帰去来 / 太宰治
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も捻出の仕様が無かったのである。当時、私は甲府市に小さい家を借りて住んでいたのであるが、その結婚式の日に
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ていたようだ。私の町から三里ほど離れた五所川原という町の古い呉服屋の、番頭さんであったのだが、しじゅう私の
お手数をかけてしまった。私が十歳の頃、五所川原の叔母の家に遊びに行き、ひとりで町を歩いていたら、
逢えるでしょうね。もう、九十ちかい筈ですけど。それから、五所川原の叔母にも逢いたいし、――」考えてみると、逢いたい人が
の汽車に乗った。汽車に乗る前に、北さんは五所川原の中畑さんに電報を打った。
。中畑さんは知らない、何も知らない、そうして五所川原の停車場に私を迎えに来ます。そうしてはじめて、あなたを見ておどろく
しれません。けれども、中畑さんは知らないのだ、五所川原の停車場へ私を迎えに来てはじめて知って驚いたのだ。そうして
私は紬の着物に着換えて、袴をはいた。その五所川原という町から、さらに三里はなれた金木町というところに、私の生れた
は午後の四時頃、金木の家を引き上げ、自動車で五所川原に向った。気まずい事の起らぬうちに早く引き上げましょう、と私は北さん
さんの優しいすすめに依って母も、私たちと一緒に、五所川原まで行く事になったのである。行く先は叔母の家である。私は
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無く、それから一年経って甲府の家を引きはらって、東京市外の三鷹町に、六畳、四畳半、三畳の家を借り、
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私たちは午後の四時頃、金木の家を引き上げ、自動車で五所川原に向った。気まずい事の起らぬうちに早く
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てみないかというのである。私の故郷は、本州の北端、津軽平野のほぼ中央に在る。私は、すでに十年、故郷を
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というのである。私の故郷は、本州の北端、津軽平野のほぼ中央に在る。私は、すでに十年、故郷を見なかった。十年
生れた家が在るのだ。五所川原駅からガソリンカアで三十分くらい津軽平野のまんなかを一直線に北上すると、その町に着くのだ。おひる頃、中畑
満目の稲田。緑の色が淡い。津軽平野とは、こんなところだったかなあ、と少し意外な感に打たれた。
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た。その前年の秋、私は新潟へ行き、ついでに佐渡へも行ってみたが、裏日本の草木の緑はたいへん淡く、土は
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てびっくりした経験は、中学時代にも、一度ある。青森中学二年の頃だったと思う。朝、登校の途中、一個小隊
「北さんが、青森へ遊びに行くと言ったら、兄さん喜んだでしょう。」
育ったのかと思ったら、妙な気がした。青森に着いた時には小雨が降っていたが、間もなく晴れて
ていて、それがために、どうしても今夜、青森発の急行で帰京しなければならなくなってしまったのである。北
翌る日、私は皆と別れて青森へ行き、親戚の家へ立寄ってそこへ一泊して、あとはどこ
あの夜、青森発の急行で帰京したが、帰京の直後に腹痛がはじまったという
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て立会って下さる事になっていた。私は朝早く甲府を出発して、昼頃、先輩のお宅へ到着した。私は本当
て先輩から、おさかずきを頂戴して、嫁を連れて甲府へ帰るという手筈であった。北さん、中畑さんも、その日、
半分をかえしてもらうつもりでいた。十円あったら、甲府までの切符は二枚買える。
も、そんなに大きい間違いが無く、それから一年経って甲府の家を引きはらって、東京市外の三鷹町に、六畳、四畳
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意外な感に打たれた。その前年の秋、私は新潟へ行き、ついでに佐渡へも行ってみたが、裏日本の草木の
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に心配をおかけしていた。北さんは東京、品川区の洋服屋さんである。洋服屋さんといっても、ただの洋服屋
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中畑さんも既に独立して呉服商を営み、月に一度ずつ東京へ仕入れに出て来て、その度毎に私のところへこっそり立ち寄って
昭和五年に東京の大学へはいって、それからは、もう中畑さんは私にとって、
一つの着物を縫うのですから、すぐに出来ます、東京では、なんでも、出来ないって事はないんだ、と、ろくに
でひらいてくれた。偶然その三日前に中畑さんは東京へ出て来て、私のところへも立ち寄ってくれた。私は中畑
作ってもらう事にきめていたようである。私が東京の大学へはいってから、北さんは、もっぱら私を監督した。そう
、実に心配をおかけしていた。北さんは東京、品川区の洋服屋さんである。洋服屋さんといっても、ただの
のであるが、その結婚式の日に普段着のままで、東京のその先輩のお宅へ参上したのである。その先輩のお宅で嫁
無く、それから一年経って甲府の家を引きはらって、東京市外の三鷹町に、六畳、四畳半、三畳の家を
という予感があった。私は、この十年来、東京に於いて実にさまざまの醜態をやって来ているのだ。とても許さ
た。ちょっと考えて、それから、「実は、兄さんが東京へ来ているんです。」
兄は時々、東京へやって来る。けれども私には絶対に逢わない事になっている
てはじめて知って驚いたのだ。そうして、まあせっかく東京からやって来たのだし、ひとめお母さんに逢わせました、という
て津軽で育った田舎者です。津軽なまりを連発して、東京では皆に笑われてばかりいるのです。けれども十年、故郷を
逢ってみると、実に優しい華奢な人であった。東京で十年間、さまざまの人と争い、荒くれた汚い生活をして来た
を立つ時からの計画であったのだが、けさほど東京の北さんのお宅から金木の家へ具合いの悪い電報が来ていて
浅虫温泉やら十和田湖などあちこち遊び廻ろうというのが、私たちの東京を立つ時からの計画であったのだが、けさほど東京の北さん
になっていたが、こみいった話になると、やっぱり東京の言葉を遣った。母も叔母も、私がどんな商売をしている
て、あとはどこへも立寄らず、逃げるようにして東京へ帰って来た。十年振りで帰っても、私は、ふるさとの
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せられて、友人たちは私のためにその祝賀会を、上野の精養軒でひらいてくれた。偶然その三日前に中畑さんは東京へ
北さんも気が早い。その翌る日の午後七時、上野発の急行に乗ろうという。私は、北さんにまかせた。その夜
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その夜おそく、私は嫁を連れて新宿発の汽車で帰る事になったのだが、私はその時、洒落
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一年経って甲府の家を引きはらって、東京市外の三鷹町に、六畳、四畳半、三畳の家を借り、神妙に
私は早速、三鷹の馴染のトンカツ屋に案内した。そこの女のひとが、私たちの
まかせた。その夜、北さんと別れてから、私は三鷹のカフェにはいって思い切り大酒を飲んだ。
水入らずで、話をした。私は、妻が三鷹の家の小さい庭をたがやして、いろんな野菜をつくっているという事を
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た。「あなたは柳生十兵衛のつもりでいなさい。私は大久保彦左衛門の役を買います。お兄さんは、但馬守だ。かならず、うまくいきます
かな。僕にはまだ十兵衛の資格はないし、下手に大久保なんかが飛び出したら、とんでもない事になりそうな気がするんだけど。
。あとは全部、私が責任を負いますが、私は大久保彦左衛門だから、但馬守が怒ったって何だって平気です。」なかなか、
なのです。七ジタツ。それでもういいのです。」大久保のはかりごとはこまかすぎて、わかりにくかった。けれども、とにかく私は北さん
「来ていなければならぬ筈だが。」大久保彦左衛門もこの時だけは、さすがに暗い表情だった。
、石ころと馬糞とガタ馬車二台、淋しい広場に私と大久保とが鞄をさげてしょんぼり立った。
「来た! 来た!」大久保は絶叫した。
言い出したら、もう何といっても聞きいれない、頑固な大久保氏なのだから、私たちも無理に引きとめる事はしなかった。叔母の