随筆 藪柑子 02 随筆 藪柑子 / 土井八枝
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は故郷の土佐の方言を蒐集する爲めに、四十日程高知市に滯在した。其折主人が第二高等學校の校命で大阪及び高知
當時で祝賀會もあり、遊覽の團體もあつて高知市は非常に賑はつて居た。其人出の最も多い高知公園にテント張り
佐川小學校に入學し、八年の課程を終へて高知市に出で、高知高等女學校を卒業してから二年の後、初めて上京
十六七歳の少女の世界にひきもどされて居た。高知市の銀座ともいふべき繁華な町の、とある商店の前を通る時、私
高知市を出離れて少しゆくと友の一人は右手の丘の上にある小社を指し
が謫所・太宰府にお出の時、嫡男高視樣は高知市の郊外潮江に謫された事(今は其所を高視といふ)若君
事は、明治二十五六七年の頃、私が高知市に出て中學校女子部に通學してゐた頃、二日以上休日
の一ヶ年毎土曜日十時からの割烹で、教師は當時高知市第一等の旅館延命軒(帶屋町にあつた)の料理主任和田徳太郎氏
に過された、その感謝と滿足の心一杯で、高知市の旅館の一室に歸つた。
高知市の菜園場といふ町に、與八といふ獨身者の魚賣りが居た。毎日
與八がいつもの通り魚を賣りに上町迄行つた時(高知市を二區分し上町下町といふ菜園場は下町で入海につゞいた所である
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ことを、昭和十一年の啄木の忌日前來訪された盛岡市の小林茂雄博士の御望みにより、三十餘年も前のことであるから何
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に居りまして、有名な『押し出し岩』の見物にも碓氷峠の紅葉狩にも參りました。
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つてゐた。彼は英語を自由自在に操るとか、富士登山をやつてのけたとか、總て子供心に驚異を以て喧傳せられてゐた
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旅行する積りとの事。『私の國は雪がないから北海道と越後の雪景色を見る事を樂しみにして居る』と中々に徹底し
大喜びであつた。もう九州北陸北海道迄も行つて居る。北海道へは雪がもつと深くなつたら、もう一度行く積りと聞かされて、私
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佐川町の訪問をすませて後、越知町の從姉の甥、中村君の家に行く。越知は我が佐川小學校時代に
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援助で維持され、僅か日本人の經營してゐるのは身延山の深敬病院あるのみだ――』と。
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てゐた。復生病院は申すに及ばず、熊本も草津も、目黒の慰廢園すら、一半は外國の援助で維持され、僅か日本人
た。十二年の夏には餘り澤山頂いたので、草津や神山の私立の療院の人達のために、又沖繩の人達のため
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は三十錢であつた事、寺田氏が從兄と一所に室戸岬に徒歩旅行の時、或海邊の旅舍でおいしい鮮魚料理の御馳走が大變
入るぞね』というて食べる。笑ひさゞめく聲は室戸岬の大岩に寄せて碎ける怒濤も消す事は出來ない。食事のあと銘々が菓子
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した。其折主人が第二高等學校の校命で大阪及び高知の高等學校視察に來た。私の母校高知第一高等女學校が校歌
「私が其昔大阪で淨瑠璃を稽古した時に太閤記十段目をお師匠さんに教
破門する、といつて逐電した、汽車のなかつた昔大阪から東の都をさして、名古屋迄來た時懷中が淋しくなつた。そこ
見え、名古屋市中の大評判となつた、どうしてか大阪に居る師匠の耳に入つた。そして師匠が、それ見ろ、と云つて名古屋
それから師匠が大阪へ連れ歸つてみつちり修業さしてくれました」
上特に厚意を寄せられ其巧な陳列振りに『流石は大阪ね』と共に會場を訪うた田中さんと感嘆の笑みをかはした
感じた。この意義の深い校友の集團の中に、大阪で女帶の繪描きとして有名な山本香泉さんも居た。
校友會館に集つて居る、其三日目の午後、大阪から來て居る黒田幾久子さんが『うちの會の姫だるまを考へて下され
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七日の晝頃上野を發ち夕方沓掛驛に着いて星野温泉旅館に一泊した。
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のは味よりもむしろ形ではあるまいかと思ふ。東北地方では虎杖を食べないので、私は郷里を出て以來まだみた事
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『昨日は實に惜しい事をした。明治神宮へ行つて居れば盛裝で參詣する可愛いゝ男女の子供が見られたの
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見れば、前面に箱根の連山が、くつきりと青空に浮び出で、左後には、靈峰富士が
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に驚いて浴室の薄明りで讀みました、その意は岩手山のお宅でお母さんが病氣重態との事でした。「今日着いた十歳に
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で『主婦之友』の記者と、寫眞班の方と落合ひ、共に、用意された自動車に乘つて、秋晴れの田圃道を
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中に特に親しくなつた一人の友が出來た。獨逸のザクセンのドレスデン附近アールバッハの小學校の校長ヨハンネス・シュレーデル氏である。英一と
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居られる方々をもよく見ます、一例は數年前富士山麓の神山といふ處にある癩の病院を訪ねた事が御座いました。そこ
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墓所に次で親戚三軒の墓參の後、自動車で須崎町にゆき吉村屋に投宿。入浴、食事の後町を散歩、舊友を訪
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、汽車のなかつた昔大阪から東の都をさして、名古屋迄來た時懷中が淋しくなつた。そこの粗末な宿屋でぶら/\し
太閤記十段目だけは一寸語れますが、といふ、名古屋はさういふ事が盛な處だから、丁度今何々亭に義太夫の會が
耳に入つた。そして師匠が、それ見ろ、と云つて名古屋へやつて來た。
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この七人は皆九州の療養所から復生病院に連れて來られた者で、勿論、實の父母
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手拭の成功を喜んで仙臺のを初めた。第一に松島を、次に躑躅ヶ岡の枝垂櫻と天守臺の招忠碑とを描い
仙臺驛から電車で鹽釜驛に着く。(鹽釜は仙臺と松島との中間である)神社の裏坂の石段にかゝる、このお婆さんは少々
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汽車はいつの間にか伊野町を過ぎ鐵橋を渡つて日下驛につき加茂驛に向ふ。昔、母の
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○九月三十日の本誌上にハワイなる同胞癩患者のための義捐金募集の記事があつた。私はこの機會
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山梨にて
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正午頃、高知驛から郷里の佐川町に向ふ。途中で思ひ出した事は、明治二十五六七年の頃、
してゐた頃、二日以上休日がつゞく時はいつも佐川町に歸つたものであるが、其往復とも高知伊野間三里だけはいつも
茶店に一休みして後、祖先の墓詣りに行く。途中この佐川町の昔に變る有樣を見て感慨無量。
佐川町の訪問をすませて後、越知町の從姉の甥、中村君の家に行く
私の郷里、高知縣佐川町邊では、四月末頃にはそろ/\螢が出始めて五月
驚く事であらうが、これは約五十年前に高知縣佐川町で私が經驗して來た實際の話である。
佐川町の金峯神社の西の石段の昇り口に、長方形の石の手水鉢があり、いつも
國植物學界の權威者、牧野富太郎先生は私と同郷の佐川町の御出身であるが、十四五年前仙臺へ御出でになられた節
この遊びは二十年餘りつゞいてゐる譯で、此の手水鉢は佐川町の如何に多くの男女の子供に腕の運動をさせてくれたであらう
し、一學年を了へた後、母の郷里高知縣佐川町の尋常小學校に轉じて二學年を修業、これは母の實家で
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山田氏の好意にてK君を本式の通辯に頼んで上野公園の帝展を見にゆく。此お婆さんとは比べ物にならぬ程頭
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で大阪及び高知の高等學校視察に來た。私の母校高知第一高等女學校が校歌作成を依頼中であるので、其を機會
。其折主人が第二高等學校の校命で大阪及び高知の高等學校視察に來た。私の母校高知第一高等女學校が校歌作成
何も特別な話をするのでもない、發音の正しい高知で、わざ/\ズー/\辯を聞く事もあるまい』
十二年三月となつた時、私は用事が出來て高知に行つた其滯在中、第一高等女學校長は例によつて同校卒業
別項藪柑子物語りにも書いた樣に、方言蒐集の用事で高知に一ヶ月餘滯在した事があつた。其折ふと多年あこがれの女達摩
私の母校の高知第一高等女學校は、かねてから校友會館新築の計畫があつた、會の
不足額を得るかに就いて協議した。丁度其折私は高知に歸省中だつたので、其會議に出席して共に頭をひね
高知縣立第一高等女學校
この二つの達摩は高知丈けでなく廣く世上に賣出された、いつか東京の三越の人形
※と帆傘船の三種を作つた)數百本高知校友會に送つた。
柄の手拭賣り切れ大至急百反注文乞ふ」などといふ高知からの電報が私のもとに屆く、私は丁子屋へ長距離電話をかける
は非常に賑はつて居た。其人出の最も多い高知公園にテント張りの校友會賣店を設け先輩の校友諸姉までが(私は
『土佐の高知で見せ度いものは浦戸入江の帆傘船 ヨサコイ/\』
長、校友會長の甲藤義治氏の好意であつたらう、高知の名物男の政吉といふ老藝人を呼んでくれた。私は初めて逢つ
など又後段に云ふ友千鳥浴衣が出來て其發表會に高知に行つた時、一夕校友會の幹部は私共の爲めに歡迎會を
其歌との調和がよかつた、大喜びで澤山染めて高知にもおくり自分も手土産に使つた。
、又例の手拭に染める事を考へた(其後度々高知に歸るが、私はそれ以來其歌を誰れからも聞かない、それで
て殆ど全國的に知られて居る。其中『土佐の高知で』と歌ひ出す『坊さんかんざしの歌』は代表的の物である
此ヨサコイ節は高知の俗謠として殆ど全國的に知られて居る。其中『土佐
(これは後の話であるが、高知の手拭の成功を喜んで仙臺のを初めた。第一に松島を、
のものを次々と思ひ出して見る、そして繪端書や寫眞を高知から送つて貰つたりして、私は素人の圖案をする、それ
だるまの圖案が五種出來た。此千友鳥浴衣は高知に因む柄を、全體の半分は是非入れ度いとは私の初めから
或時ふと高知新聞中土佐特産寒蘭の記事が目につく、私が土佐に居た明治三十
衣主任の田部政男氏の四人連れではる/″\高知に出かけたのである。其汽車中私は浴衣に關するいろ/\の
かくて友千鳥浴衣の發表會が三月中旬に高知で催される事になり、主人の許しを得た私は、東京から、
高知校友會では其七十五種の浴衣をかけて五日間陳列會をし即
持つて町内を一軒々々歩いて注文をとるが、皆高知新聞で承知して居るから、こちらから何もいふ事がない、先方から
とりに行くのに大變樂であると會員達は高知新聞社に感謝して居た。私の同期生の友が其の時の話に
高知新聞では『燃える母校愛から生れた友千鳥浴衣』といふやうな大きい
兼ねる事になり其招待状が屆いた、私は喜び勇んで高知に行つた。
小だるまをかいた。其校友會館でだるま揮毫の事が高知新聞社に知れて寫眞をとりに來た時も、私が身體を小さく
を慰問し記念の撮影をして別れた、其時の高知陸軍病院長軍醫中佐川北伊勢吉氏は一昨年から中支へ轉勤せられ、
し、八年の課程を終へて高知市に出で、高知高等女學校を卒業してから二年の後、初めて上京し、上野の
私は高知縣の片田舍佐川といふ小さい町に生れ、六歳で寺小屋式の教育
佐川高等小學校を卒業すると、直ぐそこに入學し、高知縣立尋常中學校女子部の生徒となつた。其頃は男子部も
私の故郷高知縣には明治二十年以來五年課程の尋常中學校に四年で卒業
翌明治二十六年三月には女子部が廢されて高知縣立高等女學校となり、學年の終りは今のやうに三月
又蓄音器が初めて高知に來た時男子部女子部全體が講堂に集められて代る/″\
西村田鶴)と私を乘せた船は汽笛を鳴らしながら高知棧橋に着いた。十五分も前から甲板に出て懷しい濱と浦
に其幾倍かに擴がつて居る今の高知縣立高知第一高等女學校の校舍であつた。(明治二十八年日清戰爭當時の
舍跡、次に其幾倍かに擴がつて居る今の高知縣立高知第一高等女學校の校舍であつた。(明治二十八年日清
に視線の向くのは共に通學した帶屋町の高知尋常中學校女子部時代の舊校舍跡、次に其幾倍かに擴
て居た高知名物の市を見ながら公園に向ふ。我が高知公園は私の内心自慢の處である。そちこち散歩の後天主閣に昇る
料理に舌鼓をうつ。終つて折よく立つて居た高知名物の市を見ながら公園に向ふ。我が高知公園は私の内心自慢の
。もうそろ/\お立ちにならんと、明るい中に高知迄歸られませんぞよ』との事で一同やつと腰をあげる。
はずつと岡山に出て大阪方面へ行くが、三人は高知の宅迄それ/″\送りとゞけてもらひ度いから、高松で
はいつも佐川町に歸つたものであるが、其往復とも高知伊野間三里だけはいつも人力車に乘つたものである。車賃は標準が
正午頃、高知驛から郷里の佐川町に向ふ。途中で思ひ出した事は、明治二十五
出にふけるうちに汽車は早や佐川驛に着く。昔は高知佐川間七里の道は殆ど一日がゝりであつたが、今で
が私の歡迎茶話會を催すとの事で迎へられて高知驛から直に母校に行く。私が卒業してから三十七年になるが
で此處を立ち佐川驛より汽車に乘りかへ正午頃高知驛に着く。今日午後は母校第一高女校友會古參の方々が私の
、學校の全職員も、お濠一つへだてた向ひの高知縣廳の知事さんと外數人のお役人にも、毎週同じ實費で
外一名の方が入園希望者の迎へにはる/″\高知縣へ御出になつた節、私の郷里が同縣である事を
『……此度高知縣から迎へた十名の患者さんの内六名は重症者で歩行が出來
律子さん、小林壽子さんとの三人連れで私は昨年高知からの歸途秋晴れのきれいな日に(十月二十七日)完全な設備の
私の郷里、高知縣佐川町邊では、四月末頃にはそろ/\螢が出始め
はさぞ驚く事であらうが、これは約五十年前に高知縣佐川町で私が經驗して來た實際の話である。
南全體に海をうけて明朗、温暖な高知に育てられる子供は寒中も尚かぢなば(梶の木の切株に生る茸
思つた事である。(昭和十一年十月稿)「高知新聞」
と言つたさうである。(昭和十一年六月稿「高知新聞」)
私は高知縣の生れで御座います。土井と私の兄とが東京帝國大學の同じ
に入學し、一學年を了へた後、母の郷里高知縣佐川町の尋常小學校に轉じて二學年を修業、これは母の
と弟と伯母(外山三枝、私の實姉で照が高知縣の小學校に一ヶ年居りました間私に代つて照を育て
長崎次郎氏に面會した。長崎氏は私と同じ高知縣出身であり、且少年時代に癩者の悲慘な話を聞いて、いたく
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た方は』と問ふと幸にも仙臺に住はるゝ京都美術學校出身の牧互秀先生だとの事であつた、そこで早速
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で各地に散つて居る用濟みの見本帳は、直接に岡山縣邑久郡長島愛生園内小川正子女史宛送附され度しとの通知を、
山越しに高松迄の往復を頼みたい。私共二人はずつと岡山に出て大阪方面へ行くが、三人は高知の宅迄それ/″
との電報を手にして、先づかねてよりの念願の岡山縣長島にある國立の癩療院長島愛生園を訪ね、一千百餘人の入園患者
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卒業七十一歳)を見つけた、本井さんは老躯も厭はず神戸から百溪光子さん(第四回)と一緒にはる/″\母校の此
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そのうちに雪はしん/\と降つてきて、福島驛に着いた頃は、見渡す限りの銀世界となつた。私は初めて見る
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をするために今仙臺驛に着きました。(そのころ盛岡に放送局はなかつた)啄木は私と中學の同窓でして……啄木が
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迄それ/″\送りとゞけてもらひ度いから、高松で一泊して貰はねばならぬが……』といふと快よく引受け
は物足らぬ氣がするので、二十二日北山越しに高松迄の往復を頼みたい。私共二人はずつと岡山に出て大阪方面へ
で細君は同窓生であるとの事、いよ/\私は高松行きの事をきめたところへ弘光さんが來られたので其話を
參やら訪問やらして來ます。依岡さん秦さんにも高松行きの事を話しておいて下さい』と頼み、私共兩人は市内
日間樂しく過した故郷に別れを告げ、同行の友と高松をさして自動車で出發した。(昭和八年三月)
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に任せてゐた。復生病院は申すに及ばず、熊本も草津も、目黒の慰廢園すら、一半は外國の援助で維持され
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となつて其出版者長崎次郎氏に面會した。長崎氏は私と同じ高知縣出身であり、且少年時代に癩者の悲慘な
に拙い跋文を書いた事が縁となつて其出版者長崎次郎氏に面會した。長崎氏は私と同じ高知縣出身であり
のものを加へて出版する事に決心した。これを長崎氏に話した處、同氏は一通り内容を見て頗る共鳴され、出版
藪柑子數本をいろ/\配置した四五枚の表紙畫を長崎氏に見せ、其一枚を選んで木版にする處まで話が進んだ
それに、數本の藪柑子を添へたなら、面白からうと、長崎氏が云はれた。私は青山御母堂の題簽と、一つの紙
はぬ事に氣が着いたからであつた。それで長崎氏に其事を話して承諾を得た。しかし私は全く藪柑子畫を
記念すべきこの二千六百年に、是非出版をと願つて、長崎氏と種々相談の末、初版の一千枚丈けは、一々肉筆で藪柑子を
けれども、いろ/\變つた圖柄をかく樣にと長崎氏の希望でもあるし、自分でも手習ひの積りに描かして貰
役は勤めてくれる事と又思ひ直し、安心して今日長崎氏に渡したところである。
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のイーリアス韻文譯(萬葉集全部の二倍の量)を富山房から發行した其直後であることは一層の滿足である。
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丁度あの木群の深い藪の中、しつとりと苔のうるほふ深い松山の中などでなければ、みつからない藪柑子の實のあざやかな美しさ、云ひ
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、さうでない、梅野博士が亡くなられた折の、或る東京新聞に出て居たものであります、云々。』
高知丈けでなく廣く世上に賣出された、いつか東京の三越の人形棚の中に此人形が澤山竝んで居るのを見つけた
催される事になり、主人の許しを得た私は、東京から、宮川氏、都鳥染工場主の中村愼三郎氏と友千鳥浴衣主任
東京支部でも陳列や販賣に大いに努力された、内地丈けでなく朝鮮
繪と、主人に作歌してもらつたその歌を、東京支部長村上いく子さんに願つて其達筆を振つて貰つたりした。其
落ちついて見渡すと東京、京阪神及縣内の交通不便な僻地から隨分澤山集つて居る、其
嫁した、私の兄は當時唯一の帝國大學(今の東京帝國大學)英文科の卒業で、土井は同科の一年先輩である。結婚
の正しくない事は豫てから聞いて居たけれども、東京仙臺間のやつと半分を過ぎたばかりの白河で、もうこんなに發音が
昭和七年の初夏、東京朝日新聞の文藝欄に載つた竹さんとかいふ少し間の拔けた男の
、東京の櫻はとくに散つて了つたとの事、東京見物は後廻しにしてすぐに東北へ飛んで來て、昨日は仙臺の
聞いてみると東北へ行けばまだ櫻が見られるが、東京の櫻はとくに散つて了つたとの事、東京見物は後廻しにし
が咲いてゐたのだが、一昨々日横濱へつき東京YWCAに泊つて聞いてみると東北へ行けばまだ櫻が見られるが、
鯉幟の説明も出來ぬのを氣の毒に思ひながら『東京へはいつ歸られるか』と聞くと明日といふ。『それなら丁度幸
へ行き、それからあちこち見物して九月初めに一先づ東京へ歸り、次で日本國中を旅行する積りとの事。『私の
且つ風俗習慣の差をしみ/″\感じた。可成り東京見物もして居る。歌舞伎座へも一人で行つたとの事であつた
貞子さん、二十年振りの弘光慶子さん、三年前に東京で逢つた依岡駿子さんの三人は同期卒業である。皆船を見上げ
に感謝の思ひを以てこの筆を走らせた。(東京にて)(昭和十年十月卅一日稿「主婦之友」昭和十一
不適當といふ言葉で思ひ出した事は、六七歳の頃東京土産に三枚續きの錦繪(江戸繪と呼んでゐた)をもら
先年東京でこれをしやぶつた經驗のある老人達が偶然集つた折、
田舍の大竈を見た事もあるまい。薪ならば東京にもある筈故幾分わかるだらうと思ひつき、
と言はうとしたが、今の東京に住む子供には、枯れ柴を折りくべてぼう/\と燃える、田舍
と問はれる。成程柴も木も大差がなく、東京住居の幼兒に分らないのは無理もない。私はともかくも説明し
高知縣の生れで御座います。土井と私の兄とが東京帝國大學の同じ科に學んで親友だつた關係で、私は土井に嫁し
てしまつたのでございます。次女は只一人殘りまして東京に縁付いて居りますが、宅には私共夫婦と雇人丈けとなりまし
のは廿一日の午前十時で御座いました。早速東京に居る彼女の妹と弟と伯母(外山三枝、私の實姉で照
一の死後六ヶ月目の昭和九年三月十七日に東京で國際友好鯉のぼりの會が組織され、神田區西神田一ノ二に事務所
にも呈上した。又本年四月廿七日には東京青山の根津邸に開かれた國際親善園遊會に合流して廿五ヶ
昭和五年十月の東京日々新聞の角笛欄に次のやうな投書が出た。
一緒に熱海へ數日行つた事があつた。其歸途東京ステーションホテルに一泊した折の事である、早曉に目をさまし
何とはなしに心がひかれて(主人は用事で東京に殘る)私共は七日の晝頃上野を發ち夕方沓掛驛に
東京でも可成寒い一月上旬に、寒氣の更に強い信州の高原へ格別の
それだのに、もはや先生の死後三十年近い今日迄、東京に一つの記念碑がないといふのは殘念だ。だん/\年月
内ヶ崎作三郎代議士、落合學習院教授、小倉右一郎氏、齋藤東京帝國大學教授其他來賓及松本館長夫妻外本館職員一同前苑の芝生上
小泉八雲記念會々長市河博士、戸澤外國語學校長、和田東京美術學校長、阿刀田第二高等學校長、内ヶ崎作三郎代議士、落合學習院教授
學ヲ教授シ日本ニ關スル著述頗ル多シ千九百四年東京ニ歿シ雜司ヶ谷ニ葬ル先生ヲ景仰セル土井英一ノ遺言ニ因
東京客舍に於て
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だるまの圖案製作を承諾し、又綿布專門の染色問屋神田の丁子屋商店を紹介してくれた。丁子屋は都鳥浴衣を染める店である
五月五日午後一時半、約束通り神田駿河臺YWCAにこの老婦人を訪れると待つてゐて喜び迎へる。少
十七日に東京で國際友好鯉のぼりの會が組織され、神田區西神田一ノ二に事務所が設けられ會長には伯爵二荒芳徳氏を
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の洋行中、其頃は女子英學塾と云つて、麹町區元園町の醍醐侯爵邸の建物を其儘に、校舍と寄宿舍
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學校を卒業してから二年の後、初めて上京し、上野の音樂學校に入つた。
たので、私は半途退學して仙臺に住むべく上野驛を立つたのは、忘れもせぬ明治三十三年二月十七日の
は用事で東京に殘る)私共は七日の晝頃上野を發ち夕方沓掛驛に着いて星野温泉旅館に一泊した。
よつて、翌昭和十年初夏、小泉八雲先生の記念碑が上野の帝國圖書館前庭に建てられ、七月一日除幕式が擧行せられた
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待つてゐて喜び迎へる。少時間話して後、今夜日比谷公會堂に開かれる鯉幟會に出席の事を約束する。
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は笑つてゐる』と喜んで指す。次は昔の日本橋で元祿時代と覺しい風俗人形――丁髷のいなせな肴賣が豆絞りの
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七歳の少女の世界にひきもどされて居た。高知市の銀座ともいふべき繁華な町の、とある商店の前を通る時、私は
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。復生病院は申すに及ばず、熊本も草津も、目黒の慰廢園すら、一半は外國の援助で維持され、僅か日本人の經營
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私の生家の北隣、其の當時の大塚氏邸に唐金の飾り鋲の澤山ついてゐる昔風の門があつた