世の中へ / 加能作次郎
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彼は十六の時に大阪の方へ出奔して行つた。その後どんな生活をして居たか、それ
は、四条のお雪伯母の養子にしてあつた、大阪の新町の芸妓屋の息子で、その頃兵隊に徴られて伏見の聯隊に
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私が伯父を頼つて、能登の片田舎から独り瓢然と京都へ行つたのは、今から二十年前、
四条の伯父は其の年の初夏の頃初めて能登へ来て寄つた。病後の保養かた/″\加賀の山中温泉へ、妾と
た。私は正直に言へばよかつたのだが、能登の者だといへば、車夫が田舎者だといふので尚馬鹿にするだら
「能登のものです。浅次郎です。」と大きな声で父の名を呼ばはつた。
「何や? 能登の浅はん※」と、驚き怪しむ様な調子で家の中の声が言つた
よつてな、妾お断りどす言ふとな、此の子が能登の浅次郎や言ははるんやらう、変どしたけどな。」と姉に説明
「能登へ行つたかて、お母さん居らへんし、妾等は京の者になろえな
「能登の伯父さん、お達者どすか? 此の前はな、家の旦那はんが
「私が能登へ行つた折も、矢張りあゝやつて寝て居よつたが、同じ病気に
「能登へ言うてやつたらどうどす? そして浅はんに来てお貰ひやすな。
、不思議な感に打たれた。父は京都に生れて能登の片田舎へやられた。私は能登の片田舎に生れて父の故郷の京都
は京都に生れて能登の片田舎へやられた。私は能登の片田舎に生れて父の故郷の京都へ飛び出して来た。そして二人とも二十五
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それからはとんとん拍子であつた。七条新地に女郎屋を、三条の方に鳥屋を、西石垣に会席料理屋を、先斗町に芸者屋をといふ風
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一部がその向うに高く見上げられた。高田派の本山なる興正寺別院の甍がそこの中腹の深い樹立の中に光つて居た。手前の
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に当つた。数年ならずして彼は別に、五条の方に牛屋を始めた。それからはとんとん拍子であつた。七条新地に女郎
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条の伯母の家におちよぼとなつて居た。私は四条の伯父の許へ行つたのであつた。
晩飯がすんで、姉の手が空いてから、私は四条の伯父の家へ連れられて行つた。
に新しい店を一つ宛もたせた。そして最後にこの四条の橋詰に最も新しく最も気に入りのお雪伯母に宿屋を始めさせたの
併し私が京都へ来た時には、この四条の家だけしか残つて居なかつた。それほど手広くやつて居たの
お福といふ養女と別居して居た。彼女は時々四条の店の方へやつて来たが、泊つて行くことは稀であつた
このお高さんを大変可愛がつて、行く/\は、四条の家の方の養子にしてある幸三郎といふ男と娶はせる考へだつた
幸三郎さんといふのは、四条のお雪伯母の養子にしてあつた、大阪の新町の芸妓屋の息子
て行つたのは、十二月の始め頃であつた。四条の家は、いゝ借手が出来て、居抜のままに店を譲つた
満足を感じて居たらしかつた。彼はその為に、四条の家や清水の家を抵当に入れて金を作つたのであつた
私達が清水の方へ引越して来てから、彼女は以前四条に居た頃ほどに、繁々顔を見せなかつたが、勧工場が出来た
丁度その頃、四条の家が、まだ賃貸の契約期限の来ない中に、借主の方で明け渡し
「丁度いい幸や。また四条へ行つて何か商売を始めてやろか。」と伯父が深い考へもなし
、伯父は毎日の様に家の造作の監督の為に四条の方へ出掛けて行つた。器物なども、他の同業者間に使はれて
四条の家の改造工事も予定通りに進捗した。階下だけ全部建て直し、二階
私はもう勧工場の方へは出て居なかつた。四条の家の改築も出来て、もう間もなく開店の運びになつてから、
「今からおまはんに頼んで置くが、四条の店が出来たら、奉公人やと思はんで、家の者やと思うて
はもはや何をする張合もなくなつたと言つた。せめて四条の店を出して、彼女の喜ぶ顔を見てから死なせたかつたと
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初めて能登へ来て寄つた。病後の保養かた/″\加賀の山中温泉へ、妾と二人連れでやつて来た序に、自分だけその弟
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は軽い麻裏を穿き、ステッキを携へて悠々と歩いた。祇園から清水あたりまで行くこともあつたし、電車で北野の天神さんへお詣り
では彼女はお雪伯母に似て居た。彼女は祇園でかなり知られた芸妓だつたさうだが、今は廃めて、ある旦那に
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「矢つ張り鴨川の水やな、来なはつた時は、廊下の板の間の様どしたが
、若い美しい女房と二人連で、祇園の夜桜だの、鴨川の納涼だの、といつて暢気に遊び歩いて居る自分の姿を空想に描い
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あつた。私が行つた時分には、お高さんは丹波の福知山に芸妓をして居て京都には居なかつた。これも後
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帰りには京極へまはつて、見世物を見たり、善哉を食べたりして、日暮に六条
宵の京極は人の波でこね返されて居た。そしてその明るい眩ゆい灯の光は、
よつて、おまはん、暫く遊んでお出で。京極へでも行てお来なはい。かまへん。お父つあんには、
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。裏の竹藪から、谷を隔てて続いて居る梅林(興正寺別院下から清水寺へ行く近道に当つて居る)の梅も見頃に近く
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三十三間堂あたりから順々に、清水、高台寺、祇園、円山、知恩院、太極殿、それからずつと疏水の方まで歩いて行つた。
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「金沢市のもんや。」と、小賢しくも都会人であるぞと深く印象させる為に
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、その三年前、十三の年に京都へ行つて、六条の伯母の家におちよぼとなつて居た。私は四条の伯父の許へ
、見世物を見たり、善哉を食べたりして、日暮に六条の家へ帰つた。そして、晩飯がすんで、姉の手が空いてから
が出発前に嫁に行つて居た姉の家――六条の鍵屋――に暫く身を寄せて居た。親の方では表向き彼
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、本妻として、戸籍には載つて居たが、宮川町の方にお福といふ養女と別居して居た。彼女は時々四条の
であつた。伯父もお雪伯母もその日の朝から宮川町のお文伯母の住居へ行つて居た。私は昼は勧工場を休み、
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二階建の大きな建築が愈※竣成した。伯父は清水寺の境内の或る料理屋で土地の陶器店の人々を招待して、盛大な開業
から、谷を隔てて続いて居る梅林(興正寺別院下から清水寺へ行く近道に当つて居る)の梅も見頃に近く、奥の間の
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出掛けた。近くの大仏、三十三間堂あたりから順々に、清水、高台寺、祇園、円山、知恩院、太極殿、それからずつと疏水の方まで歩いて
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私が伯父を頼つて、能登の片田舎から独り瓢然と京都へ行つたのは、今から二十年前、私の十三の時であつ
そして私の姉は、その三年前、十三の年に京都へ行つて、六条の伯母の家におちよぼとなつて居た。私
私の父は京都生れの者で、京都には二人の兄と一人の姉とが居た。長兄は本家の後
私の父は京都生れの者で、京都には二人の兄と一人の姉とが居た
殊に山中の温泉に居て、西瓜が食べたくなつて態々京都から大きな新田西瓜の初物を取り寄せたといふ話や、村へ来た時
を身につけて出ること、浪華亭の旦那といへば京都で誰知らぬものもない位だといふこと、其他之に類する種々
於ける豪奢な生活振りからも想像された。家は京都では第一の眼抜の場所にあつて、三階建の大きな建物
て居たし、伯父自身が、得意らしく誇らしげに話す京都に於ける豪奢な生活振りからも想像された。家は京都では
なければ」といふ気が始終して居た。自分も京都へ行かう、その方が父の為にも私自身の為にもよいと
な境遇を共に相憐み合つて居た姉が、京都へ行つてからは尚更だつた。私は父の側を離れるのが此上
が浮かんで居た。私と別れることよりも、私が京都へ行くことに決心したその心根を察して、いぢらしくなつたので
不安のみが心を去来した。汽車はその日の夜半京都へ着く筈だつた。
彼を恐れた。私は七つの時田舎の叔父と京都へ行つて迷児になつた時、親切さうに宿へ送り届けてやると言つ
はそれを信じて居た。私は汽車の中でも京都の町でも掏摸で一ぱいになつて居る様に思つて居た。汽車
二年おきには京都へ行つた。そして帰つて私達に京都の話をする時にはいつも掏摸の話をして聞かせた。私達
だされた。父は一年おきか二年おきには京都へ行つた。そして帰つて私達に京都の話をする時にはいつも掏摸
京都の停車場へ着いたのは、夜の十二時近くであつた。しかし姉
に映つた。橋を中心にしたその辺の街は京都で最も美しい賑かな街の一つであつたが、その灯の街とも
七八年の後、彼はひよつくり京都へ戻つて来た。そして彼が出発前に嫁に行つて居た姉
京都へ戻つた時には、彼はいくらかの纏つた金を懐にし
併し私が京都へ来た時には、この四条の家だけしか残つて居なかつ
、お高さんは丹波の福知山に芸妓をして居て京都には居なかつた。これも後になつて聞いたことであるが
京都へ来て以来、長い間圧へつけられて居た喫煙慾が、再び
京都へ来てから、私は暫くの間その欲望を制するのに苦しんだ。
私は十五になつて居た。京都へ来てからもう足掛三年目であつた。その頃から半年余り
れた。私は能登の片田舎に生れて父の故郷の京都へ飛び出して来た。そして二人とも二十五の年に家を持つ――そんな
が思ひ出されて、不思議な感に打たれた。父は京都に生れて能登の片田舎へやられた。私は能登の片田舎に生れて
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汽車に来せて呉れた。その頃北陸線の汽車は金沢迄しか通じて居なかつた。
私は船頭さんに伴はれて鉄道馬車で金沢まで行つた。船頭さんは私を停車場まで送つて来て呉れた。そして
「金沢のお客さんどす、開けてお呉れやす。」と車夫は叫んだ。
れて、何かぶつ/\呟いて居た。私が金沢のものだなどと嘘を言つたのを変に思つたのであらう。
なあ、」と伯母も口を添へて、「車夫が金沢のお客さんや言ふよつてな、妾お断りどす言ふとな、此の子が
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さうかうして居る中に、電信の技手で、東京から出張して来て半年余りも滞在して居た森本といふ男と
でもしてあつたか、お信さんの情夫の森本が東京から出て来た。上海の海底電信局とかへ転任になつて、
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啼く音が聞えた。それにつれて家に飼つてある目白も高音を張つた。裏の竹藪から、谷を隔てて続いて居る梅林
のやうに呟いて居たが、やがて、手を合せて目白を拝みながら南無阿弥陀仏を繰返した。
凭れて立つたまゝ、軒先に吊してある籠の中の目白に向つて、何かぶつ/\独語のやうに呟いて居たが、
姉はん。」とお雪伯母は笑ひながら言つた。「目白を拝まはつたりしてさ。」
お見。」とお文伯母は一寸此方を振り返りすぐまた目白の方を向いて言つた。
「一羽の目白はんがな、一生懸命磨り餌を食べてはるしな、もう一羽のが
お文伯母が目白に対しても、まるで人間のことを言ふやうに丁寧な言葉を使ふ
妾等が生きてるのも、みな阿弥陀様のお蔭や、目白はんでも金糸雀はんでも、みな同じこつどつせ、有難いことどす
さとでまんじりとも出来なかつた。お文伯母が目白を拝んで居た時の俤などが眼について恐しくてならなかつ