銀座アルプス / 寺田寅彦

銀座アルプスのword cloud

地名一覧

音羽

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た。主婦は江戸で生まれてほとんど東京を知らず、ただ音羽の親類とお寺へ年に一度行くくらいのものであった。ほとんどわが子

パリ

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であろう。このちぐはぐな凹凸は「近代的感覚」があってパリの大通りのような単調な眠さがない。うっかりすると目を突きそうで

谷中

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にはいったのでちょうど四年目に再び上京した。谷中の某寺に下宿をきめるまでの数日を、やはり以前の尾張町のI家で

を、やはり以前の尾張町のI家でやっかいになった。谷中へ移ってからも土曜ごとにはほとんど欠かさず銀座へ泊まりに行った。当時

アルプス

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アルプスと言えば銀座にもアルプスができた。デパートの階段を頂上まで登るのは

アルプスと言えば銀座にもアルプスができた。デパートの階段を頂上まで登るのはなかなかの労働である。そう

アルプスにも山火事があるように、デパートにも火事がある。山火事は谷から峰

していやな品に慣れる努力をするであろう。時代のアルプスを登るにはやはり骨が折れる。自分もせいぜい長生きする覚悟で若い者に負け

かもしれない。そうして七十歳にでもなったらアルプスの奥の武陵の山奥に何々会館、サロン何とかいったような陽気な

名古屋

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は赤ん坊の時からすでに現われる。自分が四歳の時に名古屋にいたころのかすかな思い出の中には、どこか勝手口のような所

根岸

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手引きしてもらって以来俳句に凝って、上京後はおりおり根岸の子規庵をたずねたりしていたころであったから、自然にI商店

平河町

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で召集され、K留守師団に職を奉じながら麹町区平河町のM旅館に泊まっていたのである。

房総

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青空か白雲、時には飛行機が通る。駿河の富士や房総の山も見える日があろう。ついでに屋上さらに三四百尺の鉄塔を建てて頂上

江戸

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は徳川時代とそんなに違わないように見えた。主婦は江戸で生まれてほとんど東京を知らず、ただ音羽の親類とお寺へ年に一度

マンハッタン

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見おろした銀座界隅の光景は、飛行機から見たニューヨーク、マンハッタンへんのようにはなはだしい凹凸がある。ただ違うのはこっちのいちばん高い家の高

丸の内

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て中六番町の住み家へ帰って行った。その暗い丸の内の闇の中のところどころに高くそびえたアーク燈が燦爛たる紫色の光を出し

ロンドン

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あったのである。それはとにかく、この絵の中のロンドン、リーディング間の郵便馬車の馬丁がシルクハットをかぶってそうしてやはり角笛を吹い

ニューヨーク

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頂上から見おろした銀座界隅の光景は、飛行機から見たニューヨーク、マンハッタンへんのようにはなはだしい凹凸がある。ただ違うのはこっちのいちばん高い家

熊本

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か酒をのむことを覚えていたくらいであった。熊本で漱石先生に手引きしてもらって以来俳句に凝って、上京後はおりおり

銀座

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銀座アルプス

な記憶の断片の中に、明治十八年ごろの東京の銀座のある冬の夜の一角が映し出される。

芝居がはねて後に一同で銀座までぶらぶら歩いたものらしい。そうして当時の玉屋の店へはいって父

この銀座の冬の夜の記憶が、どういうものかひどく感傷的な色彩を帯びて自分

「記憶」の夢の中では、この郵便馬車と、銀座の鉄道馬車とがすっかり一つに溶け合ってしまって、切っても切れない連想

年たった明治二十八年の夏に再び単身で上京して銀座尾張町の竹葉の隣のI家の二階に一月ばかりやっかいになって

銀座の西裏通りで、今のジャーマンベーカリの向かいあたりの銭湯へはいりに行って

たKちゃんが後年ひとかどの俳人になって、それが現に銀座裏河岸に異彩ある俳諧おでん屋を開いているのである。

た。谷中へ移ってからも土曜ごとにはほとんど欠かさず銀座へ泊まりに行った。当時、昔の鉄道馬車はもう電車になっていた

ひとつながりの期間としか思われない。従って自分の東京と銀座に関する記憶は、※※――のような三つの部分から成り立って

た、それの影響が後年の――の中の自分の銀座観に特別の余波を及ぼしていることはたしかである。

につながっているのである。この※※の中では銀座というものが印象的にはかなり重要な部分を占めていた、それの

ようなものがあり、これが昔の※※の中の銀座の夢につながっているのである。この※※の中では銀座と

を組織するきわめて微細な繊維のようになった自分の「銀座線」とでもいったようなものがあり、これが昔の※※

震災以後の銀座には昔の「煉瓦」の面影はほとんどなくなってしまった。第二の

F屋喫茶店にいた文学青年給仕のM君はよく、銀座なんか歩く人の気が知れないと言っていたが、考えてみれば

充実している人には、せせこましくごみごみとした人いきれの銀座を歩くほどばからしくも不愉快なことはなく、広大な山川の風景を前

も、人からは仙人のように思われる学者で思いがけない銀座の漫歩を楽しむ人が少なくないらしい。考えてみるとこのほうがあたりまえの

の中に何かしらある名状し難い空虚を感じている。銀座の舗道を歩いたらその空虚が満たされそうな気がして出かける。ちょっと

アルプスと言えば銀座にもアルプスができた。デパートの階段を頂上まで登るのはなかなかの労働

デパートアルプスの頂上から見おろした銀座界隅の光景は、飛行機から見たニューヨーク、マンハッタンへんのようにはなはだしい凹凸

伴のうて鳩卵大の降雹がほんのひとしきり襲って来れば、銀座付近が一時はだいぶ暗くなる事であろう。その時が今から的確に予報

ちょうど昼ごろに、麻布の親類から浅草の親類へ回る道順で銀座を通って見たときの事である。荒涼、陰惨、ディスマル、トロストロース、

暴風の跡の銀座もきたないが、正月元旦の銀座もまた実に驚くべききたない見物である。昭和六年の元旦のちょうど昼ごろ

暴風の跡の銀座もきたないが、正月元旦の銀座もまた実に驚くべききたない見物である。

美しく見えるのもまた雪の夜である。雪の夜の銀座はいつもの人間臭いほこりっぽい現実性を失って、なんとなくおとぎ話を思わせる

反してまた、世にも美しいながめは雪の降る宵の銀座の灯の町である。あらゆる種類の電気照明は積雪飛雪の街頭にその

思うコーヒーを飲ましてくれる家がきわめて少ない。日本の東京の銀座も案外不便なところだと思うことがある。日本でのんだいちばんうまいコーヒー

銀座でコーヒーを飲ませる家は数え切れないほどたくさんあるが、家ごとにみんなコーヒーの味

。自分もせいぜい長生きする覚悟で若い者に負けないように銀座アルプスの渓谷をよじ上ることにしたほうがよいかもしれない。そうし

はこれもやはりなんの役にも立ちそうもない。むしろ銀座アルプス連峰の頂上ごとにそういう碑銘を最も目につきやすいような形で

市民自身で今から充分の覚悟をきめなければせっかく築き上げた銀座アルプスもいつかは再び焦土と鉄筋の骸骨の砂漠になるかもしれない

はもう一度関東大地震が襲来するはずである。その時に銀座の運命はどうなるか。その時の用心は今から心がけなければ間に合わない

ますます立体的に生長することであろう。百歳まで生きなくとも銀座アルプスの頂上に飛行機の着発所のできるのは、そう遠いことでもない

夢の鉄道馬車の代わりにことしは地下鉄道が開通して、銀座はますます立体的に生長することであろう。百歳まで生きなくとも銀座アルプスの

ない。人は老ゆるが自然はよみがえる。一度影を隠した銀座の柳は、去年の夏ごろからまた街頭にたおやかな緑の糸をたれた

八歳の時に始まった自分の「銀座の幻影」のフィルムははたしていつまで続くかこればかりはだれにもわからない

東京

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のような記憶の断片の中に、明治十八年ごろの東京の銀座のある冬の夜の一角が映し出される。

何度か芝居を見たことはあったようであるが、東京の芝居を見たのはおそらくその時がはじめてであったらしい。どんな芝居

明治十九年にはもう東京を去って遠い南海の田舎に移った。そうして十年たった明治

に違わないように見えた。主婦は江戸で生まれてほとんど東京を知らず、ただ音羽の親類とお寺へ年に一度行くくらいのもの

か覚えている。父が何かしらそれについて田舎と東京との料理の比較論といったようなものをして聞かせたよう

には最も便利な設備であった。それから考えると、東京市民の全部がことごとく「田舎者」になった今日、デパートの繁盛するのは

はただひとつながりの期間としか思われない。従って自分の東京と銀座に関する記憶は、※※――のような三つの部分から

様はこの年から三十余年後の今日までずっと自分を東京に定住させることにきめてしまった。明治四十二年から四年へかけ

うまいと思うコーヒーを飲ましてくれる家がきわめて少ない。日本の東京の銀座も案外不便なところだと思うことがある。日本でのんだいちばん

から心がけなければ間に合わない。困った事にはそのころの東京市民はもう大地震の事などはきれいに忘れてしまっていて、大地震が

日比谷

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とうとう買ってくれなかった。それから人力にゆられて夜ふけの日比谷御門をぬけ、暗いさびしい寒い練兵場わきの濠端を抜けて中六番

麹町

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予備役で召集され、K留守師団に職を奉じながら麹町区平河町のM旅館に泊まっていたのである。

新橋

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新橋詰めの勧工場がそのころもあったらしい。これは言わば細胞組織の百貨店で

それを予防する人柱の代わりに、今のうちに京橋と新橋との橋のたもとに一つずつ碑石を建てて、その表面に掘り埋め

浅草

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。昭和六年の元旦のちょうど昼ごろに、麻布の親類から浅草の親類へ回る道順で銀座を通って見たときの事である。荒涼

京橋

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むすこのSちゃんに連れられては京橋近い東裏通りの寄席へ行った。暑いころの昼席だと聴衆はほんの

ない。それを予防する人柱の代わりに、今のうちに京橋と新橋との橋のたもとに一つずつ碑石を建てて、その表面に