島原の乱雑記 / 坂口安吾

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地名一覧

有馬

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の数里四方は住民が全滅した。布津、堂崎、有馬、有家、口之津、加津佐、串山の諸村は全滅。深江、安徳、小浜、中木場

十月二十五日、島原領有馬村を発火点として一揆が起きた。その十日前、十月十五日

レオ小右衛門、母クララは共に殉教者であつた。彼は有馬のセミナリヨで勉学し、特にラテン語にその天才を現したが、一六二二年大殉教

マニラ

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を現したが、一六二二年大殉教の年、二十二歳でマニラへ渡り、アウグスチノ会の司祭に補せられた。金鍔次兵衛は日本の渾名で、

深江

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、有馬、有家、口之津、加津佐、串山の諸村は全滅。深江、安徳、小浜、中木場、三会等々は村民の半数が一揆に加担して死ん

加津佐村

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一加津佐村の寿庵と申人も則天人の御供なされ候間寿庵手前より先々へ

箱根

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入城してゐる。一方、討伐の上使松平伊豆守は、やうやく箱根を発足し神原に泊つた日であつた。箱根は終日豪雨であつたさう

、やうやく箱根を発足し神原に泊つた日であつた。箱根は終日豪雨であつたさうだ。然し、次兵衛の死んだ十二月六日は

島原半島

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白骨の隙間に雑草が繁り、なまぐさい風に頭をふり、島原半島は無人のまゝ、十年すぎた。十年目に骨を集め、九州諸国

つまり、島原半島には農民一揆の気運がたかまり、天草島では切支丹反乱の準備がすゝ

有明

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原城趾は、往昔の原形を殆どくづしてゐない。有明の海を背に、海に吃立した百尺の丘、前面右方に温泉

浦上村

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人々であるかと問へば、長崎郊外浦上の者で、浦上村は村民すべてが三百年今尚ひそかに切支丹を奉じてゐると答へた。折

神原

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。一方、討伐の上使松平伊豆守は、やうやく箱根を発足し神原に泊つた日であつた。箱根は終日豪雨であつたさうだ。然し、

平戸

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有勢になつたのである。二十八日にオランダ船は平戸へ帰つたが、大砲だけは借りうけ、石火矢台にすゑて、射撃した。

至る全人口をかり集めたのである。そのうへ、佐賀、平戸、島原の三藩から援軍をもとめ、長崎浦上から大村湾一帯にかけて山関

江戸城

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た。次兵衛はそのとき早くも江戸へ逐電し、今度は江戸城の大奥へ忍びこんで、お小姓組の間に伝道しはじめてゐたので

戸塚

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前日、長崎のことに精通した人がゐるから、一度戸塚の大観堂へ立寄るやうに、といふ話であつた。私は大観堂へ

島原

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島原の乱雑記

がちであつた為である。コレアの手記に拠る限り、島原の乱は純然たる農民一揆の如くであるが、コレアの手記に偏して日本

人口をかり集めたのである。そのうへ、佐賀、平戸、島原の三藩から援軍をもとめ、長崎浦上から大村湾一帯にかけて山関を張り

私が島原へでかける前日、長崎のことに精通した人がゐるから、一度戸塚の大観

江戸

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捕へることができなかつた。次兵衛はそのとき早くも江戸へ逐電し、今度は江戸城の大奥へ忍びこんで、お小姓組の間に

小姓組の間に伝道しはじめてゐたのである。江戸で布教の感化があらはれ、信者がふへたが、役人に嗅ぎつけられて、又、

大浦

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この大浦の天主堂で、日本の切支丹が復活した。その建物は、今も尚、

九州

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から呼びよせたものであつた。忍術使ひは失敗した。九州の言葉が分らぬうへに、切支丹の用語や称名を全然知らなかつたから

甲賀

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を城中に忍びこませたのである。忍術使ひは近江の甲賀から呼びよせたものであつた。忍術使ひは失敗した。九州の言葉が分ら

伊豆

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ないことを見届け、総攻撃を決意した。このことは、伊豆の子供の日記にある。つまり、解剖学まで応用し、科学の粋をつくした

大浦天主堂

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小さなパンフレットがあつた。裏を返すと昭和四年発行、大浦天主堂とあり、一部五銭であつた。今も教会に売つてゐるから

私が泊つてゐたイーグルホテルは、丁度、大浦天主堂の真下なのだ。ホテルをでゝ、坂道を四五十秒も歩くと、

長崎

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私が長崎図書館を訪れたとき、館長は、貴重な資料の蒐集をとりだして説明し

プチジャンは狂喜し、いづこの人々であるかと問へば、長崎郊外浦上の者で、浦上村は村民すべてが三百年今尚ひそかに切支丹

徒に大きく、一丁も飛びはしなかつた。今、長崎の大波止に、この時用ひたといふ砲丸がある。重さ千三十二斤、

話は面白くなるのだけれども、あいにく彼はその直前に長崎で捕はれ、一揆の直前十二月六日、穴に吊されて刑死

神出鬼没の大活躍をはじめたのである。彼は先づ長崎奉行竹中采女の馬廻り役に入込んだ。潜入の伴天連多しといへども

ある。そこで金鍔次兵衛の名が生れた。一六三七年、長崎郊外の戸町番所に近い山中の横穴に住んでゐるのを密告によつて

又、長崎へ舞ひ戻り、一六三五年から三七年まで再び長崎に大騒動をまき起した。切支丹伴天連妖術使ひの張本人(昔の本に

あらはれ、信者がふへたが、役人に嗅ぎつけられて、又、長崎へ舞ひ戻り、一六三五年から三七年まで再び長崎に大騒動をまき起した

うへ、佐賀、平戸、島原の三藩から援軍をもとめ、長崎浦上から大村湾一帯にかけて山関を張り、一歩一人の列を守

話であつた。あいにくのことに、この本は、もう長崎に一冊もなかつたのである。

てゐた早稲田の野球の指方選手が教へてくれた。長崎へ着き次第、本屋へかけつけ「市民読本」といふのを買つて読むと

私が島原へでかける前日、長崎のことに精通した人がゐるから、一度戸塚の大観堂へ立寄るやう

私は長崎へついて、まつさきに、数種の案内書と地図を買つた

感じた。私は、怪しげな遊廓をひやかさずに、長崎へ戻つた。さうして、チャンポン屋で渋い酒をのみながら、金鍔次兵衛

時の時計と七時の太陽を見た時は、まだ長崎へついたばかりであつたから、一さう、変に空虚を感じた。

らしい。東京で七時といへば薄暗らかつたが、長崎では、疲れきつた太陽がまだ光つてゐる。始めは、化かされ

、叩かれたやうに、飛出してしまつたのである。長崎といふ所は、東京と支那のまんなかへんで、時間も、東京と支那

ない金鍔谷に、苦笑の眼をそゝいでゐた。長崎に見るべきものは外に沢山あらうのに、先づまつさきに金鍔谷へ

私は長崎へついたその足で、まつさきに戸町へでかけて行つた。金鍔次兵衛

佐賀

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歳に至る全人口をかり集めたのである。そのうへ、佐賀、平戸、島原の三藩から援軍をもとめ、長崎浦上から大村湾一帯に

東京

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で、時間も、東京と支那のまんなかあたりであるらしい。東京で七時といへば薄暗らかつたが、長崎では、疲れきつた

いふ所は、東京と支那のまんなかへんで、時間も、東京と支那のまんなかあたりであるらしい。東京で七時といへば薄暗らかつ

、飛出してしまつたのである。長崎といふ所は、東京と支那のまんなかへんで、時間も、東京と支那のまんなかあたりであるらしい