安吾新日本風土記 03 第二回 富山の薬と越後の毒消し≪富山県・新潟県の巻≫ / 坂口安吾

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地名一覧

北海道

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「私は昔は北海道から青森の方を歩いていました。これは青森の農村での話です

高千穂

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と私は日向の高千穂の山奥の宿で宣言した。その高千穂にその日は氷雨が降ってい

私は日向の高千穂の山奥の宿で宣言した。その高千穂にその日は氷雨が降っていた。冬の越路。私の聯想はいささか

秋田市

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ための柵なのか見当がつかないのだ。これは秋田市の海辺寄りにある能代の柵と地形的に近似しており、この地形から

能登

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称名寺というのは慶長初年に能登から辿りついた坊さんの開いた寺だ。もちろん角海にはすでに部落があった

富山県

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第二回 富山の薬と越後の毒消し≪富山県・新潟県の巻≫

佐渡

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古い社のある山だ。そしてその山際の寺泊のあたりが佐渡と結ぶ昔の舟路であったし、直江津から北へのぼるにも概ね海路を

越後平野

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の聖山を弥彦山という。ここに一の宮弥彦神社がある。越後平野の中央、日本海の海岸に弥彦角田という一連の二ツの山が孤立し

はないか。旅館の裏も芸者屋の裏も、見はるかす越後平野であり、また反対側は山である。チョロチョロと家並は百軒ばかりあるだけ

変っている。貧乏どころではなくなったのだ。戦前の越後平野というものは、田地は少数の大地主の持物で、農民のほとんど全部が

まで二三メートル積った雪がせいぜい一尺だという。つまり越後平野は一月十五日以後にせいぜい一尺の積雪を見るにすぎない程度となっ

積ることがあるのだ。関東平野も奥地の方はむしろ越後平野よりも寒いぐらいだ。

してみれば越後平野に二毛作をすることは可能のはずだと私は考えた。昔は秋

越後平野では平野のマンナカへ農学校をつくるぐらい無意味なことはないそうだ。農地のマンナカ

信濃川

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角田村は云うまでもなく、弥彦角田周辺の平野が概ね信濃川の土砂によって後年に至って土地をなし、後年に至って人々が移り住ん

新潟市

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のだ。六百年前ほどの地図によると、いまの新潟市なぞは全然存在しておらぬのである。わずかに沼垂をのこして海は

弥彦

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小学生、中学生の修学旅行で一度は登山に行ったものだ。弥彦の方は山上にホコラがあって山頂が聖地になっているから立派な登山

関東平野

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一月十五日ごろからはじめて雪を見るようになるのは関東平野でも同じことだ。山地ではさすがにそのころから二三メートルの積雪を見る

って年に一二度はそれぐらい積ることがあるのだ。関東平野も奥地の方はむしろ越後平野よりも寒いぐらいだ。

樺太

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は裏日本では新潟をしのぐ良港である。しかし北鮮や樺太との航路を失った現在では全然開店休業の寂しさで、港には

その寂しさは新潟の港も同じことである。北鮮と樺太の航路がなければ用のない港なのだ。一隻も船の姿が

富山

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第二回 富山の薬と越後の毒消し≪富山県・新潟県の巻≫

クスリは富山の広貫堂」という広告板を見た。富山の薬は販売員が各地の家庭を一々訪問して薬袋を預けて行く特別

を旅行したとき、宮崎市内の鉄道沿線に「クスリは富山の広貫堂」という広告板を見た。富山の薬は販売員が各地

もあるものだから、戦争前にふと古本屋の店頭に「富山売薬業史資料集」という三冊つづきの本をみつけて、特別の必要

て行くのも目になれた姿だった。そんなわけで富山の薬は私の生活史に浅からぬ因縁もあるものだから、戦争前に

だものだ。ちょッとした病気になる。壁や柱に富山の薬袋がぶらさがっているとつい飲むようになるのは人情だ。カゼ薬。

私もずいぶん富山の薬をのんだものだ。ちょッとした病気になる。壁や柱に

村内立入りお断り」という高札がかかげてあるが、富山の薬売りと越後の毒消し売りは特別だ。毒消し売りは現金引き換えであるが

。現今でも押売りという行商が横行しているが、富山の薬は一風変っていて、代金は後廻しだ。まず薬袋を預けて

仕事では敬して遠ざけていたのであったが、富山の薬と思いついた瞬間に、ついでに越後の毒消しもやるとふるさとが好

「来月は富山の薬と越後の毒消しだよ」

きわまるものであったが、旅の順序にしたがって、まず富山の薬から語りはじめることにしよう。

ものを造っているのは一二しかないそうだが、元来富山の薬は反魂丹という名であった。そもそもこの一ツで売りだし

富山に七十いくつの製薬会社があるうちで、いまはもうこの反魂丹という

みると、この落語の作られたのは案外近年で、富山の反魂丹というものがすたれて売れなくなり、万金丹なぞだけがハバ

実在し流行した富山の薬の実名だということは富山売薬史を読むまで知らなかった。してみると、この落語の作られ

が、この反魂丹というものがむかし実在し流行した富山の薬の実名だということは富山売薬史を読むまで知らなかった。

なった。そのとき富山の殿様がかねて懐中していた富山の名薬反魂丹をとりだして服用させたところたちまちよくなったので、

が急病になって殿中で死にそうになった。そのとき富山の殿様がかねて懐中していた富山の名薬反魂丹をとりだして服用さ

富山の名薬反魂丹が世上に知られたのは富山城二代目前田正甫という殿様のときで、延宝年間のことだという

富山の名薬反魂丹が世上に知られたのは富山城二代目前田正甫と

は備前岡山の医師浄閑が所持した薬だ。これを富山の者が製法の伝授をうけて帰国し、やがて殿様が愛用するように

が宝暦九年に奉行所へ差上げた由緒書によると、富山本来のものではない。もとは備前岡山の医師浄閑が所持した薬

しかし反魂丹の由来は、富山の家元松井家が宝暦九年に奉行所へ差上げた由緒書によると、

最も売れるのはカゼ薬と鎮痛剤のケロリンだそうだ。私たちが富山を案内していただいた堀田善衞君のお母さんは、

いたが、いまどきこういう骨董的な薬は、旅行者が富山ミヤゲに買ってく以外には注文がないそうで、熊の胆、赤玉も忘れられ

代々反魂丹を製造して今日に至ったという。とにかく富山の薬の製法はもと岡山であることには変りがない。もとより魂かえす

で医を業として反魂丹を造り、のち子孫が富山へ移住して代々反魂丹を製造して今日に至ったという。とにかく

「ケロリンはよくききますよ。あれだけは富山の人もみんなのんでいますね。私たちの同窓会でハンドバッグにケロリンいれて

どの土地のどの製品についても云えることだ。したがって富山でケロリンがのまれているということは、全国的にケロリンがのまれて

自分の薬をのんでいないという意味だ。それは富山の薬に限ったことではなく、各地の製品が自由に流通して

ている割合は何程のものでもない。富山の人が富山の薬をのまないのではなくて、彼らも全国なみにしか自分

薬がのまれている割合は何程のものでもない。富山の人が富山の薬をのまないのではなくて、彼らも全国

薬が行きわたっているとはいえ、薬全体の中で富山の薬がのまれている割合は何程のものでもない。富山の人

が富山の薬をのまないのではなく、日本全体に富山の薬が行きわたっているとはいえ、薬全体の中で富山の薬

をのんでませんという意味だ。もっとも富山の人が富山の薬をのまないのではなく、日本全体に富山の薬が行きわたっ

あんまり富山の薬をのんでませんという意味だ。もっとも富山の人が富山の薬をのまないのではなく、日本全体に富山の

人も――」というのは、富山の人はあんまり富山の薬をのんでませんという意味だ。もっとも富山の人が富山の

た。「富山の人も――」というのは、富山の人はあんまり富山の薬をのんでませんという意味だ。もっとも富山

と云った。「富山の人も――」というのは、富山の人はあんまり富山の薬

「富山の薬じゃケロリンというのが一番売れるんだってさ。タメシにのんで

薬の置き売りをしている業者があるそうだが、富山が脅威を感じるほど盛大なものではないそうだ)彼らはまだ自分

聞き商法の研究でなければならないわけだ。おしむらくは富山の御用聞きには有力な競争相手がないから(大和や岡山なぞにも薬

どうかしていると考えなければならない。要するに、富山薬業の進歩発達という点で彼らが研究しなければならないこと

を回収していると思えばよろしい。こう考えてみれば富山の薬の置き売りは普通の町の商店にくらべて、競争者がない

を人々が薬屋で買ってのむようになったのは、富山の薬業の進歩かどうか分らない。大方の薬業が経費の大半

ケロリンのように富山の薬を人々が薬屋で買ってのむようになったのは、富山の

いうのは、根本が狂いはじめているせいだ。それは富山薬業が自分の本質を見失っているせいであろう。

売人(御用聞き)まかせだから有利であるはずの富山薬業が売人まかせのために不振をかこつというのは、根本が狂い

富山薬業の生態

私は富山へ行ってみるまで考えちがいをしていたのだが、行商人は製造業者

つまり富山の製薬業者は置き売りには直接従事していない。帳主と

これだけ資本がかかるから、この帳面は財産だ。富山に於ては田地と同じように財産で、この帳面が高額に売買され

ところが富山に製薬者、帳主、売人、と三ツあるうち、最も業態の不安定

なみの宣伝や全国の薬屋への売りこみの方に心がけ、富山薬業本来の有利な地盤を忘れがちになっている。

富山薬業の特色は宣伝費の代りに売人という御用聞きが全国の家庭

木戸御免なのだ。つまり新聞やラジオと同じように、富山の売人は各家庭を訪れることができるのである。新聞やラジオと同じ

行商人である。全国的に押し売りお断りの声やかましい当節、ともかく富山の薬売りはどの家庭でも木戸御免なのだ。つまり新聞やラジオと同じ

しかし富山ではこういう特権は忘れられようとしている。広貫堂の社長は

「富山の薬業も近代化されまして、むろん富山本来の置き売りも大切にしなければなりませんが、近年は宣伝に

「富山の薬業も近代化されまして、むろん富山本来の置き売りも大切に

の見本が送られてくるほどだからである。ところが富山のメーカーはわれわれに見本を送る必要もないのだ。彼らの売人は

しかし富山のメーカーと同じように富山の帳主や売人たちも、自分たちの特権についてはそれだけの

しかし富山のメーカーと同じように富山の帳主や売人たちも、自分たちの特権

して薬を選んでのむことを知っており、その際富山の薬袋が自宅にあるのに気がつくと、その薬をのんでくれる

と富山の売人はただこぼすのである。都会の人たちは薬について一応

気がつかれないほど人跡まれな山中なのである。ともかく富山の売人は一応それほどの山中まで足をのばす努力は忘れていない。

も寒い山中なのだ。朝鮮の怪飛行機と同じように富山の売人もそういう山中へでかけているのである。よその国の怪

カゼの療法はこれに限ると云うのですよ。私が富山の薬売りだということを知っていながら、私の薬を一服買って

。そこに細々と依存して命脈をつないでいるのが富山の売人というわけだ。積極的な組織や大資本を背景にした売りこみ作業

おけば病気の時にその薬をのんでくれる。そこが富山のツケメだと云うのである。そこに細々と依存して命脈をつない

て、シンは強いのかも知れないが、表情は暗い富山の行商の姿であった。

いうものを感じることができなかったのである。すくなくとも富山本来の商法たる置き売りの業態には生気がなかった。薬九層倍の

ただ命脈をつなぎつつ各々孤立の道を歩きかけているのが富山薬業の現状である。そしてメーカーの近代化もタカの知れたものである

私が富山へ行った日は、この地方でも珍しい荒れであった。吹雪のため

百二十年ぐらいのものです。いまの機械が明治二十二年に富山から買って用いはじめたと父が語っていましたが、その昔は

富山の薬売りと越後の毒消し売りは表面似たようでありながら、内実は非常

まず富山の薬売りが薬だけ商うに反して、毒消し売りは毒消しが看板にすぎない

したがって、富山の薬のオトクイが都会地であるに反し、毒消しは農村専門だ。云う

富山の薬売りは一泊三百円もだして商人宿へ泊るが、毒消しはそう

のが含まれているわけだ。彼女らにとっては富山の薬売りが旅館を泊り歩いているのが驚きでもあり不可解でもあって

は一定した姿があった。すくなくとも戦前まではまだ富山の一定した姿があったのである。しかし今では彼らは

富山の薬売りにも昔は一定した姿があった。すくなくとも戦前までは

新潟

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がなかったからだ。この新聞の副社長は生ッ粋の新潟ッ子で、少年時代は私と甲乙ないぐらい悪名高いキカンボーで、土地の悪所

ついては誰も知っていないのである。私は新潟へつくと、まず新聞社を訪れて、毒消し部落の所在地をきいた。私

船の姿も見出すことができない。その寂しさは新潟の港も同じことである。北鮮と樺太の航路がなければ用のない

伏木港外の日本海だ。伏木は裏日本では新潟をしのぐ良港である。しかし北鮮や樺太との航路を失った現在では

についても私がきいた知識は暗いことばかりだ。新潟や巻できいたことばかりでなく、毒消し部落の村役場で村長さんから得

山の手に良寛さまの住んでた部落もあるのである。新潟古町のミヤゲ物屋へ行くと、良寛さまの書いた木の額の模型

角田と弥彦をとりまく平野側には蟻のはいでる隙もなく新潟芸者の産地がギッシリたてこんでいるのである。その代表的なのが岩室と

ば、隣りの村か、せいぜいそのまた隣の村ぐらい。新潟出身の女学校卒業の娘らしいと人が噂していた半玉がき

で答えるから、方言の心得がないと意味が分らない。新潟では「た」を「ら」と発音するのである。

、この岩室から半玉ででた娘の中で美しいのが新潟へよばれて一流の芸者になり、その中からまた新橋の一流がでる

仙台

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幽霊だ。云い交した浪人者に操をたてて高尾は仙台公に殺される。ところが高尾が浪人者に与えた反魂丹があって

岡山

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が愛用するようになって繁昌したに反し、本家本元岡山の方では亡びたという。

によると、富山本来のものではない。もとは備前岡山の医師浄閑が所持した薬だ。これを富山の者が製法の伝授

今日に至ったという。とにかく富山の薬の製法はもと岡山であることには変りがない。もとより魂かえす反魂丹は落語のように

また一説では、泉州堺万代村の浄閑が岡山に移りすんで医を業として反魂丹を造り、のち子孫が富山へ

富山の御用聞きには有力な競争相手がないから(大和や岡山なぞにも薬の置き売りをしている業者があるそうだが、富山

青森

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は北海道から青森の方を歩いていました。これは青森の農村での話ですが、宿屋がないので農家にたのんで泊めて

「私は昔は北海道から青森の方を歩いていました。これは青森の農村での話ですが

高尾

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が良いところで、この落語の灸所なのである。高尾の幽霊は睦言を云ったあげく、魂かえす反魂丹残り少なになったから

姿を現す。これを見て浪人者が「そちゃ女房高尾じゃないか」と芝居がかって云うところが良いところで、この落語の

一粒の反魂丹を火にくべると、煙の中から高尾が姿を現す。これを見て浪人者が「そちゃ女房高尾じゃない

た反魂丹があって、これを一粒火にくべると高尾の幽霊が現れて語り合うことができる。八サン話だけで信用しなかった

に操をたてて高尾は仙台公に殺される。ところが高尾が浪人者に与えた反魂丹があって、これを一粒火にくべる

高尾の幽霊だ。云い交した浪人者に操をたてて高尾は仙台公に殺される。ところが高尾が浪人者に与えた反魂丹が

が浪人者を訪ねてワケをきくと、この美女実は高尾の幽霊だ。云い交した浪人者に操をたてて高尾は仙台公に

落語できいていた。ちかごろ聞いたことがないが、高尾の幽霊が現れる話である。八サンの隣り長屋に住んでいる浪人者

東京

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国の怪飛行機が着陸し、飛行士が民家に寝泊りして東京と往復しておって、それが半年間も世間に気がつかれないほど

売人はこう嘆く。ところが私が東京へ戻って新聞をひらいてみると、朝鮮の怪飛行機着陸という記事が

落ちついたものだ。客に対するという気取りもなければ、東京からの旅人と話をしているという特別の意識もまったく感じとることが

程度となったのである。一尺の雪といえば東京だって年に一二度はそれぐらい積ることがあるのだ。関東平野も

新橋

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新潟へよばれて一流の芸者になり、その中からまた新橋の一流がでるというように、ここは美人芸者の産地として名高かっ