右大臣実朝 / 太宰治

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地名一覧

医王山

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小。廿四日、癸卯、晴、将軍家先生の御住所医王山を拝し給はんが為、渡唐せしめ給ふ可きの由、思食し立つに依り

するものではない、これはやはり、かねてあこがれの宋の医王山に御参詣なさるための渡宋で、その他には何の御異図もない

、考へた事でございましたが、御目的は、勿諭医王山ではない、陳和卿のいやしい心をお見抜き出来ぬ将軍家ではございません

医王山ホド、ウマクイカナカツタヤウデス。

「でも、あの医王山の長老とかいふ事だけは、信じてゐたのではないか。」

ものでございますし、たとひ信じないにしても医王山の長老などといふ御立派なところで、はしなくも一致したといふのは

園城寺

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。六月小。廿日、丙※、晴、阿闍梨公暁、園城寺より下著せしめ給ふ、尼御台所の仰に依りて、鶴岳別当の闕

修善寺

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その御病状のやや快方に向はれしと同時に伊豆国修善寺に下向なされ、さしもの大騒動も尼御台さまのお働きにてまづは一段落

陸奥国

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由ると云々。十七日、戊午、陰、和田平太胤長、陸奥国岩瀬郡に配流せらると云々。廿一日、壬戌、和田平太胤長の女子、

佐々木左衛門尉広綱に仰せらると云々、又和田平太胤長、配所陸奥国岩瀬郡鏡沼の南辺に於て誅せらる。

お取計ひもあつて、何のおかまひもなかつたばかりか、陸奥国名取郡をたまはり、かへつて忠綱さまは、いかに両度の先登の功があつ

天王寺

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、並びに守屋逆臣の跡の収公の田の員数在所、及び天王寺法隆寺に納め置かるる所の重宝等の記、将軍家日来御尋ね有り、広元朝臣

日光山

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。故畠山次郎重忠さまの御末子、阿闍梨重慶さまが、日光山の麓に於いて浮浪の徒を集めて、謀叛をたくらんでゐるといふ知らせ

下野国

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御差遣に相成りましたやうで、宗政さまは、ただちに下野国さして御進発、二十六日に、重慶さまのお首をさげて御意気揚々と

箱根

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あたたかい日が続き、申しぶんの無いたのしい旅が出来ました。箱根を進発してすぐに峠にさしかかり、振りかへつてみると箱根の湖は樹間

を進発してすぐに峠にさしかかり、振りかへつてみると箱根の湖は樹間に小さくいぢらしげに碧水を湛へてゐるのが眼下に

タマクシゲ箱根ノ水海ケケレアレヤ二クニカケテ中ニタユタフ

見事に将軍家はお歌にお現しになつて居られます。箱根の湖を振りかへり振りかへり峠をのぼり、頂上にたどりつきましたら、前方

箱根ノ山ヲウチ出デテ見レバ浪ノヨル小島アリ供ノ者ニ此ウミノ名ヲ知

吉野

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歎キワビ世ヲソムクベキ方知ラズ吉野ノ奥モ住ミウシト云ヘリ

関東

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御家人のお娘の中から御選定なされたならば、この関東にまた一つ北条氏に比肩し得べき御やくかいの御外戚を作るやう

筈で、将軍家がわづか十二歳のお若さを以て関東の長者となられ征夷大将軍の宣旨を賜り、翌年すでに御みづから地頭職の訴へ

といふ和歌などもお作りになられ、名実ともに関東の大長者たる堂々の御貫禄をお示しになつて居られたのでござい

話に依りますと、そのとしの十月十四日には関東切つての名門の中から特に選び出された容儀華麗、血気の若侍のみ二十人

それでもどうやら大過なく十二月十日、姫さまの関東御下向の御行列を警衛なさつて、その時の御行列の美々しかつたこ

行列を御見送りあそばしたとか、まづ先頭は、例の関東切つての名門の若侍九人、錦繍の衣まばゆく、いづれ劣らぬあつぱれ

に少将忠清さまの私兵十人、その次がまた、例の関東切つての美男若君十人、それから女房の御輿が六つもつづいて、衣服

関東ハ源家ノ任地デシタガ、北条家ニトツテハ関東ハ代々ノ生地デス。気持ガチガヒマス。

関東ハ源家ノ任地デシタガ、北条家ニトツテハ関東ハ代々ノ生地デス。気持ガチガヒマス。

を載せらると云々、是在京の武士参向す可からず、関東に於ては、静謐せしめ畢んぬ、早く院御所を守護す可し、又謀叛の

、この合戦直後の九日にも在京の御家人に宛て、関東はすでに平穏に帰したから、誰ひとり鎌倉へ馳せ参ずるには及ばぬ、それより

に将軍家御懇祈の致す所か。十三日、丙午、関東の諸御領の乃貢の事、来秋より三分の二を免ぜらる可し

て、天体に於いてさへ日蝕、月蝕の異変があり、関東の人心恟々たるもので、それにつけても将軍家のそのやうな御風流の

いふのは、とても企て及ばぬ事でございますが、いやしくも関東の大長者とも言はれる御身分のお方にとつては、別段、不自然

鶴岳宮の別当職に補せられたのが、あの、関東はおろか、京、西国、日本中を震撼させた凶事のもとになつた

れようが、ちつとも気にしてはゐないんだ。関東の長者の実力を信じて落ちついてゐたんだ。ところが、失礼ですけれど

ために費用も莫大なるものになりました御様子で、関東の庶民は等しくその費用の賦課にあづかり、ひそかに将軍家をお怨み申した者

仰せ遣されけるは、右府将軍すでに薨じ給ひぬ、いま関東の長たるべき者は我なり、早く計略をめぐらすべしと示し合されければ、

蝦夷

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と晴れ渡つたままで、一片の白雲もあらはれず、蝦夷は大いに恥ぢて、至尊に御祈念下されるやうお願ひ申しましたので、

信濃国

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北条氏に殺され、御三男の千寿さまも、のちに信濃国の住人泉小次郎親平などの叛謀に巻き込まれ、まもなく出家し栄実と号し

二百人に及ぶと云々、此事、濫觴を尋ぬれば、信濃国の住人泉小次郎親平、去々年以後謀逆を企て、輩を相語らひ、故

なさるやうにさへなりました。このとしの二月にも信濃国の住人、泉小次郎親平といふ人が、相州さまを憎んで亡きものにしよう

法隆寺

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並びに守屋逆臣の跡の収公の田の員数在所、及び天王寺法隆寺に納め置かるる所の重宝等の記、将軍家日来御尋ね有り、広元朝臣相

鞍馬

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で、奥州征伐の時に著け給ひし所の甲冑、ならびに鞍馬三疋金銀など、おびただしくお贈りになられ、けれども和卿は一向にありがた

駿河国

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に依りて御気色を蒙る、厳閤又義絶するの間、駿河国富士郡に下向す、彼の傾公は、去年京都より下向す、佐渡守親康

と云々。廿九日、庚辰、霽、相模次郎朝時主、駿河国より参上す、将軍家の御気色並びに厳閤の義絶にて、彼国に籠居する

五条局

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に之を望み申す、而るに今日、左衛門尉義盛、女房五条局に属して、愁へ申して云ふ、彼地は適宿直祗候の便有り、

鎌倉

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年、憂き世を離れてこんな山の奥に隠れ住み、鎌倉も尼御台も北条も和田も三浦も、もう今の私には淡い影の

いふ事になり、御ところの騒ぎは申すまでもなく、鎌倉の里人の間には将軍家御臨終といふ流言さへ行はれた様子で、伊豆

大納言坊門信清さまの御女子、十三歳の御時に鎌倉へ御輿入に相成り、その時には将軍家も同じ十三歳、さぞかしお可愛らしい

年後の建保元年癸酉のとしに、例の和田合戦が鎌倉に起り御ところも炎上いたしましたが、このやうなお夢の不思議はその後

は御時勢が悪かつたとでも申しませうか、鎌倉にも、また地方にも反徒が続出して諸事このお方の意のまま

鴨の長明入道さまを京の草庵より連れ出して、共に鎌倉へ下向し、さうして長明入道さまを将軍家のお歌のお相手として御

ますし、やはり当代の風流人としてそのお名は鎌倉の里にも広く聞えて居りました。その日、入道さまは、参議雅経

ただ将軍家の和歌のお相手になるべく、それだけの目的にて鎌倉へ下向したとは受け取りかねる節もないわけではございませんでしたが

の名文をお書き上げになつたさうで、その評判は遠く鎌倉にも響いてまゐりました。まことに油断のならぬ世捨人で、あのやうに

も、六十ちかい老齢を以て京の草庵からわざわざあづまの鎌倉までまかり越したといふのには、何かよほどの御決意のひそんでゐ

にも察しのつく事でございますが、けれども、永く鎌倉に御滞在もなさらず、故右大将さまの御堂で涙をお流しになつたり

を伊勢の大廟に奉献せさせ、また伊勢別宮たる鎌倉の甘縄神社にはそれから程なく御自身、御台所さまと共に御参詣なさ

も京へおいでになられた事もなく、しんから鎌倉のお人になり切つて居られて、右大臣さまがあのやうな御最期

のおつきの女房丹後局さまが、京都へまゐりまして鎌倉への帰途、駿河国宇都山に於いて群盗に逢ひ、所持の財宝ならびに、御

たものでございませうが、ついでながら、金槐の金は鎌倉の鎌の偏をとつたものの由で、槐は御承知のとほり大臣を

このお歌にこそ隠された意味がある、将軍家が京都か鎌倉か、朝廷か幕府かと思ひまどつてゐる事を箱根ノミウミに事よせて

、上総国伊北庄に御滞在でございましたさうで、鎌倉に兵起るの風聞に接しとるものも取りあへず鎌倉に駈けつけてみたら、

鎌倉に兵起るの風聞に接しとるものも取りあへず鎌倉に駈けつけてみたら、御子息お二人捕へられてゐるので仰天して

毛嫌ひして、けむつたがつてゐたといふのが鎌倉の大半の人の心情でございました。なんでもない事でも、あの

一族でもそんな馬鹿な事はしない、父に従はず鎌倉の家にひとり残つてゐるにちがひないから見て来なさい、とおつし

そのお二人の御異図を微塵に粉砕し、父君をば鎌倉より追放なされ、継母の牧の方さまには自害をすすめて一命をいただい

するのは、私だけでございませうか。その頃、鎌倉の諸処に於いて、北条家横暴といふ声が次第に高くなつて来て

事もなく、これといふ御失態もなさらず、つねに鎌倉一の大政治家たるの栄誉を持ちつづけることの出来た原因の一つでござい

ひるがへし、故右大将家幕府御創業このかた三十年、この鎌倉の地にはじめての大兵乱が勃発いたしました。和田さまほどの御大身が

のお屋敷の騒動以来、御ところの内にも、また鎌倉の里人の間にも、もつぱらでございまして、武勇に於いては、関東

失態から駿河に籠居なされてゐたのを、このたび鎌倉の風雲急なる由を聞いてどさくさまぎれに帰参なされて、ひとつ大きな手柄

れ、つづいて御一族も或いは討死、或いは逐電、ここに鎌倉の天地震怒の和田合戦も、やうやくをさまり、その夜は由比浦の汀に

御家人に宛て、関東はすでに平穏に帰したから、誰ひとり鎌倉へ馳せ参ずるには及ばぬ、それよりも、謀叛の残党が西方に遁走した

ど、すでに叛逆の証拠歴然、もしこの者を生虜つて鎌倉に連れ帰らば、もろもろの女房、比丘尼なんど高尚の憂ひ顔にて御宥免を願ひ出づる

ましたが、二月三日には、御一行無事に鎌倉へ御帰着に相成り、その夜は、お供の者のこらず御ところに

お茶でございましたさうで、もつともその頃は、鎌倉に於いてお茶といふものは未だほとんど用ゐられてゐなかつたし、

迫害を受けられたやうでございまして、栄西さまは、鎌倉へのがれてまゐり、寿福寺を御草創なされ、建保三年六月に痢病

恭順の御態度は、万民の手本とも申し上げたいほどで、鎌倉に御下向の御勅使をおもてなしなさるに当つても、誠心敬意を表し、

、京都の諸寺参拝のおつもりも何も打棄て、即時に鎌倉さして御発足になつたとか、そのやうな依怙地な不敬の御態度などに

べき御装束御車以下さまざまの御調度一切、仙洞御所より鎌倉へ送り下され、その御寵恩のほどはまことに量り知るべからざるもので、下司

におかれては内蔵頭忠綱さまを御使として鎌倉へ御差遣に相成り、御叡慮殊のほか御歎息の由を申伝へしめ

深い意味も無く、たまたまその頃、宋人の陳和卿が鎌倉へまゐつて居りまして、陳和卿は造船も巧みとお聞及びになつて、

御交通なさつて居られた程でございまして、また鎌倉の寿福寺の僧正さまだつて二度も宋へ行つて来られたお方

、或る者は、将軍家が北条家の圧迫に堪へかねて鎌倉からのがれて、さうしてあてもなく海上をさまよひ歩き果ては自殺

をこの大船にお乗せ申して北条家討伐のために再び鎌倉へひきかへして来るおつもりに違ひ無いと言ふし、また或る者は、

まして、その評定のうるさかつたこと、まるで、近日また鎌倉に大合戦でも起るやうな騒ぎ方でございました。けれども、さすがに

が、この人は建保四年の六月にひよつこり鎌倉へまゐりまして、当将軍家は御仏のお生れ変りでいらつしやると奇妙な

ひり、建保四年六月、まるで乞食のやうな姿で鎌倉へあらはれ、往年の気概はどこへやら、あの罪業深重とやらの故右大将家

目的は、たつた一年でも半歳でも、ただこの鎌倉の土地から遁れてみたいといふところにあるのだ、建保三年十一月

から、お使をつかはして、公暁禅師さまをむりやり鎌倉へ連れ帰らしめ、鶴岳宮の別当職に補せられたのが、あの、関東

「さあ、とにかく、鎌倉からちよつとでもお遁れになつてみたいやうな御様子に拝されました

て、また、かりりと蟹の脚を齧つて、「鎌倉へ来たのが間違ひでした。こんどは、たしかに祖母上の落度です。

「あぶない、あぶない。鎌倉には気違ひがはやると見える。叔父上も、いい御家来衆ばかりあつて

が、その折の御行列の御立派だつたこと、まさに鎌倉はじまつて以来の美々しい御儀式でございまして、すでに御式の十日ほど

の月卿雲客たちが続々とその御神拝に御列席のため鎌倉へお見えになつて居られまして、二十日には、御勅使内蔵頭

御所より御下賜の御車、御装束など一切の御調度が鎌倉へ到著し、鎌倉中は異様に物騒がしくなり、しかもこのたびの御拝賀の御

いまはしい不穏の気配が感ぜられ、一方に於いては鎌倉はじまつて以来の豪華絢爛たる大祭礼の御準備が着々とすすめられ、十二

待ちこがれて居られる御様子でございましたけれども、当時、鎌倉の里に於いて、何事も思はず、ただ無心にお喜びになつていら

安房国

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、並びに数率等海浜に出で、船に掉して安房国に赴く、其勢五百騎、船六艘と云々、又新左衛門尉常盛、山内先

仙洞御所

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、ハコヤノ山とは藐姑射之山、仙洞と同義で、すなはち仙洞御所をそのやうに称し奉る御ならはしのやうでございます。このお歌に就いて

て、建保三年の七月には、おそれおほくも仙洞御所より内々の御勅諚に依つて、仙洞歌合一巻が将軍家に下し送られ、

鶴岳八幡宮に御参詣有るべきに依つて、またも仙洞御所より御下賜の御車、御装束など一切の御調度が鎌倉へ到著し、鎌倉

奥州

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人六十余輩を定めらる、朝光之を奉行す、相州、奥州頻りに以て之を諫め申さると雖も、御許容に能はず、造船の

伊豆

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には将軍家御臨終といふ流言さへ行はれた様子で、伊豆、相模、武蔵など近国の御家人も続々と御ところに駈けつけ、私は御奉公に

事もございまして、また二クニといふのは相模と伊豆の事かと存ぜられます。相模伊豆の国ざかひに、感じ易いものの姿

ノヨル小島アリ供ノ者ニ此ウミノ名ヲ知ルヤト尋ネシカバ伊豆ノ海トナン申スト答へ侍リシヲ聞キテ

箱根路ヲ我コエクレバ伊豆ノ海ヤ沖ノ小島ニ浪ノヨル見ユ

よく御挙兵以来の御自身の軍功を御自慢なさいますが、伊豆の流人の頼朝公を、一目見てその非凡の御人物たることを察知いたし

まひ申し、百人にも足らぬ一族郎党をことごとく献じて、伊豆の片隅に敢然と源家の旗をひるがへさせたお方は、余人で

岩瀬郡

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云々。十七日、戊午、陰、和田平太胤長、陸奥国岩瀬郡に配流せらると云々。廿一日、壬戌、和田平太胤長の女子、父の遠向

若宮大路

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間、通らんと擬するに拠無し、仍つて由比浦並びに若宮大路に於て、合戦時を移す、凡そ昨日より此昼に至るまで、攻戦已ま

、亥剋、由比浜辺焼亡す、南風烈しきの間、若宮大路数町に及ぶ、其中間の人家皆以て災す。

越後国

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減、御夢想の告厳重と云々。七日、丁亥、越後国三味庄の領家雑掌、訴訟に依つて参向し、大倉辺の民屋に寄宿せ

「申し上げます。罪無き者が召取られて居りまする。越後国は三味庄の、――」と言ひかけたら、相州さまは、ちえと小さい

東大寺

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。八日、庚※、晴、陳和卿参著す、是東大寺の大仏を造れる宋人なり、彼寺供養の日、右大将家結縁し給ふの

六年三月、故右大将家再度の御上洛の折、東大寺の大仏殿に御参りになつて、たまたま宋朝の来客、陳和卿の噂をお聞き

上総国

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、幾千万なるかを知らず、和田左衛門尉義盛は、日来上総国伊北庄に在り、此事に依りて馳せ参じ、今日御所に参上し、御対面

伊勢

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神社に神馬を奉納仕り、御参拝も怠らず、またその伊勢の大神の御嫡流たる京都御所のかしこき御方々に対する忠誠の念も巌の

伊豆国

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公はその御病状のやや快方に向はれしと同時に伊豆国修善寺に下向なされ、さしもの大騒動も尼御台さまのお働きにてまづは

三年乙亥。正月小。八日、戊辰、霽、伊豆国の飛御参ず、申して云ふ、去る六日、戌剋、入道遠江守

京都御所

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御参拝も怠らず、またその伊勢の大神の御嫡流たる京都御所のかしこき御方々に対する忠誠の念も巌の如く不動のものに見受けられまし

相模国

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なり、故に勝負有る可しと云々。五日、乙未、相模国大庭御厨の内に、大日堂有り、本尊殊に霊仏なり、故将軍の御

いふところでもございませうか。ご自身その国の国司たる相模国の事だけに、相州さまも、ひとしほ恐れいつたことでございませう。

、義村、盛時之を奉行す。廿八日、乙巳、相模国相漠河の橋数ヶ間朽ち損ず、修理を加へらる可きの由、

秋田

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親広さま、左衛門大夫時広さま、前駿河守季時さま、秋田城介景盛さま、隠岐守行村さま、大夫尉景廉さま以下の御家人が

秋田城介景盛 黒糸威   三浦小太郎時村 萌黄威

京都

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同年。五月大。廿九日、丁卯、兵衛尉清綱、昨日京都より下著し、今日御所に参る、是随分の有職なり、仍つて将軍家御

余気も去らぬ頃の事でごさいましたが、久しく京都へおいでになつてゐた御台所のお侍の兵衛尉清綱さまが

噂を聞く事がおたのしみの御様子でございました。京都の風をなつかしみ、またかしこくも、御朝廷の尊い御方々に対し奉つて

権大納言さまは、仙洞御所の御母后の御実弟で、京都に於いても指折りの御名門、ひとの話に依りますと、はじめ北条

将軍家ノ御台所ハ京都ニヰマス

のもので、もしも、その時に御台所さまを遠い京都より求めず、あづまの御家人のお娘の中から御選定なされたならば

へも取入れたいと、それだけのお気持から御台所は京都の人を、とお言ひ渡しなされたのではなからうかと私に

京都の公卿さまの御女子あれこれと詮議なされて、また京都に於いても斡旋の労をとつて下されたお方などもあり

のださうで、それで周囲のお方たちも余儀なく京都の公卿さまの御女子あれこれと詮議なされて、また京都に於いても

の叛謀に巻き込まれ、まもなく出家し栄実と号して京都に居られましたが、またもや謀反の噂を立てられ、京の御宿舎

乙酉、将軍家以下二所より御帰著。十九日、丙申、京都の大番、懈緩の国々の事、之を尋ね聞召さるるの後に

、駿河国富士郡に下向す、彼の傾公は、去年京都より下向す、佐渡守親康の女なり、御台所の官女たり、而る

二所詣からお帰りになつて間もなくのこと、京都を守護し奉つてゐる諸国の侍たちがこのごろ役目を怠りがちだといふ

御参拝も怠らず、またその伊勢の大神の御嫡流たる京都御所のかしこき御方々に対する忠誠の念も巌の如く不動のものに見受け

ぬが、なんでも御台所さまの女房の、その前年京都より下向したばかりの、氏育ち共にいやしからぬ一美形に、思ひ

が、御台所さまのおつきの女房丹後局さまが、京都へまゐりまして鎌倉への帰途、駿河国宇都山に於いて群盗に逢ひ、

出向かれ、その若侍のうち正使の左馬の介政範さまが京都へ着くと同時に御病気でおなくなりになられ、また畠山の六郎重保

華麗、血気の若侍のみ二十人、花嫁さまをお迎へに京都へ出向かれ、その若侍のうち正使の左馬の介政範さまが京都へ着く

小。二日、乙巳、晴、筑後前司頼時、去夜京都より下向す、定家朝臣消息並びに和歌の文書等を進ず。

月上旬より沙汰有るの間、面々に結構尤も甚し、或は京都より之を尋ね、或は態と風情を図せしむ、広元朝臣献覧の絵

同年。十二月大。廿一日、癸巳、陰、京都の使者、去る十日の除目の聞書を持参す、将軍家従二位に叙せ

日、丁未、天霽、弾正大弼仲章朝臣の使者、京都より到来す、去月廿七日閑院遷幸、今夜即ち造営の賞を行はる

ては、このお歌にこそ隠された意味がある、将軍家が京都か鎌倉か、朝廷か幕府かと思ひまどつてゐる事を箱根ノミウミに

の御使者が、京都より到着なさいまして、去月二十七日京都の御所に於いて、このたび閑院内裏御竣工につきその造営の賞が

としの三月、弾正大弼仲章さまの御使者が、京都より到着なさいまして、去月二十七日京都の御所に於いて、このたび閑院

相州、大官令仰を承り、飛脚を発せられ、御書を京都に遣はす。

ぬが、故右大臣さまの場合だけを申し上げるならば、京都の御所に対してはあれほどの御赤心、また幕府の御政務に対し

出来ず、やむなく出家いたしまする、といふ御書置を残して京都へその夜のうちに御発足になつたとか、翌る日その書置を御

、天晴風静なり、将軍家新御所に移徙なり、御車京都より遅く到るの間、御輿を用ひらる、酉刻、前大膳大夫広元

お襖の絵のお好みもむづかしく、わざわざお使ひを京都に送り、したしく京風の襖絵を調べて来させたり、なかなかの凝り様で

お設けになつたほどでございました。このやうに、京都の御所や、諸国の神社仏閣の事になるとお眠りからお覚めに

大まごつきにまごついた御様子でございました。まことにこの京都の御所に対し奉る御赤心と、それから敬神崇仏のお心の深さ

になつて、さらにそのとし、内藤兵衛尉朝親さまが京都よりの御土産として新古今和歌集一巻を献上なされ、しかもその和歌集には

、霽、将軍家の御持仏堂の御本尊、運慶造り奉り、京都より渡し奉らる、開眼供養の事有る可し、信濃守行光奉行として

して御昇進、太だ以て早速なり、御家人等亦京都に候せずして、面々に顕要の官班に補任すること、頗る

でございまして、故右大将家に於いては、いやしくも京都に関する事ならば、この京育ちの私にいちいち御下問がございまして

て、以前はこれほどでも無かつたのですが、京都の御所の事となると何でもかでも有難くてたまらない様子で

なのに、どういふものですか、当代は、むやみに京都をお慕ひになつて、以前はこれほどでも無かつたのです

で、実にどうも、みつともなく、あれでは京都の御所のお方たちも呆れてゐるでせう、幕府の威信を保つ

、このごろはまた、官位の御陞進に御熱中で、しばしば京都へ除書の御催促さへなさいますやうで、実にどうも、みつと

無邪気にお楽しみなされて除書をお待兼ねのあまり京都へ御催促なされる事さへございまして、同じく建保四年の六月二十

とんでもない、どうかその儀はおゆるし下されと申して、京都の諸寺参拝のおつもりも何も打棄て、即時に鎌倉さして御発足になつ

六年に二度目の熊野詣をなさつてそのついでに京都にもお立寄りになり、しばらく京に御滞在中、院の特別のお

将軍家に下し送られ、将軍家もまた、そのとしには、京都の御所へ御進上仕るべき名馬の撰定に当つて、お役人の面々に、

と言ひ、或る者は、宋に渡ると見せて実は京都へ行き上皇さまの御軍勢をこの大船にお乗せ申して北条家討伐の

おいでになり一年も二年も御滞在になつて京都の御所のお方たちと共鳴なさつたりなどするよりは、幕府にと

ても出来ぬといふわけはございませんし、それは京都へおいでになり一年も二年も御滞在になつて京都の御所

同年。七月大。廿四日、己亥、晴、京都の使者参著す、去る十日より上皇御瘧病、毎日発らしめ給ふ

同年。十月大。廿六日、乙丑、晴、京都の使者参ず、去る十三日、禅定三品政子従二位に叙せしめ給ふと

をなさつて居られたのでございますが、あまり永く京都などに置くと、また謀叛の輩に擁立せられたりなどして栄実禅師

のでございます。公暁禅師さまは、それまで数年、京都に於いて御学問をなさつて居られたのでございますが、あまり

公暁禅師さまは、その翌年の建保五年六月に京都よりお帰りになり、尼御台さまのお計ひに依つて鶴岳宮

こんどは、たしかに祖母上の落度です。私は一生、京都にゐなければならなかつたのだ。」

「京都がそんなにお好きですか。」

「まだ私の気持がおわかりにならぬと見える。京都は、いやなところです。みんな見栄坊です。嘘つきです。口ばかり達者で、

、あれほど京都を慕つてゐながら、なぜ、いちども京都へ行かぬのか、そのわけをご存じですか。」

「叔父上が、あれほど京都を慕つてゐながら、なぜ、いちども京都へ行かぬのか、その

「それは、故右大将家の頃から、京都とはあまり接近せぬ御方針で、故右大将さまさへ、たつた二度

、それだけでは、ないんだ。叔父上には、京都がこはいのです。」

「いや、こはいんだ。京都の人たちは軽薄で、口が悪い。そのむかしの木曾殿のれいも

ふと見えて、いまではもう、結局自分の落ちつくところは京都ではなからうかと思ふやうにさへなつてゐる。私は山師だ。山師

まるで人間でないみたいに考へてゐるのだ。私も、京都へはじめて行つた時には、ずいぶんまごついた。くやし泣きに泣いた事もある

、いやしめられたくないのだ。大いにもつたいをつけてから、京都へ行きたいのだらうが、そんな努力は、だめだめ。みんな、だめ。

に官位の昇進をお望みになるのも、それだ。京都の人に、いやしめられたくないのだ。大いにもつたいをつけてから、京都

の人に笑はれないくらゐのものになつてから、京都へ行きたいと念じてゐるのだ。それに違ひないのだ。やたらに

ないんだ。まぶしすぎるんだ。京都へ行つても、京都の人に笑はれないくらゐのものになつてから、京都へ行きたい

京都がこはくて仕様がないんだ。まぶしすぎるんだ。京都へ行つても、京都の人に笑はれないくらゐのものになつて

ための努力だけ、それだけなんだ。あの人には京都がこはくて仕様がないんだ。まぶしすぎるんだ。京都へ行つても

なところなのです。けれども右大将家は、やつぱり偉い。京都の人から馬鹿にされようがどうされようが、ちつとも気にして

へされたり、さんざん赤恥をかかされてゐるんだ。京都といふのは、そんないやなところなのです。けれども右大将家は、

。祖父の故右大将だつて、頭でつかちなもんだから京都へ行つたとたんにもう、大頭将軍といふ有難くもないお名前を頂戴し

「禅師さまには、ふたたび京都へおいでになりたいやうな御様子でございました。」と要らざる

千葉

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申す可きの由と云々。十五日、丙戌、天霽、千葉介成胤、法師一人を生虜りて、相州に進ず、是叛逆

ふえて一大勢力になりかけた時、二月十五日、千葉介成胤さまが、安念坊といふ挙動あやしき法師を捕へて、相州

住吉

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がたくさんございまして、その前年の七月にも将軍家は住吉神社に二十首の御歌を奉納いたしましたが、それは或る夜のお

申し上げました事で、その翌年には御夢想に依つて住吉社に二十首の御詠歌を奉り、事のついでに、京極中将定家朝臣に

稲毛

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の悪い因縁があるのださうで、もともとその橋はあの稲毛の三郎重成入道さまが新造なされましたものださうで、その橋の

大宮

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大。三日、己亥、今日御書を以て、大宮大納言殿の方に仰せらるる事有り、公家より西国の御領等の臨時