震災後記 / 喜田貞吉
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とめている。商大を爆破するためだという。転じて九段坂を上るとそれを見るべく用のなさそうな人々が、巡査に追っ払われ
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九月一日来の関東の大震については、自分の親しく見聞関知したところをいささか書きとめて、
碓氷峠は本州中部と関東との間にあって、ここの山一つで古来風俗・民情その他に
嬌談を、さも事面白く書いてあった。こんなことはまだ関東では見られぬ気分だ。いやしくも大国民をもって任ずるほどのものは
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日の震災日誌に書いて置いたN医学士、震災当日箱根へ往診に行っておられた間に、留守宅は潰れたうえに焼けて
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兼ねて、焼け跡の復興気分を見てまわる。まず番町から丸の内へ行く。井伊伯爵邸・三井男爵邸をはじめ、宏壮なる富豪の邸宅もあんな
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のだ。残念なことをした。だいたい東京の地震は横浜や鎌倉、小田原方面のごとくひどくはなく、これを『安政見聞誌』などと
も西下を見合せ、その代りにかねて気にかかっていた横浜、鎌倉方面へ見舞に行く。山の手線大塚駅から品川へ、品川から東海道線へと
横浜、鎌倉方面の震災のはなはだしかったことはかねがね承知してはいたが、来
。住職大野秀文君は震災当時令息の入院に附き添って、横浜の病院におられたそうで、崩壊とともにやっと病人を担ぎ出して、逐い
、自動車も通うていなかろうというので見合わして、直ちに横浜へ引き返す。
横浜の惨状は全く東京以上だ。焼け跡をあちらこちら視察しつつ、まず市役所仮事務所に
横浜には二十日見ぬ間に急ごしらへのバラックが大分多くなっている。
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がある。上野の寛永寺、浅草の浅草寺、芝の増上寺の三大寺は、どうしたことか連名で焼けなかったと広告した。
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自転車で白米二升を持って見舞に来てくれた。大阪を始め各地から白米多額輸送の評判のみ高くてもまだ市場には売り出さず、
食糧やら、差当りて必需品の買い出しにと軍艦に便乗して大阪へ行く。
の焼き出されの婦人が、その二人の子を連れて大阪の親戚をたよって行くのと乗り合わした。詰襟洋服・巻ゲートル・ゴム底足袋
昨夜所用あって大阪へ来たので、その足ですぐ梅田駅から午後八時五十分の東海道急行
というのがこの東海道線を選んだ理由だ。車室はすでに大阪から二、三等とも満員で、立ち往生の人が多い。沼津まではすべて
午後三時四十五分東京着。普通ならば大阪から十二時間と四十分で着くはずの急行車が、約十九時間を要した
とても安心して商売も出来ません」というのだ。大阪から雑貨を持って商いに来た人があって、道のはたに品物を
の夫人は長女の栄子さんと、母御と、それに大阪なる兄さんの娘さんと、婦人連四人で東京へ来ておられた。
の朝となって突然夫人が事務所へ見えた。そこへ大阪の兄さんが母御や娘さんの身を案じて大阪から出て見えた。
へ大阪の兄さんが母御や娘さんの身を案じて大阪から出て見えた。それとほとんど同時に栄雅君も、はるばる佐渡から出て
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ことにした。大塚から田端、田端から大宮、大宮から高崎、高崎から篠の井、篠の井から名古屋と、数度の乗りかえの度
した。大塚から田端、田端から大宮、大宮から高崎、高崎から篠の井、篠の井から名古屋と、数度の乗りかえの度ごとに
、乗り降りの面倒を見たりしたのであったが、高崎の乗りかえの混雑でついに見失ってしまった。無事に乗れたかしらと、案じながら
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なお配給米を受けて飛んだ避暑をやっておられる。覚園寺を訪う。本堂は幸いに外形無事だが、中の半丈六薬師如来ならびに両
この夜は晩くなったから覚園寺で一泊。
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おりから深沢君は会社の重役会議とかで川崎へ行かれて不在。崩れた門の側に六畳敷くらいのバラックを作っ
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学会の幹事をつとめておられた宮崎栄雅君、今は佐渡の大きなお寺に御前様として納まっておられるが、この暑中休みの
出て見えた。それとほとんど同時に栄雅君も、はるばる佐渡から出て来られて、まことに申し合せたような奇遇に一同の無事を祝し
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なかったのはただの焼けなかったのではなくて、宮城とともに焼けなかったのだという。実はそのほかにも巣鴨、市ヶ谷
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いろいろ注意すべきものがある。上野の寛永寺、浅草の浅草寺、芝の増上寺の三大寺は、どうしたことか連名で焼けなかった
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要務を兼ねて、焼け跡の復興気分を見てまわる。まず番町から丸の内へ行く。井伊伯爵邸・三井男爵邸をはじめ、宏壮なる富豪の邸宅
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未曾有の大悲惨事をも生じたのだ。これが昔の江戸の町であったならば、また少くも水道の防火に依頼し過ぎることが
幸福を得たものも、ずいぶん多いことであろう。昔は江戸の大火に材木を買いしめて大身代を起した紀国屋文左衛門という不都合な奴が
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。残念なことをした。だいたい東京の地震は横浜や鎌倉、小田原方面のごとくひどくはなく、これを『安政見聞誌』などと比較し
さらに想像よりも以上のひどさで、やっと大船で乗りかえて鎌倉に近づくと、まず円覚寺附近の民家のたいてい倒れているのに驚かされた
令嬢風の娘の足に繃帯をかけたのを背負うて鎌倉から一所に乗り込んだ。聞けば日本橋にかなり手広く営業していた太物屋さん
全焼して在京の家族店員は幸いに無事だったが、鎌倉の別荘が潰れたので、おりから行っていた家族や親戚のものの
は、その復興は全くもって容易であるまい。歴史的の鎌倉もこの地震でいよいよ廃墟となってしまうのではあるまいかと心細い。
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残して全潰し、関東紡績の工場も全滅だ。これから厚木町へかけて震害最もはなはだしかったそうで、ことに厚木町は火災のために全滅
から厚木町へかけて震害最もはなはだしかったそうで、ことに厚木町は火災のために全滅したという。去る七月の末に行って一
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一隅にうずたかく積み上げて、震災記念の小山が出来た。山形県庄内の阿部正己君が、わざわざ震災見舞に東京へ来られたとて立ち寄られた(
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あらわれた広告にもいろいろ注意すべきものがある。上野の寛永寺、浅草の浅草寺、芝の増上寺の三大寺は、どうしたことか
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、大宮から高崎、高崎から篠の井、篠の井から名古屋と、数度の乗りかえの度ごとにその混雑は一と通りでない。こと
の度ごとにその混雑は一と通りでない。ことに名古屋までは、二等車もなく、多数の避難者と同車でほとんど身動きも出来
ついに見失ってしまった。無事に乗れたかしらと、案じながら名古屋まで来てみると、偶然また同じ車室に乗り合わした。何という奇縁であろう
ほどのことはないので、予定では篠の井・名古屋の乗りかえで、明日の午後一時前には京都に着くべきはずであった
昇降が手間取れる。午後十一時五十分篠の井発の名古屋行に連絡すべきはずのものが、午前一時ごろになってやっと同駅に
、恭しく命に従うて用をたす。朝の一番で名古屋へ行き、夜の十時に京都に着いた。東京京都間、要するところ三十
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ごろから焼け残った帝大の史料編纂掛や人類学教室、さては上野の博物館などの見物に行く。博物館はかなり被害があったようだが、前両者
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上野公園内には、平素は禁足地の芝生にまで避難者の小屋が至る所に
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その静寂なのとは反対に、日比谷公園のバラック村はなかなかの繁昌だ。一時の仮住居でにぎにぎしく各自商店を張っ
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書信一切郵便局で扱わぬので、念のために重ねて京都の宅へ出したなど書いた親切なのが数通あった。
のだ。これで大いに心丈夫になる。ことに震災以来京都の宅へ到着した三十通ばかりの書信を持参してくれたので
京都の宅から助手の山本〔桝蔵〕生が、震災跡始末の応援にとはるばる
だ。大体の応急手当も職人に委しておいて、今日いよいよ京都へ行く予定であったが、やっと徒歩連絡で通じていたはずの東海道線
保護を加えて三日に無事東北へ送り出した、今ごろは京都へ帰っているであろうという。これでまず安心して、あの細高い人
今日はどうあっても京都行を決行せねばならぬ。まだ中央線・東海道線ともに不通とあっ
、二十四時間何がしを費して翌二十一日の夕方ともかく無事に京都へ着いた。
汽車がはなはだしく後れて、時間表では二十時間余で京都へ着くべきはずのものが、二十四時間何がしを費して翌二十一日の夕方
日跡始末のために帰京するまで、震災に関する記事なし。京都では到る処に物珍しげに実見談を喋舌らされたり、また時に
井・名古屋の乗りかえで、明日の午後一時前には京都に着くべきはずであったが、相変らず駅ごとの昇降が手間取れる
を一任して、午後三時五十分上野発の汽車で京都に行く。先日の東海道の徒歩連絡に懲りて、今度は再び九月西下
名古屋へ行き、夜の十時に京都に着いた。東京京都間、要するところ三十時間。
。朝の一番で名古屋へ行き、夜の十時に京都に着いた。東京京都間、要するところ三十時間。
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が、十月再度の西下のさいに篠の井駅で長野の新聞を買ってみると、このほど知事さんが某所で松茸狩を催さ
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のは苦々しく思われた。先年夫に死なれた後に深川で小さい菓子屋を営んで、幼ない二人の子供を養育していたという
で油や硫酸などの商会を経営していた。むろん深川本所丸焼のお仲間に外れず、住宅その他はことごとく焼かれてしまっ
自分の妻の叔母聟が深川区富川町で油や硫酸などの商会を経営していた。むろん深川本所
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電車の一部が始めて動き出した。宅の附近では大塚終点から春日町まで、わずか九停留場の間だけだが、それでもどれだけ
信越線から中央線へと大廻りして出かけることにした。大塚から田端、田端から大宮、大宮から高崎、高崎から篠の井、篠の
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今日から東京で市内電車の一部が始めて動き出した。宅の附近では大塚終点
せられた青年であったが、この日雨を冒して東京の親戚まわりをした後に間もなく病気にかかって、十月三十一
ことが新聞記事に出た。焼け残った『報知』や『東京日日』が出だしたので、いくぶん正確な様子もわかり、人気はだんだん
出来た。山形県庄内の阿部正己君が、わざわざ震災見舞に東京へ来られたとて立ち寄られた(市内の方々の御来訪は一々ここ
の呉郷文庫主石原六郎君の息育市郎君が、東京在学の令弟の安否を気づかわれて出京されたついでだとて、自分の
なかった自分には言い知れぬ嬉しさを感じた。地方では東京行の書信一切郵便局で扱わぬので、念のために重ねて京都の
無事であったのだ。残念なことをした。だいたい東京の地震は横浜や鎌倉、小田原方面のごとくひどくはなく、これを『安政
訪うて懇意な部員諸君の安否や、あの震災の日に東京へ来られたはずの京大梅原〔末治〕君の安否を尋ねた。おり
まいと思われた。ことにこの地方は偏鄙なだけに東京よりは万事の手当が後れて、今なお食物の供給が十分でないらしい
横浜の惨状は全く東京以上だ。焼け跡をあちらこちら視察しつつ、まず市役所仮事務所に堀田〔璋左右
かけたサンカ小屋のようなものは大方出来ているが、東京から見ればよほど後れている。戸部線の大通りや、停車場前など人通りの
負傷したということであった。どうにかこうにか東京の落ち付き先もきまったので、生き残ったものを引き取ろうとは思うが、
その足ですぐ梅田駅から午後八時五十分の東海道急行で東京に帰る。震災後始末のためだ。途中二ヵ所の徒歩連絡には閉口だ
なにぶん災害が東京以上にひどかったのと、世間の注意が東京に集中して比較的他に疎かなのとで万事後れているものと見える
なものが多く、復興も容易でないらしい。なにぶん災害が東京以上にひどかったのと、世間の注意が東京に集中して比較的他に
午後三時四十五分東京着。普通ならば大阪から十二時間と四十分で着くはずの急行車が
で名古屋へ行き、夜の十時に京都に着いた。東京京都間、要するところ三十時間。
いたが、それも久しいことではなかろう。バラック建ながら東京の表通りはたいてい家が建ち並んだ。復興の曙光も見えたというものだ
になってはおれぬ。十一月十八日、二度目に東京へ帰ってみると、不在中に出来ているはずの修繕がいっこう捗って
東京へ帰って第一に目についたのは、電車や交番などに貼り出さ
それに大阪なる兄さんの娘さんと、婦人連四人で東京へ来ておられた。そのさいにこの大地震だ。仮寓のあった京橋
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午後雨がやんだので、巣鴨から日暮里方面へ見舞に行く。自転車が大いに役に立つ。
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午後雨がやんだので、巣鴨から日暮里方面へ見舞に行く。自転車が大いに役に立つ。
に焼けなかったのだという。実はそのほかにも巣鴨、市ヶ谷の刑務所や、そんじょそこらの暴利屋などにも焼けなかったの
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ごろから焼け残った帝大の史料編纂掛や人類学教室、さては上野の博物館などの見物に行く。博物館はかなり被害があったようだが、
出入りの棟梁に万事を一任して、午後三時五十分上野発の汽車で京都に行く。先日の東海道の徒歩連絡に懲りて、今度
新聞にあらわれた広告にもいろいろ注意すべきものがある。上野の寛永寺、浅草の浅草寺、芝の増上寺の三大寺は、どう
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、鎌倉方面へ見舞に行く。山の手線大塚駅から品川へ、品川から東海道線へと、ともかく乗るには乗ったが、汽車の混雑は非常な
いた横浜、鎌倉方面へ見舞に行く。山の手線大塚駅から品川へ、品川から東海道線へと、ともかく乗るには乗ったが、汽車の混雑
品川行の汽車は相変らず鮨づめだ。
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かけたのを背負うて鎌倉から一所に乗り込んだ。聞けば日本橋にかなり手広く営業していた太物屋さんじゃそうで、店はむろん全焼
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て出かけることにした。大塚から田端、田端から大宮、大宮から高崎、高崎から篠の井、篠の井から名古屋と、数度の
大廻りして出かけることにした。大塚から田端、田端から大宮、大宮から高崎、高崎から篠の井、篠の井から名古屋と、数
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へと大廻りして出かけることにした。大塚から田端、田端から大宮、大宮から高崎、高崎から篠の井、篠の井から名古屋と
から中央線へと大廻りして出かけることにした。大塚から田端、田端から大宮、大宮から高崎、高崎から篠の井、篠の井から
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で、やっぱり自転車が間にあう。飯田町の焼け跡を通って、九段下、牛が淵へ来ると、道路に縄を張って往来をとめている
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なかったのだという。実はそのほかにも巣鴨、市ヶ谷の刑務所や、そんじょそこらの暴利屋などにも焼けなかったのが多い
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いろいろ注意すべきものがある。上野の寛永寺、浅草の浅草寺、芝の増上寺の三大寺は、どうしたことか連名で焼け
にもいろいろ注意すべきものがある。上野の寛永寺、浅草の浅草寺、芝の増上寺の三大寺は、どうしたことか連名
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自分の宅の前にある護国寺の墓地には、近ごろ名士の墳墓が多い。中にも山県公と大隈
ために無残にも潰されてしまった。この人が平素護国寺の観音様の信仰者であったなら、さっそく観音霊験記に載るところだ
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おられた。そのさいにこの大地震だ。仮寓のあった京橋方面はむろん焼けている。一同無事であったか、どこへ避難せられ