文学的自叙伝 / 林芙美子
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大変讃めて下すったのを記憶しています。――本郷の肴町にある南天堂と云う書店の二階が仏蘭西風なレストランで、そこ
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た。朝、八時頃、堀の内を発足して丸の内まで歩いて行きますと、十一時頃丸の内に着き、そこで、新聞社に原稿
を発足して丸の内まで歩いて行きますと、十一時頃丸の内に着き、そこで、新聞社に原稿を置いて帰って来るのですが、一度
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ヶ月で馘になり、私は両親と一緒に神楽坂だの道玄坂だのに雑貨の夜店を出すに至りました。初めのうちは大変はずかしかった
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一つの小説も書きません。昭和七年の正月、倫敦に渡ってゆきましたが、ここでは寒さに閉じこめられて、落ちついて
と思い、ひそかに自分の母国語にほこりさえ持ちました。倫敦の宿では川端康成氏の落葉と云う小説にも言葉の美しさを感じ
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は女友達の松下文子と云う方から五拾円貰って、牛込の南宋書院の主人の好意で『蒼馬を見たり』と云う詩集を出しまし
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。再び日本へは帰って来られないと思いました。シベリアのさまざまな雪景色を眺めて、外国でのたれ死にするかも知れないと、本気で
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は忘れる事の出来ない友人なのです。いまは北海道の旭川に帰り、林学博士松下真孝氏と結婚されているのですが、私の
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三、四ヶ月で馘になり、私は両親と一緒に神楽坂だの道玄坂だのに雑貨の夜店を出すに至りました。初めのうちは
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とっては忘れる事の出来ない友人なのです。いまは北海道の旭川に帰り、林学博士松下真孝氏と結婚されているのですが、
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私は、大正十一年の秋、やっと職をみつけて、赤坂の小学新報社と云うのに、帯封書きに傭われて行きました。日給が
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岡山と広島の間に尾の道と云う小さな町があります。ほんの腰掛けのつもりで
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岡山と広島の間に尾の道と云う小さな町があります。ほんの腰掛けの
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日本の両親のもとへ送らなければならなかったのです。巴里では栄養不良の一種で鳥眼になってしまいました。夜分になる
は毎日々々アパルトマンの七階の部屋で雑文を書き、巴里へ送って来た金を逆に日本の両親のもとへ送らなければなら
知れないと、本気でそんなことを考えていました。巴里に着いてからも私から雑文書きの仕事は離れないのです。着くと
歩くのに不自由はしませんでした。三月に再び巴里までまい戻って、私は日本に帰りたいことにあせり始めました。
焦々するのは、詩一つ出来なかったからでしょう。巴里に帰ってみると、あてにしていた稿料が、本人行先不明で
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と、私はまた食べられないので、その頃は、神田のカフェーに勤めていました。大正琴のあるようなカフェーなので、
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ました。大正十三年の春、また、私はひとりで東京へ舞い戻って来ました。セルロイド工場の女工になったり、毛糸店の売子
大変好きでした。大正十二年震災に逢って、私たちは東京を去り、暫く両親と四国地方を廻っておりました。暗澹とした
、東京の私の処へやって参りました。私は東京へ来てから雑誌ひとつ見ることが出来ませんでした。また読みたい
た。半年もすると、両親は尾の道を引きはらい、東京の私の処へやって参りました。私は東京へ来てから雑誌
世の常の娘のように、私は身一つで東京へ出て参りました。汽車の煤煙が眼に這入って、半年も眼
小説の形式では、その年の正月から約二ヶ月、東京朝日新聞の夕刊に『浅春譜』と云うのを発表していましたが
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がすくないので、株屋の事務員をしたりしました。日本橋に千代田橋と云うのがあります。白木屋のそばで繁華な街でした
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て行きました。日給が七拾銭位だったでしょう。東中野の川添と云う田圃の中の駄菓子屋の二階に両親といました
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た。野村氏とは二年ほどして別れた私は新宿のカフェーに住み込んだりして暮らしていました。カフェーで働くことも厭
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この頃から、私は図書館を放浪しはじめ上野の図書館へは一年ほど通いました。此様に私にとって愉しい