万葉秀歌 / 斎藤茂吉
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との流用を証明しているのである。そして、「春日山押して照らせる此月は妹が庭にも清有家里」(巻七・一〇七四
春日山おして照らせるこの月は妹が庭にも清けかりけり 〔巻七
作者は現在通って来た妹の家に居る趣で、春日山の方は一般の月明(通って来る道すがら見た)を云っているので
た)を云っているのである。ただ妹の家は春日山の見える処にあったことは想像し得る。伸々とした濁りの無い快い
今朝の朝け雁がね聞きつ春日山もみぢにけらし吾がこころ痛し 〔巻八・一五二二〕 穂積皇子
意は、今日の朝に雁の声を聞いた、もう春日山は黄葉したであろうか。身に沁みて心悲しい、というので、
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山上憶良が大唐にいたとき、本郷(日本)を憶って作った歌である。憶良は文武天皇の大宝元年、
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薪樵る鎌倉山の木垂る木をまつと汝が言はば恋ひつつやあらむ (同・三四三三
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人麿が石見国にあって死なんとした時、自ら悲しんで詠んだ歌である。当時
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らが」(巻一・四〇)があり、また、「播磨国より船乗して」(遣唐使時奉幣祝詞)という用例がある。また、「
を過ぎて詠んだ長歌の反歌である。辛荷島は播磨国室津の沖にある島である。一首の意は、島かげを舟に乗っ
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磐代の浜松が枝を引き結び真幸くあらば亦かへり見む 〔巻二・一四一〕
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忘れられぬ、というのであろう。当時は上野からは碓氷峠を越して信濃に入り、それから美濃路へ出たのであった。この
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長皇子(天武天皇第四皇子)が、摂津の住吉海岸、安良礼松原で詠まれた御歌で、其処にいた弟日
一首の意は、〔玉藻かる〕(枕詞)摂津の敏馬を通って、いよいよ船は〔夏草の〕(枕詞)淡路の野島
である。四極山、笠縫島は参河という説と摂津という説とあるが、今は仮りに契沖以来の、参河国幡豆郡磯
前の歌と同様、旅人が帰京途上、摂津の敏馬海岸を過ぎて詠んだものである。「涙ぐましも」という句
摂津にて作れる歌である。「しなが鳥」は猪名につづく枕詞で、しなが
同音であるから、猪名の枕詞になった。猪名野は摂津、今の豊能川辺両郡に亙った、猪名川流域の平野である。有間山は
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「児持山」は伊香保温泉からも見える山で、渋川町の北方に聳えている。一首は、あの子持山の春の楓の若葉
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山川もよりて奉ふる神ながらたぎつ河内に船出するかも 〔巻一・三九〕 柿本人麿
そのままに、わが天皇は、この吉野の川の滝の河内に、群臣と共に船出したもう、というのである。
山高み白木綿花に落ちたぎつ滝の河内は見れど飽かぬかも 〔巻六・九〇九〕 笠金村
その白木綿の如くに水の流れ落つる状態である。「河内」は、河から繞らされている土地をいう。既に人麿の歌に、「
大坂は大和北葛城郡下田村で、大和から河内へ越える坂になっている。二上山が南にあるから、この坂を越え
足柄の土肥の河内に出づる湯の世にもたよらに児ろが言はなくに (同・
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斉明天皇七年正月)新羅を討ちたまわんとして、九州に行幸せられた途中、暫時伊豫の熟田津に御滞在になった(熟田
運太宰府綿二十万屯、以輸京庫」とあるので、九州が綿の産地であったことが分かるが、その綿が真綿だというの
して古代から崇敬至ったものであった。防人等は九州防衛のため出発するのであるが、出発に際しまた道すがらその武運の長久を
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古義で、「真白くぞ」と訓み、新古今で、「田子の浦に打出て見れば白妙の富士の高根に雪は降りつつ」として載せ
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足柄の彼面此面に刺す羂のかなる間しづみ児ろ我紐解く 〔巻十四
相模国歌で、足柄は範囲はひろかったが、此処は足柄山とぼんやり云っている。「彼面
足柄の土肥の河内に出づる湯の世にもたよらに児ろが言はなくに
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一首の意。〔神風の〕(枕詞)伊勢国にその儘とどまっていた方がよかったのに、君も此世を去っ
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ある。熟田津という港は現在何処かというに、松山市に近い三津浜だろうという説が有力であったが、今はもっと道後温泉に
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十市皇女(御父大海人皇子、御母額田王)が伊勢神宮に参拝せられたとき、皇女に従った吹黄刀自が波多横山の巌を
大津皇子(天武天皇第三皇子)が窃かに伊勢神宮に行かれ、斎宮大伯皇女に逢われた。皇子が大和に帰られる時皇女
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巻三・二九六)というのがある。三保は今は清水市だが古えは廬原郡であった。「清見が埼の」も、「三保
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と見える。「真熊野の舟」は、熊野舟で、熊野の海で多く乗ったものであろう。攷證に、「紀州熊野は良材多かる
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官幣大社鹿島神宮で、祭神は武甕槌命にまします。千葉県香取郡香取町に鎮座する官幣大社香取神宮(祭神経津主命即ち伊波比主命)と共に
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鴨山の磐根し纏ける吾をかも知らにと妹が待ちつつあらむ 〔
国府の役人として、出張の如き旅にあって、鴨山のほとりで死んだものであろう。
一首は、鴨山の巌を枕として死んで居る吾をも知らずに、吾が妻は
た人麿の妻と同一人であろうから、そうすれば「鴨山」という山は、石川の近くで国府から少くも十数里ぐらい離れた
、昭和十二年一月、おなじ粕淵村の大字湯抱に「鴨山」という名のついた実在の山を発見した。これは二つ峰
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雑歌、崗本天皇(舒明天皇)御製歌一首である。小倉山は恐らく崗本宮近くの山であろうが、その辺に小倉山の名が今は
小倉山は恐らく崗本宮近くの山であろうが、その辺に小倉山の名が今は絶えている。一首の意は、夕がたになると、
ことも出来る。それに舒明天皇の高市崗本宮近くにある小倉山と、仮定のなかに入る小倉山が三つあるわけである。併し、舒明天皇
の高市崗本宮近くにある小倉山と、仮定のなかに入る小倉山が三つあるわけである。併し、舒明天皇の御製でも、若しも行幸
御聞きになったことを示し、従って崗本宮近くに小倉山という名の山があったろうと想像することとなるのである。
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葛城王が陸奥国に派遣せられたとき、国司の王を接待する方法がひどく不備だったの
、天平感宝元年五月十二日、越中国守の館で、「陸奥国より金を出せる詔書を賀ぐ歌一首并に短歌」を作った。長歌は
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ま愛しみさ寝に吾は行く鎌倉の美奈の瀬河に潮満つなむか 〔巻十四・三三六六〕 東歌
恋しくなってあの娘の処に寝に行くが、途中の鎌倉のみなのせ川に潮が満ちて渡りにくくなっているだろうか、というの
動律だが、この方には繰返しが目立つのに、鎌倉の歌の方はそれが目立たずに快い音のあるのは不思議である。
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はあるので、「粟島に漕ぎ渡らむと思へども明石の門浪いまだ騒げり」(巻七・一二〇七)。この歌の「に」
一首の意は、〔ともしびの〕(枕詞)明石の海門を通過する頃には、いよいよ家郷の大和の山々とも別れることと
天ざかる夷の長路ゆ恋ひ来れば明石の門より倭島見ゆ 〔巻三・二五五〕 柿本人麿
古歌として、「天離るひなの長道を恋ひ来れば明石の門より家の辺見ゆ」(巻十五・三六〇八)があるが、此は
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いざ子ども戯わざな為そ天地の固めし国ぞやまと島根は 〔巻二十・四四八七〕 藤原仲麿
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が附いている。一首の意は、白く見えるのは筑波山にもう雪が降ったのか知ら、いやそうではなかろう、可哀いい娘が白い布を
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眼ぐしもなしに」(巻十七・三九七八)、「その立山に、常夏に雪ふりしきて」(同・四〇〇〇)、「白砥掘ふ小新田
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に万葉時代から存在した地名と推定することも出来、和泉ならば紀伊行幸の経路であるから、従駕の作者が詠じたものと見る
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。敏馬は摂津武庫郡、小野浜から和田岬までの一帯、神戸市の灘区に編入せられている。野島は淡路の津名郡に野島村がある
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た。土屋文明氏によれば、常陸の国府は今の石岡町にあったから、そこから鹿島郡軽野を過ぎ、下総国海上郡に出たようだ
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此歌も前の続である。「大野山」は和名鈔に、「筑前国御笠郡大野」とある、その地の山
一首の意は、今、大野山を見ると霧が立っている、これは妻を歎く自分の長大息の、風
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進んだ。「菅原の里」は大和国生駒郡、今の奈良市の西の郊外にある。昔は平城京の内で、宿奈麿の邸宅
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ようでも人間の実際が出ているのである。「青山の嶺の白雲朝にけに常に見れどもめづらし吾君」(巻
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素の河原よ」(三四二五)とあるのは隣接地で下野にもかかっていたことが分かる。「真麻むら」は、真麻の群で
都賀郡三鴨駅、今、下都賀郡、岩舟駅の近くにある。下野の三鴨の山に茂っている小楢の葉の美しいように、美しく可哀らしいあの
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軍を統べる将軍のことで、続紀に、和銅二年に蝦夷を討った将軍は、巨勢麿、佐伯石湯だから、御製の将軍もこの二人
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九・一七四七)は、竜田川(大和川)の亀の瀬岩附近、竜田山の一部である。それから、この(一六六四)が雄略天皇の御製とせば、
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ふと同意なるにて知ぬ。かくてその隣とは、此度は紀伊国を差也。然れば莫囂国隣之の五字は、紀乃久爾乃と訓べし
聖武天皇、神亀元年冬十月紀伊国に行幸せられた時、従駕の山部赤人の歌った長歌の反歌である
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出家して満誓となった。養老七年満誓に筑紫の観世音寺を造営せしめた記事が、続日本紀に見えている。満誓の歌と
旅人が大納言になって帰京した。太宰府に残って、観世音寺造営に従っていた沙弥満誓から「真十鏡見飽かぬ君に後れて
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。其後多く年経て此訓をなして、山城の稲荷山の荷田の家に問に、全く古大人の訓に均しといひおこせたり。
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武蔵野の小岫が雉立ち別れ往にし宵より夫ろに逢はなふよ 〔巻
我背子を何どかもいはむ武蔵野のうけらが花の時無きものを (同・三三七九)
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前の続きである。「伊良虞の島」は、三河渥美郡の伊良虞崎あたりで、「島」といっても崎でもよいこと、
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である。併し史実上で、阿胡行宮云々とあるし、志摩に英虞郡があり、巻十五(三六一〇)の古歌というのが、「安
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さゝでは此哥にかなはず、次下に、三輪山の事を綜麻形と書なせし事など相似たるに依ても、猶上
三輪山をしかも隠すか雲だにも情あらなむ隠さふべしや 〔巻一・
一首の意は、三輪山をばもっと見たいのだが、雲が隠してしまった。そんなにも隠すの
中身のミだとも云われて居る。御室山は即ち三輪山で、「さな葛」はさね葛、美男かずらのことで、夏に
、大和磯城郡纏向村にあり、纏向山(巻向山)と三輪山との間に源を発し、西流している川で今は巻向川と云っ
御室斎く三輪山見れば隠口の初瀬の檜原おもほゆるかも 〔巻七・一〇九五〕
た。一首の意は、神を斎き祀ってある奥深い三輪山の檜原を見ると、谿谷ふかく同じく繁っておる初瀬の檜原をおもい出す、という
の意は、古人も亦、今の吾のように、三輪山の檜原に入来て、※頭を折っただろう、というので、品
「見諸戸山」は、即ち御室処山の義で、三輪山のことである。「面白し」は、感深いぐらいの意で、万葉で
も深みがあるのである。そこで、此歌は、三輪山の風景が佳くて神秘的にも感ぜられるので、「いにしへ思ほゆ」即ち、神代
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くる舟」(巻七・一一七二)とある近江湖中の香取の浦としていいだろう。なおこの巻(二七三八)に、「大船のたゆ
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歌と注してある。「飾磨河」は播磨で、今姫路市を流れる船場川だといわれている。巻七(一一七八)の或本歌に
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月、陸奥始めて黄金を貢いだことがあり、これは東大寺大仏造営のために役立ち、詔にも、開闢以来我国には黄金は無く
御蔵の玉箒の傍に鋤があってその一に、「東大寺献天平宝字二年正月」と記してあるのは、まさに家持が此歌を作っ
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山は、大和南葛城郡葛城村大字朝妻にある山で、金剛山の手前の低い山である。「片山ぎし」は、その朝妻山の麓で、
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に行幸(六年三月)遊ばされた時、人麿は飛鳥浄御原宮(持統八年十二月六日藤原宮に遷居し給う)に留まり、その
というに、明日香はあの辺の総名で、必ずしも飛鳥浄御原宮(天武天皇の京)とのみは限局せられない。そこで藤原京になっ
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て序詞となった。併し現今も飛鳥の雷岳あたり、飛鳥川沿岸に小竹林があるが、そのころも小竹林は繁って立派であったに相違
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」は難波の湊のことである。そしてもっとくわしくいえば難波津よりも住吉津即ち堺であろうといわれている。
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釈)と云うが、これは陰暦十月十日以後に萩が無いということを前提とした想像説である。そして、真淵の如き
の現地で詠んだ歌であろう。そして少くも其年は萩がいまだ咲いていたのであろう。気温の事は現在を以て当時の
。百済野は大和北葛城郡百済村附近の原野である。「萩の古枝」は冬枯れた萩の枝で、相当の高さと繁みになっ
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大津皇子を葛城の二上山に葬った時、大来皇女哀傷して作られた御歌である。
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天皇が飛鳥の清御原の宮殿に居られて、そこから少し離れた大原の夫人のところ
乱に天武天皇方の軍を指揮した。此歌は飛鳥の浄見原の京都を讃美したもので、「赤駒のはらばふ」
れて、調べも感動相応の重みを持っているが、飛鳥・藤原あたりの歌調に比して、切実の響を伝え得ないのはなぜ
鎌足の正妻となった。此処の神奈備は竜田の神奈備で飛鳥の神奈備ではない。生駒郡竜田町の南方に車瀬という処に森がある
たことが記されている。甘南備河は、甘南備山が飛鳥(雷丘)か竜田かによって、飛鳥川か竜田川かになるのだ
「うるはしみ」に続いて序詞となった。併し現今も飛鳥の雷岳あたり、飛鳥川沿岸に小竹林があるが、そのころも小竹林は繁って
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網代木は、網の代用という意味だが、これは冬宇治川の氷魚を捕るために、沢山の棒杭を水中に打ち、恐らく上流に向って
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常陸国の歌という左注が附いている。一首の意は、白く見えるのは
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、反歌の方は、この三山が相争った時、出雲の阿菩大神がそれを諫止しようとして出立し、播磨まで来られた頃
を吉野に火葬した時にも、「山の際ゆ出雲の児等は霧なれや吉野の山の嶺に棚引く」(同・四二九)と
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百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ 〔巻三・四一六
皇女山辺被髪徒跣奔赴殉焉。見者皆歔欷とある。磐余の池は今は無いが、磯城郡安倍村大字池内のあたりだろうと云われ
一首の意は、磐余の池に鳴いている鴨を見るのも今日限りで、私は死ぬので
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志賀に行幸あった時、石上卿の作ったものであるが、作者の伝は
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地名とすると、和名鈔の筑摩郡苧賀郷で、梓川と楢井川との間の曠野だとする説(地名辞書)が有力だが
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同じく続く歌で、あなたが、越前の方においでになる遠い路をば、手繰りよせてそれを畳んで、焼いて
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注ぐあたりであるが、この東歌で、「右一首、上総国の歌」とあるのは、古え上総にも海上郡があり、今市原郡
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。また大宝二年の行幸は、尾張・美濃・伊勢・伊賀を経て京師に還幸になったのは十一月二十五日であるのを見れ
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能登の海に釣する海人の漁火の光にい往く月待ちがてり 〔
まだ月も出ず暗いので、能登の海に釣している海人の漁火の光を頼りにして歩いて行く
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である。つまり誰かを待つという情調であろう。そして信濃国でこういう歌が労働のあいまなどに歌われたものであろう。民謡だから
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」という感慨を漏らしている。書紀垂仁天皇巻に、伊勢のことを、「傍国の可怜国なり」と云った如くに、大和に隣っ
麻続王が伊勢の伊良虞に流された時、時の人が、「うちそを麻続の
。そうすれば説明が出来るが、万葉の歌の方は伊勢として味ってかまわない。
持統天皇が伊勢に行幸(六年三月)遊ばされた時、人麿は飛鳥浄御原宮(持統
年夏四月長田王(長親王の御子か)が、伊勢の山辺の御井(山辺離宮の御井か壱志郡新家村か)で詠ま
)に帰って居られた。天武天皇七年四月、伊勢に行幸御進発間際に急逝せられた。天武紀に、七年夏四月
大津皇子が薨じ給うた後、大来(大伯)皇女が伊勢の斎宮から京に来られて詠まれた御歌である。御二人は御姉弟
「伊勢の国にもあらましを」の句は、皇女真実の御声であったに相違ない。家郷である大和、こと
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狭野(佐野)はその近く西南方で、今はともに新宮市に編入されている。「わたり」は渡し場である。第二句で、
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山のところを呼び鳴きつつ越えて居る。多分大和の京(藤原京)の方へ鳴いて行くのであろう。(家郷のことがおもい出されるという意
が、香具山は低い山だし、実際は割合に近いところ、藤原京あたりから眺めたのであったかも知れない。併し一首全体は伸々と
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慶野松原がある。其処の海であろう。なお、人麿が筑紫に下った時の歌、「名ぐはしき稲見の海の奥つ浪千重
歌である。大伴旅人の歌に、「此処にありて筑紫や何処白雲の棚引く山の方にしあるらし」(巻四・五七四)と
から、直接性があるし、旅人のは京にあって筑紫を詠んだのだから、間接のようだが、これは筑紫に残っている
を詠んだのだから、間接のようだが、これは筑紫に残っている沙弥満誓に和えた歌だから、そういう意味で心に直接
しらぬひ筑紫の綿は身につけていまだは着ねど暖けく見ゆ 〔巻
で、出家して満誓となった。養老七年満誓に筑紫の観世音寺を造営せしめた記事が、続日本紀に見えている。満誓
限らぬものである。この現世無常の歌に較べると、筑紫の綿の方が一段上である。
方であろう。真綿説を唱えるのは、当時木綿は未だ筑紫でも栽培せられていなかったし、題詞の「緜」という文字は
一首の意は、〔白縫〕(枕詞)筑紫の真綿は名産とはきいていたが、今見るとなるほど上品だ。未だ
未だ着ないうちから暖かそうだ、というので、「筑紫の綿は」とことわったのは、筑紫は綿の名産地で、作者の
ので、「筑紫の綿は」とことわったのは、筑紫は綿の名産地で、作者の眼にも珍らしかったからに相違ない。何十
ここにありて筑紫やいづく白雲の棚引く山の方にしあるらし 〔巻四・五七四〕
て妻に別れねばならぬのが分かっていたら、筑紫の国々を残るくまなく見物させてやるのであったのに、今となっ
意味かというに、そう取っては具合が悪い。やはり筑紫の国々と取らねばならぬところである。そこで種々説が出たの
ただそれだけでは証拠不充分であるし、憶良の妻が筑紫で歿したという記録が無いのだから、これを以て直ぐ憶良の妻
原文「※綿」で、真綿の意であろうが、当時筑紫の真綿の珍重されたこと、また名産地であったことは沙弥満誓の
天平勝宝七歳二月、坂東諸国の防人を筑紫に派遣して、先きの防人と交替せしめた。その時防人等が歌
て、更に多くの島のあいだを通りつつ、とおく別れて筑紫へ行くことであろうというので、難波から船出するころの歌のようで
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ある。また、「ま愛しみ寝らく愛けらくさ寝らくは伊豆の高嶺の鳴沢なすよ」(三三五八或本歌)などでも東歌的動律だ
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下総国の歌。鳰鳥(かいつぶり)は水に潜くので、葛飾のかずへの枕詞
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中臣朝臣宅守が、罪を得て越前国に配流された時に、狭野茅上娘子の詠んだ歌である。娘子
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ていたから、行幸などの時に仮の御旅宿を宇治に設けたもうたことがあったのであろう。その時額田王は供奉し
の意。嘗て天皇の行幸に御伴をして、山城の宇治で、秋の野のみ草(薄・萱)を刈って葺いた行宮に宿っ
ない、というので、多分夜の景であろうが、宇治の急流を前にして、規模の大きいような、寂しいような変な気持
の番をする人。千早人は氏に続き、同音の宇治に続く枕詞である。皆、旅中感銘したことを作っているのである
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河内王を豊前国鏡山(田川郡香春町附近勾金村字鏡山)に葬った時、手持女王の詠まれた
豊前国の娘子大宅女の歌である。この娘子の歌は今一首万葉(巻
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播磨風土記にある伝説を取入れて作っている。風土記には揖保郡の処に記載されてあるが印南の方にも同様の伝説があった
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百船の泊つる対馬の浅茅山時雨の雨にもみだひにけり 〔巻十五・三六九七〕
新羅使の一行が、対馬の浅茅浦に碇泊した時、順風を得ずして五日間逗留した
八年夏六月、武庫浦を出帆したのが、対馬に来るともう黄葉が真赤に見える頃になっている。彼等が月光を
単に歌の上の詩的表現のみでなったことが分かる。対馬でこの玉槻という遊行女婦などは唯一の慰めであったのかも知れない
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)云々と云って、この句を学んで居る。赤人は富士山をも詠んだこと既に云った如くだから、赤人は東国まで旅したこと
ということになるのであろうか。併しこの歌は、富士山の歌ほどに優れたものではない。巻七(一三三二)に、「磐
暮」(夕ぐれ)に続く序詞で、空に聳えている富士山の森林のうす暗い写生から来ているのである。一首の意は夕方に
燃えつつわたれ」(巻十一・二六九七)などと共に、富士山を詠みこんでいるので注意したのであった。
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亙った、猪名川流域の平野である。有間山は今の有馬温泉のあるあたり一帯の山である。結句の「宿はなくして」は、前出の、
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つである。稲日野は印南野とも云い、播磨の印南郡の東部即ち加古川流域の平野と加古・明石三郡にわたる地域をさして云っ
は今は加古郡だが、もとは(明治二十二年迄)印南郡であった。
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近いころに作ったもののようである。「大伴」は難波の辺一帯の地域の名で、もと大伴氏の領地であったからであろう
にある高師の浜というのである。「御津」は難波の湊のことである。そしてもっとくわしくいえば難波津よりも住吉津即ち堺で
大意。難波の地に旅して、そこの葦原に飛びわたる鴨の翼に、霜降る
五年夏四月、遣唐使(多治比真人広成)の船が難波を出帆した時、随行員の一人の母親が詠んだ歌である。長歌
寄物述思の一首。難波の人が葦火を焚くので家が煤けるが、おれの妻もそのように
、とおく別れて筑紫へ行くことであろうというので、難波から船出するころの歌のようである。専門技倆的に巧でないが、
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慶雲三年(九月二十五日から十月十二日まで)難波宮に行幸あらせられたとき志貴皇子(天智天皇の第四皇子、霊亀二年
皇子、霊亀二年薨)の詠まれた御歌である。難波宮のあったところは現在明かでない。
に応え奉った歌であるが、持統天皇か文武天皇か難波宮(長柄豊崎宮。現在の大阪豊崎町)に行幸せられた時の作であろう
聖武天皇天平六年春三月、難波宮に行幸あった時、諸人が歌を作った。此一首は守部王(
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神奈備の伊波瀬の杜の喚子鳥いたくな鳴きそ吾が恋益る 〔巻八
寵を受け、後藤原鎌足の正妻となった。此処の神奈備は竜田の神奈備で飛鳥の神奈備ではない。生駒郡竜田町の南方に車瀬と
正妻となった。此処の神奈備は竜田の神奈備で飛鳥の神奈備ではない。生駒郡竜田町の南方に車瀬という処に森がある。それ
閑古鳥の事として置く。一首の意は、神奈備の伊波瀬の森に鳴く喚子鳥よ、そんなに鳴くな、私の恋しい心
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上の小鞍の峯」(巻九・一七四七)は、竜田川(大和川)の亀の瀬岩附近、竜田山の一部である。それから、この(一六六四
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持統天皇が吉野の離宮に行幸せられた時、扈従して行った高市連黒人が作った
、自分を藤原京の方にいるように瞬間見立てれば、吉野の方から鳴きつつ来る意にとり、「来らむ」でも差支がないこと
み吉野の山のあらしの寒けくにはたや今夜も我がひとり寝む 〔巻一・七四
大行天皇(文武)が吉野に行幸したもうた時、従駕の人の作った歌である。「
、天武天皇の御事で、皇子の御父であり、吉野とも、また額田王とも御関係の深かったことであるから、そこで杜鵑
皇子(天武天皇第六皇子、文武天皇三年薨去)が吉野に遊ばれた時の御歌である。滝は宮滝の東南にその跡が残っ
、わが命もいつも変らずありたいものだ。昔見た吉野の象の小川を見んために、というので、「常にあらぬ
吉野なる夏実の河の川淀に鴨ぞ鳴くなる山かげにして 〔巻三・
一首の意は、吉野にある夏実の川淵に鴨が鳴いている。山のかげの静かなところだ
出雲娘子が吉野川で溺死した。それを吉野で火葬に附した時、柿本人麿の歌った歌二首の一つで、
亡き人のようにおもった歌である。また出雲娘子を吉野に火葬した時にも、「山の際ゆ出雲の児等は霧なれ
「阿太の野」は、今の吉野、下市町の西に大阿太村がある。その附近一帯の原野であっただろう
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吾が背子」は、或は大海人皇子(考・古義)で、京都に留まって居られたのかと解している。そして真淵訓に仮りに
の軍を指揮した。此歌は飛鳥の浄見原の京都を讃美したもので、「赤駒のはらばふ」は田の辺
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て解することにする。「味酒三輪の山、青丹よし奈良の山の、山のまにい隠るまで、道の隈い積るまでに
という説がある。そして新撰字鏡に、「椎、奈良乃木也」とあるのもその証となるが、陰暦十月上旬に
黒人作、「堀江より水脈さかのぼる楫の音の間なくぞ奈良は恋しかりける」(巻二十・四四六一)は家持作である。共に
贈った廿四首の中の一つである。平山は奈良の北にある那羅山で、其処に松が多かったことは、「平山
に取ったものと考えられる。(憶良は、「あをによし奈良の都に」(巻五・八〇八)とも使っている。)次に
」に続けている。そんなら、「国内」は大和・奈良あたりの意味かというに、そう取っては具合が悪い。やはり筑紫の
。次に、「あをによし」という語は普通、「奈良」に懸る枕詞であるのに、憶良は「国内」に続けている。
」で、間とか中とかいう意味になる。「奈良の山の山の際にい隠るまで」(巻一・一七)と
舎人親王の御子)の歌である。一首は、若し奈良に残して来た嬬も一しょなら、二人で聞くものを、沖の渚
は暇があるのか」ぐらいに解釈すべきところで、奈良朝の太平豊楽を讃美する気持が作歌動機にあるのである。
上毛野伊奈良の沼の大藺草よそに見しよは今こそまされ (同・三四一七
あをによし奈良の都にたなびける天の白雲見れど飽かぬかも 〔巻十五・
に」の句は変化したもので、原作は、「奈良の都に」などでなく、山のうえとか海上とか、或は序詞
ところを見ると、この歌も、上の句の、「あをによし奈良の都に」の句は変化したもので、原作は、「奈良の
、豊かな大きい調子があるので吟誦にも適し、また奈良の家郷を偲ぶのにふさわしいものとして選ばれたものであろう。この
雲を詠じた歌だと注してある。一首は、奈良の都の上にたなびいて居る、天の白雲の豊大な趣を讃美し
た歌である。仲麿は即ち恵美押勝であるが、橘奈良麿等が仲麿の専横を悪んで事を謀った時に、仲麿の奏上
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柿本人麿が、近江の宮(天智天皇大津宮)址の荒れたのを見て作った長歌の反歌である。大津宮
人等に逢うことが出来ない、というのである。大津の京に関係あった湖水の一部の、大曲の水が現在、人待ち顔に
大津皇子(天武天皇第三皇子)が窃かに伊勢神宮に行かれ、斎宮大伯
大津皇子は天武天皇崩御の後、不軌を謀ったのが露われて、朱鳥元年
沾れぬ山の雫に 〔巻二・一〇七〕 大津皇子
大津皇子が石川郎女(伝未詳)に贈った御歌で、一首の意は、
の「吾が命し真幸くあらばまたも見む志賀の大津に寄する白浪」(巻三・二八八)もあるが、皇子の歌ほど
大津皇子が薨じ給うた後、大来(大伯)皇女が伊勢の斎宮から京に
大津皇子を葛城の二上山に葬った時、大来皇女哀傷して作られた
美作)から来た采女で、現職を離れてから近江の大津辺に住んでいたものと想像せられる。「子ら」の「ら
津の子ら」とあるから、志我津即ち今の大津あたりに住んでいた女で、多分吉備の国(備前備中備後美作)
得る歌だが、人麿は此時、「あまかぞふ大津の子が逢ひし日におほに見しかば今ぞ悔しき」(
。此皇子の御歌にはさる心なるも又見ゆ。大友大津の皇子たちの御事などを御まのあたり見たまひて、しかおぼすべきなり」
のみ見てや雲隠りなむ 〔巻三・四一六〕 大津皇子
詠まれた御歌である。持統紀に、庚午賜死皇子大津於訳語田舎、時年二十四。妃皇女山辺被髪徒跣奔赴殉焉。見者
時、磐余池般流涕御作歌一首とある。即ち、大津皇子の謀反が露われ、朱鳥元年十月三日訳語田舎で死を賜わった
題詞には、大津皇子被死之時、磐余池般流涕御作歌一首とある。即ち、
た。皇子は夙くから文筆を愛し、「詩賦の興は大津より始まる」と云われたほどであった。
大津皇子は、「今日のみ見てや」といった。大津皇子の方が、人麿などと同じ時代なので、主観句に沁むもの
。有間皇子は、「ま幸くあらば」といい、大津皇子は、「今日のみ見てや」といった。大津皇子の方が
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となるだろうからという意で、これも諸説がある。金沢本には、「塞」が「寒」になっているから、新訓
「い隠ろひなば」と訓んだが、元暦校本・金沢本・神田本等に、「※隠去者」となっているから、
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のだが、その蒲原まで来るあいだに田児浦がある。静岡から息津まで九里、息津から蒲原まで四里、それを一日
(孝雄)博士の考証がある(講義)。駿河国府(静岡)を立って、息津、蒲原と来るのだが、その蒲原まで来る
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の浦」は、武庫川の河口から西で、今の神戸あたり迄一帯をいった。「粟島」は巻九(一七一一)に、「
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、葛飾のかずへの枕詞とした。葛飾は今の葛飾区一帯。「饗」は神に新穀を供え祭ること、即ち新嘗の祭をいう
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一首の意は、お慕わしいあなたが紫草の群生する蒲生のこの御料地をあちこちとお歩きになって、私に御袖を振り遊ばす
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、古写本中、コロモホシタリ(古葉略類聚抄)、コロモホシタル(神田本)、コロモホステフ(細井本)等の訓があり、また、新古今集
ろひなば」と訓んだが、元暦校本・金沢本・神田本等に、「※隠去者」となっているから、「※」
キヰシ・ウグヒスと訓んだ。併し古い訓(類聚古集・神田本)の、ヲリシウグヒスの方がいい。この歌も、何でもないよう
が、明人と書いた古写本もある(西本願寺本・神田本等)。「野づかさ」は野にある小高い処、野の丘陵を
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の志賀の辛崎は元の如く何の変はないが、大宮所も荒れ果てたし、むかし船遊をした大宮人も居なくなった。
人恋しがって、人懐かしく、淀んでいるけれども、もはやその大宮人等に逢うことが出来ない、というのである。大津の京に
大宮の内まで聞ゆ網引すと網子ととのふる海人の呼び声 〔巻三・
、「万代に見とも飽かめやみ吉野のたぎつ河内の大宮どころ」(巻六・九二一)、「皆人の寿も吾もみ吉野の
即ち、多くの石を以て築いた城という意で大宮の枕詞とした。一首の意は、今日は御所に仕え申す人
「百礒城の」は大宮にかかる枕詞で、百石城即ち、多くの石を以て築いた城と
ば」(同・三九二四)を作り、大伴家持は、「大宮の内にも外にも光るまで零らす白雪見れど飽かぬかも
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ぬ吾し衣に摺りつ」(同・一三五四)、「住吉の岸野の榛に染ふれど染はぬ我やにほひて居らむ」
の湊のことである。そしてもっとくわしくいえば難波津よりも住吉津即ち堺であろうといわれている。
あられうつ安良礼松原住吉の弟日娘と見れど飽かぬかも 〔巻一・六五〕
長皇子(天武天皇第四皇子)が、摂津の住吉海岸、安良礼松原で詠まれた御歌で、其処にいた弟日娘
或は娘子は一人のみではなかったのかも知れない。住吉の岸の黄土で衣を美しく摺って記念とする趣である。「旅
類想の歌が多い。おなじ黒人の歌でも、「住吉の得名津に立ちて見渡せば武庫の泊ゆ出づる舟人」(巻三・
どもめづらし吾君」(巻三・三七七)、「住吉の里行きしかば春花のいやめづらしき君にあへるかも」(
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田口益人が和銅元年上野国司となって赴任の途上駿河国浄見埼を通って来た時の歌
上野国歌。「多胡」は上野国多胡郡。今は多野郡に属した。「草枕」を「多胡」の
上野国歌。「多胡」は上野国多胡郡。今は多野郡に属した。「
国歌。「安蘇」は下野安蘇郡であろうが、もとは上野に入っていたと見える。この巻に、「下毛野安素の河原よ
上野国歌。「安蘇」は下野安蘇郡であろうが、もとは上野に入って
が恋しくて忘れられぬ、というのであろう。当時は上野からは碓氷峠を越して信濃に入り、それから美濃路へ出たの
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郡に合併せられた、その海上であろう。そうすれば東京湾に臨んだ姉ヶ崎附近だろうとせられて居る。一首の意は、海上