幕末維新懐古談 46 石川光明氏と心安くなったはなし / 高村光雲
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下谷
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光明氏はその頃下谷竹町の生駒様の屋敷中に立派な邸宅を構え、弟子の七、
「それはこういう訳です。私の宅はその頃下谷の松山町にありましたので、其所から日本橋の馬喰町の越中屋と
私は下谷北清島町に生まれ、光明氏もやはり下谷で、北清島町からは何程もない稲荷町の宮彫師石川家に生まれ
私は下谷北清島町に生まれ、光明氏もやはり下谷で、北清島町からは何程
松山
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それはこういう訳です。私の宅はその頃下谷の松山町にありましたので、其所から日本橋の馬喰町の越中屋という木
共に二十三歳にして年が明けてから、一方は松山町から馬喰町へ、一方は清島町から蔵前元町へ通う。その道程もほぼ
日本橋
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頃下谷の松山町にありましたので、其所から日本橋の馬喰町の越中屋という木地商(象牙の)の家へ仕事に毎日行く
十一年の年季を勤め上げ、年明けが二十三の時、それから日本橋の馬喰町の木地問屋に仕事に通い出したというのですから、その少年
蔵前
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から、一方は松山町から馬喰町へ、一方は清島町から蔵前元町へ通う。その道程もほぼ同じこと、恐らく修業の有様も、牙彫木彫
稲荷町
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もない稲荷町の宮彫師石川家に生まれた人です(稲荷町は行徳寺の稲荷と柳の稲荷と両つあるが、光明氏は柳
光明氏もやはり下谷で、北清島町からは何程もない稲荷町の宮彫師石川家に生まれた人です(稲荷町は行徳寺の稲荷と柳
上野
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度を高めて行ったのでありました。美術協会が上野に引っ越して来た時は、副会頭の河瀬秀治氏がやめ、九鬼隆一