安吾の新日本地理 05 消え失せた沙漠―大島の巻―― / 坂口安吾
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だったね。彼女はノドをつぶしていました。毎晩大島節を唄うせいさ。甲斐性があるのだね。島にはタメトモが多いそうだ
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富士山麓は三島の宿の三島明神は東海道では熱田神宮につぐ大社であり、熱田が皇神であるにくらべて、これは事代主(また
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新しき土」とやらいう日独テイケイ映画をつくった。そのとき浅間山のバクハツ瞬間を撮そうというのでカメラをすえつけ、何人かの日本人の映写技師が
意味があるのだが、日本では珍しくもないたかが浅間山のバクハツにすぎないのだし、命じるのは外国人のそう手腕卓抜とも思われ
とにかく、おかげ様で浅間山のバクハツ瞬間というものを我々も見物させていただいたわけです。あれも黒煙
いただいたわけです。あれも黒煙天に冲しましたね。浅間山のバクハツはまさに黒煙天に冲するという性質のものだそうです。
、煙の高さは五百米位にすぎないそうで、浅間山のように天高く、また遠く山麓に向って広範囲に火山弾や火山灰を噴き散らす
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。熔岩に粘性が少いと噴煙がないのだそうで、富士山などもそういう性質の山だそうだ。しかし黒煙モウモウたるときもあるが、
富士山の宝永四年(西暦一七〇七年)十一月二十三日のバクハツの記録によると
というようにくり返しています。表面が砂のような富士山だから火口壁も再々くずれ火の玉と黒煙の噴火が入りまじって起ったものらしい。
起ったものらしい。今回の三原山のもそうらしいが、富士山の記録にくらべると黒煙におおわれるよりも、火の玉だけ打ちあげるバクハツの方が多い
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富士山麓は三島の宿の三島明神は東海道では熱田神宮につぐ大社であり、熱田
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で通過したとき(高度は三千メートルぐらいだったらしい)内輪山の斜面を熔岩が二本半、黒い飴ン棒のように垂れていた
大島だけは、そうではない。黒い火口があって、内輪山の斜面を垂れ下る二本半の熔岩があって、銀色の沙漠がそれをとりまい
御神火茶屋まで登っても、さてそれから沙漠を横断して内輪山の火口壁まで行くのが大変だ。砂だから歩きづらいということもあるが
安永三年(西暦一七七四年)に今まで沙漠の中に、内輪山よりに残っていた熔岩をだしたのだそうだ。
そうですが、打ち上げる高さはせいぜい二三百米にすぎず、内輪山の火口壁周辺にころがり落ちる程度で、沙漠の外側の外輪山で見物している我々
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伝説が一番古いのだろう。もっとも先住民族の遺跡はある。野増村では熔岩の下から人骨と縄紋土器と石ウスとヤジリなどが出たと
大島の古い民家に特殊な型があって、それが野増村や差木地にかなり残っているというので、野増村へ行ってみた。
が野増村や差木地にかなり残っているというので、野増村へ行ってみた。着流しの村長さんの案内で、代表的な旧家を三四軒
にわたってタメトモの住みよい島にできてるようである。野増村の着流しの村長は私が大島で会った人たちのうちで誰より無愛想で
もっていた。私がこの怪物に呆れていると、野増村の人たちまで怪物を珍しがって集ってきたから、島民にとっても
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ということもあるが、あの沙漠をうめる熔岩ならアタミと伊東の二ツの市をまとめて下に敷き隠してしまうのはワケはない。
のエネルギーはそのバカらしさで持ってるようなものさ。伊東から大島行の定期船は午前の八時半と十一時半にでる。午後は定期
東京から七時間、一ねむりのうちに。伊東からは二時間、橘丸だと一時間半でカンタンに行くことのできる大島
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イロリ、棚などみんな在り場所や在り方がきまっている。志摩の漁村の民家も四方造りの独特なものだというが、私はそれを
がまじっているのは、近いのだから当然だが、志摩に似たところもあるようだ。そうかと思うと、海で働くのは
専門だ。けっして海の仕事をやらないところはアマで名高い志摩の男女の生態とは全く相いれない。
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富士山麓は三島の宿の三島明神は東海道では熱田神宮につぐ大社であり、熱田が皇神であるにくらべて、これ
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大昔に神様の一族が三宅島へきて伊予の三島神社を勧請したのを、さらに伊豆の白浜を経て三島へ勧請
伊予の三島神社というのは瀬戸内海の大三島(オーミシマ)の三島神社であろう。この
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そうだ。そういう自然の威力と人間の小さゝは三原山の熔岩を見ると身にしみますよ。ただ、そこには原子バクダンが人間
この前に三原山が海岸まで押し流した熔岩は天和四年から元禄三年の七年間にわたる噴出
なるには百年か二百年もかかるのだろうか。とにかく三原山といえば沙漠が名物であったが、その沙漠が一九五一年に失われて
れて、熔岩原となった。そして今後は熔岩原が三原山の新名物となって、再び沙漠が名物になるには百年もかかると
青ガ島は再度にわたってサンタンたるものであったらしい。三原山が活動をはじめた、鳴動した、黒煙をふいた、という話は、
ところが、三原山はそうではないそうです。火山弾を打ちあげるだけで、ほとんど黒煙をともなわない。
火の玉と黒煙の噴火が入りまじって起ったものらしい。今回の三原山のもそうらしいが、富士山の記録にくらべると黒煙におおわれるよりも、火の玉
三原山は多量の煙をださない代りに多量の熔岩をだす。昔人々がとびこんで
熔岩がもりあがって山をきずいたのが新火口である。三原山の最高所は波浮よりの外輪山の剣ガ峯という七五五米のところだが
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へきて伊予の三島神社を勧請したのを、さらに伊豆の白浜を経て三島へ勧請したものだという。途中に立寄った白浜
三島神社の古伝と合っている。延喜式神祗巻では伊豆の三島神社、白浜の伊古奈比※命神社、ともに名神社であり奈良
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のはまだまだ夢物語だそうで、颱風のエネルギーにくらべると、長崎でバクハツした原子バクダンのエネルギーなどはその何千分の一という赤ん坊の
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。だから古伝を信用すると、すくなくとも三宅島には奈良朝以前に大ヤマズミを祖神にいただく一族が土着したものらしい。しかしその
白浜の伊古奈比※命神社、ともに名神社であり奈良朝時代から朝廷の封戸をうけたというから三宅島から三島へ移ったの
先住民の移住の経路や時代は分らないが、三宅島が奈良朝以前なら、これもそれと同じようにみてよかろう。こういうことは
クダクダしく分りもしない歴史をのべたが、要するに奈良朝以前からの原住民のそれと今の大島の特殊な風習と、どこまで
中世まで、各時代のミヤコ言葉が残っているのはすでに奈良朝時代からクゲの流人が七島へ送られた記録がハッキリしているの
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東京から七時間、一ねむりのうちに。伊東からは二時間、橘丸だ
「さッきのアレ、こまかくしたかね。まだなら、東京の人に見せてくれないか」という。
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には、いろいろな物資だのネオンだの大島銀座、ハブ銀座などはないが、コルシカやタヒチのような旅があるね。コルシカやタヒチ
だ。大島には、いろいろな物資だのネオンだの大島銀座、ハブ銀座などはないが、コルシカやタヒチのような旅があるね。