安吾の新日本地理 10 高麗神社の祭の笛――武蔵野の巻―― / 坂口安吾

安吾の新日本地理のword cloud

地名一覧

紀伊半島

地名をクリックすると地図が表示されます

て土着の地を探し、または四国を一巡したり、紀伊半島を廻ったり、中部日本へ上陸したり、更に遠く伊豆七島や関東、奥州の

宮城

地名をクリックすると地図が表示されます

藤原京でもそうだし、蘇我入鹿のアマカシの丘の宮城と云ったって、平地とほぼ変りのないちょッとした高台にすぎない。

関東

地名をクリックすると地図が表示されます

廻ったり、中部日本へ上陸したり、更に遠く伊豆七島や関東、奥州の北辺にまで安住の地をもとめた氏族もあったであろう。そして

多くのシラギ人を関東に移住させた左右大臣多治比島の子孫が武蔵の守となった後に

川越

地名をクリックすると地図が表示されます

川越にも、ここと同じような獅子舞いが残っているそうだし、若光の

チベット

地名をクリックすると地図が表示されます

と蒙古までは間違いなく至りうるようである。それから更にチベットや中央アジヤの方向へさかのぼりうるかどうかは見当がつかないけれども、とにかく

新潟市

地名をクリックすると地図が表示されます

起る前からのことだ。私が昭和十七年の夏に新潟市へ行ったとき、博物館(であったと思う。あるいは別の場所だったか

四国

地名をクリックすると地図が表示されます

むろん馬関海峡から瀬戸内海にはいって、そこここの島々や九州四国本州に土着したのも更に多かったであろうし、一部は長崎から鹿児島宮崎

宮崎と九州を一巡して土着の地を探し、または四国を一巡したり、紀伊半島を廻ったり、中部日本へ上陸したり、更に遠く

満洲

地名をクリックすると地図が表示されます

高句麗は扶余族という。松花江上流から満洲を南下して朝鮮の北半に至り、最後には平壌に都した。当時

ともかく扶余族の発祥地はハッキリしないが満洲から朝鮮へと南下して、高句麗、百済の二国をおこしたもので、

長岡

地名をクリックすると地図が表示されます

どうして遷都しなければならなかったのだろう? なぜ長岡の工を中止したのだろう? それから数代、必ず前天皇の子を

本郷

地名をクリックすると地図が表示されます

観音様ができた当時、千何百年むかしの話です。本郷の弥生ヶ丘や芝山内がまだ海岸だった頃のことだ。

佐渡

地名をクリックすると地図が表示されます

方面へ南下するのもあるが、富山方面へ南下して佐渡と新潟間より北上を起して途中の浜辺でバクハツせずについに津軽海峡に

飛鳥

地名をクリックすると地図が表示されます

流れにちかい平地の中央か、せいぜい小高い丘の上ぐらい。飛鳥でも藤原京でもそうだし、蘇我入鹿のアマカシの丘の宮城と云っ

本州

地名をクリックすると地図が表示されます

むろん馬関海峡から瀬戸内海にはいって、そこここの島々や九州四国本州に土着したのも更に多かったであろうし、一部は長崎から鹿児島宮崎と

川越市

地名をクリックすると地図が表示されます

東南は高麗峠を越えて飯能に、また高麗川を下れば川越市へでて入間川から荒川となり(つまり高麗川が入間川に注ぎ、入間川が荒川に

九州

地名をクリックすると地図が表示されます

、新羅人や百済人の来朝移住も多かった。南鮮と九州もしくは中国地方の裏日本側とを結ぶ航海が千数百年前に於ても

むろん馬関海峡から瀬戸内海にはいって、そこここの島々や九州四国本州に土着したのも更に多かったであろうし、一部は長崎から鹿児島

も更に多かったであろうし、一部は長崎から鹿児島宮崎と九州を一巡して土着の地を探し、または四国を一巡したり、紀伊半島

石神井

地名をクリックすると地図が表示されます

私はその二、三日石神井の檀一雄のところに泊っていたが、そこからコマ村まで近いから、

そこで檀君と中野君と私の三名、石神井から武蔵野を走ること電車で一時間、飯能についた。駅の広告に、

御婦人連へのオミヤゲにぶらさげて、とっぷりくれた武蔵野を石神井の檀邸へ帰る。

北海道

地名をクリックすると地図が表示されます

ウラジオのものらしい機雷が津軽海峡にまで漂流し、本土と北海道を結ぶレンラク船の航海にまで危険が起ったのは今年の話である。

高句麗

地名をクリックすると地図が表示されます

新羅滅亡後朝鮮の主権を握った高麗ではなくて、高句麗をさすものである。

高句麗は扶余族という。松花江上流から満洲を南下して朝鮮の北半に至り

至り、最後には平壌に都した。当時朝鮮には高句麗のほかに百済と新羅があった。百済は高句麗同様、扶余族と称せられ

には高句麗のほかに百済と新羅があった。百済は高句麗同様、扶余族と称せられている。日本の仏教は欽明天皇の時、今

発祥地はハッキリしないが満洲から朝鮮へと南下して、高句麗、百済の二国をおこしたもので、大陸を移動してきた民族で

越え、日本の諸方に住みついていたと考えられます。高句麗は天智天皇の時代に新羅に亡ぼされたが、そのはるか以前からの当時の

遠く北鮮の高句麗には、南鮮と北九州北中国を結ぶような便利はないが、今日、密輸入

当時に於ても遠く北鮮からの小舟すらも少からぬ高句麗の人々をのせて越や出羽の北辺にまで彼らを運び随所に安住の

この移住は高句麗が新羅に亡ぼされてのち約五十年後に起った。そしてその後、

高句麗と百済と新羅の勢力争いは、日本の中央政権の勢力争いにも関係が

高麗

地名をクリックすると地図が表示されます

この高麗は新羅滅亡後朝鮮の主権を握った高麗ではなくて、高句麗をさすもの

この高麗は新羅滅亡後朝鮮の主権を握った高麗ではなくて、高句麗をさすものである。

藤原京

地名をクリックすると地図が表示されます

藤原京を経て奈良京に都したとき、日本の中央政府はどうやら確立の

平地の中央か、せいぜい小高い丘の上ぐらい。飛鳥でも藤原京でもそうだし、蘇我入鹿のアマカシの丘の宮城と云ったって、平地と

秩父

地名をクリックすると地図が表示されます

が高麗です。高麗村の北側背面は正丸峠を越えて秩父に通じ、東南は高麗峠を越えて飯能に、また高麗川を下れば川越市へ

背後にひかえる正丸峠と云っても、秩父の山々の末端に当る低山であるし、側面から前面にまわるコマ峠の峰

能登半島

地名をクリックすると地図が表示されます

この日本海の漂流児は能登半島から福井方面へ南下するのもあるが、富山方面へ南下して佐渡と新潟

息の長いのが存在しているのである。そして、能登半島から山陰方面へ南下するのと、富山新潟方面へ南下して更に北上するの

潮流だという話であった。ともかく多くの漂流機雷が能登半島の北岸沿いに新潟秋田方面にまで北上していることは事実なのである

吉野

地名をクリックすると地図が表示されます

吉野の吉水院に後醍醐天皇御愛用のコマ笛があったが、それは色々と

奥州

地名をクリックすると地図が表示されます

、中部日本へ上陸したり、更に遠く伊豆七島や関東、奥州の北辺にまで安住の地をもとめた氏族もあったであろう。そして彼ら

なっていた。それが源氏であり、平家であり、奥州の藤原氏であり、ひいては南北両朝の対立にも影響した。そのような

武蔵野

地名をクリックすると地図が表示されます

高麗神社の祭の笛――武蔵野の巻――

白髯神社は武蔵野に多く散在しているが、一番有名なのは向島の白髯サマであろう。

そこで檀君と中野君と私の三名、石神井から武蔵野を走ること電車で一時間、飯能についた。駅の広告に、

隠れんぼの呼び声は今や全国的であるけれども、その発祥は武蔵野で、武蔵野界隈にだけ古くから伝わっていたにすぎないもののようだ。

というよりも練馬の顔というべきかも知れない。武蔵野の農村に最も多く見かける顔なのである。

フシギなのは、無邪気な子供たちの遊びの中に、この武蔵野の隠れんぼのように哀調切々たる呼び声が呼び交されることの方ではありませ

赤飯を御婦人連へのオミヤゲにぶらさげて、とっぷりくれた武蔵野を石神井の檀邸へ帰る。

武蔵国

地名をクリックすると地図が表示されます

僧三十二人と尼二名と男十九人女二十一人を武蔵国に移して新羅郡をおいた」

下野

地名をクリックすると地図が表示されます

に、「駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の七国の高麗人一千七百九十九人を武蔵の国にうつし、高麗郡を置く」

「駿河と甲斐と相模と上総と下総と常陸と下野の七ヶ国のコマ人一千七百九十九人を武蔵の国にうつしてコマ郡をおいた

中国地方

地名をクリックすると地図が表示されます

人や百済人の来朝移住も多かった。南鮮と九州もしくは中国地方の裏日本側とを結ぶ航海が千数百年前に於ても易々たるもの

新潟

地名をクリックすると地図が表示されます

なこの機雷を見た。それはその年かその前年ごろ新潟の浜へ漂着し工兵が処理したものであったが、すでに当時から

あった。ともかく多くの漂流機雷が能登半島の北岸沿いに新潟秋田方面にまで北上していることは事実なのである。

のと、どっちの方が多いのか知らないが、富山新潟方面へ南下して更に北上する漂流横雷が決して少数ではなく、敗戦

。そして、能登半島から山陰方面へ南下するのと、富山新潟方面へ南下して更に北上するのと、どっちの方が多いのか知ら

南下するのもあるが、富山方面へ南下して佐渡と新潟間より北上を起して途中の浜辺でバクハツせずについに津軽海峡にまで

秋田

地名をクリックすると地図が表示されます

た。ともかく多くの漂流機雷が能登半島の北岸沿いに新潟秋田方面にまで北上していることは事実なのである。

富山

地名をクリックすると地図が表示されます

するのと、どっちの方が多いのか知らないが、富山新潟方面へ南下して更に北上する漂流横雷が決して少数ではなく、

ある。そして、能登半島から山陰方面へ南下するのと、富山新潟方面へ南下して更に北上するのと、どっちの方が多いのか

児は能登半島から福井方面へ南下するのもあるが、富山方面へ南下して佐渡と新潟間より北上を起して途中の浜辺でバクハツ

福井

地名をクリックすると地図が表示されます

この日本海の漂流児は能登半島から福井方面へ南下するのもあるが、富山方面へ南下して佐渡と新潟間

鹿児島

地名をクリックすると地図が表示されます

したのも更に多かったであろうし、一部は長崎から鹿児島宮崎と九州を一巡して土着の地を探し、または四国を一巡し

長崎

地名をクリックすると地図が表示されます

に土着したのも更に多かったであろうし、一部は長崎から鹿児島宮崎と九州を一巡して土着の地を探し、または四国を

奈良

地名をクリックすると地図が表示されます

共に日本の中央政府は次第に本格的に確立して、奈良平安朝のころに雑多の系統の民族を日本人として統一するに至っ

藤原京を経て奈良京に都したとき、日本の中央政府はどうやら確立の礎が定まっ

その孫の福信は少年時代に伯父行文につれられて奈良の都へのぼり聖武から桓武に至る六朝に仕えたそうだ。伯父行文は

そして奈良平安朝で中央政府が確立し、シラギ系だのコマ系だのという

たことが分るが、日本地下史のモヤモヤは藤原京から奈良京へ平安京へと移り、やがて地下から身を起して再び歴史の表面

浅草

地名をクリックすると地図が表示されます

です。もっともそれは江戸開府ごろの話ではなくて、浅草の観音様ができた当時、千何百年むかしの話です。本郷の弥生

海にそそいでおった。その海にそそぐところが今の浅草観音様のところ、そこが当時の海岸で海はそこから上野不忍池まで

入間川が荒川にそそいで)昔の隅田川で申しますと浅草で海にそそいでおった。その海にそそぐところが今の浅草観音様

移住土着していたのは史書に見ることができる。浅草の観音サマはすでにその頃から在ったようだが、その縁起がアイマイ・

上野

地名をクリックすると地図が表示されます

観音様のところ、そこが当時の海岸で海はそこから上野不忍池まで入海になっていたものの由です。もっともそれは江戸開府

池袋

地名をクリックすると地図が表示されます

で終点まで行き、吾野行きに乗りかえ(同じ西武電車だが池袋から吾野行きの直通はなく、いっぺん飯能で乗りかえなければならない)飯能から

東京

地名をクリックすると地図が表示されます

の国の高麗郡であり、高麗村でありました。東京からそこへ行くには池袋駅から西武電車の飯能行きで終点まで行き、吾野

航海にまで危険が起ったのは今年の話である。東京はじめ太平洋岸の人々にとってウラジオの機雷という物騒な漂流児が話題

向島

地名をクリックすると地図が表示されます

は武蔵野に多く散在しているが、一番有名なのは向島の白髯サマであろう。しかし白髯明神の総本家はコマ神社と云われている

阿佐ヶ谷

地名をクリックすると地図が表示されます

お弁当をひらいた。参拝の人々の記名帳をひらくと、阿佐ヶ谷文士一行が来ておって太宰治の署名もあったが、呆れたこと

隅田川

地名をクリックすると地図が表示されます

高麗川が入間川に注ぎ、入間川が荒川にそそいで)昔の隅田川で申しますと浅草で海にそそいでおった。その海にそそぐところが