つゆじも / 斎藤茂吉

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地名一覧

青山

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おのづから水ながれたる沢越えて青山見ゆるところまで来し

大音寺

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大音寺の樟の太樹を見てかへり公教会報の歌を写すも

田中

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灰いろの海鳥むれし田中には朝日のひかりすがしくさせり

阿蘇

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に遊びそれから阿蘇山にのぼり、別府へ抜ける旅をし、阿蘇の中腹で撮つた写真も遺つて居るし、その時の歌も若干首あつ

辰巳

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五月三十日 雷が丘、雨声楼(秋帆別邸)辰巳にて夕餐会等を催す

十一月二十一日 土屋氏長崎を発つ。夜辰巳に会合あり

本能寺

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鳳凰堂、平等院、宇治川花屋敷、佐久間象山遭難地、加茂川、本能寺、御所、烏丸通、堀川、嵐山電車、仁和寺の山、塔、如意輪観音、大竹

みちのく

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みちのくに稚くしてかなしみし釣鐘草の花を摘みたり

みちのくは春まだ寒し遠じろくはざまをいづる川のさびしさ

みちのくのわが故里に帰り来て白頭翁を掘る春の山べに

諏訪のうみの田螺を食へばみちのくに稚かりし日おもほゆるかも

興福寺

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興福寺、深崇寺、書画帖

宇治

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三月廿八日。宇治、鳳凰堂、平等院、宇治川花屋敷、佐久間象山遭難地、加茂川、本能寺、御所

観世音寺

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一月六日 太宰府、観世音寺、都府楼址、武雄温泉

平安神宮

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保津川、桂川、金閣寺(鹿苑院)、大極殿(平安神宮)。藤岡旅館

九州

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九州の旅

九州の十一人の友よりてわれと歌はげむ夜の明くるまで

屋島

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二日。琴平より高松、見物(人力車)、栗林公園、屋島。高松午後四時発、岡山午後七時著、一泊。二十三日。第

北海道

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八月二十九日 北海道なる次兄より長女富子の写真をおくりこしければ

福済寺

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八月二十五日 福済寺

福済寺にわれ居り見ればくれなゐに街の処々に百日紅のはな

阿蘇山

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大正八年には同僚知人と共に熊本に遊びそれから阿蘇山にのぼり、別府へ抜ける旅をし、阿蘇の中腹で撮つた写真も遺つて

諏訪

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諏訪のみづうみの泥ふかく住みしとふ蜆を食ひぬ友がなさけに

諏訪のうみの田螺を食へばみちのくに稚かりし日おもほゆるかも

みづうみ

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諏訪のみづうみの泥ふかく住みしとふ蜆を食ひぬ友がなさけに

横浜

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昭和十八年夏、横浜の佐伯藤之助氏が、私が大正七年八月七日長崎で書いた左

島原

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この宿に島原ゆ来し少女居りわがために夕べ洋灯を運ぶ

嬉野

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嬉野の旅のやどりに中林梧竹翁の手ふるひし書よ

わが病やうやく癒えぬとおもふまで嬉野の山秋ふけむとす

大阪

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三月廿四日。大阪。大学法医学教室(中田篤郎氏)、精神病学教室(小関光尚氏)、浪速

浦上村

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ゆふぐれて浦上村をわが来ればかはず鳴くなり谷に満ちつつ

十一月二十二日 平福百穂画伯と浦上村をゆく

大光寺

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五月四日 大光寺にて三浦達雄一周忌歌会を催す

仁和寺

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加茂川、本能寺、御所、烏丸通、堀川、嵐山電車、仁和寺の山、塔、如意輪観音、大竹林、隠窟、臨済宗大本山天龍寺、保津川、

佐久間象山

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月廿八日。宇治、鳳凰堂、平等院、宇治川花屋敷、佐久間象山遭難地、加茂川、本能寺、御所、烏丸通、堀川、嵐山電車、仁和寺の

道頓堀

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学教室(小関光尚氏)、浪速花屋碑、心斎橋通、道頓堀(文楽人形芝居)、よる森園天涙、花田大五郎、加納曉氏等も加はり晩餐

博多

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午前五時博多著、栄屋旅館。大学生青木義作、金子慎吾二君来る。榊、久保二

午前九時四十二分博多発、十一時四十二分小倉著、市中を見物し、ついで延命寺に行き

金閣寺

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大竹林、隠窟、臨済宗大本山天龍寺、保津川、桂川、金閣寺(鹿苑院)、大極殿(平安神宮)。藤岡旅館

大浦

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四歳の茂太をつれて大浦の洋食くひに今宵は来たり

東京より弟西洋来る。妻・茂太等と共に大浦なる長崎ホテルにて晩餐を共にせりしが、予夜半より発熱、臥床をつづく

大浦の道のほとりにルーヴルの紙幣を売ると俘虜は佇む

筑紫

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神つ代のこと恋しみてしらぬひ筑紫のくにに果てし君はも

しらぬひ筑紫のはてにわれ居れどをしへの親を讃へざらめや仰がざらめや

後楽園

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(蒼太郎)教授を訪ふ。市内(人力車)城、後楽園

長崎

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長崎著任後折にふれたる

とほく来てひとり寂しむに長崎の山のたかむらに日はあたり居り

長崎の石だたみ道いつしかも日のいろ強く夏さりにけり

すぢ向ひの家に大工の夜為事の長崎訛きくはさびしも

長崎歌会

奉迎摂政宮殿下歌 長崎日日新聞所載

かけまくもあやにかしこし年古れる長崎のうみに御艦はてたまふ

(長崎日日新聞、十首中存四首)

長崎は石だたみ道ヴェネチアの古りし小路のごととこそ聞け

(長崎日日新聞)

長崎同人小集を土橋青村宅に開く

長崎に来てよりあはれなる歌なきをわれにな問ひそ寂しきものを

ヘンドリク・ドウフの妻は長崎の婦にてすなはち道富丈吉生みき

長崎の港の岸に浮かばしめしドイツ潜航艇にわれ出入りつ

長崎の商人としてゐる Lessner も Cohn も耀く法服を著つ

十月三十日 夜古賀十二郎氏の「長崎美術史」の講演を聞く

茂太を伴ひて東京より来る。今夕二人と共に大浦長崎ホテルを訪ふ

はやり風はげしくなりし長崎の夜寒をわが子外に行かしめず

寒き雨まれまれに降りはやりかぜ衰へぬ長崎の年暮れむとす

東京より弟西洋来る。妻・茂太等と共に大浦なる長崎ホテルにて晩餐を共にせりしが、予夜半より発熱、臥床をつづく

長崎のしづかなるみ寺に我ぞ来し蟇が鳴けるかな外の池にて

おもほえず長崎に来て豊けき君がこころに親しみにけり(永山図書館長に)

長崎のいにし古ごと明らむる君ぞたふときあはれたふとき(

「慶長十年にはじめて南蛮より種をつたへて長崎桜馬場にこれをうゆる」(近代世事談、金糸烟、烟草)

長崎の麦の秋なるくもり日にわれひとりこそこころ安けれ

長崎に来りて四年の夏ふけむ白さるすべり咲くは未か

長崎の暑き日に君は来りたり涙しながるわがまなこより

長崎に二年居りて聞かざりし暁がたの蝉のもろごゑ

長崎をふりさけむとするベンチには露西亜文字など人名きざめり

この山を吾あゆむとき長崎の真昼の砲を聞きつつあはれ

絹笠の峰ちかくして長崎の真昼を告ぐる砲の音きこゆ

長崎

八月十四日、温泉嶽を発ちて長崎に帰りぬ。病いまだ癒えず。十六日抜歯、日毎に歯科医にかよ

長崎に帰り来りてむしばめるわが歯を除りぬ命を愛しみ

公園の石の階より長崎の街を見にけりさるすべりのはな

長崎の午の大砲中町の天主堂の鐘ここの禅寺の鐘

八月二十七日 仰臥 二十八日 仰臥、長崎精霊ながし

午前八時十五分長崎発、午後一時三十五分久保田発、午後三時十五分唐津著、木村屋

長崎

十月三日 朝古湯をたち午後長崎にかへる。万物に無沙汰の感ふかし

長崎にかへり来りて友を見つ遠のめづらの心かなしも

長崎の港見おろすこの岡に君も病めれば息づきのぼる

この家の主人わざわざ長崎に買ひたる刺身を吾に食はしむ

ここ越えてゆかば長崎の西山にいづるらむとて暫く歩く

ひらけたる谷にむかひて長崎の港のかたをおもひつつ居り

長崎の茂木の港にかよふ船ふとぶとと汽笛を吹きいだしたり

長崎

時四十分嬉野発、十時四十三分彼杵発、十二時半長崎著

長崎に心しづめて居るときに永遠の悲しみ聞かむと思ひきや

祭も過ぎて照らす日の光しづかなる長崎の山いろづきにけり

十一月二十一日 土屋氏長崎を発つ。夜辰巳に会合あり

長崎の人等もなべてクロス山と名づけていまに見つつ経たりき

十一月二十三日 百穂画伯と長崎図書館を訪ひ南蛮史料を看る

長崎より

長崎の港を見れば我がこころ和みしづまるをあやしと思ふな

長崎にも霜ふりにけりありふれしもののあはれと我は思はず

さむき雨長崎の山にも降りそそぐ冬の最中となるにやあらむ

ウンガルンの俘虜むらがりて長崎の街を歩くに赤く入日す

長崎の港の岸をあゆみゐるピナテールこそあはれなりしか

長崎を去る日やうやく近づけば小さなる論文に心をこめつ

クリスマスの長崎の御堂に入ることも二たびをせむ吾ならなくに

平福百穂氏歓迎歌会 十一月二十四日於長崎県立図書館、課題「港」

大正九年十二月三十日長崎発、熊本泊、翌三十一日熊本見物を終り、同夜人吉林温泉泊。

長崎

長崎の港をよろふむら山に来向ふ春の光さしたり

長崎に来りて既にまる三年友のいくたり忘れがたかり

に降、諸家に暇乞にまはる。夜茂吉送別歌会を長崎図書館に開く

長崎をわれ去りなむとあかつきの暗きにさめて心さびしむ

長崎をわれ去りゆきて船笛の長きこだまを人聞くらむか

長崎を去り東上

午後十一時長崎を出発す。先輩知友多く見送らる。予長崎に居ること足掛五年、満三年三月なり。前田毅、江藤

三月十六日。午後十一時長崎を出発す。先輩知友多く見送らる。予長崎に居ること足掛五年

春さむしとおもはぬ部屋に長崎の御堂の話長塚節の話

長崎の港をよろふ山並に来むかふ春の光さしたりあまつ光は

長崎にわれ明暮れてとりがなくあづまの国の君をしぬびつしぬび

長崎に来てより三とせは過ぎにけりいざ帰りなむあづまの春へ君

大正六年十二月長崎に赴任してより満三年三月余、足掛五年になりて

長崎よりかへりてみれば銀座十字に牛は通らずなりにけるかも

長崎の昼しづかなる唐寺やおもひいづれば白きさるすべりのはな

長崎にて暮らししひまに虫ばみし金槐集をあはれみにけり

教授になつて赴任した時から、大正十年三月長崎を去るまでのあひだに、折に触れて作つた歌、それから、

次ぐものである。そして、大正六年十二月、自分が長崎医学専門学校教授になつて赴任した時から、大正十年三月長崎を

宮崎の方に旅したときの未定稿のもの、それから長崎を去つて上京するまでの途中の歌をも若干首書き記してある。是

物と一しよに入れたのであつた。帳面には、長崎から鹿児島宮崎の方に旅したときの未定稿のもの、それから長崎を

ずも、欧羅巴から持帰つた荷物の中に、長崎時代の小帳面四冊あることを発見したが、その中には大正

九年の歌は、アララギ、大阪毎日新聞、大阪朝日新聞、長崎日日新聞、雑誌紅毛船、雑誌アコウ等にたまたま載つたもの以外は、

自分の長崎時代の歌、即ち大体大正七年八年九年の歌は、アララギ、

といふのは、この一巻の内容が主として長崎晩期の心にかよふと思ひ、かく命名したのであつた。併し

の佐伯藤之助氏が、私が大正七年八月七日長崎で書いた左の短冊を示された。

長崎に来てより百日過ぎゆきてあはれと思ふからたちの花

ついで昭和十八年十二月六日、長崎の森路※平氏が左のごとくに通信せられた。

長崎の永見夏汀が愛で持ちし鰐の卵をわれは忘れず

佐賀

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川きよき佐賀のあがたの川のべに吾はこもりて人に知らゆな

蟷螂が蜂を食ひをるいたましさはじめて見たり佐賀の山べに

旅とほき佐賀の山べの村祭り相撲のきほひ吾は来て見つ(二十一日松森

大浦天主堂

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武藤長蔵教授より大浦天主堂に聖体降福式あることを知らせありしかど、身をいたはり

午前武藤長蔵教授、三上知治画伯と共に大浦天主堂を訪ひ、午後ピナテール(Pignatel)翁を訪ふ

仙台

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みちのくの仙台よりおくりくれしてふ納豆を食む心しづけさ

熊本

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九年十二月三十日長崎発、熊本泊、翌三十一日熊本見物を終り、同夜人吉林温泉泊。

大正九年十二月三十日長崎発、熊本泊、翌三十一日熊本見物を終り、同夜人吉林温泉泊。

熊本のあがたより遠く見はるかす温泉が嶽は凡ならぬやま

であつた。また大正八年には同僚知人と共に熊本に遊びそれから阿蘇山にのぼり、別府へ抜ける旅をし、阿蘇の中腹で

鹿児島

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大正十年一月一日、林温泉より鹿児島に至る。一泊

鹿児島の名所を人力車にて見てめぐり疲れてをりぬ妻と吾とは

奥田啓市氏鹿児島県立図書館長として出発す。予さはりありて見おくり得ざりしこと

一しよに入れたのであつた。帳面には、長崎から鹿児島宮崎の方に旅したときの未定稿のもの、それから長崎を去つて

、渡辺庫輔(与茂平)、村田利明、鵜木保、鹿児島寿蔵、竹内治三郎、森路※平(高谷寛)、赤星信一、村田敏夫、

松山

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高浜上陸、汽車にて道後著、入湯一泊。二十一日。松山見物(人力車)、三津港より上船、多度津上陸、琴平行一泊、神社

岡山

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(人力車)、栗林公園、屋島。高松午後四時発、岡山午後七時著、一泊。二十三日。第六高等学校に山宮・志田二

元義がきほひて歌をよみたりし岡山五番町けふよぎりたり

岡山を発してゆふぐれ神戸著、中村憲吉君出迎ふ。みつわにて神戸牛肉を

高松

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。琴平より高松、見物(人力車)、栗林公園、屋島。高松午後四時発、岡山午後七時著、一泊。二十三日。第六

三月廿二日。琴平より高松、見物(人力車)、栗林公園、屋島。高松午後四時発、岡山午後

神戸

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発してゆふぐれ神戸著、中村憲吉君出迎ふ。みつわにて神戸牛肉を食ふ。香櫨園畔の中村氏方に泊。長女良子さん(五歳

岡山を発してゆふぐれ神戸著、中村憲吉君出迎ふ。みつわにて神戸牛肉を食ふ。香櫨園畔の

宅一泊。六甲苦楽園六甲ホテル一泊。十一月一日神戸出帆

出帆、諸先輩諸友の見送を忝うせり。二十八日神戸着、上陸諸友に会ふ。京都に遊び藤岡旅館泊、中村憲吉君

京都

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ついで大和に行き万葉の歌に関する古跡をめぐる。ゆふ京都著。藤岡旅館に入る。

午前十時四十分京都を発ち、米原駅下車、番場蓮華寺に※応和尚にあひまつる。石川

忝うせり。二十八日神戸着、上陸諸友に会ふ。京都に遊び藤岡旅館泊、中村憲吉君宅一泊。六甲苦楽園六甲ホテル一

奈良

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三月廿五日より廿七日。中村君の案内にて奈良を見る。法隆寺佐伯管長にも会ふ。雨降る。ついで大和に行き万

十一月三日。午前十二時門司出帆、藤井公平、奈良秀治、山口八九子三氏見送る。玄海浪高く、四十八分時計をおくれしむ。

山形

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山形より

巴里

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十二月十五日巴里

十二月十五日午後十時十分巴里ガル・ド・リオン著。オテル・アンテルナショナール投宿。銀行、大使館、市街、トロカデロ

霧くらく罩めて晴れざる巴里にて豊なるものを日々に求めき

)、それから、船に乗つてマルセーユまで行き、汽車で巴里を経て伯林に著き、暫時其処に滞在し、大正十一年一月十三

東京

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大正六年十二月二十五日東京青山茂吉宅に於て

東京にのこし来しをさなごの茂太もおほきくなりにつらむか

十月 東京大相撲来る。釈迦嶽九州山長興山秀の山出羽嶽等に会ふ

十一月なかば妻、茂太を伴ひて東京より来る。今夕二人と共に大浦長崎ホテルを訪ふ

東京より弟西洋来る。妻・茂太等と共に大浦なる長崎ホテルにて晩餐を

東京より来にしをさなご夕ごとに吾をむかへてこゑを挙ぐるも

東京に子規忌歌会のある日ぞとおもひて吾は川辺往くも(二十六日

長尾寛済十月八日東京にて没す行年四十、東京巣鴨真性寺に葬る。寛濟は予より長ずること一歳なりき

長尾寛済十月八日東京にて没す行年四十、東京巣鴨真性寺に葬る。寛濟は予より長ずること

東京に帰りきたりて人ごろしの新聞記事こそかなしかりけれ

東京アララギ歌会

あひだに、折に触れて作つた歌、それから、東京に帰つて来て、その年の十月すゑ、欧羅巴留学の途

大久保

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血いづ。腎結核にて入院中の大久保仁男来りて予の病を問ふ

を催す。会するもの、斎藤茂吉、広田寒山の両先生、大久保日吐男(仁男)、前田毅、大塚九二生並に高谷寛(森路

巣鴨

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長尾寛済十月八日東京にて没す行年四十、東京巣鴨真性寺に葬る。寛濟は予より長ずること一歳なりき

浅草

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浅草の三筋町なるおもひでもうたかたの如や過ぎゆく光の如や

浅草の八木節さへや悲しくて都に百日あけくれにけり

上野

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日、生国上州新田郡細谷村、高山彦九郎正之墓」。上野旅館にてアララギ歌会。梅林寺を訪ふ

に出席し、呉秀三先生の大学教授莅職二十五年祝賀会(上野精養軒)に出席しぬ

銀座

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長崎よりかへりてみれば銀座十字に牛は通らずなりにけるかも

われ銀座をもとほり居りてブルドック連れし女にとほりすがへり

日比谷

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朝はやき日比谷の園に腫みたる足をぞ撫る労働びとひとり

亀戸

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亀戸の普門院なる御墓べに水青き溝いまだのこれり

大塚

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の両先生、大久保日吐男(仁男)、前田毅、大塚九二生並に高谷寛(森路※平)、斎藤先生に左の即吟あり

隅田川

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文身だらけの屍隅田川に浮きしとふ記事も身に沁む山の夜ふけに