三筋町界隈 / 斎藤茂吉

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地名一覧

青山

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私らが浅草を去って神田和泉町それから青山に転任するようになってから、私は一度東三筋町の旧宅地を

本郷

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そういう具合にして私は吉原の大火も、本郷の大火も見た。吉原には大きい火事が数回あったので、その

香港

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ないとも全く言語に絶した世界であった。私は香港と上海との間の船上で私の家の全焼した電報を受取り、苦悩

ミュンヘン

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姿を見せなくなったが、私は後年年不惑を過ぎミュンヘンの客舎でふとその少女の面影を偲んだことがある。あるいは目前に私に

鳥越神社

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一月の時には私は鳥越神社にも参拝した。神殿も宝庫も震災後新に建てられたもので、その

富士山

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其処に中林梧竹翁の額が掛かっていて、そこから富士山が見える。私は富士山をそのときはじめて見た。夏の富士で雲なども

額が掛かっていて、そこから富士山が見える。私は富士山をそのときはじめて見た。夏の富士で雲なども一しょであったが、

夏の富士で雲なども一しょであったが、現実に富士山を見たときの少年の眼は一期を画したということになった。

ワシントン

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。そのころ仲見世に勧工場があって、ナポレオン一世、ビスマルク、ワシントン、モルトケ、ナポレオン三世というような写真を売っていた。これらの

上野公園

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このパノラマは上野公園には上野戦争がかいてあったが、これは浅草公園のものほど度々

山形

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暗いうちに過ぎ、それから関山越えをした。その朝山形を出はずれてから持っていた提灯を消したように憶えている。

働いたためもう腰が屈っていた。二人は徒歩で山形あたりはまだ暁の暗いうちに過ぎ、それから関山越えをした。その

仙台

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機動演習で留守であった。そこで一日置いて朝仙台を発し、夜になって東京の上野駅に著いた。そして、世の中にこんな

翌日仙台に著いて一泊し、東北での城下仙台に目のあたり来たことを感じ、旅館では最中という菓子をはじめて食った

翌日仙台に著いて一泊し、東北での城下仙台に目のあたり来たことを感じ

て行って、玉子とじという蕎麦を食べさせた。私は仙台の旅舎で最中という菓子を食べて感動したごとく、世の中にこんな旨い

下谷

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を見たことがなかった。神田を歩いていても下谷を歩いていても、家のかげになって見えない煙突が、少し

長崎

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隠れて便所の中で喫んだ。それくらい好きな煙草を長崎にいたときやめて、佳い煙草も安く喫める欧羅巴にいた

から、それを天からの授かり物のように大切にして長崎に行った時にもやはり一しょに持って歩いていたほどであった

鹿児島

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が参観に来た。江嘉氏であったとおもうが鹿児島出身の老翁で、英吉利軍艦に談判に行った一行の一人であった

浅草

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頃に当るはずである。東京に鉄道馬車がはじめて出来て、浅草観音の境内には砂がき婆さんのいたころである。この砂

である。さてその五十四番地には、養父斎藤紀一先生が浅草医院というのを開いていたので、其処にたどりついたのである

それから父と二人は二人乗の人力車で浅草区東三筋町五十四番地に行ったが、その間の町は上野駅の

本復したなどという例も幾つかあって、父は浅草区内で流行医の一人になっていた。そして一つの専門に

改めたのである。父の開業していた、その浅草医院は、大学の先生の見離した病人が本復したなどという例も

で赤い唐辛子粉などをかけて食べさせた。今でも浅草の観世音近くに屋台店が幾つもあるけれども、汁が甘くて駄目になっ

私は東京に来て、浅草三筋町において春機発動期に入った。当時は映画などは

て間接に乾燥せしめらるること幾許なるを知らざれば、浅草区に取りては感謝すべき水路なりといふべし」とあるところである。

身不相応なる大船の数々出入するに徴して知るべし。且つ浅草区一帯の地の卑湿にして燥き難きも、此の一水路により

あった。幸田露伴翁の「水の東京」に、「浅草文庫の旧跡の下にはまた西に入るの小渠あり、須賀町地先を

その頃の浅草観世音境内には、日清役平壌戦のパノラマがあって、これは実に

は上野公園には上野戦争がかいてあったが、これは浅草公園のものほど度々は見ずにしまった。そのころ仲見世に勧工場があっ

いえぬ顔のようであった。私が少年にして浅草で見た写真よりもまだまだ美しい、もっと切実な、奥ふかいものであった

私らが浅草を去って神田和泉町それから青山に転任するようになってから、私は一度

東京

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今戸心中」あたりが書かれた頃に当るはずである。東京に鉄道馬車がはじめて出来て、浅草観音の境内には砂がき婆さんの

のあたり見るような気持であったが、そのころまでは東京にもレールの上を走る馬車はなかったものである。この馬車は電車

そこで一日置いて朝仙台を発し、夜になって東京の上野駅に著いた。そして、世の中にこんな明るい夜が実際にあるものだろう

八月二十五日になるから、二十八日か二十九日かに東京に著いたことになる。

私が東京に来て、三筋町のほかにはやく覚えたのは本所緑町であった

香に淡い執著を持つようになっていた。しかるに東京に来て見ると、うちの代診も書生どももかつて郡長の行過ぎた

という。そういうことを私は素直に受納れて今後東京弁を心掛けようと努めたのであった。

て来た父がまだ家郷に帰らぬうちから、私は東京語の幾つかを教わった。醤油のことをムラサキという。餅のこと

私が東京に来て、連れて来た父がまだ家郷に帰らぬうちから、私

あった。爾来四十年いくら東京弁になろうとしても東京弁になり得ず、鼻にかかるずうずう弁で私の生は終わることになる

過ぎて分からぬというためであった。爾来四十年いくら東京弁になろうとしても東京弁になり得ず、鼻にかかるずうずう弁で

私は東京に来て蕎麦の種物をはじめて食った。ある日母は私を蕎麦屋に

祖母は私に僅かばかりの小遣銭をくれていうに、東京には焼芋というものがある、腹が減ったらそれを食え。そこで

私は東京に来て、浅草三筋町において春機発動期に入った。

舫っていることがあった。幸田露伴翁の「水の東京」に、「浅草文庫の旧跡の下にはまた西に入るの小渠

は、私が未だ郷里にいたとき、小学校の校長が東京土産に買って来て児童に見せ見せしたものであるから、私は

そのころ東京には火事がしばしばあって、今のように蒸気ポンプの音を聞いて

夜などにはぶるぶる震えながら見ていたものである。東京の火事は毎晩のように目前に異様の世界を現出せしめてくれるから

私は東京に来たては、毎晩のように屋根のうえに上って鎮火の鐘の

見たのはこの一例だけだけれども、そのころの東京の火事にはそんな例がざらにあったものとおもう。

東京は大震災であのような試煉を経たが、私も後年に火難の試煉

、浄土宗浄念寺も立派に建立せられているし、また東京市精華尋常小学校は鉄筋宏壮な建築物として空に聳えつつあった。

私の上京当時はまだ三十幾つかであっただろう。「東京ではお餅のことをオカチンといいます」と私に教えた女中で

蔵前

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鉄道馬車も丁度そのころ出来た。蔵前どおりを鉄道馬車が通るというので、女中に連れられて見に行った

その頃、蔵前に煙突の太く高いのが一本立っていて、私は何処を歩い

入るの小渠あり、須賀町地先を経、一屈折して蔵前通りを過ぎ、二岐となる。其の北に入るものは所謂、新堀に

十一年の一月と十月とに其処をたずねた。蔵前通を行くと、桃太郎団子はさびれてまだ残っていた。そして市区

神田

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はそれまでかく雄大なものを見たことがなかった。神田を歩いていても下谷を歩いていても、家のかげになっ

巣鴨

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年に至るまでずっと喫煙をして随分の分量喫った。巣鴨病院に勤務していた時、呉院長は、患者に煙草を喫ませ

かつて巣鴨病院の患者の具合を見ていると、紙を巻いて煙草のような

日本橋

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して正則英語学校に通っていた従弟が、ある日日本橋を歩いていて握鮓の屋台に入り、三つばかり食ってから、蝦蟇口

日比谷

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そのころ奠都祭というものがあって式場は多分日比谷だったようにおもう。紅い袴を穿いた少女の一群を見て非常に

お茶の水

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渡辺省亭画伯が住んでおられて、令嬢は人力車でお茶の水の女学校に通った。その時は髪を桃割に結って蝦茶の

上野

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このパノラマは上野公園には上野戦争がかいてあったが、これは浅草公園のものほど度々は見ず