ぐうたら戦記 / 坂口安吾
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この人物は牧野信一の幼な友達で、ペンキ屋で、熱海から横浜に至る東海道を股にかけて看板をかいて歩いてをり、ペンキ道具一式と酒
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私が床屋から帰つてくると、ガランドウも箱根の仕事先から帰つてきて(彼はペンキ屋だ)これから両名はマグロを買
て先づビールを冷やしてから仕事にかゝる男なので、箱根へ仕事に行けばわざ/\谷底へ降りて谷川へビールを冷やしてから仕事
などは金輪際やらず、彼は谷底へ降りるばかりでなく、箱根の山のテッペンでビールを飲もうよと云つて私をしつこく誘ふけれども私
た。私が床屋から帰つてくると、ガランドウも仕事先の箱根から帰つてきて、偶然店先でぶつかり、愈々二宮へマグロをとりにでかけた
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支那事変の起つたとき、私は京都にゐた。翌年の初夏に東京へ戻つてきて、つづいて茨城県
ものに思ひつめてゐたであらうか。私を知る人は京都に一人もゐないのだ。なんといふ温いなつかしい友情であらうか!
東京で決意して、千枚ほどの原稿紙だけぶらさげて京都へ来たのだが、隠岐和一から伏見稲荷の前に部屋を探して
冒頭に述べた通り、支那で戦争の始まつたとき私は京都にゐたのだが、その年の正月の終りごろ、ふと東京で決意し
やうな峠を越すところもあります。私の窓からは京都の山々がみんな見えます。山を見ると私は泣きだしさうになつて
山には雪があるほど高い山で、京都の街から京都の街へ行く為に深い幽谷のやうな峠を越すところもあります。
北の山と西の山には雪があるほど高い山で、京都の街から京都の街へ行く為に深い幽谷のやうな峠を越すところ
諸君は京都の街を知つてゐますか。東山北山西山と云ひ、南を残し
注意されて、私はマッカになつた。その気持は京都を去る最後の日まで、否、今も尚、私の記憶から、消す
京都ではともかく満々たる自信をもつて乗りこむことができたので、そのとき
といふ。一杯十五銭から十七銭ぐらゐ、万事につけて京都よりは高価であつたが、生活費は毎月本屋からとゞけられ、余分の飲み代
をのむたびに不機嫌になり、怒るやうになつたのは京都からであつた。それは尚数年つゞき、太平洋戦争になつてから、
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てきた。この人を例年のコーチにしてゐた新潟中学ではその年すでに日本で最初のクロールを覚えたわけで、私は
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へ移り、留守中に家が洪水に流されて、再び東京へ住むやうになり、冬がきて、泥水にぬれたドテラを小田原の
起つたとき、私は京都にゐた。翌年の初夏に東京へ戻つてきて、つづいて茨城県利根川べりの取手といふ町に住み
つて東京行の汽車に乗つたが、私の汽車が東京へつかないうちに敵の空襲をうけるものだと考へてゐた。私
腰を下して焼酎を飲み、私はひどく酔つ払つて東京行の汽車に乗つたが、私の汽車が東京へつかないうちに
にきたのだ。してみると、そのころからすでに東京では魚が買へなくなつてゐたらしい。そして小田原にも魚がなく
私は田舎の中学を放校され、東京の豊山中学といふ全国のヨタ者共の集る中学へ入学した。この
を探してもらつて長篇小説を書きだした。その隠岐が東京へ帰ると知り人はもとより一人もをらず、私はその孤独をいかばかり心強い
にゐたのだが、その年の正月の終りごろ、ふと東京で決意して、千枚ほどの原稿紙だけぶらさげて京都へ来たの
の中では刑事に調べられてウンザリしたものだ。東京で一年間、私は威張りかへつた顔をしてゐたが、自信は
、私は然し、着物がないので、ドテラを着て東京へつき、汽車の中では刑事に調べられてウンザリしたものだ。
私は七百五十枚の小説をかゝへて東京へ戻つてきた。昭和十三年の初夏、私は然し、着物が
町にゐる時であつた。木綿類がなくなつた、東京になくなつたといつて、若園清太郎が買ひにきた。私の
早川が洪水で家は泥水にうづまり、そのまゝ私は東京に住まざるを得なくなつてしまつたのである。