震災日誌 / 喜田貞吉
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たままの子息の行衛が不明なので、心配して四谷へ縁付いた姉さんの所へ尋ねて行かれたという。無事に避難し
れる。子供は五中の始業式が終った後に、果して四谷の姉の所へ遊びに行って、そこで地震に遭って帰られなくなっ
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浅草の方まで一つになっているのだという。湯島の和田英松君(史料編纂官)のお宅が気にかかるがとても寄りつかれそう
を本郷に出て、湯島天神の境内から眺望すると、湯島の台地一帯はもとより、南から西へかけて下谷・浅草・神田・日本橋・
引き返して湯島から焼け跡を神田明神前に出る。災後六日の今日になってまだ所々
てまだ所々に余焔の立っている所がある。あの湯島の大きな霊雲院も焼けた。境内の和田英松博士のお宅の跡も、今
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被服廠跡を訪う気にもなれず、転じて神田から丸の内へ出て、夕方に宅に帰った。
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に余焔の立っている所がある。あの湯島の大きな霊雲院も焼けた。境内の和田英松博士のお宅の跡も、今ではどこと
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莫大なる史料とともにことごとく焼いてしまわれたのは、横浜市にとっても、また学界のためにも取り返しのつかぬ大損害である。
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によると、昨夜はとてもあぶなくて通行が出来ず、ついに牛込で一泊して来たのだという。江東方面の惨状も、気に
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、その長女がかねて東京に遊学しておられ、今度その大阪なる兄の娘、すなわち宮崎君には姪なる人も東京の学校に学ばれる
からは宮崎君が家族の安否を気づかって駆けつけられた。大阪からも兄なる人が駆けつけられた。一族一時に同じ所に落ち合って、互い
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大正十二年九月一日関東地方に起った大地震は、未曾有の大災害を東京・横浜その他の都邑に及ぼした
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。おりから同君は令息の病気保養の転地について、鎌倉へ行っておられるとのことである。定めて留守宅では困っておられる
ともに椅子を並べて、門前に避難しておられる。鎌倉から用事があってちょっと帰ったところがこの騒ぎだという。鎌倉のことが
用事があってちょっと帰ったところがこの騒ぎだという。鎌倉のことが気にかかるが、汽車が不通で行くことは出来ず、電話も
下敷となったとか、さらに引きつづき起った火事で横浜・鎌倉・小田原等は全滅したとか、平塚・厚木方面が最もはなはだしいとか、
して昨日来の新聞号外に見えている。横浜にも、鎌倉にも、その他にも懇意な人が少くない。箱根へは頼みつけの
気でないが真相が明かでない。西川龍治君は昨日鎌倉へ行かれたが、むろん汽車はなく、自動車も利かぬという。留守宅
士(日本歴史地理学会前幹事)はどうであったろう。鎌倉は、小田原は、箱根はと、次から次へと人の上が案ぜられる
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然るべく慰問の辞を呈して、転じて大島町の郊外空地の臨時火葬場を見る。昨夜来五百の屍体を二つの山に
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したとか、平塚・厚木方面が最もはなはだしいとか、箱根や熱海は跡方もなくなったとか、恐ろしい報告が頻々として昨日来の新聞
鎌倉にも、その他にも懇意な人が少くない。箱根へは頼みつけのN医学士が三十一日に行かれたはずだ。それら
前幹事)はどうであったろう。鎌倉は、小田原は、箱根はと、次から次へと人の上が案ぜられるが、通信は杜絶し
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自転車で駆けつけて来てくれた。その談によると、王子から宅までの間に約五十回も、自警団のために車から下ろされて
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ただ茫然としている。あれは神田方面だ、あれは番町方面だ、本郷だ、下谷だ、浅草だ、日本橋だ、いや近く区内で諏訪町
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ている。あれは神田方面だ、あれは番町方面だ、本郷だ、下谷だ、浅草だ、日本橋だ、いや近く区内で諏訪町が盛んに焼け
すれば、久堅町の甥の宅だとて油断がならぬ。本郷・神田方面の友人の上も心配だ。とても安閑としている気には
御無事な外観を見ただけで失敬した。転じて本郷の通りへ出て、焼けたという一高へ行ってみると、これも
。行きにはさまでにも思わなかった電車道には、本郷の方から郡部に向って逃れる焼き出されの避難者がすでに陸続として
へ証明書を貰いたいと頼んで来た学生がある。「本郷へ帰るのに道々の関門で喰い止められて危なくてとても通行が出来ません。
。もし岩崎邸へ火が廻ろうものならば、せっかく残った本郷の残部も助かるまい。さては小石川の方面も助からぬと、危惧の念が
震災の跡の視察にまわる。まず大塚線の電車道を本郷に出て、湯島天神の境内から眺望すると、湯島の台地一帯はもとより、
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と、まだ昼飯も喰っておらぬことを忘れて出かける。音羽の通りには潰れ家もかなたこなた見える。一丁目の大きな瀬戸物屋も無残に
音羽の方からワイワイ泣きながら富士見坂の方へ行く十二、三歳の少女がある
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ならば、せっかく残った本郷の残部も助かるまい。さては小石川の方面も助からぬと、危惧の念がまた増して来る。幸いに午後に
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一日関東地方に起った大地震は、未曾有の大災害を東京・横浜その他の都邑に及ぼした。いずれこの大変事については、新聞・雑誌
●待ち兼ねた横浜の消息
九月三日(月)震災第三日。横浜から湘南一帯の地は東京よりも地震が強く、家屋の倒壊はなはだしくして、
までことごとく下敷となったとか、さらに引きつづき起った火事で横浜・鎌倉・小田原等は全滅したとか、平塚・厚木方面が最もはなはだしいと
報告が頻々として昨日来の新聞号外に見えている。横浜にも、鎌倉にも、その他にも懇意な人が少くない。箱根へ
をもんでいると、ヒョッコリ小杉美二郎君が見えた。横浜のある会社に勤めておられたのが、万死に一生を得て夜通し徒歩
されたのだったという。その談によると、横浜の家屋はたいてい倒壊して、同君の勤めていた会社もその数に漏れ
がために、幸いに御無事であったという。しかし横浜の仮寓が焼かれたばかりでなく、市庁の火災に多年蒐集した市
のためにも取り返しのつかぬ大損害である。過去の横浜の歴史の大部分はこの震災火災のために永久に葬られてしまった訳だ
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久しく勤めておられた文学士宮崎栄雅君は、今は佐渡へ帰ってお寺の御住職で納まっておられるのだが、その長女が
ヒョッコリ学会の事務所へ訪れられた。ちょうどこれと同じころに佐渡からは宮崎君が家族の安否を気づかって駆けつけられた。大阪からも兄なる
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、浅草も、下谷もすべて焼けているという。はては宮城にも火が移ったという。噂は噂を生んで何が何やら少し
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。造兵の火がはや伝通院あたりまで来たという。本所・深川方面は火事と津浪とで全滅じゃそうなという。神田も、日本橋
しても大変なことだ。深川には親戚がある。本所にも妻の妹が幼児を連れてまだ逗留しているはずだ。伝通院
九月四日(火)震災第四日。本所・深川全滅の報知はすでに震災第一日からしきりに伝えられた。中に
したものの、深川なる妻の叔母の一家族や、本所の親類へ来ているはずの妻の妹などの消息がいっさい不明なので
、その報告によって始めて真相を知ることが出来た。本所・深川は噂通りの全滅で、今もって到るところに死体が横たわっている
、それも焼け出されたので、消息がまだわからぬ。本所に来ている妻の妹の安否も知れぬ。それらも無事であれかし
て下谷・浅草・神田・日本橋・京橋、さては川向うの本所・深川まで、見渡すかぎり赭色の焼野の原で、不燃質の残骸のほかに
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揚げられたもの、その数いくばくと数えも切れぬ。その両国の屍体には、いかなる特志の人の仕業にや、一人一人に廻向の辞を書いた紙
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にまわる。まず大塚線の電車道を本郷に出て、湯島天神の境内から眺望すると、湯島の台地一帯はもとより、南から西へかけ
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あれは神田方面だ、あれは番町方面だ、本郷だ、下谷だ、浅草だ、日本橋だ、いや近く区内で諏訪町が盛んに焼けている
神田も、日本橋も、京橋も、芝も、浅草も、下谷もすべて焼けているという。はては宮城にも火が移ったという
まわるはずはない。猛火は容赦なくあらゆる物を焼いて、下谷・神田・浅草の方まで一つになっているのだという。湯島
日朝になってもまだ止まぬ。いったん喰い止めていた下谷池の端が盛んに焼けているという。もし岩崎邸へ火が廻ろうものなら
と、湯島の台地一帯はもとより、南から西へかけて下谷・浅草・神田・日本橋・京橋、さては川向うの本所・深川まで、見渡す
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銀行は皆支払を停止している。先月分の俸給を京都から振替で送金したので、その他の分を併せて五百円だ
角田諒造君がはるばる見舞に見えた。それで始めて京都の消息がわかった。あちらでは頻発する新聞号外の報道に驚かされて
書いた紙片を手向けあるのには、かの寛正二年の京都数万の餓死者について、城北の一僧が一つ一つ小卒塔婆
永久に葬られてしまった訳だ。平安朝以来度々の京都の大火に、過去の史料が失われて真相が不明になったものの
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夜になって、前の通りを高崎聯隊・宇都宮聯隊の兵士の列が通過する。群馬・栃木の警官の応援隊が入り込む
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もわからぬが、何にしても大変なことだ。深川には親戚がある。本所にも妻の妹が幼児を連れてまだ逗留
の火がはや伝通院あたりまで来たという。本所・深川方面は火事と津浪とで全滅じゃそうなという。神田も、日本橋も
、親しくそれを訪問して帰ったのだという。初め深川の宅では最初の地震とともに火が諸方に起ったので、
報告によって始めて真相を知ることが出来た。本所・深川は噂通りの全滅で、今もって到るところに死体が横たわっている。
の噂もすでに少からず聞かされている。あるいは弟も深川への往復の途中で、何か間違いが出来たものではないかと
比較的少かったことが判って一と安心したものの、深川なる妻の叔母の一家族や、本所の親類へ来ているはずの妻
九月四日(火)震災第四日。本所・深川全滅の報知はすでに震災第一日からしきりに伝えられた。中にも
・浅草・神田・日本橋・京橋、さては川向うの本所・深川まで、見渡すかぎり赭色の焼野の原で、不燃質の残骸のほかには
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九月一日関東地方に起った大地震は、未曾有の大災害を東京・横浜その他の都邑に及ぼした。いずれこの大変事については、
九月一日夜、炎煙東京の半ばを蔽うの時、瓦落ち壁崩れた小石川東青柳町の宅にて。
新築したもので、この工事については自分はかねて東京の地震の多いのに顧慮し、職人らに笑われながらも柱間にうるさい
で親しく監督して明治四十年に新築したものだ。東京中の家が七割まで倒れるほどの地震でなければ、この家は倒れ
も一杯ありがたく頂戴して渇を医したことであった。東京市民は停電にも困ったが、さし当り断水に閉口しているのだ。
した今日、それがいつ開通するともわからぬ今日、東京市民はたちまち兵糧攻めに逢いはせぬであろうか。差当り自宅はどうで
(月)震災第三日。横浜から湘南一帯の地は東京よりも地震が強く、家屋の倒壊はなはだしくして、畏くも宮様方の
東京の火は三日朝になってもまだ止まぬ。いったん喰い止めていた
一向わからぬ。そのほかに考古学の梅原末治君が一日に東京へ来られたはずだが、それもわからぬ。
二少女と祖母の君とが、九月の新学期から東京でしかるべき家を借りて住まわれる都合になり、このほど夫人がこの三女
大阪なる兄の娘、すなわち宮崎君には姪なる人も東京の学校に学ばれることになったので、その二少女と祖母の君
御住職で納まっておられるのだが、その長女がかねて東京に遊学しておられ、今度その大阪なる兄の娘、すなわち宮崎君に
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あれは番町方面だ、本郷だ、下谷だ、浅草だ、日本橋だ、いや近く区内で諏訪町が盛んに焼けているなどと、立ち昇る煙を
火事と津浪とで全滅じゃそうなという。神田も、日本橋も、京橋も、芝も、浅草も、下谷もすべて焼けているという
は、夜になってもまだ帰っておらぬ。甥は日本橋の富士紡会社に勤めているのだ。そしてそのあたりはとくに焼けてしまって
午後に久堅町の甥がやって来た。日本橋の勤め先が焼けたばかりではなく、押上工場が全焼したので、
はもとより、南から西へかけて下谷・浅草・神田・日本橋・京橋、さては川向うの本所・深川まで、見渡すかぎり赭色の焼野の原
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方面だ、あれは番町方面だ、本郷だ、下谷だ、浅草だ、日本橋だ、いや近く区内で諏訪町が盛んに焼けているなどと、
という。神田も、日本橋も、京橋も、芝も、浅草も、下谷もすべて焼けているという。はては宮城にも火が移っ
はことに蔵書家として知られている人だ。浅草には黒川真道君や大槻如電翁がおられる。有名な書肆浅倉屋が
。猛火は容赦なくあらゆる物を焼いて、下谷・神田・浅草の方まで一つになっているのだという。湯島の和田英松君
たことだけはわかった。が、まだそのほかに嫁して浅草にいる叔母の長女すなわち妻には従妹のもとへ、先日来三女が逗留
次男らが帰って来た。その報告によると、帰路浅草へ廻って従妹の家を見て来たが、焼け跡に一同妻の実家
には目を遮るものほとんどなく、ただその中に焼け残った浅草寺の境内のみが、平素想像していたよりもよほど近く青々と見える
湯島の台地一帯はもとより、南から西へかけて下谷・浅草・神田・日本橋・京橋、さては川向うの本所・深川まで、見渡すかぎり赭色
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が、多数の群集はただ茫然としている。あれは神田方面だ、あれは番町方面だ、本郷だ、下谷だ、浅草だ、日本橋
、久堅町の甥の宅だとて油断がならぬ。本郷・神田方面の友人の上も心配だ。とても安閑としている気にはなれ
深川方面は火事と津浪とで全滅じゃそうなという。神田も、日本橋も、京橋も、芝も、浅草も、下谷もすべて焼けて
はない。猛火は容赦なくあらゆる物を焼いて、下谷・神田・浅草の方まで一つになっているのだという。湯島の和田
台地一帯はもとより、南から西へかけて下谷・浅草・神田・日本橋・京橋、さては川向うの本所・深川まで、見渡すかぎり赭色の焼野
引き返して湯島から焼け跡を神田明神前に出る。災後六日の今日になってまだ所々に余焔
本所の被服廠跡を訪う気にもなれず、転じて神田から丸の内へ出て、夕方に宅に帰った。
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富士見坂を上ってみると、大塚仲町停留場の附近の板塀に、早くも新聞社の掲示が張り出されている。
ぬが捕縄をかけた若者を引いて、裏通りを近所の大塚警察に連れて行く。それと見た群集はすぐにそれを放火の犯人
だ。ことに自分らの東青柳町は、その背後に通称大塚の火薬庫なる兵器廠があるので、それを爆破すべく不逞の徒が
親戚の見舞かたがた自転車で震災の跡の視察にまわる。まず大塚線の電車道を本郷に出て、湯島天神の境内から眺望すると、
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に版が崩れてしまったに相違ない。印刷所たる秀英舎市ヶ谷工場の被害が気にかかる。区会議員たる古藤田君は臨時区会に招集され
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の人々は一様に電車線路や豊島岡御墓所の門前、護国寺の境内に露宿している。遠方の焼き出された人々が、荷物を
。同じ通りを検束されて行く人が相踵ぐ。護国寺境内の杉林の中に、七、八人の一団を巡査が幾人か
。すでにH博士の令息などは、久堅町から家財を纏めて護国寺前へ避難して来た。新聞の号外がぞくぞく電柱や板塀に張出される
は、夜になっても一向に減らぬ。富士見坂上から護国寺前まで、宅の前の通り二町余の間に五ヵ所の警固所
ず続いている。町内の人々は昨夜と同様電車線路や護国寺前の広場に露宿している。電燈もない暗闇の道をしばしば騎兵の
なって、すでに罹災者が収容されているのである。護国寺の境内にも多数の避難者が群集しているのである。このあたり
奉職しておられるが、かつて自分の後を承けてこの護国寺境内なる今の豊山中学校を物にした人だ。その在職中夫人と
夕方に次男同伴で護国寺境内を見てまわる。観音堂前に近ごろ出来た名物燈籠は、一つ残ら
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ままに背負い出して、やっと火を免れ免れしつつ、北足立郡谷塚なる自宅へ帰ることが出来たのだという。何という嬉しい便りだろう
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とで全滅じゃそうなという。神田も、日本橋も、京橋も、芝も、浅草も、下谷もすべて焼けているという。はては
に寄寓しておられた。ところでこの大地震だ。その京橋の家からは御多分に漏れず焼け出された。安否のほども不明で、
ほど夫人がこの三女同伴上京して、借宅の見付かるまでと京橋の知人の家に寄寓しておられた。ところでこの大地震だ。その
、南から西へかけて下谷・浅草・神田・日本橋・京橋、さては川向うの本所・深川まで、見渡すかぎり赭色の焼野の原で、
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九月三日(月)震災第三日。横浜から湘南一帯の地は東京よりも地震が強く、家屋の倒壊はなはだしくして、畏く
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焼けた。昌平校の跡形もなくなった。須田町から柳原を両国橋へ出て電車道を東へ、何一つない焼け跡を往来の人が
出る。伊予橋の上下に屍体の浮流しているもの、両国橋の西詰に引き揚げられたもの、その数いくばくと数えも切れぬ。その両国
帰路伊予橋を過ぎて再び両国橋に出る。伊予橋の上下に屍体の浮流しているもの、両国橋の
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遺されているのは何という奇蹟であろう。宅は小名木川に面した所で、すぐ側に大富橋がある。それが地震に墜落