早稲田神楽坂 / 加能作次郎
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私と神楽坂
離愁を味わわねばならないだろう。然り而うして、神楽坂を離れて牛込はなく、牛込に住んでいるといえば、それは神楽坂に
牛込はなく、牛込に住んでいるといえば、それは神楽坂に住んでいるというも同然である。
かくして私は多年神楽坂という所に親しみ、且そこを愛する一人として、朝夕の散歩にも
ばまた同じようだといえないこともない。だが兎に角神楽坂は、私にとっては東京の中で最も好きな街の一つだ。
『そりゃ勿論神楽坂だ。殆ど毎晩のように出かける。』と私は立ち所に有りのままを答え
『そんなに神楽坂はいいかね。』
その鼻辺に浮べながら頷いた。『併し僕には、神楽坂は山の手の銀座だとか、東京名所の一つだとかいわれるのが
違ってしまう。何処だってそういえばそうだが、殊に神楽坂は昼と夜との違いがはげしい。昼間あんな平凡な殺風景な所が、夜
の交番下までの通りだって、人出の点からいえば神楽坂には劣らないだろう。けれどもそれらの所と神楽坂とではまるで感じが
ば神楽坂には劣らないだろう。けれどもそれらの所と神楽坂とではまるで感じが違ってるよ。』
だからということもあろうが、妙にあわただしい。それが神楽坂になると、全く純粋に暢気な散歩気分になれるんだ。それは僕一人
いう意識にとらわれて、多少改まった気持にならせられるけれど神楽坂では全く暢気な軽い散歩気分になって、片っ端しから夜店などを覗いて
な呑ん気な、殆ど無我的な気分になれる所は、神楽坂の外にはそう沢山ないよ。外の場所では兎に角、神楽坂ではそんな
外にはそう沢山ないよ。外の場所では兎に角、神楽坂ではそんなことをやっていても、ちょっとも不調和な感じがしないん
が必要なんだね。』と私がいった。『神楽坂にしたって、今日の繁栄を見るに至ったのは、そりゃ種々様々な条件
の種類階級の人々のぞろ/\渦を巻いた、神楽坂独特の華やかに艶めいた雑踏の中を掻き分けながら歩いていた光景は、
普通神楽坂といえば、この肴町の角から牛込見附に至る坂下までの間をさすの
青のいろガラス戸をめぐらしたのが独特の目印で、神楽坂のその支店も、丁度目貫きの四ツ角ではあり、よく目立ってい
。元々地勢上そういう運命にあり、矢来方面早稲田方面から神楽坂へ出る幹線道路として年々繁華を増しつつあったわけであるが、震災
、さらでだに山の手第一の盛り場として知られた神楽坂が安全に残ったので、あらゆる方面の人が殺到的に押し寄せて来て
的に押し寄せて来て、商業的にも享楽的にも、神楽坂はさながら東京の一大中心地となったかの如き観があった。そして夜も
であろうか、矢張り肴町の電車路を越えてから、はじめて神楽坂に出たという気のするのは、私だけではあるまい。たった電車
と変りなくその善い悪いは別として、あれが余程神楽坂の空気や色彩を他と異なったものにしていることは争われない。
街上に不思議にしっくりと調和し融合して、そこにいわゆる神楽坂情調なる独特の花やかな空気と艶めいた気分とをかもし出し、それがまた他
て隣合わせたり向い合ったりしている光景を見かけるが、ここ神楽坂ではそれが左程不自然にも不調和にも思われず、又その何れも
こともないという自由さは、私の知っている限り神楽坂を措いて他にないと思う。
の好個の慰楽所となるであろう。そしてそれが又わが神楽坂の繁栄を一段と増すであろうことは疑いなきところである。今まであの土手
、私達は再び元の人込の中へ引返した。この頃神楽坂では、特にその繁栄策として、盆暮の連合大売出しの外に、毎月
を軒先に掲げて景気をつけていた。だがこの神楽坂では、これといって他に誇るべき特色を持った生え抜きの著名な老舗
されたりしてしまった。そして今ではまた元の神楽坂に戻ったようだ。ただ震災後に新しく出来たやや著名な店としては
だが、これは何れも永久的のものらしく、場所も神楽坂での中心を選び、毘沙門の近くに軒を並べている。そしてこの二軒
という趣があり、ちょっと風月堂といった感じで、神楽坂のみならず山の手方面の菓子屋では一流だろう。震災二、三年前三階
夜の露店に古本屋が大変多くなった。これは近頃の神楽坂の夜店の特色の一つとして繁昌記の中に加えてもよかろう。
の定店が多くなったことは、外では知らず、神楽坂などでは特に目につく現象である。
ことはいえない。けれども大体において、今のところ神楽坂のカッフエといえば田原屋とその向うのオザワとの二軒が代表的なもの
党の間に一種のセンセーションを起したものだった。つまり神楽坂にも段々高級ないいカッフエが出来、それで益々土地が開け且その繁栄を
十字堂という純粋のいい喫茶店が出来ている。それから神楽坂における喫茶店の元祖としてパウリスタ風の安いコーヒーを飲ませる毘沙門前の
花街神楽坂
在住文士の牛込会なども、いつもそこで開いた。実際神楽坂で、一寸気楽に飯を食べに行こうというような所は、今でも
の竹葉の食堂のような家があったらと、私は神楽坂のために常に思うのである。
この辺で私は少し神楽坂の料理屋を廻ってみる機会に達したと思う。そして花柳界としての神楽坂
てみる機会に達したと思う。そして花柳界としての神楽坂の繁昌振りをのぞいて見たい欲望をも感ずるのであるが、併し惜しいこと
いう家のあった頃から見ると、花街としての神楽坂に随分著るしい変化や発展があり、あたりの様子や気分もすっかり変って
て行く男もあった。かくして午後十一時過ぎの神楽坂は、急にそれまでとは全然違った純然たる色街らしい艶めいた情景に
都寿司も先代からの古い馴染だが、今でも矢張り神楽坂の屋台寿司の中では最もうまいとされているようだ。
私は神楽坂への散歩の行きか帰りかには、大抵この横町を通るのを常と
の役に扮し、最早大分稽古も積んで、もう少しで神楽坂の藁店の高等演芸館で試演を催そうとしかけたのであった。その
矢来の通りは最近見違えるほどよくなった。神楽坂の繁華がいつか寺町の通りまで続いたが、やがてこの矢来の通りにまで
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清風亭が後に江戸川べりに移ったのだが、実際江戸川の清風亭といえば、吾々早稲田大学に関係ある者にとっては、一つ
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見に行くように、友達を誘ったり誘われたりして早稲田の奥あたりから出て行ったものだった。夜店なんか見るよりも、ただ人
、でも場所柄よく売れると見えて、私の知っている早稲田の或古本屋の番頭だった男が、夜店を専門にして毎晩ここへ出
住んでいた尾崎紅葉その外硯友社一派の人々や、早稲田の文科の人達がよく行ったものだそうだ。私が学校に通って
鶴巻町通りは、何といっても早稲田で唯一の目抜きの大通りである。だが私があすこを通る毎に思うこと
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人達ばかりでなく、近くの麹町辺からも、又遠く小石川や雑司ヶ谷あたりからもね。』
崖の上に、北向に、江戸川の谷を隔てて小石川の高台を望んだ静かな家だったが、片上伸先生なども一時そこに
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長閑な行楽的な気分が漂っていた。すぐ近くの河田町にある女子医専の若い女学生が、黒い洋服姿で、大抵三人ずつ一組
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『そんな話なんだがね、音羽の護国寺前から江戸川を渡って真直に矢来の交番下まで来る電車が更に
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よりずっと優った所が少なくないよ。例えば近い所では四谷の通りなんかもそうだし、殊に最近の新宿付近の繁華さといったら素晴らしい
『僕は時々四谷の通りなどへ、家から近いので散歩に出かけて見るが、まだ親しみが
夜店などを見て歩く気になれることが少い。それに四谷でも新宿附近でも、まだ何となく新開地らしい気分が取れず、用足し場
来る電車が更に榎町から弁天町を抜けて、ここからずっと四谷の塩町とかへ連絡する予定になっているそうだ。』
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が、併し惜しいことにはもう時間が遅くなった。まだ箪笥町の区役所前に吉熊という名代の大きな料亭があり、通寺町に求友
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出ていたが、それで大に儲けて、今は戸塚の早大裏に立派な一軒の店を構え、その道の成功者として
しまった。殊に電車終点附近近来の発展は驚くべきで、戸塚方面から球場前を抜けてここへ出る道路が開けたのと相まって、やや
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なって、何度引越して歩いても、まだかつて一度も牛込の土地を離れたことがない。郊外生活をして見ようとか、他区に
ばならないだろう。然り而うして、神楽坂を離れて牛込はなく、牛込に住んでいるといえば、それは神楽坂に住んでいると
。然り而うして、神楽坂を離れて牛込はなく、牛込に住んでいるといえば、それは神楽坂に住んでいるというも同然で
更生的の変化を示しているが、わが神楽坂通りをはじめ牛込の全区は、幸にもかの大火災を免れたので、それ以前と比べて
いったような感じでぞろ/\出て来るよ。牛込の人達ばかりでなく、近くの麹町辺からも、又遠く小石川や雑司ヶ谷あたり
様の御利益だったのかも知れないが、兎に角昔から牛込の盛り場としてにぎやかなので、だから人が出る。人が出るから
のだが、いつかあの白い海鼠餅を組立てたような、牛込第一の大建築だという北町の電話局の珍奇な建物の前をも
出すほどに繁昌し、活動などの盛んにならない前は牛込に住む人達の唯一の慰楽場という観があった。私が小さんや
意味でいい思い付きだといわねばならぬ。今では牛込名物の一つとなった観があり、この頃は天気さえよければいつも押すな
といい、横寺町の島村先生の芸術座といい、由来わが牛込は日本の新劇運動に非常に縁故の深い所だ。
江戸川通りの発展こそは、わが牛込においては殆ど驚異的である。早稲田線の電車が来ない以前は、低湿
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花街神楽坂
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別として、この藁店の牛込高等演芸館といい余丁町の坪内先生の文芸協会といい、横寺町の島村先生の芸術座といい、由来
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私の追想は更に飛んで郵便局裏の赤城神社の境内に飛んで行く。あの境内の一番奥の突き当りに長生館という下宿屋
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目立ってよくなった。あの大震災の直後は、さらでだに山の手第一の盛り場として知られた神楽坂が安全に残ったので、あらゆる
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立たないのが常である。私は本紙に連載中の大東京繁昌記の一節として、これからその印象や思い出を語ろうとして
私が東京へ出て来てから既に二十二、三年にもなるが、その間今日
こともない。だが兎に角神楽坂は、私にとっては東京の中で最も好きな街の一つだ。こないだも芝の方に住ん
は殆ど全部灰塵に帰して、今やその跡に新たなる東京が建設されつつあるので、その光景も気分も情調も、全く更生
『併し僕には、神楽坂は山の手の銀座だとか、東京名所の一つだとかいわれるのがちょっと分らない。あれ位の所
なった。その寺町の通りは、二十余年前私が東京へ来てはじめて通った時分には、今の半分位の狭い陰気な通り
と二人でその店へ上ったが、それが抑々私が東京で牛肉屋というのへ足踏みをしたはじめだった。どんなに高く金
が、当時は市内至る処に多くの支店があり、東京名物の一つに数えられるほど有名だった。赤と青のいろガラス戸
て来て、商業的にも享楽的にも、神楽坂はさながら東京の一大中心地となったかの如き観があった。そして夜も昼も
思い出されるのは江戸川の桜の衰微である。これは東京名所の一つがほろびたものとして、何といっても惜しいこと
。亡くなった東儀鉄笛氏が、震災で倒れたというあの東京専門学校時代からの記念的建物だった当時の大講堂に、幾回も私達
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ていたが、その頃まだ今の早稲田線の電車が飯田橋までしか通じておらず、間もなく大曲まで延びたが、私は乗換え
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山の手の銀座?
とつい自然に無意識に足が向いてしまうんだよ。銀座あたりまで出かければ兎に角、外にちょっと手頃な散歩場がないからね。』
『銀座なんかと比べてどうかね。』
浮べながら頷いた。『併し僕には、神楽坂は山の手の銀座だとか、東京名所の一つだとかいわれるのがちょっと分らない
、その気分なり、空気なりが僕は好きだ。これが銀座とか浅草とかいう所になると、幾らか見物場だとか遊び場
の屋台店位だったが、それがいつとはなしに、銀座あたりと同じく毎晩定夜店が出るようになり、人出も毎晩同じように多く
いった様子で一々私の説にうなずいた。そして山の手の銀座といわれるのも無理がないとか、下町気分もかなり濃厚だなどと
ただ震災後に新しく出来たやや著名な店としては、銀座の村松時計店と資生堂との二支店位だが、これは何れも永久
、家族連などで気楽に行けるような日本料理屋を、例えば銀座の竹葉の食堂のような家があったらと、私は神楽坂のために
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出て来るよ。牛込の人達ばかりでなく、近くの麹町辺からも、又遠く小石川や雑司ヶ谷あたりからもね。』
遊歩場というものを持たないわれ/\牛込区民や、麹町区一部の人々の好個の慰楽所となるであろう。そしてそれが又わが
これは麹町区内に属するが、見附上の土手が、新見附に至るまでずっと公園
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所では四谷の通りなんかもそうだし、殊に最近の新宿付近の繁華さといったら素晴らしいものだ。すぐ隣の山吹町通り、つまり江戸
見て歩く気になれることが少い。それに四谷でも新宿附近でも、まだ何となく新開地らしい気分が取れず、用足し場又は
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なり、空気なりが僕は好きだ。これが銀座とか浅草とかいう所になると、幾らか見物場だとか遊び場だとか
更綺麗でもあるしにぎやかでもあるんだね。ちょっと浅草の仲見世みたいに』とかれはいった。
ものが方々に出来た。そしてこのヤマニ・バーなどは、浅草の神谷バーは別として、この種のものの元祖のようなもの
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『そんな話なんだがね、音羽の護国寺前から江戸川を渡って真直に矢来の交番下まで来る電車が更に榎町
眼ざむるばかりに明るく活気に充ちているが、音羽護国寺前からここまで一直線に来るべき電車の開通も間があるまじくそれが完
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に、むしろ徒歩に如かずとそのまま焼餅坂を上り、市ヶ谷小学校の前からぶら/\と電車通りを歩いていたのだが、
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しかりを受けることもないだろう。震災直後に三越の分店や日本橋の松屋の臨時売場などが出来たが、何れも一時的のもので間
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のものだ。以前古本専門で、原書類が多いので神田の堅木屋などと並び称せられていた武田芳進堂は、その後次第に
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たが、間もなくスターが廃業して今の牛肉屋恵比寿に変った。早いもので、オザワが出来てからもう今年で満十年
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に、小舟に棹し遊ぶ者もかなり多いが、あれが江戸川橋からずっと下流の方まで、両側の葉桜の下の流れを埋めて入り乱れ続い
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出来て、児童の遊園地としてのみならず、早稲田や目白あたりの学生の好個の遊歩地としていつも賑っている。時節柄関口の
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たためもあって、馬場下の通りでも、坂上の旧高田馬場跡の下戸塚通りでも、見違えるほど明るい繁華な町になった。
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君と私との三人で文壇独身会を発起し、永代橋の都川でその第一回を開いたりしたのもその頃のことだった