田舎教師 / 田山花袋
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不便だし、ここらから若者が出かけるには、茨城県の古河か中田かに行くよりほかしかたがない。中田には大越まで乗合馬車の便
の白い丈のすらりとした好男子であった。一人は古河の裁判所の書記で、年はもう三十四五、家には女房も子供
の得意先もこのごろでは熊谷妻沼方面よりむしろ加須、大越、古河に多くなった。離れていて、土曜日に来るのを待つのもつらい。
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若葉は人の顔を青く見せた。ざるに生玉子、銚子を一本つけさせて、三人はさも楽しそうに飲食した。
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関東平野を環のようにめぐった山々のながめ――そのながめの美しいのも、忘れ
した雲の変化を見ることはできなかったが、ひろい関東平野を縁取った山々から起こる雲の色彩にはすぐれたものが多かった。裏に
十月の末から十一月の初めにかけては、もう関東平野に特色の木枯がそろそろたち始めた。朝ごとの霜は藁葺の屋根を白く
あざやかに照って見えた。山火事! 赤城の山火事! 関東平野に寒い寒い冬が来たという徴であった。
。年の暮れももう近寄って来た。西風が毎日のように関東平野の小さな町に吹きあれた。乾物屋の店には数の子が山のように積まれ
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店があれでも五六軒はありますかなア。昔、奥州街道が栄えた時分には、あれでもなかなかにぎやかなものでしたが、今では
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に戊種などという憐むべき資格でなかったならば、満洲の野に、わが同胞とともに、銃を取り剣をふるって、わずかながら
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だ。「忘れ得ぬ人々」に書いた作者の感慨、武蔵野の郊外をザッと降って通る林の時雨、水車の月に光る橋のほとり
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、羊の毛のように白く靡く浅間ヶ嶽の煙、赤城は近く、榛名は遠く、足利付近の連山の複雑した襞には夕日が
、そこにいるのが苦痛であった。かれは一人で赤城から妙義に遊んだ。
て、いつもそこからいろいろな雲がわきあがった。右には赤城から日光連山が環をなして続いた。秩父の雲の明色の多いのに
ところにはたして火光があざやかに照って見えた。山火事! 赤城の山火事! 関東平野に寒い寒い冬が来たという徴であった。
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たり赤い尻を振り立てているところを抜けて、北極熊や北海道の大きな熊のいるところを通った。孔雀のみごとな羽もさして興味を
によって知られる。アメリカに行ったものもあれば、北海道に行ったものもある。今季の会報には寄宿舎生徒松本なにがしがみずから棄てて
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色彩にはすぐれたものが多かった。裏に出ると、浅間の煙が正面に見えて、その左に妙義がちょっと頭を出していて
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早稲田を出てから半歳ばかりして、伊勢の一身田の専修寺の中学校に英語国語の教師として雇われて二年ほどいた。伊勢
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の上には乱れ髪、落梅集、むさし野、和尚さんが早稲田に通うころよんだというエノックアーデンの薄い本がのせられてあった。かれは
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なって郁治は東京に行った。石川もこのごろは病気で鎌倉に行っている。熊谷の友だちで残っているものは、学校にいるころも
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に焼けてしまったことや、この人の弟子に越前の永平寺へ行った人があったことなどを話した。メリンスの敷き物の上に鐘
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昔一度行ってみたことがある。見世物、露店――鰐口の音がたえず聞こえた。ことに、手習いが上手になるようにと親
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ことに移って行った。和尚さんはかつて行っていた伊勢の話を得意になって話し出した。主僧は早稲田を出てから半歳
た。主僧は早稲田を出てから半歳ばかりして、伊勢の一身田の専修寺の中学校に英語国語の教師として雇われて二
国語の教師として雇われて二年ほどいた。伊勢の大廟から二見の浦、宇治橋の下で橋の上から参詣人の投げる
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の米粒調べの話などをした。万朝報の宝を小石川の久世山に予科の学生が掘りに行ってさがし当てたことをおもしろく話した。
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上町の鶴の湯にそういう催しがあるのを清三も聞いて知っていた
上町の鶴の湯はにぎやかであった。赤いメリンスの帯をしめた田舎娘が出
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はなかった。村の若い者が夜遅くなってから、栗橋の川向こうの四里もある中田まで、女郎買いに行く話などをもおもしろがって
知っている客がすくなくとも三人はあった。一人は栗橋の船宿の息子で、家には相応に財産があるらしく、角帯に眼鏡を
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て埋まるという記事があった。人民の万歳の声が宮城の奥まで聞こえたということが書いてあった。夜は提灯行列が日比谷公園
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の時に焼けてしまったことや、この人の弟子に越前の永平寺へ行った人があったことなどを話した。メリンスの敷き物の上
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いる。その店の婆さんに娘が一人あって東京の赤坂に奉公に出ていることも知っている。
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あり希望があるように思われる。五年間の中学校生活、行田から熊谷まで三里の路を朝早く小倉服着て通ったことももう過去
新紬の古ぼけた縞の羽織を着た父親とは、行田の町はずれをつれ立って歩いて行った。雨あがりの空はやや曇って、時々思い出し
「それで家のほうはどうするつもりです? 毎日行田から通うというわけにもいくまい。まア、当分は学校に泊まっていて
皆さんの授業をなさることになりました。新しい先生は行田のお方で、中学のほうを勉強していらしって、よくおできになる先生
には夕日が絵のように美しく光線をみなぎらした。行田から熊谷に通う中学生の群れはこの間を笑ったり戯れたり走ったりして帰っ
の家などを広い野の末にあらわして来る。熊谷は行田とは比較にならぬほどにぎやかな町であった。家並みもそろっているし
かれはまた熊谷から行田に移転した時のことをあきらかに記憶している。父親がよそから帰っ
である。それからもう四年は経過した。そのせまい行田の家も、住みなれてはさしていぶせくも思わなかった。かれはおりおり行田の今
も、住みなれてはさしていぶせくも思わなかった。かれはおりおり行田の今の家と熊谷の家と足利の家とを思ってみることがある
子息、小島は町で有名な大きな呉服屋の子息、桜井は行田の藩士で明治の初年にこの地に地所を買って移って来た金持ち
た。そしてそれがたいていは小学校からのなじみなので、行田の友だちの群れよりもいっそうしたしいところがある。小畑の家は停車場の敷地に
熊谷の町が行田、羽生にくらべてにぎやかでもあり、商業も盛んであると同じように、
は自分の意気地のないのをつねに感じた。熊谷から行田、行田から羽生、羽生から弥勒とだんだん活気がなくなっていくような気がし
の意気地のないのをつねに感じた。熊谷から行田、行田から羽生、羽生から弥勒とだんだん活気がなくなっていくような気がして、
その日の午後四時過ぎには、清三は行田と羽生の間の田舎道を弥勒へと歩いていた。野は日に輝い
「行田から吹上のほうが便利じゃないでしょうか」
帯をしめた十三四の娘が運んで来た。行田の家からもやがて夜具や机や書箱などをとどけてよこした。
年長の生徒にばかにされるようなこともなくなった。行田や熊谷の小学校には、校長と教員との間にずいぶんはげしい暗闘があると
寺にいてもおもしろくない。行田に帰っても、狭い家は暑く不愉快である。それに、美穂子が帰って
時、美穂子は、すでに浦和の寄宿舎に帰っていた。行田から羽生、羽生から弥勒という平凡な生活はまた始まった。
秋は日に日に寒くなった。行田からは袷と足袋とを届けて来る。
行田の友だちも少なからず変わったのを清三はこのごろ発見した。石川は雑誌を
年の暮れはしだいに近寄って来た。行田の母からは、今年の暮れはあっちこっちの借銭が多いから、どうか今から
行田から羽生に通う路は、吹きさらしの平野のならい、顔も向けられないほど西風
ないほど西風が激しく吹きすさんだ。日曜日の日の暮れぐれに行田から帰って来ると、秩父の連山の上に富士が淡墨色にはっきりと出
になったので、清三は新しい年を迎えるべく羽生から行田の家に来た。美穂子が三四日前に、浦和から帰って来ている
よ」と書いてあった。日曜日を羽生の寺にも行田の家にも行かず、「今日は日曜日、またしても一日をかく
を鳴らしてみたりすることが多くなった。それに、行田にもそうたびたびは行きたくなくなった。かれは月の中ごろに蒲団と本箱
。かれはただただ功名に熱し学問に熱していた熊谷や行田の友人たちをこうしたハードライフを送る人々にくらべて考えてみた。
祝い状を三人に出しておいた。六月に、行田に行った時に、ちょっと郁治に会ったが、もう以前のような親しみは
て堕落した心の状態を叱してもみた。行田の家のこと、東京の友のことを考えた。そうかと思うと、
た。土手で知ってる人に会わんものでもない。行田に行ったというものが方角違いの方面を歩いていては人に怪しま
「行田に行ったんなら、ぜひ羽生に寄るはずだがッて言って、不思議がって
日も荻生さんはたずねて来たがやっぱり不在だった。行田の母親からも用事があるから来いとたびたび言って来る。けれど顔を見せぬ
羽生の野や、行田への街道や、熊谷の町の新蕎麦に昨年の秋を送ったかれは、
に話した。校長は貸してくれた。昨日の朝、行田から送って来る新聞の中に交って、見なれぬ男の筆跡で、中田
午後から行田の家に行くとて出かけたかれは、今泉にはいる前の路から右に
様子の変なのを一番先きに気づいたのは、やはり行田の母親であった。わざわざ三里の路をやって来ても、そわそわと
万歳を歓呼してその行をさかんにした。清三は行田から弥勒に帰る途中、そうした壮丁に幾人もでっくわした。
「明日は土曜、明後日は日曜だ。行田には今週は帰らんつもりだから、雨は降ったッてかまいやしない。
あり不経済でもある。家のつごうからいってもべつに行田に住んでいなければならぬという理由もない。父の商売の得意先も
顔色で、いろいろな話をしながら歩いて行く。熊谷から行田に移転した時の話も出る。
午後から二階の六畳に腹ばいになって、東京や行田や熊谷の友人たちに転居の端書を書いた。寺にも出かけて行った
医師の見立てが違っているのかもしれませんから、行田の原田につれて行って見せたらどうです? 先生は学士ですし、評判
行田の町の中ほどに西洋造りのペンキ塗りのきわだって目につく家があった
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思はんやさはいへそぞろむさし野に七里を北へ下野の山、七里を北といへば足利ではないか。君の故郷ぢゃ
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通って行くのだそうだ。鳥喰の河岸には上州の本郷に渡る渡良瀬川のわたし場があって、それから大高島まで二里、栗橋
本郷の村落を通って、路はまた土手の上にのぼった。昨日向こう岸から見
だんだんと多くなってきた、帰りを雨に降られて本郷の村落のとっつきの百姓家にその晴れ間を待ったこともある。夜遅く栗橋に
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ていて、それから荒船の連山、北甘楽の連山、秩父の連山が波濤のように連なりわたった。両神山の古城址のような形
右には赤城から日光連山が環をなして続いた。秩父の雲の明色の多いのに引きかえて、日光の雲は暗色が多かった、
。日曜日の日の暮れぐれに行田から帰って来ると、秩父の連山の上に富士が淡墨色にはっきりと出ていて、夕日が寒く
き雲棚引き、上るほど、うす紫より終に淡墨に、下に秩父の山黒々とうつくしけれど、そは光あり力あるそれにはあらで、冬
に分類してみた。今年の夏休暇に三日ほど秩父の三峰に関さんと遊びに行った時採集して来たものの中
野に立って、背景をつくった森や藁葺屋根や遠い秩父の山々があざやかにはっきり見える。豊熟した稲は涼しい風になびきわたった。
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。利根川を越えて一里ばかり、高取というところに天満宮があって、三月初旬の大祭には、近在から境内に立錐の地も
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幻影とを楽聖はじっと見ている。清三はこの人はローマの貴族に生まれて、熱心なるエホバの信者で、オルガンの創造者であるという
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東照宮の前では、女学生がはでな蝙蝠傘をさして歩いていた。パノラマに
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「赤城山なア、山火事だんべい」
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は菓子を食うようだア」と言った。生徒は時々萩の餅やアンビ餅などを持って来てくれる。もろこしと糯米の粉で製し
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へらで銭を受けとめた話などをして聞かせた。朝熊山の眺望、ことに全渓みな梅で白いという月ヶ瀬の話などが清三のあくがれ
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いつもそこからいろいろな雲がわきあがった。右には赤城から日光連山が環をなして続いた。秩父の雲の明色の多いのに引きかえて、
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商売をしながらやって来たものらしい。そのことばには東北地方の訛があった。
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があるように思われる。五年間の中学校生活、行田から熊谷まで三里の路を朝早く小倉服着て通ったことももう過去になっ
十日ほど前、親友の加藤郁治と熊谷から歩いて帰ってくる途中で、文学のことやら将来のことやら恋のこと
財産もかなり豊かであった。七歳の時没落して熊谷に来た時のことをかれはおぼろげながら覚えている。母親の泣いた
近くまで、母親の裁縫するかたわらの暗い窓の下で、熊谷にいる同窓の友に手紙を書いたり、新聞を読んだりしていた。
父親は今日熊谷に行って不在であった。子供がいないので、室がきれいに片づい
「熊谷の小畑からもそう言って来たよ。やっぱり高師を受けてみるッて」
熊谷にいる友人の恋の話から Art の君の話が出る。
は、やはり郁治や清三と同じく三里の道を朝早く熊谷に通った連中の一人だが、そのほんとうの号は機山といって、
荻生君というのは、やはりその仲間で、熊谷の郵便局に出ている同じ町の料理店の子息さんである。今度羽生局に
夕日が絵のように美しく光線をみなぎらした。行田から熊谷に通う中学生の群れはこの間を笑ったり戯れたり走ったりして帰ってき
熊谷の町はやがてその瓦屋根や煙突や白壁造りの家などを広い野の末に
白壁造りの家などを広い野の末にあらわして来る。熊谷は行田とは比較にならぬほどにぎやかな町であった。家並みもそろって
かれはまた熊谷から行田に移転した時のことをあきらかに記憶している。父親がよそ
しかし昼間公然と移転して行かれぬわけがあった。熊谷における八年の生活は、すくなからざる借金をかれの家に残した
いぶせくも思わなかった。かれはおりおり行田の今の家と熊谷の家と足利の家とを思ってみることがある。
熊谷の家は今もある。老いた夫婦者が住まっている。よく行った松
近所で、お詣りの鰐口の音が終日聞こえる。清三は熊谷に行くと、きっとこの二人を訪問した。どちらの家でも家の人々
熊谷にくると、こうした活気ある言葉をあっちこっちから浴びせかけられる。いきいきした友だち
熊谷の町が行田、羽生にくらべてにぎやかでもあり、商業も盛んであると
、清三は自分の意気地のないのをつねに感じた。熊谷から行田、行田から羽生、羽生から弥勒とだんだん活気がなくなっていくような気
鼻を高くしてその地位に満足している。清三は熊谷で会う友だちと行田で語る人々と弥勒で顔を合わせる同僚とをくらべてみ
のなかば刈られた裏通りの田圃を行った。荻生君は熊谷に行っていなかった。二人は引きかえして野を歩いた。小川には青い
、勉強らしい勉強をもしなかった。土曜日には小畑が熊谷からきて泊まって行った。郁治が三日ぐらい続けて泊まって行くことも
生徒にばかにされるようなこともなくなった。行田や熊谷の小学校には、校長と教員との間にずいぶんはげしい暗闘があるとかねて聞い
が大きくなり、玉蜀黍の広葉がガサガサと風になびいた。熊谷の小島は一高の入学試験を受けに東京に出かけたが、時々絵葉書で状況を
かと思うと、蕎麦屋で酒を飲んで席上で書いた熊谷の友だちの連名の手紙などもある。石川からは、相変わらずの明星攻撃、文壇
前の土曜日には、久しぶりで行田に帰った。小畑が熊谷からやって来るという便があったが、運わるく日曜が激しい吹き降りなの
モロコシ畑の夕日に群れて飛ぶあきつ赤し、熊谷の小畑に手紙出す、夕波の絵かきそへて。
言ってみたがだめだった。日曜日には荻生君が熊谷から来るのを待ち受けて、いっしょに羽生へ帰って来た。荻生さんは心配
熊谷に出かけた日は三十日で、西風が強く吹いた。小島も桜井も東京
熊谷の町はにぎやかであった。ここでは注連飾りが町家の軒ごとに立てられ
□今日始めて熊谷の小畑に手紙出す。
このごろ、友だちから手紙の来るのも少なくなった。熊谷の小畑にも、この間行った時、処世上の意見が合わないの
である。かれはただただ功名に熱し学問に熱していた熊谷や行田の友人たちをこうしたハードライフを送る人々にくらべて考えてみ
行った。石川もこのごろは病気で鎌倉に行っている。熊谷の友だちで残っているものは、学校にいるころもそう懇意にしてい
羽生の野や、行田への街道や、熊谷の町の新蕎麦に昨年の秋を送ったかれは、今年は弥勒野から利根
ちょうどそのころ熊谷の小滝の話が新聞に出ていた。「小滝の落籍」という見出し
し去っても、幼いころの追憶が薄くなっても、熊谷の町はまだかれのためになつかしい町、恋しい町、忘れがたい町であった
といつもこうして一枚の蒲団の中にはいって、熊谷の小畑の書斎に泊まるのがつねであった。顔と顔とを合わせて
「二十六年故山を出でて、熊谷の桜に近く住むこと数年、三十三年にはここ忍沼のほとりに移り
訪うた。祖父の墓は足利にある。祖母の墓は熊谷にある。こうして、ところどころに墓を残して行く一家族の漂泊的生活
そうな顔色で、いろいろな話をしながら歩いて行く。熊谷から行田に移転した時の話も出る。
二階の六畳に腹ばいになって、東京や行田や熊谷の友人たちに転居の端書を書いた。寺にも出かけて行ったが、
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並んで歩きながら、なおいろいろなことをきいた。これから川越を通って八王子のほうへ行くのだという。なんでも遠いところから商売
師範学校から出た当座、まだ今の細君ができない時分、川越でひどい酌婦にかかって、それがばれそうになって転校した話や、
「なんでも川越の財産家で跡見女学校にいた女だそうだ。容色望みという条件でさがし
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その年の九月、午後の残暑の日影を受けて、上野公園の音楽学校の校門から、入学試験を受けた人々の群れがぞろぞろと出て
いうことが書いてあった。夜は提灯行列が日比谷公園から上野公園まで続いて、桜田門付近馬場先門付近はほとんど人で埋めらるるくらいであった
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たということが書いてあった。夜は提灯行列が日比谷公園から上野公園まで続いて、桜田門付近馬場先門付近はほとんど人で埋めらるるくらいで
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「それから、羽生の成願寺に山形古城がいるアねえ。あの人はあれでなかなか文壇には聞こえている名家
郵便局に荻生秀之助を訪ねたが、秀之助がちょうど成願寺の山形古城を知っていると言うので、それでつれだって訪問した。
もない愉快である。「行田文学」の話も出れば山形古城の話も出る。そこに郁治の父親がおりよく昨日帰ってきて
走り使いに人に頼まれる日傭取りなどが住んでいた。山形あたりに生まれてそこここと流れ渡ってきても故郷の言葉が失せないという
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小雑誌やら東京の文学雑誌やらを五六種出したが、岡山地方で発行する菊版二十四頁の「小文学」というのをとくに抜き出して
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打ち解けて話をした。かれは栃木県のもので、久しく宇都宮に教鞭をとっていたが、一昨年埼玉県に来るようになって、
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ことがある。清三が中学の一年にいる時一家は長野のほうに移転して行ってしまったので、そのあきらかな眸を町
光線がみなぎるように青葉に照った。行田からの帰り途、長野の常行寺の前まで来ると、何かことがあるとみえて、山門
長野の手前で、額が落ちかかりそうになったのを清三は直した。母親
のは、みんなお前のおかげだよ」などと言った。長野をはずれようとするところで、向こうから号外売りが景気よく鈴を鳴らして走っ
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行った小島は第四に合格して、月の初めに金沢へ行ったという噂を聞いたが、得意の文句を並べた絵葉書は
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は好奇に碑の文などを読んでみることがある。仙台で生まれて、維新の時には国事に奔走して、明治になって
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話などが清三のあくがれやすい心をひいた。それから京都奈良の話もその心をひき寄せるに十分であった。和尚さんの行った時
せて、明るいにぎやかな春の町を歩いたという。奈良では大仏、若草山、世界にめずらしいブロンズの仏像、二千年昔の寺院
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の話などが清三のあくがれやすい心をひいた。それから京都奈良の話もその心をひき寄せるに十分であった。和尚さんの行った
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にしたことはない。第五師団の分捕問題、青森第三連隊の雪中行軍凍死問題、鉱毒事件、二号活字は一面と二
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管内にはだるまばかり発達して、遊廓がない。足利の福井は遠いし、佐野のあら町は不便だし、ここらから若者が出かけるに
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六日――牧野雪子(雪子は昨年の暮れ前橋の判事と結婚せり)より美しき絵葉書の年賀状来たる。△腫物再発す。
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家が貧しく、とうてい東京に遊学などのできぬことが清三にもだんだん意識されてきたの
「小島や杉谷はもう東京に行ったッてねえ」
「この町からも東京に行くものはあるかね?」
。家庭もよかった。高等師範にはいれぬまでも、東京に行って一二年は修業するほどの学費は出してやる気が父親にも
「東京からも大家では麗水と天随とが書いてくれるはずだ……。それ
こう言って、地方の小雑誌やら東京の文学雑誌やらを五六種出したが、岡山地方で発行する菊版二十四頁
人だとかれは思った。新体詩、小説、その名は東京の文壇にもかなり聞こえている。清三はかつてその詩集を愛読したこと
…何か、まア、初めには詩でもあげましょう。東京の原にもそう言ってやりましょう……」
の文壇のふまじめと党閥の弊とを説いて、「とても東京にいても勉強などはできない。田園生活などという声の聞こえるの
て喜ぶのが親の心である。かれは中学からすぐ東京に出て行く友だちの噂を聞くたびにもやした羨望の情と、こう
失望もしておらなかった。九月の学期には、東京に出て、しかるべき学校にはいって、十分な準備をすると言って
希望と受験の準備の話などが多く出た。北川は東京で受けた士官学校入学試験の話を二人にして聞かせた。「どう
覚えている。その店の婆さんに娘が一人あって東京の赤坂に奉公に出ていることも知っている。
ことを聞かれるままその知れる限りを三人は話した。東京に出たものが十人、国に残っているものが十五人、小学校教師
いろいろなことが書いてあった。ここの主僧がまだ東京にいるころは、ことにこの人の世話になって、原稿を買って
「世の中は蝸牛角上の争闘――私は東京にいるころには、つくづくそれがいやになったんですよ。人の
五六日して主僧は東京から帰って来た。葬儀の模様は新聞で見て知っていたが
の記者だということがわかった。いずれも主僧が東京にいたころの友だちである。
やがてその客は東京から来た知名の文学者で、一人は原杏花、一人は相原健二という
東京の客は一夜泊まって、翌日の正午、降りしきる雨をついて乗合馬車で
、北川は士官学校にはいる準備のために九月には東京に出ると言っているし、誰とて遊んでいるものはなかった。清三
風になびいた。熊谷の小島は一高の入学試験を受けに東京に出かけたが、時々絵葉書で状況を報じた。英語がむずかしかったことなど
にした。翌日学校から帰って来ると、和尚さんは東京の文壇に顔を出しているころ集めた本をなにかと持って来
ものもある。旅に出ようとしているものもある。東京に用足しに行こうと企てているものもある、月の初めから正午ぎりに
。小島からこの間便りがあった。このごろに杉山がまた東京の早稲田に出て行くさうだ。歌を難有う。思はんやさ
と石川と沢田とに誘われて、このごろ興行している東京の役者の出る芝居に行ったが、友の調子もいちじるしくさばけて、春
なんとか言って、毎日のように出かけて行くよ。東京から来た小蝶とかいう女で、写真を大事にして持って
は三十日で、西風が強く吹いた。小島も桜井も東京から帰っていた。小畑はことに熱心にかれを迎えた。けれどかれ
かして勉強したい。田舎にいて勉強するのも東京に出て勉強するのも心持ち一つで同じことだ。学費を親から
は高等師範の入学試験に合格して、この九月からは東京に行くことにきまった。桜井は浅草の工業学校に入学した。その
して通った。やがて八月の中ごろになって郁治は東京に行った。石川もこのごろは病気で鎌倉に行っている。熊谷の友だち
「あれは、君、和尚さんの姪だよ。夏休みに東京から来てるんだよ。どうも、田舎の土臭い中に育った娘と
状態を叱してもみた。行田の家のこと、東京の友のことを考えた。そうかと思うと、懐から汗によごれ
東京に行った友だちからは、それでも月に五六たび音信があった。
、そわそわといつも落ち着いていないばかりではない。友だちが東京から帰って来ていても訪問しようでもなく、昔のように相談
がないからこうしているけれど、いつかどうかして東京に出て勉強したいと思っているんです。音楽のほうをこのごろ少し
ぬ情を見せたが、その家には許婚のこれも東京の跡見女学校にはいっている娘があって、とうてい望みを達することができ
東京に出たのは初めてである。試験をすましたら、動物園も見よう、博物館
がむずかしいということが話題にのぼった。「どうも、東京では近来よほど殺気立っている。新聞の調子を見てもわかるが、
と、こうも変わるものかと思われた。二人はこのごろ東京の新聞ではやる宝探しや玄米一升の米粒調べの話などをした
東京の騒ぎは日ごとの新聞紙上に見えるように思われた。一月以前から
して見ようという約束ができた。国民に万朝報に東京日日に時事、それに前の理髪舗から報知を持って来た。
、心もよほど折れてきた。たえず動揺した「東京へ」もだいぶ薄らいだ。ある時小畑へやる手紙に、「当年の
清三は午後から二階の六畳に腹ばいになって、東京や行田や熊谷の友人たちに転居の端書を書いた。寺にも出かけ
「つい、この間、東京から帰って来た」と郁治は言って、「あまり道楽をするものだ
出て買って来てやったりする。また父親と縁側に東京仕入れの瓜を二つ三つ桶に浮かせて、皮を厚くむいて
怒ったり不愉快に思ったりしたことを清三は思い出した。東京に行く友だちをうらやみ、人しれぬ失恋の苦しみにもだえた自分が、まるで
にはいった。でも、その枕もとには、国民新聞と東京朝日新聞とが置かれてあって、やせこけて骨立った手が時々それを
た。和尚さんは戦地から原杏花が帰るのを迎えに東京に行ってあいにく不在なので、清三が本堂に寄宿しているころ、
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に新しい思潮に触れ得るのをわれとみずから感謝した。渋谷の淋しい奥に住んでいる詩人夫妻の佗び住居のことなどをも想像
なかった。瞬間ごとによく変わった。明星をよむと、渋谷の詩人の境遇を思い、文芸倶楽部をよむと、長い小説を巻頭に載せる
ある。石川からは、相変わらずの明星攻撃、文壇照魔鏡という渋谷の詩人夫妻の私行をあばいた冊子をわざと送り届けてよこした。中にも
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加須に行く街道と館林に行く街道とが町のはずれで二つにわかれる。それから向こうはひろびろ
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「明日でいいなら――明日朝の馬車で久喜まで行って、奥羽線の二番に乗るほうがいいですな」
「いや、久喜のほうが便利です」
泊まって、翌日の正午、降りしきる雨をついて乗合馬車で久喜に向かって立った。袴をぬらして清三が学校から帰って来て、
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何気なしに行ってのぞいてみると、夫妻は小さい据風呂に目白の推し合いのようにしてはいっている。主僧は平気で笑って
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、なおいろいろなことをきいた。これから川越を通って八王子のほうへ行くのだという。なんでも遠いところから商売をしながら
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この九月からは東京に行くことにきまった。桜井は浅草の工業学校に入学した。その合格の知らせが来たのは五月
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出ていた。「小滝の落籍」という見出しで、伊勢崎の豪商に根曳きされる話がひやかし半分に書いてある。小滝には
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見よう、博物館にもはいろう、ひととおり市中の見物もしよう、お茶の水の寄宿舎に小畑や郁治をも訪ねよう、こういろいろ心の中に計画して
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付近はほとんど人で埋めらるるくらいであったという。京橋日本橋の大通りには、数万燭の電燈が昼のように輝きわたって、
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あった。夜は提灯行列が日比谷公園から上野公園まで続いて、桜田門付近馬場先門付近はほとんど人で埋めらるるくらいであったという。京橋日本橋
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門付近はほとんど人で埋めらるるくらいであったという。京橋日本橋の大通りには、数万燭の電燈が昼のように輝きわたって