十五年間 / 太宰治
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の時、いまの女房を井伏さんの媒酌でもらって、甲府市の郊外に一箇月六円五十銭の家賃の、最小の家を借りて住み
の病室。天沼のアパート。天沼の下宿。甲州御坂峠。甲府市の下宿。甲府市郊外の家。東京都下三鷹町。甲府水門町。甲府新柳町
のアパート。天沼の下宿。甲州御坂峠。甲府市の下宿。甲府市郊外の家。東京都下三鷹町。甲府水門町。甲府新柳町。津軽。
だが、ことしの春に爆弾でこわされたので、甲府市水門町の妻の実家へ移転した。しかるに、移転して三月目に
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生れてはじめて津軽の国の隅々まで歩きまわってみた。蟹田から青森まで、小さい蒸気船の屋根の上に、みすぼらしい服装で仰向に寝ころがり、
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鎌倉の病室。五反田。同朋町。和泉町。柏木。新富町。八丁堀。白金三光町。この白金三光町の大きな空家の、離れの一室で私は「思い出
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た。まちの誰かれ見さかいなくつかまえて来ては、その金山のこと言って、わたくしは恥ずかしくて死ぬるほどでございました。まちの人
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せられていたのであるが、私はその正反対の本州の北端に向って旅立った。自分の身も、いつどのような事になるかわから
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。書いて置きたい事が一ぱい出て来た。まず、鎌倉の事件を書いて、駄目。どこかに手落ちが在る。さらに又、一作
都合するというような有様であった。戸塚。本所。鎌倉の病室。五反田。同朋町。和泉町。柏木。新富町。八丁堀。白金三光町。この
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まわりの品を都合するというような有様であった。戸塚。本所。鎌倉の病室。五反田。同朋町。和泉町。柏木。新富町。八丁堀。
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。甲府市郊外の家。東京都下三鷹町。甲府水門町。甲府新柳町。津軽。
。甲府市の下宿。甲府市郊外の家。東京都下三鷹町。甲府水門町。甲府新柳町。津軽。
甲府で二度目の災害を被り、行くところが無くなって、私たち親子四人は
、かなりのものであった。七月の二十八日朝に甲府を出発して、大月附近で警戒警報、午後二時半頃上野駅に着き、
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以上挙げた二十五箇所の中で、私には千葉船橋町の家が最も愛着が深かった。私はそこで、「ダス・
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ました。大臣でも、師団長でも、知事でも、前橋でお遊びのときには、必ず、わたくしの家に、きまっていまし
頃は、前橋で、ええ、国は上州でございます。前橋でも一流中の一流の割烹店でございました。大臣でも、師団長で
あわれなことでございますが、父の達者な頃は、前橋で、ええ、国は上州でございます。前橋でも一流中の一流の
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はじめて津軽の国の隅々まで歩きまわってみた。蟹田から青森まで、小さい蒸気船の屋根の上に、みすぼらしい服装で仰向に寝ころがり、小雨
焼夷弾攻撃の模様を告げていた。しかし、とにかく私たちは青森方面へ行かなければならぬ。どんな列車でもいいから、少しでも北
口の前にごろ寝をした。拡声機は夜明けちかくまで、青森方面の焼夷弾攻撃の模様を告げていた。しかし、とにかく私たちは青森方面
、八時間待ち、午後十時十分発の奥羽線まわり青森行きに乗ろうとしたが、折あしく改札直前に警報が出て構内は
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このごろ私は、仙台の新聞に「パンドラの匣」という長篇小説を書いているが、その
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ある。首筋太く鈍重な、私はやはり百姓である。いったい東京で、どんな生活をして来たのだろう。ちっとも、あか抜けてやしない
ている私も、ただの津軽人である。十五年間も東京で暮していながら、一向に都会人らしく無いのである。首筋太く鈍重な
、どんな都会生活をして来たかを書きしたため、また「東京八景」以後の大戦の生活をも補足し、そうして、私の田舎
して、こんどは一つ方向をかえ、私がこれまで東京に於いて発表して来た作品を主軸にして、私という津軽
五年経ち、大戦の辛苦を嘗めるに及んで、あの「東京八景」だけでは、何か足りないような気がして、こんどは
私は「東京八景」という題で私のそれまでの東京生活をいつわらずに書いて発表した事があるからである。しかし、
、というわけは、五年くらい前に、私は「東京八景」という題で私のそれまでの東京生活をいつわらずに書いて
その前年からの事であった。その頃の事情を「東京八景」には次のように記されてある。
したのは昭和五年の春であるから、つまり、東京へ出て三年目に小説を発表したわけである。けれども私
昭和八年である。私が弘前の高等学校を卒業し、東京帝大の仏蘭西文科に入学したのは昭和五年の春であるから、
私が東京に於いてはじめて発表した作品は、「魚服記」という十八枚の
なんて、そんなにいつまでもあるわけは無い。私はまた東京へ出て来て、荒っぽいすさんだ生活に、身を投じなければならなかっ
か。私がまだ弘前高等学校の文科生であって、しばしば東京の兄(この兄はからだの弱い彫刻家で、二十七歳で病死した)
のペエジを繰りながら、さまざまの回想にふける。私がはじめて東京で作品を発表した昭和八年から、二十年まで、その十二箇年間
下宿。甲州御坂峠。甲府市の下宿。甲府市郊外の家。東京都下三鷹町。甲府水門町。甲府新柳町。津軽。
昭和五年に弘前の高等学校を卒業して大学へはいり、東京に住むようになってから今まで、いったい何度、転居したろう。その転居も
或る者は学校を追われ、或る者は自殺した。東京に出てみると、ネオンの森である。曰く、フネノフネ。曰く、クロネコ
あの子は、見どころあります。それから母子ふたりで、東京へ出て、苦労しました。わたくしは、どんぶり持って豆腐いっちょう買いに
しまいました。そのときに、朝太郎は偉かった。すぐに東京から駈けつけ、大喜びのふりして、お父さん、そんないい山を持っていながら
人たちの笑い草にはなるし、朝太郎は、そのころまだ東京の大学にはいったばかりのところでございましたが、わたくしは、あまり困っ
、兄のところへ遊びに行き、ほとんど生家に帰らず、東京の大学へはいるようになったら、もうそれっきり、十数年間帰郷しなかった
ともしなかったし、また高等学校時代の休暇には、東京にいる彫刻家の、兄のところへ遊びに行き、ほとんど生家に帰らず、
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甲州御坂峠。甲府市の下宿。甲府市郊外の家。東京都下三鷹町。甲府水門町。甲府新柳町。津軽。
を忘れていない。一ばん永く住んでいたのは、三鷹町下連雀の家であろう。大戦の前から住んでいたのだが、
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などを書いていた。天沼三丁目。天沼一丁目。阿佐ヶ谷の病室。経堂の病室。千葉県船橋。板橋の病室。天沼のアパート。天沼
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本所。鎌倉の病室。五反田。同朋町。和泉町。柏木。新富町。八丁堀。白金三光町。この白金三光町の大きな空家の、離れの一室で私
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ような有様であった。戸塚。本所。鎌倉の病室。五反田。同朋町。和泉町。柏木。新富町。八丁堀。白金三光町。この白金三光町の
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曰く、美人座。何が何やら、あの頃の銀座、新宿のまあ賑い。絶望の乱舞である。遊ばなければ損だとばかりに眼つき
、一箇月ばかり経った頃、私はその先輩と偶然、新宿で出逢った。私たちは何も言わずに黙って一緒に歩いた。しばらく
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クロネコ。曰く、美人座。何が何やら、あの頃の銀座、新宿のまあ賑い。絶望の乱舞である。遊ばなければ損だとばかり