誰も知らぬ / 太宰治
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ふたりで、きめてしまったのだそうです。先方は、横浜の船会社の御次男だとか、慶応の秀才で、末は立派な作家
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前のことでございました。あの頃も、今も、牛込のこの辺は、あまり変って居りませぬ。おもて通りが少し広くなって、
は存命中でありました。父は、東京の、この牛込の生れで、祖父は陸中盛岡の人であります。祖父は、若いときに
でしょうか、それでも、どうやら成功して、中年で牛込のこの屋敷を買い入れ、落ちつくことが出来たようです。嘘か、ほんとか、
毎年お正月には、大臣になられてからでさえ、牛込のこの家に年始の挨拶に立ち寄られたものだそうですが、これは、
はじめて東京の、この家に帰り、祖父は、それまで一人牛込に残って暮していたのですが、もう、八十すぎの汚いおじいさん
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はまた、それまでお役人の父が浦和、神戸、和歌山、長崎と任地を転々と渡り歩いているのについて歩いて、生れたところも
し、兵隊さんの喇叭も朝夕聞えてまいります。父が長崎の県知事をしていたときに、招かれて、こちらの区長に就任
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、私はまた、それまでお役人の父が浦和、神戸、和歌山、長崎と任地を転々と渡り歩いているのについて歩いて、生れた
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いて、私はまた、それまでお役人の父が浦和、神戸、和歌山、長崎と任地を転々と渡り歩いているのについて歩いて、
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父は、東京の、この牛込の生れで、祖父は陸中盛岡の人であります。祖父は、若いときに一人でふらりと東京に出
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やはり、わがままの高慢な子であったようでございます。市ヶ谷の女学校へはいってすぐ、芹川さんというお友達が出来ましたけれど
ほどに同情され、私はおどおどしてしまいました。市ヶ谷の女学校に徒歩で通っていたのですが、あのころは、私
、なんだか地獄の底のような気持でございます。市ヶ谷見附の市電の停留場にたどりついたときは、ほとんど呼吸ができないくらいに、
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ついて歩いて、生れたところも浦和の官舎ですし、東京の家へ遊びに来たことも、ほんの数えるほどしかありませんでした
のは、私が、十二の時、父母と一緒にはじめて東京の、この家に帰り、祖父は、それまで一人牛込に残って暮して
人であります。祖父は、若いときに一人でふらりと東京に出て来て半分政治家、半分商人のような何だか危かしい
も、その頃は存命中でありました。父は、東京の、この牛込の生れで、祖父は陸中盛岡の人であります。祖父