春雪の出羽路の三日 / 喜田貞吉

春雪の出羽路の三日のword cloud

地名一覧

歌垣山

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かけ歌また一種の歌垣である。『摂津風土記』に見える歌垣山、『万葉集』や『常陸風土記』に見える筑波のカガイ、皆同じ種類のもの

奥州

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も夢の間に過ぎて、目が覚めたのはすでに奥州と羽州の境界たる板谷峠をも越えた後であった。窓外を見ればまだ

ただしこの厨川というのは、安倍貞任の最期を告げた奥州の厨川とは全然別の厨川だ。柵址には八幡神社が勧請せられ

は、なお久しく麁蝦夷すなわち生蕃の住処として遺され、奥州の国府多賀城から、出羽の秋田城に通ずるにも、最上川に沿うていったん西に

。わが国では同じアイヌ種の蝦夷人をでも、奥州を東とし、越後・出羽を北といったがために、シナの東夷

たのだ。延喜前後から地方の政治はなはだしく紊乱した。奥州においては蝦夷の族勢力を恢復して、いったん設置した郡までが

た郡までが夷地に没入するの情勢となった。かくて奥州では俘囚の長安倍頼時が、今の陸中中部の六郡を押領して

もって鎮守府将軍に任ぜられ、胆沢に移って威を奥州に振い、かねてこの仙北を領していたので、その勢力は遙かに安倍

浜松

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ことである。しかるに弘化二年、水野家五万石で浜松からここに転封したさいには、この城内三千石の地も高に数えられ

筑波

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に見える歌垣山、『万葉集』や『常陸風土記』に見える筑波のカガイ、皆同じ種類のものであろう。自分の郷里においても、夏

御通夜と称し、今猶行はるといふ」とある。やはり筑波の歌かがいと同じく、もとは未婚の女子の夫定めの機会をなした

松嶺町

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飽海郡松嶺町の南に大沼という村がある。ここに古来獅子という踊があって

北浦

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略記』に、「八幡宮の北方に当る村落を仙北の北浦と称し、此地方に於ける妙齢の女子、恒例祭に社参し、一夜の

豊橋

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で、三月号に紹介した宇和島の鹿の子踊りや、豊橋の鬼祭のような類で、昔は各地に行われたものが、名

本州

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ない、こちらではもう桜が咲きかけているころだ。同じ本州のうちでも奥羽地方となるとそんなにまで様子が違うものか、これは

仙北

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お訪ねしたい。同君は昨年丹後熊野郡長を辞してこの仙北の地に帰臥せられ、お好きの道とて郷里の故事を調査せられ、

仙北でもまた庄内地方と同じく、皮革を扱う旧特殊民をラクといってい

八幡神社略記』に、「八幡宮の北方に当る村落を仙北の北浦と称し、此地方に於ける妙齢の女子、恒例祭に社参し、

仙北の俘囚

仙北の名は今は平鹿郡と川辺郡との間にある一郡の称となっ

一帯の地の総称であった。今の雄勝・平鹿・仙北の三郡はすなわち、すべていわゆる仙北のうちなのだ。それを総称して

今の雄勝・平鹿・仙北の三郡はすなわち、すべていわゆる仙北のうちなのだ。それを総称して時にあるいは仙北郡ともいった。

ほぼ『延喜式』に見ゆる山本郡の域に当り、いわゆる仙北の一部たるに過ぎぬ。そして今の山本郡の地は、『延喜式』時代

四年郡名整理のさいに、大いにその実際を誤って、仙北をもって一郡の名と心得たがために、もとの山本郡にこの名

仙北あるいは『吾妻鏡』に千福ともある。例の奥羽訛りによってセンポクと

蝦狄あるいは狄俘といったのであった。元慶の当時なお仙北の地には、少からず生蕃がいたのだ。延喜前後から地方の

任ぜられ、胆沢に移って威を奥州に振い、かねてこの仙北を領していたので、その勢力は遙かに安倍氏に増していた

東北地方

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たることなるべしだと。「おばこ」の「こ」はけだし東北地方の方言で、よく名詞の尻につける「コ」であろう。東京あたりでも

しッコなどと語尾のコを附ける場合が少くないが、東北地方にはことにそれが多い。牛のことをベコというので、それに

金沢西根村

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によれば、この駅の所在は金沢町・飯詰村・金沢西根村の三町村入会地で、どの町村名を取って駅に名付けるということも

八幡宮

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丘陵の頂上は二段に削平されて、上段に八幡宮の社殿がある。額に正八幡宮とある。別に二の丸、西の丸

は金沢一郷のみがその氏子たるに過ぎなくなった。八幡宮はその宗社石清水に古く放生会が行われたほどで、ことさらに殺生を忌まれ

八幡宮の社殿に「お通夜」ということが行われる。男女相集ってかけ歌を

のだ。伊藤君記述の『八幡神社略記』に、「八幡宮の北方に当る村落を仙北の北浦と称し、此地方に於ける妙齢の女子

平鹿郡

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。『民族と歴史』第五巻第四号に、羽後平鹿郡の細谷則理君が報告せられた「羽後のおしあひ祭」と題する

大井川

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だもの、たまに大雪で汽車が不通になったならば、大井川の河止めに遭ったくらいに覚悟して貰えばよいのかも知れぬ。

蝦夷

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ではあまりに不便とあって、天平年間にこの方面の蝦夷を征して雄勝の道を通じ、最上郡からただちに御物川の上流に出ることと

を雄勝城にうつし、仙北平野の拓殖も進んで来る。蝦夷も次第に内地化して、いわゆる俘囚となって来たのではあった

八百三人に給した。狄俘とは夷俘というと同じく、蝦夷の生蕃の謂である。わが国では同じアイヌ種の蝦夷人をでも

の東夷・北狄の語を取って、越後・出羽方面の蝦夷をしばしば蝦狄あるいは狄俘といったのであった。元慶の当時なお仙北の地

前後から地方の政治はなはだしく紊乱した。奥州においては蝦夷の族勢力を恢復して、いったん設置した郡までが夷地に没入するの

アイヌ

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いう石器、土器など取り寄せて見せてくださった。土器はもちろんアイヌ式のもので、石器は多くは奥羽地方の普通品だが、ただ一つ

庄内

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て来られた。これ幸いとさきに御厄介になった庄内の阿部正己君に、同地方遺蹟踏査の御相談に及ぶと、このころは

夜四山楼の晩餐に、庄内のおばこ節というものを聞かして貰うの光栄を得た。おばこ踊とは

良い」の義で、酒田地方の方言だという。同じ庄内でも鶴岡ではこれをコバイチャというそうな。

金沢

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。かねて見たいと思っている後三年の役の遺蹟金沢柵址を、雪の中に見てまわるも面白かろう。ついでに久しくお目

君に伴われて、駅前のある会社の事務所で少憩、金沢八幡社の祠官三浦憲郎君とともに、飯詰村中島の江畑新之助君の

雪車に送られて、後三年の役の遺蹟たる金沢柵址踏査に出かけた。この間約一里。春霞が深くこめて数

ヒヤヒヤさせられる。翌二十九日、三浦祠官は朝早くから金沢へ先発せられ、自分は深沢君とともに、またも箱雪車に

測量部の地図には載っておらぬ。地図をたよりに金沢柵址踏査の旅程を予定した自分には、当初この駅の存在が

た揉んだの揚句に、後三年の役の戦跡たる金沢柵址に通ずる最近の駅だというので、その役の名を駅

によれば、この駅の所在は金沢町・飯詰村・金沢西根村の三町村入会地で、どの町村名を取って駅に名付けると

た名前だ。聞くところによれば、この駅の所在は金沢町・飯詰村・金沢西根村の三町村入会地で、どの町村名を

駅から役の最後の遺蹟たる金沢柵址まで約一里。その間に一群の丘陵が邪魔になって、

雪の金沢柵址

車の厄介になって、約一里の雪の郊野を金沢町に送られた。平地では滑走自由ですこぶる爽快だったが、それ

た。恵美須屋さんまた伊藤君と双璧ともいうべき熱心な金沢通で、ことに丹彩の技に長じて、神社の宝物その他を

柵や後三年の役に関係した史料を集めて、『金沢史叢』という大部の叢書をまでも編輯しておられるお方だ

待っておられる。伊藤直純君は熱心な金沢研究家で、金沢柵や後三年の役に関係した史料を集めて、『金沢史叢』

、すでに社務所で待っておられる。伊藤直純君は熱心な金沢研究家で、金沢柵や後三年の役に関係した史料を集めて、『

三浦祠官を始めとして、前代議士の伊藤直純君、金沢町助役の伊藤直之助君、近所の菓子屋恵美須屋さんの御主人戎谷亀吉君など

清原武衡・家衡らが最期の籠城の地たる金沢柵址は、金沢本町の丘陵上にある。その麓を流るる川を厨川と

拠守するところとなっていたためかも知れぬ。金沢氏拠守のことはその伝えがあるが、その他にもなかったと

になっているとある。加藤君は全く後三年の役と金沢柵とについては、なくてはならぬお方なのだ。元

乗り合したが、その人達の談に、明後日とか金沢町附近で演習が行われるので、加藤直純氏から講話を承るはずに

金沢八幡社のお通夜

に、出羽国六个郡之鎮守とある。しかし後世では金沢一郷のみがその氏子たるに過ぎなくなった。八幡宮はその宗社石清水

金沢柵址の八幡神社は、伝えて八幡太郎義家が、羽州鎮護のために

各地に行われていたものであろう。そしてそれがこの金沢八幡社の恒例祭日にも行われているのだ。伊藤君記述の『

また俘囚に普通に見る氏である。後三年の役の末金沢落城のさいに当って、義家は清原氏を罵って、武則賤しき夷

山形

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。それが不思議にも山形に近づくとほとんどなくなっている。山形で下車して有吉君に行程のことを電話し、次の列車に乗りかえ

所見渡す限り広々と雪の原だ。それが不思議にも山形に近づくとほとんどなくなっている。山形で下車して有吉君に行程のこと

山形泰安寺――秋元家の巾着寺

くださった有吉君・阿部(正己)君などと同車で、山形ホテルに送られて、ここで一夜の御厄介になる。阿部君は史蹟

しまって駅に来たのも知らず、汽車は仕合せに山形止りであったので良かったものの、それでも危なく車庫内に運び込ま

後三年駅午後五時の上り汽車に乗って、山形に着いたのが九時四十五分。あの広い二等車中には、二

譜代の大名として、たびたび転封の経験を有し、この山形では明和四年に武州川越から移ってより、弘化二年上州館林に

れて千歳亭で昼餐の饗応に預った。同君は多年山形商業学校校長を勤められ、県立図書館長を兼ねて、先年満鮮旅行のさい

山形城址

午後、山形城址の案内を受けて一覧した。維新前はわずかに水野氏五万石

福島

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足を伸ばして、大宮駅のあたりから眠りにつき、白河・福島も夢の間に過ぎて、目が覚めたのはすでに奥州と羽州の

秋田

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の住処として遺され、奥州の国府多賀城から、出羽の秋田城に通ずるにも、最上川に沿うていったん西に下り、飽海郡から西海岸

た。出羽方面の王化はまず海岸から入り込んだので、秋田・渟代(能代)の辺はすでに、斉明天皇朝に阿倍比羅夫の遠征に

東京

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来いと言われる。その交渉に手間取って、やっと二十七日の東京上野駅発の夜の急行で出発した。

、昨日深沢君から「二八ヒゴ三ネンエキマツ」という電報が東京の宅に届いた。それを自分は二十八日午後三時ネン駅で待つ

方言で、よく名詞の尻につける「コ」であろう。東京あたりでも隅のことを隅ッコといい、うんコ・しッコなどと

は、珍らしいことの多かったのが嬉しい。帰ってみると東京の桜はすでに咲いている。

館林

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明和四年に武州川越から移ってより、弘化二年上州館林に転じて、水野越前守と入れ交るまで、わずか八十年にも足ら