安吾の新日本地理 07 飛騨・高山の抹殺――中部の巻―― / 坂口安吾
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ってヒダへ出たのは木曾御岳と乗鞍の中間の野麦峠のようだ。この峠のヒダ側は小坂の町です。
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をぬいて喪屋を切りふせ足で蹴って突き離した。美濃国の藍見河の河上の喪山がそれだと云う。
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ここに思いだされるのは、日本武尊が伊吹山で気を失って死にかけたとき、清水をのんだら、いったん目がさめた
。どちらも天皇に殺されてるし、殺された場所が伊吹山を中にはさんで東と西、ミノと近江に分れているだけだ。おまけ
アベコベにひッくり返してあるものだ。壬申の乱では伊吹山を中心に敵味方が西と東になってるが、筑紫へ行く使者が明か
から、これも恐らくアベコベになっているのだろう。それも伊吹山が中心ではなくて、両方にとって隣国でありながら全然タブーの如くに
その復路の方が、そして日本武尊が信濃坂で道に迷い伊吹山で死ぬまでのところが大友皇子の場合を現しているのかも知れない。
思うのです。なぜなら、日本武尊と大友皇子の話は伊吹山を境にアベコベになっています。ところが壬申の乱の陣立は、必死
れた日本武尊の伝によると、近江ざかいにちかくて伊吹山にもちかいタドの美泉が死なんとする日本武尊を一度正気に返した清水
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の領分のように思われますが、大友皇子の命で筑紫へ援軍をもとめにゆく使者がアズミ連です。
伊吹山を中心に敵味方が西と東になってるが、筑紫へ行く使者が明かに信濃の生れたるアズミ氏だから、これも恐らくアベコベに
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と、ヒダの最南端でミノに接するところだが、昔はミノの国に所属して、壬申の乱のころは、この辺をワサミ郷と
次の文武、元明両帝は各々信濃坂が険しいからと、ミノ木曾間の道をひらいております。つまり今までのヒダ、シナノ間の道が
そして次の元正女帝に至って、ミノの行宮へ行ってタド山の美泉をのんで、あんまり霊験イヤチコだからと、
自殺したのであろう。スクナは敵軍来るときいて、ミノのブギ郡の下保へ出陣したとあるが、そしてその辺がたしかに両面
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一人が行心で他の一人がトキの道ツクリ。これは伊豆へ流されています。
仕立てて殺して、その一類を流刑にする。ヒダと伊豆に対して。そういうカラクリをめぐらしてまで、まるめこむ必要があったように思う
思うのです。行心という名の方は普通ですが、伊豆へ流された「トキの道作り」という氏名は、彼の秘密の役割を
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。ところが、御岳、乗鞍の尾根つづきの穂高、槍、立山、がそれと同じ以前からさかんに里人に崇敬登山せられ、乗鞍を中心に
に歩いていたと見られる。穂高中心に北には立山へ、南には乗鞍、御岳へと彼らは尾根づたいに往復して
乗鞍、御岳へと彼らは尾根づたいに往復して立山と御岳から低地へ降り、もしくは中間の峠を降りた。御岳を尾根
しか見られない由であるが、この木のある所は立山から尾根を通る神様の休憩地だから、これに触れると神罰をうけて
家の定説の由ですが、穂高か乗鞍か、または立山から御岳を結ぶ尾根全体を神の住居として両側の美濃(ヒダは
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て天智後の戦争のたび、又はその平定後、そして平安京が本当に安定する頃までの期間というもの、それらの国々に対し、また
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しかし、それから二年後には信濃から諏訪を分離して、ヒダとスワの二国を合せてミノの按察使の支配下に
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ております。その祭った場所は大和国三郷村立野の龍田神社と大和国河合村の広瀬神社でありますが、決してヒダの地で祭った
の河合村に鎮座することになったようです。ところが龍田神社の所在地は大和の三郷村という。一見したところヒダのワサミの神様
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をとりいれてみんな自国の伝説と結びつけてしまう。だから、九州から奥州の果まで至るところにタカマガ原だの天の岩戸だの天孫降臨の
伊賀、尾張、美濃などの大軍がうごき、近江の方も九州や東国へ援軍を送るように使者をだしている。それによると、東
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天武天皇の十三年二月に使をつかわして畿内に遷都の地をさがさせたが(この使者の主席は広瀬王です)同じ
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でいた日面の出羽の平のホラアナをでてミノの武儀郡下ノ保で戦い敗れて逃げ戻り、宮村で殺された。その死んだ地が
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も使をだして信濃に行宮をつくらせた。これは筑摩、今の松本あたりの温泉へ行幸のためならん、と書紀は書いてい
天武帝が筑摩の温泉へ行宮をつくろうとしたのも、シナノ側にもある神聖なる霊泉
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ときミコトに刀を与えたりして励ましているのは、伊勢と熱田の斎宮の皇女ですが、さて双生児の一方はというと、書紀の
の大親分の運命を暗示する一ツでもあって、伊勢が内実はそういう面をもつ神でもあることは、伊勢と吉野と近江
が内実はそういう面をもつ神でもあることは、伊勢と吉野と近江、それから隠され里のようなヒダ、スワ等のその後の
のであります。それは後で説明しますがとにかく、伊勢はここに祭られた神の本当の故郷ではありません。それは文句
まア、そのへんはどうでもいいのですが、伊勢、伊賀、尾張、美濃などの大軍がうごき、近江の方も九州や東国へ
大和に祭られた方は大も大、大そうな扱いで伊勢の外宮の分身となっておるのであります。
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はそういう面をもつ神でもあることは、伊勢と吉野と近江、それから隠され里のようなヒダ、スワ等のその後の史実が
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まア、そのへんはどうでもいいのですが、伊勢、伊賀、尾張、美濃などの大軍がうごき、近江の方も九州や東国へ援軍を
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てみんな自国の伝説と結びつけてしまう。だから、九州から奥州の果まで至るところにタカマガ原だの天の岩戸だの天孫降臨の地が
だ順路などで、ヒダ、シナノ、上野、常陸、越、奥州などが皇威に服さぬ一連のエミシどもの住む土地であることが分る。する
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はなくヒダでなければならぬ筈だが、ヤマトだのナラの山ができて、それを兵隊たちが「古京」とよんでいるのだ
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が書き加えられていた如くに、彼らヒダ人はこのアルプスの難路を馬にのって風のように走りまわっていたのではないでしょう
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家の第三祖に当られる御方のようです)はヒダとスワの両国に対して特にフシギな処置をほどこしております。スワは信濃の国に属して
の美濃(ヒダは大昔はミノと一ツの国でした)と信濃の両国を否、両側の日本全てを支配していたと、見るのは当を失したものではあり
浅水がワサミかも知れませんな。ここは昔のヒダ、ミノ両国の交通の最大の要点でしたろう。さすれば、ここに侵入軍の先鋒があったの
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と共に力を合せて戦ううち日本平定直前にチヌ山城水戸で敵の矢に当り、古事記によると途中血だらけの手を洗った
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行心という新羅の坊主がヒダへ流されたのです。大津皇子は殺されましたが、その味方した曲者は二人残して全部ゆるさ
それはどんなことでかというと、天武帝が死ぬと大津皇子がムホンをたくらんで死刑になった。その一味の曲者であるという
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もっとも、逃亡したヒダのタクミ(奈良や京都の建築に徴用された奴隷だ)の捜査と逮捕を命じている千百
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もっとも、逃亡したヒダのタクミ(奈良や京都の建築に徴用された奴隷だ)の捜査と逮捕を命じて
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たとえば日本武尊の東征の交通路などを見ると分りますが、上野ノ国からウスイ峠をこえて信濃へはいってヒダへ出たのは木曾
タマとなり雷鳴のような音をたてて信濃坂をこえ東方上野の国へ行って散ったとある。さきの日本武尊の路を逆に
とか群蠅の飛んだ順路などで、ヒダ、シナノ、上野、常陸、越、奥州などが皇威に服さぬ一連のエミシどもの住む土地
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ていて、ここにはこれを無言で証明する如くに国分寺趾や惣社がある。ところが、もう一ツ昔からヒダの首府と伝え
と出羽にだけ大風が吹くのは妙でしょうが)ヒダの国分寺がたちまち焼けたのも、焼かれたのかも知れませんナ。空海
、大雄寺の仁王は日本一の仁王だと思いましたし、国分寺の薬師と観音に至っては日本の仏像でいくつもない第一級品中
ダイオージとよむ)の身長三尺ぐらいの小さな仁王一対と、国分寺の伝行基作という薬師座像と観音立像とヒダのタクミ自像二ツ
とめないというのがヒダの名人の作です。それが国分寺の薬師と観音ですよ。アア美しい、と云えば、それで尽きてしまう