鳴雪自叙伝 / 内藤鳴雪
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。なおこの穢多の住居であるが、西京にも似ず三条の橋を東へ渡ると、大通のじき裏町に穢多町というがあった。
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にかかわらず、これも前にちょっといったが、私が番町に住んでいた頃、妻や長女は矢島楫女史の誘引で基督信者に
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の道中をした。まだ記憶に残っているのは、妙義山が左り手に当って突兀と聳えていた事と、碓氷峠を上る
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兵はそこを通り越して浜田領へ攻め込み、浜田藩主は終に雲州まで落ちて行かれた。また九州口はこれも長州兵の方から反対に
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侍はそのまま帰って行った。聞いて見るとそれは久留米藩の侍で、それらの数人がこの駅へ泊って、出立の際問屋
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里離れた山分の久万山であった。この久万山は浮穴郡の一部分であるにかかわらず従来一郡として取扱われていた位広い
になったから、一揆はその勢で久万山を下り、浮穴郡の他の部分や久米郡伊予郡へも同様に蜂起の煽動をした。そうし
加わったのである。そうして手始めに久万山以外の浮穴郡を管轄している租税課出張所を焼いた。そこでここにいた権大
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てくれらるる仲間なのだ。また藩主の祖先を祭った東雲神社の社務所で同県人の能楽を見た。これは毎年定期に法楽の催しが
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その頃は、今の芝の公園と愛宕の山との界の所を『切通し』といった。ここは昼の見世物
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に丁寧であった。明日は七里の渡しをして桑名まで行くというので、宮(熱田)に泊まった時であった。宮
、佐屋へまわって、即ち入海の岸に沿うて進んで桑名に入るのであった。この事は、かねて藩へ七里の渡しが止まっ
いるのが目を引いたのみであった。この日は桑名へ着してまた陸路を貪って四日市へ泊った。翌日は追分駅で、例の
家康公とは異父同母の弟たる松平隠岐守定勝公に桑名で仕える事になった。そして松山へ転封さるる時随行して、それから
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増上寺に対して、上野の寛永寺が幕府の御菩提所であった。これは三月の花見の時の外は
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泊した木村氏の宅は、因幡薬師堂の傍で、東本願寺はじき近くであったから、その翌日大谷句仏師を訪ねた。が折悪しく旅行
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この夫は利明といって、これも同郷人だが、西陣の織物の模様を描く絵工であるので、久しく京都に住んでいるの
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ようになったからだ。当時諸外国との関係上、いよいよ横浜を開港場として外国人が住むことになり、幕府では仮条約を結ぶと
仮条約を結ぶというので、攘夷党は益々奮激して横浜を襲撃せんと企つる者も出来た。私の藩はかつてより横浜の
んと企つる者も出来た。私の藩はかつてより横浜の入口神奈川の警衛に任じていて、一の砲台をも築くようになっ
であった。尤もその時の田之助は、既に脱疽に罹り横浜の医師のヘボンに片足を切ってもらっていたのだが、うまく他の
たと聞いたので、この人の在勤している、横浜へも行って共に句作し、そこの宗匠に見てもらう事もした
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、倉重禾刀氏の乙卯吟社で催しの会は飯倉の熊野神社で開かれまた南柯吟社の武田桜桃氏等の催しは、日本橋の常盤倶楽部で
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私の藩邸から近い縁日では、有馬邸の水天宮が盛んで、その頃江戸一番という群集であった。毎月五日であっ
毎月五日であったが、子供や女連だけでは迚も水天宮の門の中へ這入ることはむずかしいので腕力のある家来を連れて行って
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いたのだが法科大学を卒業した頃であろう、但馬で発行した、某俳誌上に長文を載せて子規氏を散々に罵った
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いた妻子を再び東京へ引取るために、神田三崎町の下宿から本郷へ借宅して住んだ。それが、あたかも同じ弓町一丁目で、今度は廿
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へ投じた。その翌日は祇園、清水、智恩院大仏、東福寺等を見物した。その頃の高倉の藩邸には留守居を改めて邸監
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が品川で、次が府中即ち今の静岡、その次が草津と覚えているが、その間にも、一つあったかも知れぬ。
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そこで宇和島吉田大洲新谷松山今治小松西条の旧八藩と宇摩郡の旧幕領とが一ツ管轄に帰したのであるが、相変らず県
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例の祇園、清水、知恩院、大仏などへ行って、南禅寺の門前の瓢亭で共に酒を飲んだ、この時に京都で始めて電車
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住友、平野、鹿島などであった。この中で住友は伊予の別子の銅山を元禄以来開いており、その地は幕府領ではあるが
の旅行は一切ならぬ事になっていたから、同じ伊予の国内で僅か三里隔る大洲領内へさえ、一歩も踏込む事は出来
は致方ないと、嘆息したのみであった。従来伊予は大小八藩あって、我松山藩のみが真面目に幕府に心を尽して
、政府は小さい県を合併せらるる事となって、我が伊予の国も、石鐵県と神山県と二ツに分かれていたのを合して
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やられるので、私はその俳席へも出た。また牛込の宗匠たる岡本半翠氏は、予て私が文部省の参事官であった頃の
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雨が降ったのでやはり流連して、三日目に伊賀を経て奈良に達した。この道は伊賀越と阿保越の二つが
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途中斑鳩の駅というを過ぎた時、聖徳太子の由緒の寺があって、参りは
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芝の増上寺の境内は、今の公園の総てがそれで、その頃は幕府の御菩提所
、飯倉の通りから、この切通しを回ったが、赤羽から増上寺の中を抜けて行くと大変近いのである。私どもの君侯は上屋敷に
間の藩士の往来は頻繁であった。これらが増上寺の境内を通るので、その抜ける事は許されていたが、もし弁当
私も家族に連れられて増上寺境内は度々通った。怖い心持がいつもした。あの赤羽から這入ると左側に
つけることを禁じてあったので皆跣足で這入った。増上寺の本堂は明治の初に焼けたが、総て朱塗で立派なものであった
増上寺に対して、上野の寛永寺が幕府の御菩提所であった。これは三
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の猫退治で二幕、それから桂川連理柵の帯屋から桂川の心中までを演った。打出してから帰ると、もう夜半であった。座頭
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大概行くことになっていた。多くは上野と向島と御殿山である。上野の花見の時は、あそこでは食べ物が山内には無いの
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虚子氏その他の催しで、私の祝賀会として、靖国神社の能楽堂で、能楽の催しがあった。これは『ホトトギス』の関係から広く
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臨む約もあるし、また奈良見物や、京都近傍の三井寺石山寺等の参詣も期していたのだが、兵庫へ着くと、姪の婿
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帰って来るとの話であった。この峠から遥に粟ヶ岳というが見えたが、そこにはかの無間の鐘がある。それを撞け
から必ず無間地獄に堕ちるという事を聞いたので、粟ヶ岳を見ただけでも怖しく思った。夜泣石と無間の鐘との由来は
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川之江、新居郡の西条、越智郡の今治、喜多郡の大洲、宇和郡の宇和島へも伝習所を置いた。尤もいずれも速成であるが、まずまず文部省
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り手に当って突兀と聳えていた事と、碓氷峠を上るのに急坂でなかなか骨の折れた事などである。この峠を登る
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て二等士となっていたが、突然知事家より伊勢の藤堂家へ使者に行く事を頼まれた。それは知事家奥向に或る
して酒盃を取交わされたという事である。この伊勢から戻って間もなく父は隠居を願って、家督を私へ譲った。
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あったろうと思う。私どもは非風氏が一時東京の小石川に家を持っていた頃、子規氏や古白氏などとそこでも句会
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細川幽斎の領分であったためか、内藤家の遺族が熊本藩にも幾人か仕えているらしい。そこで私が最近史談会の幹事を
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た余りたらふく喰って少し腹を痛めた。この立て場は往年筑波山の落人で有名なる藤田小四郎が休息して、『将軍酔臥未全醒』、と
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事になった。この改築中は、八ヶ月ばかり私は四谷の荒木町に移住していた。この頃の家庭は妻と末の男子和行のみ
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戊辰の年長州兵が我藩に征討に向った際、この佐久間の墓を数人で弔ってくれた事さえある。しかのみならずこの佐久間
人で弔ってくれた事さえある。しかのみならずこの佐久間を始め戦死者の遺骸は長州で埋めた上に、標の石を建てて
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、私等の一行もそれを喰って力を得た。浅間山の麓をめぐる時はそのあたりが渺々たる曠原で、かつて噴火した時の大
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た。それで大阪までは船で淀川を下り、それから兵庫までは陸路を取らるることになったが、その日私は非番に当って
に当っていたから、同じ非番の同僚とぶらぶら歩きながら兵庫へ行った。前にもいった従弟の山本新三郎なども同行していた
の三井寺石山寺等の参詣も期していたのだが、兵庫へ着くと、姪の婿なる市橋俊之助が停車場に来ていて、流行感冒
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恐かった。この太山寺と共に道後の温泉近くに石手寺というのがある。これらは千年以上の建物があって、また四国
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したのである。最上層には遠祖の菅原道真即ち天満宮が祀ってある。その他にも武器などが置かれてあったが、この
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珍らしいものであった。なおそれより進んで姫路の城下、明石の城下もやはり長い町であった。一体、街道筋に当る城下の町は
明石の町へ来ては、ちょっと傍道へ入ると人丸の社があるのだが
甚だしい神経痛を瞬間だけ起すものといってもよかろう。これも明石の城下外れに遺した一つの追憶である。
通り、松山を立って以来感冒に罹っていたが、明石を過ぐる頃から大分発熱して、この伏見に着いた時にはもう体
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はないので、それからは運動のため日々当てもなく東京市中及び近郊を散歩する事を始めた。而して東京市の彩色の無い絵図面を
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ので、京都へ廻って月並ながら例の祇園、清水、知恩院、大仏などへ行って、南禅寺の門前の瓢亭で共に酒を飲んだ、
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四条では南座が始まっていた。これが江戸の猿若以来二度目に見る
であったが、私はこの間に祇園町を知り、四条の芝居を知り、小芝居や寄席もしばしば行き、義太夫は暗記するまでに至って
ことも楽んでいた一ツである。そこで折節四条の南座が芝居をやっているので、或る日行って見たが、
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をしていた、これは皆穢多である。その他鴨川の川原でもそこここに葦簀囲いの牛肉販売店があった。これも薩州人を
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してもらった。それまでは少し間があるので、天満の天神など近所の名所を見物に出掛けた。
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であったろう。それから松山の代々菩提所としている、正宗寺へ遺髪を葬った。これらの費用や私の上京の途中の費用等に
としては、柳原極堂氏が主催で私の檀那たる正宗寺で一回あったが、随分多数の人であった。私はこの席では
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分らないで、今日に至っている。尤も丹波の隣国の丹後は細川幽斎の領分であったためか、内藤家の遺族が熊本藩にも
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そのうち眠ったが、目が醒めると、まだうす暗い頃、大阪の八軒家に着いていた。
大阪には藩の屋敷が中ノ島の淀屋橋の傍にあるので、一行はそこへ
ことが出来るのである。藩は藩の手で船で大阪まで積んで行き、この留守居の手で、大阪相場を聞合わせ、出入の商人
こういう事の外に大阪の留守居には別に肝心な役目があった。それは借金の事で
借金の事である。大名が金を借りる時には必ず大阪の豪商に借りた。その談判は必ず藩の留守居役がやったので
は、豪商は少しでも利を高く取ろうとした。大阪の留守居はこの談判をうまくせねばならぬ。談判の際大抵豪商と
ようにしていたのである。かかる次第であるから大阪の豪商は暗に天下の諸大名を眼下に見下だしていた。貸してくれ
である。船は藩の所有で、主としては大阪へ米を積出すに使い、また藩士の往来にも使うものが沢山あっ
私ども一行は大阪で食料等を準備し、藩の所有の荷船を特別に仕立ててもらい、それ
の所有の荷船を特別に仕立ててもらい、それに乗って大阪を発した。安治川口まで下って、汐合や風を見計って天保山沖へ乗出す
は非常に風が悪かった。追手続きなれば三昼夜で大阪に這入れるが、まず普通は七日かかる。それが、この時の航海は風
米の買足しをしたりして、十九日目にやっと大阪に入ることを得た。父は位地がよくなったので、若党を二人
大阪に着して、例の中ノ島の屋敷に一両日滞留した。別に見物
、などいうのが出入した。銀主というのは、大阪以外この京都でも藩主が借金をした、その債主で、今では金
ので、枚方で船を着けて用をすまし、日暮に大阪に着いて、屋敷に上り、一両日逗留した。かつて松の枝を投げて
。これは今もナカナカよく出来ていたように思う。大阪ではそれを芝居にした事もあると聞いた。
でも、一刻も早く出発せねばならぬのに、大阪へ向けて公私の船を出す三津浜には、差当って大阪へ赴くべき船便は
大阪へ向けて公私の船を出す三津浜には、差当って大阪へ赴くべき船便は私用のものさえもなかった。そこで、大阪と讃岐の
赴くべき船便は私用のものさえもなかった。そこで、大阪と讃岐の間を往来する金比羅参詣の船へ乗るが好いというので、
この渡船の例として、たとえば丸亀から大阪へいくら、広島または下ノ関へいくらと定め、その航路が順風であって僅か
遂に兵庫港の宿に着いた。これからは大阪へ度々船が出るから、海路を取ろうというのである。段々熱が出る
大阪へ着いたその晩、藩邸の人々の世話になって、夜船に乗り、翌朝
伏見へ下り、伏見からは例の三十石の昼舟で大阪へ下ったのであった。西崎医は伏見まで送って来た。浅井の
大阪からの船は、折から藩の大きな荷船の来ているのが無かったの
用いた。この櫓は随分早いものであった。これは大阪で雇入れたので、船頭もやはりその船に属した者ばかりである。
で積込で三度の食事を弁ずるのであった。尤も大阪で藩邸の者がいわずともそれぞれ実際の支弁はしたものである。
勘右衛門、野口勇三郎であったから、この四人が三津浜から大阪行の藩の船に乗り組んだ。この船は何時もの荷船ではなくて、
また厭わしくなって来た。この海路はさほど長くかからずに大阪へ着いた。私は出立の頃から少し風邪を引いてるように思ってい
ともならず、翌日から全く熱が下った。そのうち大阪へ着いたから、これからはいつもの三十石の夜船に乗るはずなのだ
殆んど空いている船がないというので、終に一晩大阪の藩邸に泊って翌日は陸路を伏見へ行くことにした。これからは
世子に従って京都を出発し、伏見からは、小船で大阪へ着き、それから、藩の方から廻してある関船やその他の船
の関船であった。私は十一歳の時から既に大阪と藩地との航海をした位であるに、船には最も弱く、モウ
を借入れて、兵庫港より乗込まるることになった。それで大阪までは船で淀川を下り、それから兵庫までは陸路を取らるることになっ
ようと慶喜公へ建議せられ、その後公と共に大阪へ下られたとはいえ、会桑両侯は心に釈然たらない、しかも
から、野中には早々立帰るようにというので、やむなく大阪へ立戻ろうとした際、頭の上を幕府へ放つ砲弾が飛び出したという
その時一隻だけ持っていた藩の汽船に乗って大阪へ着いたので、藩主及びその従兵もそれに乗って、なかなかの満員で
党は俄に騒ぎ立って、この上は藩主に代って当時大阪に供をしていた家老の菅と鈴木とに割腹させ、その首
姓名のあるのを避けた高砂屋福助なども、絶えず大阪から来て、これは客座に名を出していた。この年の七
登らずに終った。奈良を立って路順なら直に大阪へ行くのであるが、ついでに京都も見たいという者があるので
はあれど彼れは驚いて沈黙していた。それから大阪へ下って、ここの邸監は皆川武太夫氏がいたが、ここで
少し渋面作ったが終にいくばくかを流用してくれた。大阪の見物はそこそこに済まして、いよいよ藩船の便で海路は別段の事もなく
で出京する事になった。海路は別に滞りもなく大阪へ着いて、それから東海道を東上した。勿論いずれも書生の身分だから
たから、一日の行程も以前よりは早くはかどって、大阪まで着いた。川止めなども旧藩時代の如く殊更らなことをせぬから何
ないのである。一つ記憶に残っているのは、大阪の或る宿へ着いた時、一番東京風を見せるつもりで、女中に二朱
篇とかを間に合せに用いた。文部省で東京と大阪とに師範学校を置き、そこから、読本とか、実物指教の掛図とかを
と名けて師範学科を多くの学生に教えさせ、次に大阪へも大阪師範学校というのを設けて、東京師範学校の卒業生などを以て同様
普及を謀らねばならぬと思って、その頃は東京大阪の外に、仙台と長崎と広島とにも師範学校を設けられ、段々と卒業者
和助、大谷門蔵(後に馬十)の酒井雅楽頭、大阪から来た嵐三右衛門の愛妾高尾であった。私はこんな新作物は始めてで
であったが、茶事も裏千家の高弟で、また俳句は大阪の芹舎の門人であったので、廃藩後は京都へ住居して水力応用
再版に付したのであるそうな。それから少し経って大阪の書肆が土蔵の奥に捨てて置いた蕪村句集の旧版を発見したの
金福寺で蕪村忌を営む事になった頃、これも大阪の或る書肆の蔵の奥にあったという事で、まだ上木せない蕪村
台湾千葉と転任した、渡辺香墨氏と、今一人は大阪の松瀬青々氏であった。この青々氏は別に大した業務もなかったと
、今も同社の俳句欄を担任している。この外大阪では水落露石氏、青木月斗氏なども名を出した。尤も露石氏は
五百木飄亭氏は最初大阪で医者の試験に及第したが、未だ丁年に満たないので、医者と
日ばかりの滞留で急いで帰京した。そこでこの往途大阪にもちょっと立寄ったが、それは内国博覧会が盛んに開かれているという
のイルミネーションを見たのである。こんな事は東京よりも大阪の方が先鞭をつけていた。また帰途には郷里の親友の由井清
。いよいよ時刻となったので、再び汽車に搭じて大阪へ着いた。ここの旅宿は同郷人の平井重則氏の知り合いの藤井旅館で
こんな風で松山は引上げて、この帰途には大阪で青木月斗氏等の俳句会に臨む約もあるし、また奈良見物や、
』の句を染出した帛紗を配った。が、京都や大阪や松山の厚意を受けた人々へは、未だそれを送っていない。そうこう
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いうその頃の誓願寺や、錦小路天神、蛸薬師、道場、祇園の御旅には、いろいろの興行物があり、小芝居もしていたの
へ入って、三条橋畔の宿屋へ投じた。その翌日は祇園、清水、智恩院大仏、東福寺等を見物した。その頃の高倉の
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私は見ずにしまった。それからこの峠を下ると諏訪である。温泉もあるが入らずに通った。ただ諏訪湖の向うに富士
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異人即ち米国人と最初の談判は伊豆の下田でしたが、次のは浦賀ですることになった。その際、黒船が
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それで私の藩邸には、琉球から薩州にも及んで盛んに飼われていた豚を買い入れて沢山飼って
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へ討入りという事になったので、松山藩は海路四国の先手を命ぜられた。そこで世子は父たる藩主のこの軍事を補佐し
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つる者も出来た。私の藩はかつてより横浜の入口神奈川の警衛に任じていて、一の砲台をも築くようになっていた
た上に、私の藩では前にもいった如く神奈川の警衛の任に当って、砲台等をも築いていたから、いよいよ藩
この神奈川の砲台について少しお話をすると、これは万延元年に前年からの
千葉の柴原県令などで、官権党は京都の植村府知事、神奈川の野村県令などであった。それから鹿児島からは、県令代理として渡辺
翌十四年に副局長の久保田少書記官が、神奈川、埼玉、群馬三県へ巡回する随行を命ぜられたので、それらの
の学校その他の様子を見る事が出来た。この時神奈川の或る小学校で、教育上に関して久保田氏の代理として演説をする
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大目に見てくれたようであった。或る時先生が鎌倉の頼朝以下十将軍の名を唐紙へ書いて、これを暗記して書いて
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に面倒なのは関所のあらためである。東海道では箱根と新居(遠州)に関所があった。関所は幕府で厳重に守らせた
へかかる前には行装も調えねばならぬ。それで箱根では、そこに近い間の宿で休んで、女は髪をあらためられる支度
、検査を受けるとか名乗をするとかいう事は、箱根の通りではあったが、ここは役人の態度が、いかにも穏和であっ
。名乗をすると、『お通りなさい』といった。箱根の『名前は』『通らっしゃい』とは大変な違いである。
、幕府からの命令で、受持っていたのである。箱根となると関東唯一の関で、幕府の功臣小田原藩大久保の受持になって
浮けます』と呼上げて通るのである。かつて怖かった箱根や新居の関などとは違って、たやすいものだと私は思った。それ
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ある。箱根となると関東唯一の関で、幕府の功臣小田原藩大久保の受持になっていたから、自然厳重な荒々しい言葉使いをしたもので
の於保武十氏中村藩の藤田九万氏、詩家では小田原藩の村上珍休氏などであった。この頃はいずれの藩からも昌平学校が
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が代理として御礼に上京することになったが、酒井の屋敷は手狭なので、堂上方はじめの訪問を受けるには不便とあっ
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泊したのだが、二つの宿は忘れて、加古川という宿だけを覚えている。その宿に泊っていると、按摩がやっ
を呼ぶことにしている。今も按摩に対すればこの加古川の宿の事が連想されるのである。今一つ、忠臣蔵の桃井の家老
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今は新京極というその頃の誓願寺や、錦小路天神、蛸薬師、道場、祇園の御旅には、いろいろの興行物があり、小芝居もし
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には徒士以下の者が多く入門していた。この伊東の游泳術は神伝流と称して二、三代前の祐根という人が
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けれども、とても出来ぬ。そこで一夕僅に親族だけを芝浦の某亭(名を忘れた)に案内して小賀宴を開いた。これ
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松山征討の命が下った。前面は海を隔てて、長州藩でいうまでもなく討入の怨みもあるし、今般これらも松山征討の命
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諏訪である。温泉もあるが入らずに通った。ただ諏訪湖の向うに富士のうしろ姿を眺めた景色は今も目に残っている。それから
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寺院へ上下共に暫く滞留した。そして世子は直に二条城に登城され、新将軍慶喜公に謁見して右の事件を言上せられ
いる。それから越中守の子は瀬兵衛頼有といって幕府の二条城の与力を勤めて、その子の与左衛門頼綱というが久松家の先祖で徳川
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際に、和蘭公使の前に移された。前には東照宮の南側の所に天神様もあった。
東照宮の祭の日にはいつも参詣をした。今の表門はその頃台徳
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命令で、受持っていたのである。箱根となると関東唯一の関で、幕府の功臣小田原藩大久保の受持になっていたから、
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が嫩軍記、中幕勧進帳、二番目が安達原で、一ノ谷の熊谷は八代目団十郎、敦盛は後に八代目岩井半四郎になった粂三郎、相模は
そのうち敦盛は馬で花道から出て来た。熊谷が扇で招きかえす。太刀打になる。それは私も古戦記や錦絵などで
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から買入れたので、名古屋丸は旧名ネヴァタ、東京丸はニューヨークといったのである。この途中神戸で楠公神社へ妻と共に参詣し
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西南の騒動はヤット鎮静したが、その頃我愛媛県は讃岐国をも合併していたので、私はその方の学校の視察にも
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沢山あった。私どもの屋敷から行ける所では、まず金杉の毘沙門とか、土橋とか、采女原などにあって、土橋では鈴之助
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して訓練させた。この武蔵氏一行は、函館の五稜郭に立籠って実戦の経験のある人なので、本名は隠していた
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場所があった。それは第一が品川で、次が府中即ち今の静岡、その次が草津と覚えているが、その間にも、
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はじめ中屋敷の方に住まって、私の家へも親類の丹波などというのが来ていた。後にその上屋敷は建築された。
を持っていたが、織田信長の手の明智光秀が丹波へ攻込む時打ち負けて、その後は宇野姓を名乗って、越中守宗音入道と称し
のだけれども分らないで、今日に至っている。尤も丹波の隣国の丹後は細川幽斎の領分であったためか、内藤家の遺族が
氏が書かれたる日本国民史を見た時、織田が丹波に攻め込んだ際城を取られた者に内藤忠行というがある。これが
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て帰寓した。この火はとうとう海岸まで焼け抜けて、西本願寺を始め、その頃有名なる築地ホテルも烏有に帰してしまった。これは明治
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この跋文とは除かれている。なお京阪の俳人仲間が金福寺で蕪村忌を営む事になった頃、これも大阪の或る書肆の蔵の
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が三家、馬術が一家、柔術が一家で、これだけ明教館に附属した所に設けられて、各指南した。この師家には人々
風であった。私の入寮後間もなく、藩地の明教館の学友が上京してここへ入ることになった。それは由井弁三郎氏錦織
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大津に入るあたりで三上山を見た。彼の田原藤太が射た大蜈蚣の住みかだと思うと、
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のは、十日の虎ノ門の金毘羅であった。これは京極の邸に在った。その邸の門を出入することも水天宮の如く甚だ
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綿取りに金剛山の道問ひぬ
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の際に別の下賜金を貰ったのを合わせて、久米郡の梅本村へ少しばかりの土地を買って家屋を建築した。けれどもそれに移住は
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あったから私は心安くしていた。なお少寮長の仙台藩の遠藤温氏と心安くしていた。間もなく私等の数名も経義
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なった。この改築中は、八ヶ月ばかり私は四谷の荒木町に移住していた。この頃の家庭は妻と末の男子和行のみであっ
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異人即ち米国人と最初の談判は伊豆の下田でしたが、次のは浦賀ですることになった。その際、
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学区に区分して、我県は広島、山口、岡山、島根の諸県と共に第四大学区に属していた。そこで他の大学
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。そして要路に立つ人々はこの勤王党で、佐幕党は越前の松平春嶽公位の一、二人に止まった。かつ会津侯の守護職と
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その光景をちょっと珍らしく思った。それから随分疲れたのは和田峠を越える時で、別に急坂ではないが爪先上りの登り道が長いので
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途中神戸で楠公神社へ妻と共に参詣したが、福原には妓楼なども出来ていて、旧観を更めていたのに驚いた。
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笑わせた。この会以外に、私の弟の娘の須磨に居る市橋良子、及び神戸にいる従弟の子の交野国雄にも逢った。
猖獗で家族も臥蓐しているといったので、その須磨へも一泊せず、神戸の或る旅店に一泊したままで、
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実行したのが彼のピストルの自殺である。氏の湯島の寓所は私の宅と接近していたから、知らせと共に駈け付け
氏委員長の下に、漢学の専門家などと共に毎年一回湯島の孔子の廟で祭典を行う時は、私も役員の徽章を付けて用弁
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人足や、馬のつぎかえをしつつ進み、その夜は戸塚の宿に泊った。
さて戸塚へ泊ると、宿屋の食事は本膳で汁や平がつくので、常に
で、父や祖母と一間に寝たのであるが、戸塚では殆ど眠られなかった。それも慣れては我が家の如く安眠するように
それも慣れては我が家の如く安眠するようになった。戸塚の駅の辺りで屋根の上に一八の花が咲ているのを珍しく眺め
一八の東海道も戸塚かな
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をした。かの伊賀越の芝居でも、唐木政右衛門が岡崎の宿に着く際、この抜道を通ったということに作ってある。
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ことを得た。そうしてこの度入るべき薩州邸は相国寺に隣してかなり広い建物であった。
開かれてなかなか賑かであった。それから見送りがすんで相国寺へ帰る途中寺町を通ったが、ある場所であちらこちらと人立ちがして何
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長男で助之進といった。その頃父は家族を携えて江戸の藩邸に住んでいたので、私はこの江戸で産声をあげたの
て江戸の藩邸に住んでいたので、私はこの江戸で産声をあげたのであった。幕府の頃は二百六十大名は皆参勤交代と
の頃は二百六十大名は皆参勤交代といって、一年は江戸に住み次の一年は藩地に住んだ。そして大名の家族は江戸に住ん
次の一年は藩地に住んだ。そして大名の家族は江戸に住んでいた。それに準じて家来も沢山江戸藩邸に居た。その
年の冬にこの常府を命ぜられ、松山から引越して江戸へ出た、その翌年に私が生れたのであるから、私は松山で
下ろされ、腹の中にかがまりながら海陸二百五十里を来て江戸でこの世に出たのである。
したが、草双紙を見せることは好まなかった。当時の江戸の女たちは皆草双紙を大変に好んだものであったが、うちの二人
芝居を見た。三代目中村歌右衛門の血達磨で、母が江戸へ出て来て始めてこの大芝居を見たのであった。その頃大概の
、大芝居の役者は決して小芝居には出なかった。小芝居は江戸に沢山あった。私どもの屋敷から行ける所では、まず金杉の毘沙門と
『ひときれ』といえば、その頃江戸では『辻斬』が実に頻繁に行われた。これは多く田舎出の
勤番中にも度々江戸に来た者や、或る事情で一年でなく二年以上勤続した者
といって、新参の勤番者に対して権力を持ち、江戸の事情を教えて注意を加えもした。新参は江戸へ来ると間も
江戸の事情を教えて注意を加えもした。新参は江戸へ来ると間もなく古参に連れられて市中を見物した。その頃
大事になっていたのであるが、太平に馴れた江戸の士民は、全く太平になったと思い込んでいた。けれども幕府や藩々
異人、地震、大風、コロリ、これらが私が江戸に居る間に脅かされたおもなる事件であった。
事は悲しんだが、帰国という事は喜んで、勇しく江戸を出発した。私は『お国』という所はどんな所だろうと思い
も身を離してはならぬ物であった。荷物は江戸から藩地まで『大まわり』と称える藩の渡海を業としている者に藩
私どもは十二年間馴染んだ江戸を出発して、品川鮫洲の茶屋、今もあるあの川崎屋で休んで、
やらと別を惜んだことを覚えている。品川までは江戸の人足のカンバンでも着たのに駕籠を舁かせて来たが、品川
それは幕府の政略として、諸大名の妻子は必ず江戸に住まわせ、藩地へ帰すことを許さなかったので、もしそれらが身
。その賄賂は殆ど定価のようになっていて、既に江戸出発の折に、幾ら幾らと予算に立てて置くことが出来た。
のことだから船中に小田原提灯をともした。その提灯は江戸から携えてきたもので、私どもの旅行には必ずこれを駕籠の先棒
切棒駕籠に乗り、父は例の野袴をはいて、江戸から持って来た切棒に乗り、仲間等はカンバンを着て槍を立て
になり、それで全課程を終るのである。私は江戸に居る時、孟子の半ばまで父から授かっていたから、その続きをここ
手習ということは、江戸に居た頃は余りしなかった。尤も継母の姉婿の、かの絵をよく
には君侯の館へ出て、年賀を述べる、これは江戸と同じである。それから親類を回る。それらの儀式は江戸と多く変ら
同じである。それから親類を回る。それらの儀式は江戸と多く変らぬが、万歳に至っては、藩地では全く穢多のすること
よその内へ行ってこの万歳を見せてもらったが、江戸の芝居を見慣れた目には、いかにも馬鹿げているので、もう見
になって雛祭をした。祖母の雛は十二年前江戸へ行く時に他に預けて置いたので、それをこの節句には飾っ
五月になると、江戸で初幟をした折の、長い幟と四角なのとを立てた。七
あるが、家族等はとかく国を離れることを厭がり、江戸に居てさえ帰りたい帰りたいといっていたほどであるから、今度の
四条では南座が始まっていた。これが江戸の猿若以来二度目に見る大芝居である。その頃の京都の芝居は、幕
忘れぬ。夕飯はちょっとしたものであった。食事は江戸に比してすべて粗末であったが、菓子は立派に高杯に沢山盛られて
槍を振り立て拍子を取って手渡ししつつ練って行った。江戸に居た時大名の行列は度々見たけれども、こんな晴れの行列は始めて
戴いて、すべての政治に関する役である。これは既に江戸で勤めていた故、『帰役』といって、元の座席へ帰って
いよいよ藩地の松山へ帰ったが、今回は一昨年江戸から帰った時と違い、父も上首尾で、お目付という権勢のある役
がした。一体、城下で士族の邸というと、江戸に住んでいた折のお小屋などに比べれば頗る広い、まず十四畳敷も
の物が好いと思った。そこで田舎に居ながら、江戸の粋人の生活も聊か知る事が出来た。今日鳴雪が時々昔の江戸の
生活も聊か知る事が出来た。今日鳴雪が時々昔の江戸の粋人の事などをいうも、つまりその頃読んだ書物の耳学問で、多く
家から井上という家へ養子に行った者が借りて江戸まで持って行って、そして前にいった愛宕下の上屋敷の火災の時に焼い
なり、私の父は要路に当っていたので度々江戸へ勤番して、神奈川表の警衛にも当っていた。それ故、藩地
奮って出講する事となった。尤もその時は君公が江戸に居られたので、家老が代理となって行うのであったが、
なったろうが、ちょうどそれを書き終った頃に、父が江戸から帰って来て、留守中私がそんな事に耽っていたのを見る
いつまでも私を子供のように思い、また父は多く江戸へ旅行していたからツイツイ遅れて、十六歳で初めて角を入れたの
にも沢山の草双紙を持っていたから、かつて私は江戸で随分見ていた草双紙を、この家で再び読むことが出来た。また
等でも日本国内が多事になると共に、藩士の江戸へ勤番することも漸次頻繁になって来た。殊に神奈川警衛については
て、その仲間も皆歴々の嫡子のみである、藩主が江戸へ参勤したり、藩地へ帰任したりするのを送迎する際にも、歴々
になったので、藩の世子もその警衛として江戸から京都へ上った。そこで私の父もその供をして、世子が
をする事になったが、前にいった十一歳で江戸から帰り、その年から翌年へかけて京都の往来をした外には久しく
とか人物とかを貼付けたのもあった。これは江戸にも藩地にも例のない珍らしいものであった。なおそれより進んで姫路
到着したのであった。しかしその前に世子は既に江戸に行かれたので、右の寺に残っている者は父以下少数の
の詩も存外首尾が悪くはなかった。その頃父は江戸や京都あたりに旅行することが多いので、私の詩を作り始めたと
したことがあったり、その前後も藩主や世子は京都江戸へ奔走されていたので、兵員も多人数を要することになり、従来
ていた。またこの奥といっても世子の奥方は江戸の藩邸に居られるから、御妾のみが居るので、これは世子の東西
侯及び板倉侯を率いて、窃に仏国船に乗って江戸へ退去された。この際我新藩主には何の告知も無かったので
ず、松山城で反抗することは出来ないまでも、遠く江戸に居る会桑軍に投じて、共に薩長と戦おうという考で、それ
、それには新藩主を擁立し同志者と共に海路江戸へ廻ろうということに内決していた。すると一方の恭順派はそれ
遡っていうが、この以前藩主の奥方と祖母君は江戸の邸にいられたのを、士州総督へ出願の上藩地へ帰らるる
向井家断絶より六十余年後、ちょうど私が十一歳で江戸から藩地へ帰った時、右の兄なる人が八十以上の高齢でまだ生き
一体牛肉を食うということは昔は無かったので、江戸でこそ輓近西洋通の人は多少食ってもいたが、京都ではまだ
私は安政年間十一歳で藩地へ帰った以来、再び見る江戸否東京であるから一入勇ましく旅行したが、その頃はまだ幕府時代のまま
られた。聞く所では水本先生はその尊父の代から江戸の漢学者で、その配遇も女ながらに漢学を修めていられた。その
をせられていた。そうしてこの母人はやはり江戸に残って、そのまま家塾で幼年男女の教授をせられていたので
は私が藩地にいる頃より継母方の伯母の山本が江戸から持帰った錦絵や番附でよく知っていて何だか見ずと贔負
翁の西洋事情三冊を読んだ位で、その他は江戸が東京となって以来多少の変化した状態を目撃したというだけで
がない。それで三津浜出船の時などは、旧藩主が江戸へ出発する時、御曳船といって数多の小舟が印の旗を立てて
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のである。東海道の川々、大抵は舟渡しで、大井川と酒匂川だけは特別に台輿または肩クマで渡した。台輿は駕籠
肩車の訛りで一人を肩に乗せて渡すことである。大井川の如きは殊に川止めになりやすかった。川止は実に旅客の迷惑であった
舟で渡るという事は幕府の禁ずる所であった。大井川の如きも人足が渡してくれねばといって、舟を浮べることは勿論
舟を浮べることは勿論禁ぜられていた。なんでも大井川などは早く増水するように特に渡し場の所だけ深く掘ってあるとかいう話
川止にあわぬようあわぬようと念じつつ行ったが、大井川は無事に越した。こういう川越しの際の人足もその役筋から雇ってくれる
を争うて渡るので広い川原も怖しいほど雑沓した。大井川の止まった時肥後藩の侍がこの位の水で止まるはずは無い、どう
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知り合いの藤井旅館であった。今夜も同郷人の歓迎会が堂島の川向うの何とかいった大きな料理屋で催されたので、右の重則
堂島や二百十日の辻の人
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用を多く弁じていたものであるから、藩からこの滋賀へは贈物などもして機嫌を取っていた。そこでかれからも親しく
はちょっとした饗応をせねばならなかった。そのうち滋賀や千家などは稀に祇園町へも連れて行かねばならなかったらしい。
咲いたので、或る日内で花見をすることになり、滋賀や千家や出入の商人が来て盛んな宴を張った。皆松山帰りの
という前夜、ちょっとした別れの宴を内で開き、滋賀や千家等を招き、席の周旋には『山猫』という者が来た
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山という寺があったが、これはカナリ信仰の多い関西の霊地で、やはり金比羅等に準じて、遠方からも参詣者が絶えなかった
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だにそれを覚えている。小芝居の最も盛んであったのは両国であったが、これは屋敷から遠いので行かれなかった。こういう小芝居を総
大年の両国通ふ灯かな
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そこへ帰着した日より住まったのである。それは松山城の北で、傘屋町という所にあった。私も今度は自分の
ケ』という事について少しく説明すると、元来この松山城は、もと海岸の松前という所に在って、徳川の初年には加藤
松山城は、本丸と二の丸と三の丸というがある。かつてもいった、加藤嘉明
にもいった過激党はまだ憤慨の気が納まらず、松山城で反抗することは出来ないまでも、遠く江戸に居る会桑軍に投じ
謹慎せられ、土州軍総督の深尾左馬之助は軍隊を率いて松山城の三の丸へ入込んだ。そうして藩主の代理たる家老その他の役人で
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なくなったと共に平凡な景色となった。ただ或る時犬山城が左岸に櫓や石垣を聳えさせているのが目を引いたのみで
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いうので、その後またまたそこを売却されて、現今の芝公園の紅葉館の隣地へ転任せらるる事になった。この地は鍋島家
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でこの惟行の屍とかつて死した楽女の屍は青山の墓地へ葬って置いたが、楽女の石碑は建てたけれども惟行の
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、その翌年に私が生れたのであるから、私は松山でたねを下ろされ、腹の中にかがまりながら海陸二百五十里を来て江戸
父は弘化三年の冬にこの常府を命ぜられ、松山から引越して江戸へ出た、その翌年に私が生れたのであるから
のは弘化四年四月十五日であった。代々伊予松山藩の士で、父を内藤房之進同人といった。同人とは妙な
は春日という家から来たので、その頃は藩地松山にいたが、おりふしその姉の嫁している山本という家の主人が
十一歳で家族一同松山へ帰ることになったが、その間に私の家族が大芝居を見た
てしまい、側役の礼式という身分で家族を引連れて藩地松山に帰るべき運命になった。これは私の十一歳の時であった
は、海道筋でも何となく勢力があるらしく、『松山様』といえばどこでも快く宿を引受けた。なお昔は長崎の
は、特に何藩の定宿というのも多くあった。松山藩の如きは別に定宿というのは無かったが、幕府の親藩に
妻は今の三輪田女学校長の真佐子である。この綱一郎は松山城下を少し離れた久米村の日尾八幡の神官の子であった。
徳大寺殿の家来の滋賀右馬大允というのがある。松山藩はこの徳大寺家を経て朝廷への用を多く弁じていたもの
。父が開いて見ると、『御留守居御免で、松山へ帰足、御目付帰役仰付けらる』、との辞令である。家内一同
。ところがその荷物を運んでる最中に、家来が『先ほど松山から御用状が参りました』といって差出す。父が開いて見ると
や出入の商人が来て盛んな宴を張った。皆松山帰りの喜びも述べた。この日は芸子なども来、夜更くるまで篝
居るであろうと思って、そこへ寄った。この鶴屋は松山藩の馴染の茶屋になっていて、藩の者はよくここに会し
そこへ帰着した日より住まったのである。それは松山城の北で、傘屋町という所にあった。私も今度は自分
いよいよ藩地の松山へ帰ったが、今回は一昨年江戸から帰った時と違い、父も
をした。その時、松前に在った士族邸を、松山へ引いて来て士族を住まわせたのであるが、その後、加藤
嘉明が住んでいたが、規模が小さいので、この松山へ城替えをした。その時、松前に在った士族邸を、松山
ケ』という事について少しく説明すると、元来この松山城は、もと海岸の松前という所に在って、徳川の初年には
をする他に貸本を借りて読んでいた。貸本屋は松山の城下にも二軒あって、蔵書はかなり豊富であった。私も
たのであった。当時の八万両は、十五万石の松山藩に取っては巨額のもので、遂にその影響が、士族の禄も
百姓を使役する事になっていた。私の藩の松山などは、米のよく出来る所であったから、それらをいずれも米
て或る宿屋に小憩した。前にもいった通り、松山を立って以来感冒に罹っていたが、明石を過ぐる頃から大分
に出て、例の如く行列を立て親子駕をならべて松山の邸へ戻った。門には僕が迎え内玄関には二人の祖母や
た。それで私は例の時世を詠じた詩や、松山出発以来の途中の詩や、なお着京以来聞き噛った時事の問題に渉る詩
、終に長防へ討入りという事になったので、松山藩は海路四国の先手を命ぜられた。そこで世子は父たる藩主の
へ着くと、これから城下まで十八里であるが、モウ松山領内に属するから、なんだか勇ましい心地がする。しかのみならず、
松山城は、本丸と二の丸と三の丸というがある。かつてもいった、加藤
藩以外の宗匠達とも交際をしていた。今松山に居る野間叟柳氏などもこの人の門人だと聞いている。かよう
いうまでもなく討入の怨みもあるし、今般これらも松山征討の命を受けた。そこで我藩は完く孤立無援の地に立っ
も大に働いたのであって、なお今度朝廷からは松山征討の命が下った。前面は海を隔てて、長州藩でいうまで
のみであった。従来伊予は大小八藩あって、我松山藩のみが真面目に幕府に心を尽していたのみで、同姓でも
よりは慶喜公を始め会桑藩は勿論、姫路高松及び松山藩等を朝敵と目されて追討を命ぜらるるということになった。
にもいった過激党はまだ憤慨の気が納まらず、松山城で反抗することは出来ないまでも、遠く江戸に居る会桑軍に
謹慎せられ、土州軍総督の深尾左馬之助は軍隊を率いて松山城の三の丸へ入込んだ。そうして藩主の代理たる家老その他の役人
て恭順を表した上は、新藩主及び前藩主は、松山城北の常真寺へ退居して、謹慎せられ、土州軍総督の深尾
個人としての丁寧なる挨拶をした。これも我々松山人には聞伝えて頗る好感を与えた。なお前藩主勝成公もこの際
挙動は、後に聞いて土州の総督も賞美しまた我々松山人も頗る痛快に感じたのであった。そこで常真寺の藩主側
へ来ていたから、土州軍への申込みに、一応松山藩主の謹慎の様子を見届けたい、また城郭等も見分したいとの事
あるのを、土州藩と改めてしまった。そうして松山城下は勿論土州の直接管理であったが、なかなか軍規は厳粛、少しも
ていた。ただ処々に立ててあった高札だけは、松山藩とあるのを、土州藩と改めてしまった。そうして松山城下
することになったので勇ましく出発した。この頃従来松山藩へ幕府から与えている領地家督相続の証として黒印ある書面(
私の荷物を運んでくれた。王政となった今日、松山も何もないのだが、徳川時代の御親藩たる威勢が老人の頭
荷物に松山藩と記してあるのを見ると、忽ち「松山様だ、先へ早う。」と呼んで、誰よりも先へ私の
老人の渡場の差図役が来たが、私の荷物に松山藩と記してあるのを見ると、忽ち「松山様だ、先へ早う
なお正権の等差があった。そこで私の父も松山藩権大参事となり、これらと共に藩政にも改革が行われ
しているのだ。そこで私どもの意見では、松山藩が維新の際に失敗したような事を再び繰り返してはならない
済まして、いよいよ藩船の便で海路は別段の事もなく松山へ帰着した。それからというものは、誰れに向っても例の
か、殆ど何一つ出す事が出来なかった。それで松山藩創立以来の日記その他あらゆる重要な書類が悉皆焼けてしまったのは
預けて、改宗の説諭をなさしめらるる事となり、我松山藩へも三十人ばかりの信徒を預かっていた。しかるに或る時朝廷
の率は藩々の市価に依るものとせられたが、松山藩の紙幣は、六貫文の百匁が、五貫文の割合で
一度藩地を去らるる上は、如何なる人が来て、松山を治めて、如何なる虐政を施すかも知らぬという惧れもあるので
知事の留任を願おうという事に申し合った。これは松山町でも同様で、町人の総代数人を上京せしむる事になった。
申し込まれ、彼の藩の知事は大少参事を従えて松山へ来られ、また定昭公も大少参事を従えて今治へ赴かれた
に翻訳もして見た。が稲垣氏は間もなく松山を去って東京へ行ったので、私もそれ限り英書を習う機会を
以て小学校の費用に充てた。月謝は授業料といって松山の各小学校のみに旧藩札五匁(二銭五厘)あるいはその半額を
ものを創設するのだから、なかなか困難であった。尤も松山は、士族仲間に従来子弟を学問させた習慣もあるので別に
もなく大区を合して区域を広められた際、私は松山以外の郡部の学事をも担当することになったが、これまでに例
た関係から、その学区取締を命ぜられて、県庁所在地の松山、即ち第十五大区の学区取締となった。その位置はまず大区長と
一般の説諭の種にもしたいと思い、私どもは松山附近で味酒村というがある、そこの口利きの或る旧穢多の家へ
、そこで学ばせた。それからこの着手の初に、松山の士族学校へは第一にこの旧穢多の子弟を入れて、それを
誰れとも知れず暗殺された。それ以来県官は松山の士民を頗る疑惑する事になり、今治の方に親しみと便利を感じ
この年末であったが、石鐵県の県庁は松山から十一里ばかりある今治の方へ移った。この一大原因としては
は、大久保某というが命ぜられた。而して県庁も再び松山に移った。私はこの変革があっても学区取締をそのまま勤めて
事は死しても満足した事であったろう。それから松山の代々菩提所としている、正宗寺へ遺髪を葬った。これらの
兼務して、この伝習の事にも当った。そこで松山人は勿論県内の大洲、宇和島、今治、小松、西条等の小学教育
。そうしてそれを拡めるため、伝習所というを、松山に置かれて、私は学区取締からその主幹を兼務して、この伝習
招聘した。そうして県内を六区域に分って、松山伝習所の外に、宇摩郡の川之江、新居郡の西条、越智郡の今治
の学務課勤務を命ぜられた。そこで私も今までは松山附近の学事の管理者であったのが、伊予国全体の学事に関係する
、別に漢書の教場をも設けた、この教師は松山在来の漢学者を用いて、太田厚氏が首坐であった。けれども未だ
。そうして創設したのが現今も存在している松山の師範学校である。この創設と共に各所の伝習所は廃止して、
ばならぬといって、密に兵器を貯えて、まず松山の県庁を襲撃するという事に申し合っていて、今やそれを
先生がそうだから、学生などもそれに加わりなお一般の松山人にも熱心な運動者が出来た、私の末弟の克家も変則
しかし自由民権といえば松山の変則中学校の草間時福氏も慶応義塾出身だけに、随分主張してい
を神戸まで行った。その後の航海はまず平穏で、いよいよ松山へ達して帰宅して見ると、継母は既に人事不省に陥っていて、
他常に出入りをして県令と親しかった者は我松山人なので、その訳から皆転任せしめられたのである。そこで
氏、その他伊藤鼎氏、辰川為次郎氏、これは皆松山人で、また他から来ていて庶務課長であった南挺三
ぬ、学区取締となった最初に、小学校設置の必要を松山の有志者に説き聞かす時、少しいい詰って、出来そこなった事がある。
。ついでにこの常盤会寄宿舎の事を少々話せば、従来郷里松山から学問の修業として出て来る書生は随分多いが、普通の下宿
は私自身讃岐の丸亀まで行って、そこへ妻子を呼び寄せ、松山までは行かなかった。行くと数日の逗留ではとても知人に接する暇
歓迎された。それから翌廿三年には妻子を松山から東京へ迎えたが、この時は私自身讃岐の丸亀まで行って、そこ
は満足しなかった。廿二年には暑中休暇を貰って松山の妻子を省みた。十三年に東京へ来てから十年ぶりであっ
上彼に次女と次男とを連れさせて一時郷里の松山へ赴かせた。この少し以前、三女らくは実扶的利亜に罹って三
の実施を促がし、その結果として諮問員を東京と松山とに置かれ毎年の経費や重要の事件はこの諮問員に諮問され
ば作るほど熱心の度を増した。この夏子規氏は松山へ帰省して、彼地でも俳句を宣伝して段々と同好者を
も立たず月並的の句も作るので、子規氏が松山から帰って来ても余り取ってくれない。そこで私は多少憤慨心
員へ托して置いて、そして私は帰京した。この松山行きは十三年に出京してから二度目であったが、段々と知人
、がまずそれらを謄写するとか貰い受けるとかを、松山の掛員へ托して置いて、そして私は帰京した。この松山行き
いよいよ着手せしむる事になった。またこの取調のため、松山でも残りの老人二、三に嘱托者が出来た。けれども明治
松山へ赴く事になった。松山には従来久松家の松山方面の家政を取扱う人々が居るので、まずそこへ行ってこの度の
と思って、そのために松山へ赴く事になった。松山には従来久松家の松山方面の家政を取扱う人々が居るので、まず
洩れたるものをもなるべく調べたいと思って、そのために松山へ赴く事になった。松山には従来久松家の松山方面の家政を
臣下や人民の特種な事蹟を調べさせられたものが、松山叢談という三十巻ばかりのものになっている。けれども惜いかな
はそれだけなのであるが、いっその事この機会に松山藩の出来た以後の二百数十年間の事をも調べて置きたいという
八十以上の老人でもとよりいわゆる旧派である。青菱氏は松山では旧家と称する売薬商で、これも旧派たるは勿論だが、外
この人との俳事往復は時々する事になった。なお松山滞在中、宇都宮丹靖氏とか黒田青菱氏とかいう俳人にも
席上で両吟をした事がある。そんな関係でこの松山の帰途には宗白氏を訪ね、翌日は氏を連れて嵐山辺へ
宗白氏というを訪ねるためであった。この人は松山城下で錦雲舎という菓子屋の主人であったが、茶事も裏千家の高弟
この松山行の途中私は京都へ立寄った。それは同郷の河東碧梧桐氏、高浜
ではなかった。そうしてその下巻を直に写して松山の霽月氏に与えて、さきに上巻を見せてもらった報酬をした
なかった。そこへ或る時村上霽月氏の報知では、松山の古本屋で蕪村句集の上巻を手に入れたという事だ。私ども
。そうして予想以上にこのホトトギスは購読者も出来て、松山では三百を出し兼ねたものが、三千部も出る事になって、
ホトトギスだが、これは二十九年頃であったろう、郷里の松山で柳原極堂氏が久しく俳句を作っていて、また海南新聞の記者を
。幸にその時は快方に向って、それから郷里の松山で保養する事になった。そうしてその後小康を得て東京へ
ていたので長く旅行する事が出来ないので、松山は僅か三日ばかりの滞留で急いで帰京した。そこでこの往途大阪
妻の里方の春日寛栗に托して置いたので、松山へ行くと共に同家へ寄寓した。健行も附いて来て一両日逗留
同伴して松山に赴いた。その要件は主として松山の二番町に未だ小さく家屋と土地とを所有していたのを
する事になったので、私もそれと同伴して松山に赴いた。その要件は主として松山の二番町に未だ小さく
た。そこで明治十三年出京して以来、わが郷里の松山さえも、前にもいった如く廿二年と廿六年と両度行っ
。そして松山へ転封さるる時随行して、それから長く松山藩士となっていたのである。そんな続き合いなども大屋さんの、
松平隠岐守定勝公に桑名で仕える事になった。そして松山へ転封さるる時随行して、それから長く松山藩士となってい
これ以前私は未だ官吏生活をしていた頃、一時松山へ帰していた妻子を再び東京へ引取るために、神田三崎町の下宿から本郷
その他に費う者も出来たし、その上年々郷里の松山の中学校を卒業して、出京の上高等学校やその他の専門学校へ入学しよう
町田則文氏と共に副会長となっている。今一つ松山に同郷会というのがあって、青年の指導に任じている、その
て、少数ながら面白い会であった。それから、郷地の松山の知人達においても、私の古稀に達したということを聞い
以上の人で旧面識の人も多かった。そして同郷の松山人の外、同県で旧他藩に属する人々も加わって居られた事は
と決心した。そうして妻も殆ど三十年前に松山を見たのみで、どうか今一度見たいという希望もあったから
に竣工したので、その除幕式をするから、私に松山へ来いという事になった。これまでも郷地の人からは度々来い
東京へ来ても文部省で教育上の調査を為し、なお松山学生の寄宿舎の監督をして、これが四十余年にもなっている
この外郷里の青年のために設けられた、松山同郷会より招かれて、多くの青年少年のために訓諭をした事
私の松山滞在は僅の日数であるにかかわらず、来訪者の頻々たると共に揮毫
こんな風で松山は引上げて、この帰途には大阪で青木月斗氏等の俳句会に臨む
いい落したが右の松山行をせぬ前に東京において碧梧桐虚子氏その他の催しで、
句を染出した帛紗を配った。が、京都や大阪や松山の厚意を受けた人々へは、未だそれを送っていない。そうこうする
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。それは第一が品川で、次が府中即ち今の静岡、その次が草津と覚えているが、その間にも、一つあっ
には卯杖と改称した。その頃伊藤松宇氏は久しく静岡地方の富士製紙会社に従事していたので、我々との交通も
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といえばどこでも快く宿を引受けた。なお昔は長崎の探題とかであった訳もあろう。
誰れも知る人だ。また宮内省で久しく要路に居た長崎省吾も当時は助八郎といっていた。また海軍中将だかにまで進ん
と前にもいったが、薩州藩では黒岡帯刀氏長崎省吾氏の外、川島醇氏西徳次郎氏山本権兵衛氏、大村藩では
それから間もなく朝廷より放免の御沙汰があって元の長崎地方へ帰されて、切支丹否基督教もいよいよ黙許の姿となってしまった
せねばならぬ事情となった。そうして少し以前長崎地方の切支丹信徒は或る藩々へ数十人ずつ分かち預けて、改宗の説諭を
その信徒は厳刑に処する掟であったにもかかわらず、長崎地方にはこの信徒が絶えなかった。尤も王政維新の際、一時は神道
と思って、その頃は東京大阪の外に、仙台と長崎と広島とにも師範学校を設けられ、段々と卒業者を出していたから
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のことであった。私どもも勢田の長橋を渡って大津へ入込んだ。家来二人は矢走を渡りたいといって、姥ヶ餅のそばから
大津に入るあたりで三上山を見た。彼の田原藤太が射た大蜈蚣の
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さて一行はいよいよ伏見に着いた。京都へはまわりになるから立寄らない。伏見には藩の用達や定宿がある
綱一郎という人だと私に話したが、それが後年京都で足利の木像の首を切って晒し物にした浪士の筆頭となっ
に沈んでいる。不思議なことと思ったが、父が京都の御留守居をいい付かった故と知れた。
なり、それにしても、父は頑固な方ゆえ、京都あたりの留守居でもさせたら、少しは角が取れるだろうとの考え
京都の留守居といえば、禄高も増し、よい地位であり、首尾直りの
も悲しいともいわぬ性分であったから、唯黙って京都行きの準備をした。唯、私の文武の修行を怠らせるのを
八月いよいよ三津から藩の船に乗って、京都をさして上ることになった。三津までは親類も送って来た。
せねばならぬと思っていたからであったろう。京都に入って後も、贅沢な玩具などを買うことは出来なかった。
と交際をせねばならぬ、そしてその交際の場所は京都では祇園町であるので、家禄の増高の外に交際費も貰うの
通り六角下ル和久屋町という所で、今まで居た岡本という京都留守居と交代して、ここに落着いた。
さて京都の屋敷は、高倉通り六角下ル和久屋町という所で、今まで居た岡本と
はとかく京都に対しては敬遠主義を取っていた。京都の留守居は、特にこの朝廷に対する藩の関係を注意して勤めなけれ
にはむつかしい作法がいるというので、藩々からはとかく京都に対しては敬遠主義を取っていた。京都の留守居は、特に
将軍の代理として上京することがあるだけである。京都に対して何かすると、幕府から嫌疑を受けるという恐れもあった
京都の邸は小さくて、御殿といって君侯の居られる所も出来てい
のが出入した。銀主というのは、大阪以外この京都でも藩主が借金をした、その債主で、今では金も無くなり
京都の藩邸へは出入りの人々がある。そのおもな者には、徳大寺殿の
父は京都に着くと、まず他藩の留守居に対して、ヒロメの宴を祇園町
江戸の猿若以来二度目に見る大芝居である。その頃の京都の芝居は、幕数が非常に多かった。七ツ時(午前四時
であった。座頭は三升大五郎(四代)という京都根生いの役者で、これが由良之助をした。あまり上手ではないとの
度々行った。私が落語を聞馴れたのは、この京都の机を前に置いて木を以て叩く落語によってであった
である。若党は藩地より連れて来た外、今一人京都で抱えた。それは前の留守居に勤めていた者である。
ヶ月で、翌年の夏藩地へ帰ったので、家族が京都で芝居を見たというのは唯この一度であった。しかし私は
父が京都の留守居を勤めたのは八ヶ月で、翌年の夏藩地へ帰った
さした者は無銭で這入ることが出来たのである。京都には二本ざしが少なかったので、興行者の方でもこの特許
どもが容易くこういう所へ行けるかというに、その頃京都では、二本さした者は無銭で這入ることが出来たのである
藩地に居る間に聊か義太夫の稽古をしていた。京都抱えの若党も少しはやるので、父の留守には、低声に義太夫を
京都に住んだその年の末に、徳川家茂公に将軍宣下があったため
、もとより先方は何も知らず、ただ私一人で胸に京都の昔を思い浮べただけである。
いねばならぬ。その間に伊勢参宮をした。京都の留守居は、年に一回藩主の代理として参宮をすることに
こういう方面に趣味を辿ることが出来たのは、この京都住居が栞となったのである。
京都住居は僅か八ヶ月であったが、私はこの間に祇園町を知り
いよいよ京都を去るという前夜、ちょっとした別れの宴を内で開き、滋賀や
の枝を投げて怪我をさせた安西の子供へ、京都土産の玩具をやった。それから帰りの海路は追手がよく四、五
には家来なども住ませる事になっていた。尤も京都に居た頃には藩邸の御殿を仮住居としていたので
は私も得意としていたのであるが、一時京都の空気に触れて、芝居や義太夫、乃至落語等に浮かれていた故
かく藩地に住む事になったので、私も久しく京都に住んで廃していた文武の修行を再び継続せねばならぬ事
既に十七歳に成っていたから、単身父の看病に京都へ赴くことになった。
たので、藩の世子もその警衛として江戸から京都へ上った。そこで私の父もその供をして、世子が公武
、今度は独行せなければならぬ。今日では藩地から京都へは一日足らずに達する事も出来ようが、その頃は船の都合が
た十一歳で江戸から帰り、その年から翌年へかけて京都の往来をした外には久しく旅行する事もなく、またこれらの
人続いて上陸する。私もかく滞船していては京都へ上るのも遅れる。いっその事上陸して山陽を行こうと思い付いた。
私は雨を侵して三里の道を駕に乗って京都に入ったが、その頃世子の旅館は、高倉の藩邸は手狭なの
療養上の保護も厚く受けていた。従って世子が京都を引上げられる際も、特に御側医師西崎松柏という者を残してもっぱら
御用達を兼務していたから、この度の如く世子が京都へ行かれて朝廷や幕府の間に多少の斡旋奔走せらるる際は、
になり、私も勿論快復したので、そこでかつて京都留守居を引上る時に用いた高瀬舟をまた雇切って、伏見へ下り
藩の公用も父が少し良くなったために、京都に残っている目付や藩邸の留守居などが時々来て相談することも
も存外首尾が悪くはなかった。その頃父は江戸や京都あたりに旅行することが多いので、私の詩を作り始めたと聞き
発砲したことがあったり、その前後も藩主や世子は京都江戸へ奔走されていたので、兵員も多人数を要することになり
かくてその年も明たが、彼の京都で長州兵が禁門に発砲したことがあったり、その前後も藩主や
をしたため、それから伏見へ着き、なおその足で京都まで行った。この里程は十三里もあるのだから、同行中の年少
た。私は前にもいった如く、父の看病に京都へ行った時既にこの瘧に経験があるので、そこで自分で治す
世子は当時、家茂将軍の長洲再征の御供として、京都に一隊の藩兵を率いて滞在して居られたので、私もそこ
せねばならなかった。医者で思い出したが、私の京都に着した頃から、風邪が流行していて、我々の同僚も風邪
このさかり場を逍遥したものである。私は最前父が京都留守居の時こそ、家来に舁がれてしばしばここへ見物にきたの
この頃の京都は彼の長洲兵が、禁門に発砲した騒動で、その残党を捜索
そこで我々どもも世子に従って京都を出発し、伏見からは、小船で大阪へ着き、それから、藩の
仰がるることになった。そこで私もお供をして京都へ行き、最前の寺町の寺院へ上下共に暫く滞留した。そして世子
になっていた。忘れもせない新年の六日に京都から右の伏見の事変の急報があったので、我藩は上下挙っ
この水本塾へ入ることになった。この山本の旅宿は京都の東北の吉田神社の傍で、藩主の本陣は真如堂であったから、
の話を聞くと、私のこの度経学修業として京都へ来ることになったのは、他の一面には、諸藩の情勢に
また意気揚々たる感じもした。この旅行は別条もなくて京都へ達し、まず御判物を出張の藩吏へ渡して、私は従弟の山本
があったので、それを入れたる長持を私がこの京都行のついでを以て保護して行けとの命を受けた。そこで
の末に私は小姓そのままで、経学修行として京都へ行けとの命があった。而して明教館からも七等に進め
こそ輓近西洋通の人は多少食ってもいたが、京都ではまだ四ツ足だといって汚らわしいものとしていた。しかる
私は久しぶりで京都に来たのであるから、常に好きな芝居を見ることも楽ん
京都の話しはまずこれだけで、われわれもいよいよ東京へ出発することになった
、間もなく許可されて学生となり入寮した。京都より同行の薩州その他の書生も前後して入寮したので、これ
たいという者があるので、伏見から道を転じて京都へ入って、三条橋畔の宿屋へ投じた。その翌日は祇園、清水、
路順なら直に大阪へ行くのであるが、ついでに京都も見たいという者があるので、伏見から道を転じて京都へ
このままで行けば、江州へ入って磨針峠を越えて京都へ入るのであるが、前にもいった通り伊勢参宮をしたいの
の北垣県令、千葉の柴原県令などで、官権党は京都の植村府知事、神奈川の野村県令などであった。それから鹿児島からは、
は大阪の芹舎の門人であったので、廃藩後は京都へ住居して水力応用の紡績機械を販売する、傍ら茶と俳諧の宗匠
直に二氏と別れた。それからまた帰途にはこの京都へ立寄ったが、その時は二氏には逢わないで、これも同郷
機会から俳句を作り始めて、その後大学へ入る目的で京都の第三高等中学校の生徒となっていて、一層俳句を作って、
この松山行の途中私は京都へ立寄った。それは同郷の河東碧梧桐氏、高浜虚子氏が子規氏の
今いった碧梧桐虚子の二氏はその後京都の高等中学校の改革で仙台の第二高等中学校に移ったが、間も
罹っていたので、後には細君の実家近くの京都辺りへも流寓して、終に病死した。そうして、あべこべに舅
の門前の瓢亭で共に酒を飲んだ、この時に京都で始めて電車に乗った。これも東京よりは先鞭をつけていた
京都見物をするといって、附いて来たので、京都へ廻って月並ながら例の祇園、清水、知恩院、大仏などへ行って
の親友の由井清と、伊藤奚疑の二氏が送りかたがた京都見物をするといって、附いて来たので、京都へ廻って月並
自動車は東京のよりも大分緩くりと馳せた。席上は京都よりも三倍以上の人で旧面識の人も多かった。そして同郷の
ある。そこへ私どもは一泊して、その晩は京都の同郷人の歓迎会に出席した。この会は肉弾の著述で有名な
西陣の織物の模様を描く絵工であるので、久しく京都に住んでいるのである。そこへ私どもは一泊して、その
の十六日老夫妻が始めて一等汽車に乗ってまず京都まで行った。ここには妻からは姪にあたり、私からは従弟の
の俳句会に臨む約もあるし、また奈良見物や、京都近傍の三井寺石山寺等の参詣も期していたのだが、兵庫へ着く
げな』の句を染出した帛紗を配った。が、京都や大阪や松山の厚意を受けた人々へは、未だそれを送ってい
京都へ嫁入る女子に
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この渡船の例として、たとえば丸亀から大阪へいくら、広島または下ノ関へいくらと定め、その航路が順風であって僅かの日数で
設けられ、段々と卒業者を出していたから近接せる広島師範の卒業者を五人我県へ招聘した。そうして県内を六区域
て、その頃は東京大阪の外に、仙台と長崎と広島とにも師範学校を設けられ、段々と卒業者を出していたから近接せ
一月県官を広島へ派遣する事になった。即ち広島がこの年の聯合教育会を開く位置に当ったからだ。そこで私
も承諾したので、明治十年一月県官を広島へ派遣する事になった。即ち広島がこの年の聯合教育会を開く
が、全国を五大学区に区分して、我県は広島、山口、岡山、島根の諸県と共に第四大学区に属してい
忘れもせぬがこの初度の教育会に、まだ広島に居る際、予て多少噂もあった薩州の私学党が、西郷を戴い
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賑わっている。私もこの由賀山へ参詣して、いよいよ岡山城下へ向けて陸地の旅を初める事となった。
岡山城下は長い町で、ちょうど五月であったから、両側の軒先に幟
五大学区に区分して、我県は広島、山口、岡山、島根の諸県と共に第四大学区に属していた。そこで
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にもあって、物頭役の戸塚甚五左衛門とか、平士の長野、岡部、伊佐岡とかいう者も乗組んでいて、戸塚はじめ我々の家来
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軍艦のみでは足らないので、親類の関係から隣国の高知藩に軍艦を借りたいと言って、承諾を得た軍艦が阿波の鳴門
読んでいたのが今も耳に残っている。また高知の雨宮真澄氏谷新助氏等は随分乱暴家であって、就中谷氏
ようである。そこで議長は河野敏鎌氏であるから、高知人でもあるし、その頃は民権主義になっていたのだが
れた。まず民権党では、我岩村県令や、高知の北垣県令、千葉の柴原県令などで、官権党は京都の植村府知事
久しく俳句をやめていたかと思うが、最近郷地の高知で「海月」という雑誌を発行する事になって、もともと正直を知っ
を攻撃する者はまずなかったように思われる。しかるに高知の人で、若尾瀾水氏というが、最初は子規氏の句会にも
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起したことであった。しかるに今日ではここらが神戸の目抜の市街となって、楠木神社も立派な宮居となり、周囲に
に願って東京へ赴くこととした。或る汽船便で神戸まで達して西村旅館に着いて見ると、昨日この置手紙をして愛媛県の
懲り懲りしたので、四日市へ上陸してそれから陸路を神戸まで行った。その後の航海はまず平穏で、いよいよ松山へ達して帰宅し
漂った末、やっと四日市の港に入った。私は元来神戸まで往って、それから別の内海通いの汽船便を取るつもりであった
ネヴァタ、東京丸はニューヨークといったのである。この途中神戸で楠公神社へ妻と共に参詣したが、福原には妓楼なども
私も家族を連れてそれと同行した。この航海は神戸からは三菱会社の船の東京丸というに乗った。この一月に
喀血して、とても台湾行きは出来なくなって、それから神戸の病院へ入ったが、一時は危篤という報もあったので、
に、私の弟の娘の須磨に居る市橋良子、及び神戸にいる従弟の子の交野国雄にも逢った。その翌日は山陽汽車に
といったので、その須磨へも一泊せず、神戸の或る旅店に一泊したままで、直に東京へ急行列車で帰っ
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時である。間もなく土州の山内容堂公は後藤、福岡等を以て慶喜将軍に大政奉還を勧めらるることになって、それに
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なく朝廷よりは慶喜公を始め会桑藩は勿論、姫路高松及び松山藩等を朝敵と目されて追討を命ぜらるるということになっ
外出の際は必ず裃を着た。なお同じ恭順でも高松藩では藩士一同脱刀したという事だが、我藩には
へ入ったが、同塾生は過半薩州人で、他に高松藩とか、鯖江藩とか、肥前鹿島藩とかの人もいた
没収されたまま返されず、別に小石川見附内の高松の中屋敷を代りに下さった。しかし三田の中屋敷は元の如く下さ
の学校の視察にも赴く事になった。この地方で高松人は、早くより土州の立志社に共鳴してその支社を開いてい
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は亡くなられ、先生は薩州藩に聘用せられて、遂に鹿児島へ行って藩校の漢学の指導をせられていた。そうしてこの
の植村府知事、神奈川の野村県令などであった。それから鹿児島からは、県令代理として渡辺大書記官が出ていた。即ち千秋
いたがこの会の主幹としてもっぱら働いていた鹿児島人の寺師宗徳氏が亡って以来は、ついつい私が専務幹事とでも
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あったから私は心安くしていた。なお少寮長の仙台藩の遠藤温氏と心安くしていた。間もなく私等の数名
がよい、彼の塾頭には河野某というが、同じ仙台人で漢学の傍ら英学を修めていて、岡の塾は漢学と洋学
ならぬと思って、その頃は東京大阪の外に、仙台と長崎と広島とにも師範学校を設けられ、段々と卒業者を出してい
萩の実録とかいうので、先代彦三郎の原田甲斐、仙台綱宗、神並父五平次、先代芝翫の松前鉄之助と仲間嘉兵衛、助高屋高助
活歴物を多く出していた。私の見たのは仙台萩の実録とかいうので、先代彦三郎の原田甲斐、仙台綱宗、神並
例の抜刀隊に当る覚悟なので、多く、会津、仙台辺りの士族であった。そうして彼らは往年己れ等を賊と
碧梧桐虚子の二氏はその後京都の高等中学校の改革で仙台の第二高等中学校に移ったが、間もなく、もう大学校などへ入る
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藩では相馬永胤氏、久留米藩では高橋二郎氏、富山藩では磯部四郎氏、高鍋藩では堤長発氏、処士では
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で青々としていたけれども登らずに終った。奈良を立って路順なら直に大阪へ行くのであるが、ついでに京都
ので、例の仇討の古跡は見ずに終った。奈良では猿沢池の傍に止宿して、翌日、春日の社や大仏その
のでやはり流連して、三日目に伊賀を経て奈良に達した。この道は伊賀越と阿保越の二つがあるが、
陳腐だから、木曾海道を通って、それから伊勢参宮や奈良見物をして見ようといい合ったので、発足の日は板橋駅に泊り、
青木月斗氏等の俳句会に臨む約もあるし、また奈良見物や、京都近傍の三井寺石山寺等の参詣も期していたのだが
宵闇や鹿に行き逢ふ奈良の町
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では、我岩村県令や、高知の北垣県令、千葉の柴原県令などで、官権党は京都の植村府知事、神奈川の野村県令など
の数藤五城氏、法官で居て最初東京に居て台湾千葉と転任した、渡辺香墨氏と、今一人は大阪の松瀬青々氏で
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は佐賀人でこれまでは茨城県令をしていて、水戸人とは気風が会っていたから、この度の転任と共に茨城県
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。関新平氏というが拝命された。この人は佐賀人でこれまでは茨城県令をしていて、水戸人とは気風が
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俳事往復は時々する事になった。なお松山滞在中、宇都宮丹靖氏とか黒田青菱氏とかいう俳人にも出逢った。この
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も旧によって健実である。またこの人に次いで秋田地方では、島田五工氏なども、子規氏の俳風に同化して
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、熊本人の北野直壮氏に調べてもらったが、熊本の内藤諸家もその勤仕以後の人の姓名は知れているが、その以前
私が最近史談会の幹事を同じく勤めている関係から、熊本人の北野直壮氏に調べてもらったが、熊本の内藤諸家もその
細川幽斎の領分であったためか、内藤家の遺族が熊本藩にも幾人か仕えているらしい。そこで私が最近史談会の
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芝愛宕下にあり、中屋敷は三田一丁目にあり、下屋敷は深川や目黒や田町などにあった。この中屋敷で私は生れたので
の料理屋へ行って酒を飲み芸者を呼ぶ。また吉原や深川や品川へ登楼もする。そうして帰って来て気焔を揚げるのが
、我々との交通も隔ていたが、再び出京して深川の倉庫会社に関係する事になったから、そこで元来なら、我々の
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にあり、中屋敷は三田一丁目にあり、下屋敷は深川や目黒や田町などにあった。この中屋敷で私は生れたのである。
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と知って巧に影を隠した。すると捕手は直ちに品川へ向って、そこの廓で捕えた。北から逃げた者は直ちに南
でも着たのに駕籠を舁かせて来たが、品川で雲助を雇うのである。
いつ遇われるやらと別を惜んだことを覚えている。品川までは江戸の人足のカンバンでも着たのに駕籠を舁かせて来
私どもは十二年間馴染んだ江戸を出発して、品川鮫洲の茶屋、今もあるあの川崎屋で休んで、そこで見送りの人
、小さい蒲団を縄で結わえ着けたりしてるのもある。品川で始めてこの者どもの手に渡るのである。雲助は駅々の親分
の貫目を検査する場所があった。それは第一が品川で、次が府中即ち今の静岡、その次が草津と覚えているが
は当時比較的新らしい形式に依ていて、幕府が築いた品川沖の台場よりもこの方が実用に適っているといって、わが藩
へ行って酒を飲み芸者を呼ぶ。また吉原や深川や品川へ登楼もする。そうして帰って来て気焔を揚げるのが誇りと
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焼けた。これは『麹町火事』と称した大火で、麹町から愛宕下まで焼けたのである。そこで上屋敷にいた者も一時は
以前、私の二歳の時に焼けた。これは『麹町火事』と称した大火で、麹町から愛宕下まで焼けたのである。そこ
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はじめの女連れに連れられて行った。その帰り途に、浅草雷門前の女川田楽で夕仕度をしたことを、珍しかったので今
浅草方面へ行くのは、まず梅屋敷の梅見、それから隅田川の花見であった
中根岸の岡野の貸席でこの大会を催している最中、浅草鳥越町方面に火事が起って、それが近火だからといって、森猿男
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料理屋へ行くということも甚だ稀であった。或る年向島の花見に祖母はじめの女連れに連れられて行った。その帰り途に、
花見は大概行くことになっていた。多くは上野と向島と御殿山である。上野の花見の時は、あそこでは食べ物が山内に
外交官が、多額の金子を持参し、駕籠に乗り供揃いで向島へ赴き、そこの用人に会って、田舎侍がかくかくの粗忽を仕りましたる
てこの事を古参に話した。古参は不審を起し、向島にそんな所は無いはずだがといったが、間もなくそれはその
古い話しだが或る時新参の勤番者が、二人連れ立って向島へ出掛けた。あちこち歩いているうち、或る立派な庭園の前に来掛っ
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これらは人込みの騒がしい所で食べることであり、中堀や大塚の家来が酒を飲んで酔っ払うまで居たので、それが子供心に厭わしく
鍋の店へ連れて行ってくれた事があった。大塚という内の子供とよく遊んだものだが、その家来が子供を連れ
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には、飯倉の通りから、この切通しを回ったが、赤羽から増上寺の中を抜けて行くと大変近いのである。私どもの
寺境内は度々通った。怖い心持がいつもした。あの赤羽から這入ると左側に閻魔堂がある。あれも怖かった。長じて後も
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増上寺に対して、上野の寛永寺が幕府の御菩提所であった。これは三月の花見の
人の脊に依るまいと決心したので、それで上野の往復にも、人々が負んぶしようしようといったのを肯ぜず、我慢
も私が八歳頃のことであったが、屋敷から上野までの往復とも歩いて大変人に賞められた。私は祖母育ちゆえ
あった。茶と酒の燗などは茶店に頼んだ。上野へ行くと、多くの女が鬼ごっこをしてる様を珍しく見た。何
なっていた。多くは上野と向島と御殿山である。上野の花見の時は、あそこでは食べ物が山内には無いので、皆
花見は大概行くことになっていた。多くは上野と向島と御殿山である。上野の花見の時は、あそこでは食べ物が
で開かれ、渡辺水巴氏の曲水吟社で催しの会は上野の花山亭で、倉重禾刀氏の乙卯吟社で催しの会は飯倉の
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その頃盛んな山王神田の祭などは、人が雑沓するから、もし事変に出合って藩の名
導かれて俳人生活をする事になって卅年頃に神田の或る学校で講演会を開いた時に思ったよりも巧く喋舌った。次
桜井女学校へ寄宿せしめ、私は長男健行を携えて神田の三崎町に下宿した。この際、従弟で浅井から養子に行った天岸
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その次に縁日の盛んなのは、十日の虎ノ門の金毘羅であった。これは京極の邸に在った。その邸の門
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箱根となると関東唯一の関で、幕府の功臣小田原藩大久保の受持になっていたから、自然厳重な荒々しい言葉使いをしたもので
長州人江木康直氏が赴任した。権参事には、大久保某というが命ぜられた。而して県庁も再び松山に移った。私は
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だが、その後他の藩へも広まって、今も東京の或る水泳場ではこの神伝流を教えている。
過ぎて大正三年になって、市川眼玉という老優が東京へ来た。それが昔の市十郎だと聞いたので、行って見
なり、やがて名代になって市川市十郎と名乗った。その後東京の春木座が出来した時に、市川右団次の一座に這入って来
相談して許可を受けたから、他の学生と共に東京へ行くことになった。尤も水本先生は少し先へ出発されるので
のであるが、やはり水本の方を慕うが上に、東京の見物もしたいという希望もあるので、薩藩人を始め、他
昌平学校の一等教授を朝廷から命ぜられて、俄に東京へ行かるることになったので、われわれどもは頗る失望した。尤も
新年早々東京では旧幕府の諸学校を再興されて、漢学専門の昌平塾を
安政年間十一歳で藩地へ帰った以来、再び見る江戸否東京であるから一入勇ましく旅行したが、その頃はまだ幕府時代のままで
京都の話しはまずこれだけで、われわれもいよいよ東京へ出発することになったが、同行者は多く薩州人で、他に一
東京へ着した晩は、二本榎の水本先生の母人の家へ他の薩州
著京を届けて、そのまま泊めてもらった。私は東京へ来ればまず芝居が見たいので、その事を話すと、藤野氏
なお中村宗十郎とか、大谷友右衛門とか中村翫雀とか、東京へ来ては同姓名のあるのを避けた高砂屋福助なども、絶え
ら顧慮する所なく諸事を断行した。尤も私はただ東京帰りの聞きかじり西洋通の青年であるから、さほど度胸もなく見識もなかった
仏式の方がよいという事になったので、特に東京から、武蔵知安氏とその門人の五、六名を聘傭して訓練
事』とあったのだが、私はそれを取り除けて東京の大学の学規の『道の体たるや物として在らざるなく、
西洋事情三冊を読んだ位で、その他は江戸が東京となって以来多少の変化した状態を目撃したというだけである
ので、そこへも往って面会したが、我々は東京で文明の新空気を吸っているという誇りから、大気焔を吐いた
、山川八弥、杉浦慎一郎と共に私は三月朔日に東京を出発する事になった。そうしてこの帰途は東海道も陳腐だから
させてもらいたいといい出し、その許可を得ていよいよ東京を出発する事になった。尤も錦織左馬太郎は、先へ帰ったの
多少見ぬ書も渉猟して勉強もしたが、わざわざ東京の大学に来ているというほどの益もなく、一面には芝居の
。私の同僚でも長屋氏は金があったから、東京へ出張して帰った時金刀を閃かしていたが、私は貧乏だ
から一刀だけを帯ぶる事にした。この一刀も東京あたりでその頃流行したもので、これまでの大小の、大よりも
その頃東京では段々と脱刀とか散髪とかいう事が始まって、後に
も持った。そこでその頃少参事の小林信近氏が東京へ出張したので、氏がその頃管理していた、刑法課
この頃東京の藩邸では、公用人が、もっぱら朝廷に対する用弁をしていたの
共に、知事は従来の公家達と同じく華族となって東京へ移住せらるるからである。
が治まった上は、前知事一家は朝廷の御沙汰に従って東京へ移住されねばならぬ。しかるに、その出発に当ってはきっと
着いた。この道中の大磯からであったと思うその頃東京ではもっぱら流行していた人力車というものがあったので、三
でもあったから、別に川止めにも出会わず無事に東京へ着いた。この道中の大磯からであったと思うその頃東京では
庁の存している間に再び洋学修学の命を受けて東京へ出ようと思い付いた。この事を親友のこれまで庶務課の権大属
というから弁当の仕出しをさせた。この常平舎は東京到る所にあって頗る書生どもに便を与えた。中には一家族が
東京へ着した時はまだ藩の出張所は何とかいった、京橋あたりの
なる築地ホテルも烏有に帰してしまった。これは明治以後東京始めての大火であったのだ。
船に便乗した。乗客も随分多くて、中には東京帰りの九州書生などもいて、詩吟や相撲甚句などを唄って随分騒しかっ
ているのは、大阪の或る宿へ着いた時、一番東京風を見せるつもりで、女中に二朱ばかりの祝儀を与えた。すると
も見物しようと思い定めた。頃は三月であったろう、東京を出発して、その時はもう人力車がどこにもあったから、一
が立たず、さぞ困却していようと思うと、この上東京で一人安気にぶらぶらしているのが済まない感が生じた。これは
て見た。が稲垣氏は間もなく松山を去って東京へ行ったので、私もそれ限り英書を習う機会を失ってしまった
ので、私は右の漢学の教員を勤める傍、わざわざ東京まで行って果たさなかった英学を幾分でも修めたいと思い、この稲垣氏
では、家内の喰う事がやっとである、そこで、東京から帰っている弟の大之丞にせめては洋学の修業を継続させたい
であるし、現今では松方侯爵その他が分割して東京でもよい邸地といわれているのだが、それを僅に三千何百
この頃は旧藩知事の久松家は東京に住居せられていたが、何分旧大名風の生活が改められない
篇連語篇とかを間に合せに用いた。文部省で東京と大阪とに師範学校を置き、そこから、読本とか、実物指教の掛図
同郷人の服部嘉陳氏、錦織義弘氏が主として東京へ拘引され、なお従弟の小林信近や親友の由井清氏藤野漸氏
それに移住は出来ないで、父は久松家の用向きで東京へ行く事になった。また私はその頃のハイカラだから田舎住居など
歳。しかし平素の主義として、君家のためにわざわざ東京へ上ってこの病のために斃れたという事は死しても満足し
得て落胆するし、号泣もしたが、この上は東京へ行く必要もないので、そのまま汽船便で帰郷した。帰ると
あった。そこで私は驚いて、県庁に願って東京へ赴くこととした。或る汽船便で神戸まで達して西村旅館に着い
右は明治六年の事だが、この九月に東京に居る父が大病に罹って危篤だという知らせがあった。そこで
と思うが、下にいう家屋の新築費や、その後東京へ移住して生計の欠乏を補う必要から、時々支消して、明治廿
の小家屋を新築した。この家屋は十三年に一家東京へ移住して後は人に貸して居ったが、卅六年段々借財
、次に大阪へも大阪師範学校というのを設けて、東京師範学校の卒業生などを以て同様に師範科を教授せしめた。この学校
普通教育の伝習として、御茶の水の旧大学本校跡を東京師範学校と名けて師範学科を多くの学生に教えさせ、次に大阪へも
の普及を謀らねばならぬと思って、その頃は東京大阪の外に、仙台と長崎と広島とにも師範学校を設けられ、段々
していなかった。そこで文部省へ出頭して、良い東京師範学校卒業者を求めた結果、松本英忠氏というを雇入るる事になった
では老後を保護してくれる見込もないので、遂に東京に帰って来て他に生計を求めたけれどやはり適当な事業もないの
か、高崎岡山県令とかもよく口を利いた。また東京府知事の松田道之氏は中でも先輩顔をしていて、なるべく議論
事となって、私に随行を命ぜられたから、またまた東京を見る事が出来た。この会場は和田倉門外龍の口の或る旧藩邸
。その以前一月には始めて地方官会議というが東京に開かれて、府県の長官もしくは代理の次官を集めて、或る問題
いて、旧観を更めていたのに驚いた。それから東京へ着いては兼て願って置いたので、日本橋区浜町二丁目の旧藩
いずれも米国から買入れたので、名古屋丸は旧名ネヴァタ、東京丸はニューヨークといったのである。この途中神戸で楠公神社へ妻と
同行した。この航海は神戸からは三菱会社の船の東京丸というに乗った。この一月に上京する時は、名古屋丸と
先きは忘れたが、とにかく家族を連れて当地を発して東京へ赴かるるので、私も家族を連れてそれと同行した。この
か、そのまま落着いている気もしないので、終に東京へ転任したいという事を答えた。しかし他の同郷人は岩村氏
た。けれども、今までの同僚で、殊に同郷人は多く東京へ行くし、また椅子を並べる課長等は新顔も多くなるという事に
の事であったから、そこへ移った。その頃は東京の物価も余り高くない時であったが何しろ五十円の収入が四十円
遡っていうが、私が東京へ転任した翌年に次男を挙げて、惟行と命けた。十九年
、順女もこの丸亀まで来て面会した。それから東京へ着いては、前年から旧藩主久松伯爵家より嘱託せられていた
れた。それから翌廿三年には妻子を松山から東京へ迎えたが、この時は私自身讃岐の丸亀まで行って、そこへ妻子
は暑中休暇を貰って松山の妻子を省みた。十三年に東京へ来てから十年ぶりであったので、故郷とはいえ、諸事
御家憲の実施を促がし、その結果として諮問員を東京と松山とに置かれ毎年の経費や重要の事件はこの諮問員に諮問
なく東京市中及び近郊を散歩する事を始めた。而して東京市の彩色の無い絵図面を持っていたのを、散歩の度に通っ
はないので、それからは運動のため日々当てもなく東京市中及び近郊を散歩する事を始めた。而して東京市の彩色の無い
村上霽月氏もこの頃から俳句を始めて、これは以前に東京へ出て書生をしていた頃、私が学校の証人に立って
と俳諧の宗匠をも兼ねる事になった。そしてこの春頃東京へ来た際私の家には藩の頃出入した関係もあり、
のは面倒だという事で、自分で退学してもっぱら東京で文学を研究する事になり、就中俳句は子規氏の下で益々盛
て来た。そこで虚子氏はそれなら自分が引受けて東京で発行して見ようといい出したが、子規氏はそうなると全く自分
に引受けて、これも今に継続している。その他東京の新聞雑誌は段々と多く関係することになって、多少の出入変遷も
する事になった。そうしてその後小康を得て東京へ帰ったが、その頃から段々と行歩が不自由になって、多くは
が、一時は危篤という報もあったので、既に東京に来ていたその母刀自や、虚子氏は看病に赴いた。幸に
、けれども絶えず読むものは読んでいると見えて、東京その他の俳事の状況や変遷はよく知っていて、その句作も旧
医業を開いて、今日に至っているがその後一度も東京へ出て来ないで、地方の百姓を相手に閑居して、この患者
などという多作をして我々を驚かせたが余り長く東京には留らないで、帰阪して後大阪朝日新聞社に入って、今も同社
取った)数学教師の数藤五城氏、法官で居て最初東京に居て台湾千葉と転任した、渡辺香墨氏と、今一人は大阪
出吟者で傑出した三人を見出した。それは東京の第一高等学校(この頃中の字を取った)数学教師の数藤五城氏、
ことであったろうと思う。私どもは非風氏が一時東京の小石川に家を持っていた頃、子規氏や古白氏などとそこ
、この時に京都で始めて電車に乗った。これも東京よりは先鞭をつけていたのである。
始めて電燈のイルミネーションを見たのである。こんな事は東京よりも大阪の方が先鞭をつけていた。また帰途には郷里の
ていた頃、一時松山へ帰していた妻子を再び東京へ引取るために、神田三崎町の下宿から本郷へ借宅して住んだ。それが
いうのがあって、青年の指導に任じている、その東京部長というのも私が脊負っている。また寄宿舎の監督こそやめたれ
」を金港堂より譲り受けられた際に、愛媛教育協会の東京部というを設けられて、私は此方でも文部省専門学務局長の
とが同伴せられて自動車で乗り着けた。この自動車は東京のよりも大分緩くりと馳せた。席上は京都よりも三倍以上の
ない、ただ偶然に藩から県と学務の責任者となり、東京へ来ても文部省で教育上の調査を為し、なお松山学生の寄宿舎の
というが、私の郷地の老人であるのみならず、東京では史談会の幹事でもあるから、何か話しをせよという事
神戸の或る旅店に一泊したままで、直に東京へ急行列車で帰って来た。老夫婦は旅中で流行感冒に罹っては大変
いい落したが右の松山行をせぬ前に東京において碧梧桐虚子氏その他の催しで、私の祝賀会として、
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、その後、加藤家に代ったのが蒲生家で、蒲生家に代ったのが松平家(今の久松家)即ち私の旧藩主
のであるが、その後、加藤家に代ったのが蒲生家で、蒲生家に代ったのが松平家(今の久松家)即ち
貰ったので、まだ出来てない二の丸を造った。この蒲生家も暫時で亡びて、その後を松平隠岐守即今日の久松伯爵家が
が出来た頃に、会津へ転封されて、その後を蒲生家が貰ったので、まだ出来てない二の丸を造った。この蒲生家
付いていた。これは豊臣太閤の桃山御殿の遺物が蒲生家に伝っていたのを用いたということである。世子の常
箔を置いて立派な絵が描れていた。定めて蒲生時代の名家の筆であったろうが、無風流な青年の私は、人に
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せぬのは年越しの晩であったが、つい近傍の浜松町の寄席へ由井氏と共に行った。影絵の興行で、折々見物の
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てしまわれたのは実に惜しい。これに反して、浜町は土地が低くて湿気も多いし、水も悪いし、大火ある度に
東京へ着いては兼て願って置いたので、日本橋区浜町二丁目の旧藩主久松伯爵邸の御長屋へ住むことになった。
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のスカットというを雇って普通教育の伝習として、御茶の水の旧大学本校跡を東京師範学校と名けて師範学科を多くの学生に教え
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十)の酒井雅楽頭、大阪から来た嵐三右衛門の愛妾高尾であった。私はこんな新作物は始めてであるし役者も揃ってい
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をしたのだが、折節守田勘弥が猿若の小屋を新富町に移して改良劇場を作って、作者は河竹黙阿弥を雇いいわゆる活歴物を
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それから東京へ着いては兼て願って置いたので、日本橋区浜町二丁目の旧藩主久松伯爵邸の御長屋へ住むことになった
で開かれまた南柯吟社の武田桜桃氏等の催しは、日本橋の常盤倶楽部であった。就中常盤倶楽部は殆ど二百名の出席者で私に
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仲間にも広がって、世間へも聞えると共に、終に神保町の磊々堂が旧版を再版する事になった。聞けばこれは大野洒竹
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の襁褓を干す梵妻も居まいからというので、終に田端の大龍寺を卜した。これは私と碧梧桐氏がまず行って、見分
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浅草方面へ行くのは、まず梅屋敷の梅見、それから隅田川の花見であった。或る時は屋根舟で花見したことがあった。
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と最初の談判は伊豆の下田でしたが、次のは浦賀ですることになった。その際、黒船が観音崎を這入る時には、
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着した時はまだ藩の出張所は何とかいった、京橋あたりの旅店に設けられていた。そうして三田の藩邸は久松