佐渡が島を出て 02 / 江南文三

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佐渡

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佐渡が島を出てからひと月あまりになりました。白山神社の附近にたんぼ

、此處が自分の住むべき處だと思つたのは佐渡が島の相川であつたのに、都會人の血が又しても

佐渡の人。齒を磨かない佐渡の人、湯屋で脊なかを爪で掻く佐渡

佐渡の人。齒を磨かない佐渡の人、湯屋で脊なかを爪で掻く佐渡の人、蒲團のかはり

を磨かない佐渡の人、湯屋で脊なかを爪で掻く佐渡の人、蒲團のかはりに藁の中にもぐつて寢る佐渡の人

、蒲團のかはりに藁の中にもぐつて寢る佐渡の人、それでも眞實に笑ふことの出來る佐渡の人。毎日うたつ

る佐渡の人、それでも眞實に笑ふことの出來る佐渡の人。毎日うたつてゐる佐渡の人、ことに相川の町の人。

に笑ふことの出來る佐渡の人。毎日うたつてゐる佐渡の人、ことに相川の町の人。ほんとうに佐渡の人は生きて居

ゐる佐渡の人、ことに相川の町の人。ほんとうに佐渡の人は生きて居ました。誰でもうたへる。誰でも踊れる。

互がうれしいにつけ悲しいにつけ一しよにうたひ一しよに踊れる佐渡の相川。新らしく生まれる子供がやはり今日までと同じやうにうたつたり踊つたり

私に氣むづかしい顏を續けて行くのなら私はまた佐渡に歸る。東京は出戻りだ。やはり厭で別れたなかぢやないかと言ひたく

佐渡のみやげにおけさをならひうたひ出すたび思い出す

と言ふ、このおけさが佐渡の民謠です。相川の町でこれを歌へない人は恐らく唖と生れ

來いとゆたとて行かりよか佐渡へ佐渡は四十九里浪の上

居ります、相馬御風さんなどもおけさ女説のやうで、佐渡で古く女の名を書いたものの中におけさと言ふ名は見えな

見て居りますので、能登との交通が盛だつた佐渡に取つてはあたり前のことではないかと思はれるだけのやうです。

能登

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方越後之出雲崎に至る海上十八里………申の方能登の珠洲水崎に至る四十五里」と、この二つの交通だけが記してあり

た女のための――で見て居りますので、能登との交通が盛だつた佐渡に取つてはあたり前のことではないかと

新潟市

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がつたおけさと區別して言ふのです。もともとおけさは新潟市よりも西になつてゐる出雲崎と言ふところが本場だと言ふ説があります

佐渡おけさ

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。その女は小木のものですが、これは餘程今の佐渡おけさに近いものです。それは

新潟

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佐渡おけさと特別に言ふのは新潟縣の節のまるでちがつたおけさと區別して言ふのです。もともとお

東京

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互ひに半分だけ物を言へば通じる人のまだ住んでゐる東京、それが最早自分の故里と言ふ感じを少しも與へてくれなくなつて

て綱を引いたり萬燈をかざしたりしたあの頃からの東京、お互ひに半分だけ物を言へば通じる人のまだ住んでゐる東京、

通院のぐるりが草原で蜻蛉やおおとを取りに行つた東京、あの附近に銘酒屋があつて、今日なくなつてしまつた「およな

白山神社の附近にたんぼがあつて赤蛙を取りに行つた東京、傳通院のぐるりが草原で蜻蛉やおおとを取りに行つた東京、

東京で育ちながら、神田鍛冶町の刀屋の娘を母に持ちながら、動物性の稀薄な

して永久に續く繪卷物のやうに變つて行く東京が、震災後あまり市區改正をやられずに停滯してゐるのは

有樂町まで院線の電車に乘つて窓から見下ろした東京の中心を見て無理もないやうな氣にもなりました。何も

花やかな東京の中心地であつた日比谷の交叉點には泥水の池が出來てゐる。

た日本、震災のための廣場をつぶして人を殺した東京、徳川の時代にあつた檢見を六十年も忘れてゐた日本。

の徳川三百年の苦心で作つた防風林をどしどし切つて行く東京、徳川末期の名人の名をさへ忘れた日本、震災のための廣場を

顏を續けて行くのなら私はまた佐渡に歸る。東京は出戻りだ。やはり厭で別れたなかぢやないかと言ひたくなります。

たり踊つたりするならば、死んだ日本も生きかへらう。東京が此儘私に氣むづかしい顏を續けて行くのなら私はまた佐渡

出したものよりも更に古い節を私は私の母から東京で子供のとき聞いたのを半分覺えてゐます。それは

日比谷

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花やかな東京の中心地であつた日比谷の交叉點には泥水の池が出來てゐる。泥水には自動車の油