幕末維新懐古談 79 その後の弟子の事 / 高村光雲
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種々の会にて入賞を得、現在私の助手として本郷区神明町の自宅から通勤しています。
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氏の作は出品されていました。氏は福岡県博多の人で、同地よりの出品でした(米原氏も当時は安来に帰郷し
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薬師寺行雲君は本所茅場町の松薪問屋の息で、家が資産家であるから、いろいろなことを研究
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松原源蔵君(象雲と号す)は熊本県人。今日は熊本市本妙寺清正公の地内に彫刻をやっているとの事です。
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山形の人で菅原良三(この人は中途病死)、名古屋の人で小島伝次郎、三重の人で乾丹蔵、根津のおかめそばの悴で
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田中君は人の知る如く日本美術院の同人である。大阪で修業をされ、中年に私の門下となった。朝雲君等と同じく
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荒川嶺雲君、島根の人で、私の門を去ってから、今日も郷里にて研究を続けて
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、名古屋の人で小島伝次郎、三重の人で乾丹蔵、根津のおかめそばの悴で伊藤義郎などいう弟子が相前後していました。
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佐々木栄多君、この人は横浜の生まれで、土地で家具の彫刻などやっていた。後に私の門下
田中郭雲君は、その時代の弟子で、横浜の実業家上郎清助氏の世話で来た人です。この人は元郷里山口で
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名倉文四郎君は、両国の骨接の息子で、下拵えを私宅でやって美術学校入学、卒業後、目を病み、
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もはや相当仕事が出来ていた人です。明治二十八年に京都で内国勧業博覧会が開かれた時、私は農商務省の方からは
たが、或る日大村西崖氏が見え(氏はその頃京都美術学校に教鞭を取られていたと記憶す)、弟子を一人御
根岸昌雲君、京都の人で、或る人から頼まれ弟子にしたが、私の家に
が、ついこの間まで家にいた吉岡宗雲君は、京都高辻富小路の仏師の悴で、今は郷里に帰っており、次に奈良
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卒業後、古社寺保存会の新納忠之介氏の助手として奈良に行き、古彫刻修繕の方を専らやっている。
仏師の悴で、今は郷里に帰っており、次に奈良多門町の大経師の悴で、鏑木寅三郎君は紫雲と号す。これは昨年卒業
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山形の人で菅原良三(この人は中途病死)、名古屋の人で小島伝次郎
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本多西雲君は深川木場の人。鹿島岩蔵氏の番頭さんの悴で、鹿島氏の援助で
明珍恒男君は深川森下の生まれ、初めは私の弟子で、後美術学校入学、卒業後、古
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て持て余しの形の処故、そういう軽い気持でなら、東京へお出での時にお尋ねになってもよろしいと答えましたが
そうして道具が一切これで好いとなった暁、初めて東京へ出てからの彫刻に取り掛かったものを見ると、これは一目見て
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安田久吉君は日本橋新右衛門町の安田松慶氏という仏師の次男、一時門生となり、
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毛利教武君は浅草小島町の生まれで、私の門下となって美術学校に入り、卒業後研究を
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その次に、九州久留米出生で、上野義民というのは卒業をして後、今日私の工場に通勤して
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ば、決してまた他事でなく、自分が十二歳の時に蔵前の師匠の家に行き、年季奉公を致した時から以来のことなども