決戦川中島 上杉謙信の巻 ――越後守安吾将軍の奮戦記―― / 坂口安吾
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、栗ヨーカンを食ったのち、大荷駄と五千の兵を善光寺に残し、余は小荷駄と八千の兵を率いて川中島を横切り、妻女山に
川中島の全貌が手にとる如くに見分けられる。北方は遠く善光寺まで見通しだ。
妻女山の西方は北国街道をはさんで善光寺につづく山々に相対している。その一点に茶臼山があった。
。即ち南北には、妻女山なる余の本営八千人と善光寺の五千人と相対し、東西には東の海津城と西の茶臼山とに
特に余の軍勢は大荷駄を善光寺に残したために兵粮があと十余日しかつづかない。ために余が本営の
「もしも善光寺の味方が撃滅されて大荷駄を失えば我々は食糧もなく孤立しなけれ
したがって信玄が知り得たことは、善光寺のわが軍に何らの動きも起らなかったことだけであった。したがって
やがて馳せ参じるであろうことが分っている。それに比べて我が善光寺の五千の兵はこの策戦を関知するところがなかったから、その援助を待つ
の不利であった。夕頃、余は残兵をまとめて善光寺に退いて集合した。敵も兵力をまとめて海津城に入る。戦は
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概ね余よりも水練が達者であったが、中には佐渡まで行くつもりかと思われたほど沖合遠く泳ぎ去り平然と泳ぎ戻った女傑も三四い
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余もまたよく己がツトメを果して死せざれば、ただ春日山の怪物にすぎざるべし。
知らぬ田吾作だと思いますよ。バイの借金を背負って春日山へ帰るわけにもいかねえや」
余の率いし兵一万三千なお二万の留守兵を春日山に残して敵の奇襲に備えしめた。
しかし余が春日山に二万の留守兵を残したのは、単にそれだけの意味ではなかった
我々は食糧もなく孤立しなければなりません。すみやかに春日山の留守兵二万の救援をもとむべきではありませんか」
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低い山ではあるが、川中島へ突入しているために川中島の全貌が手にとる如くに見分けられる。北方は遠く善光寺まで見通しだ。
甲州勢が相対している。その中間の平野が無人の川中島であった。両軍いずれも左右に敵をうけて連絡が不自由となった。
かねたのであろう。五日の後に陣を撤し、川中島を過ぎて海津城に入り、敵軍は合して一ツとなった。我軍
だった由である。信玄自身は八千の兵を率いて川中島に陣し、夜明けと共に挟み撃ちにかけるツモリであったらしい。
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四年七月三十日。余(上杉謙信)はひそかに春日山城を降り五智の海へ散歩にでた。従う者は池田放善坊という新発意
もなし。謙信はバイたらん。諸氏もまたバイたれ。春日山城の総員はあげてバイたれ。諸氏はその馬力に於てPTAの女連盟に