人に就いて批評していたように、「東北の雄藩の責任を
認めざるを得ないのである。謂わば、周さんの仙台引上げの踏切台にはなったのである。二学年になったら、黴菌
訪ねて、もう医学の勉強はやめようと思うこと、そしてこの仙台を去るつもりでいることを、先生に告げた。先生の顔には深い
僕は仙台を去った後、多年写真を撮ったことがなかった。それに、その後
帝大の広浜、加藤両博士から、それぞれ紹介状をいただき、また仙台河北新報社の好意で、仙台市の歴史を知るために同社秘蔵の貴重な資料
また、この仕事に取りかかるに当って、仙台医専の歴史調査のため、東京帝大の大野博士、東北帝大の広浜、加藤
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埋合わせようと考え、山に向っていそいだものの、さて、富山というのはどこか、かいもく見当がつかぬ。ままよ、何でも
だけのものの如く思われて、甚だ残念、とにかくこれから富山に登って、ひとり心ゆくまで松島の全景を鳥瞰し、舟行の失敗を埋合わせよう
松島にあそぶ人は是非ともに舟行すべき事なり、また富山に登るべき事なり」とあるので、その頃すでに松島へ到るには
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は稀薄のように思われた。かえってもっと北方の盛岡、秋田などというあたりに、この東北地方の豊潤な実勢力が鬱積されて
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た実力は稀薄のように思われた。かえってもっと北方の盛岡、秋田などというあたりに、この東北地方の豊潤な実勢力が鬱積さ
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もう少しで落涙しそうになった。それからしばらくして水戸という駅を通過し、これは明末の義臣朱舜水先生の客死された
たものではない。それは、たしかだ。維新は、水戸義公の大日本史編纂をはじめ、契沖、春満、真淵、宣長、篤胤、また
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二十九年、この東北学院に作文と英語の先生として東京から赴任して来たという事も聞いている。藤村の仙台時代の
、子供などはすぐ迷子になりそうな雑沓で、それまで東京の小川町も浅草も銀座も見た事の無い田舎者の私なんかを驚嘆
、野猪、鹿の肉、牛なべ、牛乳屋、コーヒー屋、東京にあって仙台に無いものは市街鉄道くらいのもので、大きい勧工場もあれ
て、いつでも義太夫やら落語やらがかかっていて、東京の有名な芸人は殆どここで一席お伺いしたもので、竹本呂昇
歩きまわってばかりいた。仙台を大都会だと言えば、東京の人たちに笑われるかも知れないが、その頃の仙台には、
なるべく、その生徒のほうを見ないように努めた。きっと東京者にちがいない。早口の江戸っ子弁でぺらぺら話しかけられてはたまらない。私
きたら、それどころでは無く、また、私も無理に東京言葉を使おうとしたら、使えないわけはないのだが、どうせ田舎出
全国から集って百五十人、いや、もっと多かったようで、東京組とか、大阪組とか、出生の国を同じくする新入生たちはそれぞれ
言葉に訛りがある。東京者ではない、と私はとっさのうちに断定した。たえず自分
も、わかりません。」とその生徒は、いかにもたどたどしい東京言葉で、「しかし、だいたいわかるような気がします。この、しずかさ
之を要するに、何の事は無い、私より以上に東京言葉を使うのに苦労している人を見つけて私が大いに気をよく
あとで考えた事だが、東京や大阪などからやって来た生徒たちを、あんなに恐れ、また下宿屋の
商家の若旦那の如く小粋であった。言葉も、私より東京弁が上手なくらいで、ただ宿の女中に向って使う言葉が、そう
ゴムを貸してくれて、中でも津田憲治とかいう東京の府立一中から来たのを少し自慢にしている背の高い
にくいところが多かった。まちの中心は流石に繁華で、東京の神楽坂くらいの趣きはあったが、しかし、まち全体としては、
の言葉も、まさか鴃舌というほどではなかったが、東京の人の言葉にくらべて、へんに語勢が強く、わかりにくいところが多かっ
都であると聞いていたが、来て見ると、東京の十分の一にも足りないくらいの狭い都会であった。まちの
、やがて、この仙台医専に編入されることにきまった。東京よ、さらば。選ばれた秀才たちよ、さらば。いよいよお別れとなると
、支那の留学生がひとりもいない土地に行きたい。しばらく東京から遠く離れて、何事も忘れ、ひとりで医学の研究に出精したい。
日本の志士の応援を得て種々画策し、このごろでは東京が支那革命運動の本拠になっているような工合らしいので、留日学生
季節に突入した状態のように見受けられ孫文ご自身も、東京にあらわれて日本の志士の応援を得て種々画策し、このごろでは東京
、どうも、その、選ばれた秀才が多すぎて、東京中いたるところに徘徊しているので、拍子抜けのする気分にならざる
地理、歴史、数学などの大体の基本知識を与える学校も東京に続々と出来て、中には怪しげな速成教育を施して、ひともうけ
年のうちに、もう支那からの留学生が二千人以上も東京に集って来て、これを迎えて、まず日本語を教え、また地理、
の懐疑と憂鬱に襲われる事が多くなった。自分が東京に来たこの明治三十五年前後から、清国留学生の数も急激に増加し
おそらくはそれの十倍くらいの有頂天で、ただ、やたらに東京の市中を歩きまわったものだが、しかし、やがて牛込の弘文学院に
浅草公園、芝公園、隅田堤、飛鳥山公園、帝室博物館、東京教育博物館、動物園、帝国大学植物園、帝国図書館、まるでもう無我夢中で、それこそあなた
新橋まで一時間、自分は殆ど立ったままであった。東京に着いて、先輩の留学生の世話で下宿がきまって、それから上野公園、
おいて全く見かけられなかったもので、自分はその後、東京の街を朝早く散歩する度毎に、どの家でも女の人が
な口のきき方である。しかし、訛りは無かった。東京者かも知れぬ、と私はひそかに緊張した。「一番丁あたりで
「はあ。」東京者に対しては、私は極度に無口である。
立ってどんどん歩いて、「さあ、どこがいいかな。東京庵の天ぷら蕎麦も油くさくて食えないし、ブラザー軒のカツレツは固くて靴
が日本にある。驚いたろう。もっとはっきり教えてやろうか。東京にいる清国留学生たちが、その中心勢力になっているんだ。どうだ
に変な威張り方である。「清国留学生なんてのも、東京には何千人といるんだ。ちっとも珍しい事なんかありゃしない。」いよいよ
一中の出身だがね、この戦争がはじまってからの東京の緊張と来たら、それはとても、こんな田舎で想像してみたって及ぶ
「はあではない。僕は東京の府立一中の出身だがね、この戦争がはじまってからの東京
していたところで、この革命思想が日本の首都の東京において強力な打清運動を展開するようになったら、清国政府が
事です。数年前、東亜同文会の発会式が、東京の万世倶楽部で挙げられて、これは私も人から聞いた話ですが
いつのまにか、東京庵の前まで来ていた。
のほうがいいかしら。津田さんの説に拠ると、この東京庵の天ぷら蕎麦は、油くさくて食えないそうです。」
私たちは東京庵にはいった。
支那は決して、料理の国ではありません。僕は東京へ来て、八丁堀の偕楽園や、神田の会芳楼などで、先輩から
「あれは、東京でもちょいちょい見ましたが、僕は、不安な気がしました。
ながら、「油くさい」天ぷら蕎麦を、おいしく食べて、私たちは東京庵を出た。お勘定はその時、どっちが払ったか、津田氏の
な秩序をもっている事を直感し、そうして、東京の女のひとたちが赤い襷をかけ白く新しい手拭をあねさまかぶりにし
意気込んでいたが、やがて夏休みになり、周さんは東京へ、私は山奥の古里に、二箇月ばかり別れて暮し、九月、
。周さんは、この学年がすんで夏休みになったら、東京へ行き、同胞の留日学生たちに、周さんの発見した神の国
「東京はどうでしたか。」と尋ねても、妙に苦しそうに笑って
か何とか、そんな噂さえありました。どうも、東京の人の愛国心は無邪気すぎます。」
に、戦争の講和条件が気にいらないと言って、東京市民は殺気立って諸方で悲憤の演説会を開いて、ひどく不穏な形勢
日に四方に延びて行って、まあ、あれがいまの東京の Symbol でしょう、ガタガタたいへん騒がしくて、それに、戦争の講和条件が
「東京は、もう、みんないそがしくて、電車の線路が日に日に四方に延び
か新しい世界に erwachen しているようです。まあ、東京に就いての御報告は、そんなものです。」
これから研究してみるつもりです。僕の競争相手は、あんな東京の若い人たちです。あの人たちは何か新しい世界に erwachen し
た時には、自己嫌悪みたいなものも加えられて、東京、大阪の生徒よりも一層つよく地元の生徒を憎みたい気が起って来る
新幹事として登場したのである。私は、東京、大阪から来た生徒が、東北を田舎あつかいにして軽蔑する態度に
頗る面白からぬ人物だが、しかし、こんな言葉を使用する東京人の津田氏の心理もあんまり高潔とは言えない、どっちもどっちだ、
で話したように思います。しかし、僕はこの夏、東京へ行って、さらにもっと苦しい深い竹藪に迷い込んでしまいました。僕には
。漢民族の裏切者とさえ言われました。僕が東京で日本の婦人と一緒に散歩しているのを見たという馬鹿らしい
、どんな男なのか、それさえわからなくなりました。東京にいる同胞の留学生から、日本カブレと言われました。漢民族の裏切
それは僕のひがみなんです。そうです。僕がこんど東京で覚えて来たものは、この、ひがみです。僕は、不安なの
僕は、もう、わからなくなりました。ことしの夏を東京ですごして、僕の得たものは、やはりこんな、民衆を救う事に
あまり熱狂して騒がぬほうがいいのではないかしら。東京の友人たちは、口をひらけば三民主義、三民主義の連発で、まるで
があったのではなかろうか。周さんが、夏休みに東京へ行き、まず感じたものは、その澎湃たる文芸の津波ではなかったろう
そのような盛観であったのだから、花の都の東京に於いてはどのようであったか。私どもの想像を絶するほどの
エジプトやインドの文芸はどんなものだか知りたくて、ずいぶん東京のあちこちの本屋へ行って捜してみたのですが、一冊も見つかり
仕事に取りかかるに当って、仙台医専の歴史調査のため、東京帝大の大野博士、東北帝大の広浜、加藤両博士から、それぞれ紹介状をいただき
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なりそうな雑沓で、それまで東京の小川町も浅草も銀座も見た事の無い田舎者の私なんかを驚嘆させるには充分だった
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迷子になりそうな雑沓で、それまで東京の小川町も浅草も銀座も見た事の無い田舎者の私なんかを驚嘆させるには充分
先輩の留学生の世話で下宿がきまって、それから上野公園、浅草公園、芝公園、隅田堤、飛鳥山公園、帝室博物館、東京教育博物館、動物園
に滓沈されている。それから私たちは、仙台の浅草とも称すべき東一番丁に行って、彼の所謂「行きあたりばったり」の
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などはすぐ迷子になりそうな雑沓で、それまで東京の小川町も浅草も銀座も見た事の無い田舎者の私なんかを驚嘆させるに
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を出発して、日暮里という駅を通過し、その「日暮里」という字が、自分のその時の憂愁にぴったり合って、もう少し
と、さすがに淋しかった。汽車で上野を出発して、日暮里という駅を通過し、その「日暮里」という字が、自分のその
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。いよいよお別れとなると、さすがに淋しかった。汽車で上野を出発して、日暮里という駅を通過し、その「日暮里」という
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。もはや躊躇している時では無い。自分は麹町区永田町の清国公使館に行き、地方の医学校へ入学の志望を述べ、やがて、
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したい。もはや躊躇している時では無い。自分は麹町区永田町の清国公使館に行き、地方の医学校へ入学の志望を述べ、
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ていられず、充分に座席があったのに横浜から新橋まで一時間、自分は殆ど立ったままであった。東京に着いて、
それに似たけなげな清潔感を、自分の最初の横浜新橋間の瞥見に依っても容易に看取し得たのである。要するに
出来ないのではなかろうかと思われる。自分はそれから新橋行きの汽車に乗ったが、窓外の風景をひとめ見て、日本は世界
いたのである。周さんが日本に来て、横浜新橋間の窓外の風景が、世界のどこにも無い独自の清潔な秩序を
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ません。僕は東京へ来て、八丁堀の偕楽園や、神田の会芳楼などで、先輩から、所謂支那料理を饗応された事