本所両国 / 芥川竜之介
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あらう。所謂本場所の相撲も亦国技館の出来ない前には回向院の境内に蓆張りの小屋をかけてゐたものである。僕等はこの
たものである。僕等はこの義士の打ち入り以来、名高い回向院を見る為に国技館の横を曲つて行つた。が、それもここへ
回向院
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小平次とか累とかいふ怪談物だつた。僕は近頃大阪へ行き、久振りに文楽を見物した。けれども今日の文楽は僕の
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た円タクに乗つて柳島へ向ふことにした。この吾妻橋から柳島へ至る電車道は前後に二三度しか通つた覚えはない。まして電車
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殊に僕の住んでゐたのは「お竹倉」に近い小泉町である。「お竹倉」は僕の中学時代にもう両国停車場や陸軍被服廠
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の速記本に依つた。しかし落語は家族達と一しよに相生町の広瀬だの米沢町(日本橋区)の立花家だのへ聞きに行つたもの
へ聞きに行つたものである。殊に度々行つたのは相生町の広瀬だつた。が、どういふ落語を聞いたかは生憎はつきりと
相生町
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た国技館の前へ通りかかつた。国技館は丁度日光の東照宮の模型か何かを見世物にしてゐる所らしかつた。僕の通つ
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椎の木松浦」のあつた昔は暫く問はず、「江戸の横網鶯の鳴く」と北原白秋氏の歌つた本所さへ今ではもう「
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僕は生れてから二十歳頃までずつと本所に住んでゐた者である。明治二三十年代の本所は今日のやうな
本所に住んでゐた者である。明治二三十年代の本所は今日のやうな工業地ではない。江戸二百年の文明に疲れた生活上
「坊主軍鶏」――かう一々数へ立てて見ると、本所でも名高い食物屋は大抵この界隈に集つてゐたらしい。
とも焼け死んでしまつたとか言ふことだつた。僕も本所に住んでゐたとすれば、恐らくは矢張りこの界隈に火事を避けてゐ
「船橋屋」の葛餅を食ふ相談をした。が、本所に疎遠になつた僕には「船橋屋」も容易に見つからなかつた。
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僕等は縁台に腰をおろし、鴨居の上にかけ並べた日本アルプスの写真を見ながら、葛餅を一盆づつ食ふことにした。
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本所両国
でO君とも相談の上、ちよつと電車の方向板じみた本所両国といふ題を用ひることにした。――
は或は意味を成してゐないかも知れない。しかしなぜか両国は本所区のうちにあるものの、本所以外の土地の空気も漂つてゐることは確
へ出かけて行つた。今その印象記を書くのに当り、本所両国と題したのは或は意味を成してゐないかも知れない。しかしなぜか両国は本
に少しでも賑やかな通りを求めるとすれば、それは僅に両国から亀沢町に至る元町通りか、或は二の橋から亀沢町に至る二つ目通り位な
に近い小泉町である。「お竹倉」は僕の中学時代にもう両国停車場や陸軍被服廠に変つてしまつた。しかし僕の小学時代にはまだ「大溝
両国
両国の鉄橋は震災前と変らないといつても差支へない。唯鉄の欄干の一部はみす
てゐない。しかし北清事変の時には大平といふ広小路(両国)の絵草紙屋へ行き、石版刷の戦争の絵を時々一枚づつ買つたものである。
何も芝居小屋らしいものは見えなかつた。もつとも僕は両国の鉄橋に愛惜を持つてゐないやうにこの煉瓦建の芝居小屋にも格別の愛惜を
この表忠碑の後には確か両国劇場といふ芝居小屋の出来る筈になつてゐた。現に僕は震災前にも落成しな
寧ろ二十年前と少しも変らないものを発見した。それは両国駅の引込み線を抑へた、三尺に足りない草土手である。僕は実際この草土手
した。「お竹倉」は勿論その頃には厳しい陸軍被服廠や両国駅に変つてゐた。けれども震災後の今日を思へば、――「卻つて并州を望め
僕等は亀沢町の角で円タクをおり、元町通りを両国へ歩いて行つた。菓子屋の寿徳庵は昔のやうにやはり繁昌してゐるらしい。
てゐたとすれば、「大東京繁昌記」の読者はこの「本所両国」よりも或は数等美しい印象記を読んでゐたかも知れない。けれども「泰ち
は残つてゐない。僕等は無慙にもひろげられた路を向う両国へ引き返しながら、偶然「泰ちやん」の家の前を通りかかつた。「泰ちやん
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慈眼寺といふ日蓮宗の寺は震災よりも何年か前に染井の墓地のあたりに移転してゐる。彼等の墓も寺と一しよに定めし同じ
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父「何、あの鉄道馬車会社の神戸さんのことさ。神戸さんもこの間死んでしまつたな。」
父「何、あの鉄道馬車会社の神戸さんのことさ。神戸さんもこの間死んでしまつたな。」
僕「東京電燈の神戸さんでせう。へええ、神戸さんを知つてゐるんですか?」
僕「東京電燈の神戸さんでせう。へええ、神戸さんを知つてゐるんですか?」
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町である。従つて何処を歩いてみても、日本橋や京橋のやうに大商店の並んだ往来などはなかつた。若しその中
しかし落語は家族達と一しよに相生町の広瀬だの米沢町(日本橋区)の立花家だのへ聞きに行つたものである。殊に度々行つ
いつか何かの本に三代将軍家光は水泳を習ひに日本橋へ出かけたと言ふことを発見し、滑稽に近い今昔の感を催さない
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「兎に角東京中でも被服廠程大勢焼け死んだところはなかつたのでせう。」
だつた。それから浦里時次郎も、――僕はあらゆる東京人のやうに芝居には悪縁の深いものである。従つて矢張り小学時代
のやうにペンを執つてゐたとすれば、「大東京繁昌記」の読者はこの「本所両国」よりも或は数等美しい印象記を
僕「東京電燈の神戸さんでせう。へええ、神戸さんを知つてゐるんです
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「これですか? これは蔵前橋です。」
川蒸汽は蔵前橋の下をくぐり、廐橋へ真直に進んで行つた。そこへ向うから
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云ふのも恐らくはこの往来の裏あたりであらう。僕は浅草千束町にまだ私娼の多かつた頃の夜の景色を覚えてゐる。
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父「上野と新橋との間さへ鉄道馬車があつただけなんだから。――鉄道馬車と云ふ
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父「上野と新橋との間さへ鉄道馬車があつただけなんだから。――鉄道馬車
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ある。従つて何処を歩いてみても、日本橋や京橋のやうに大商店の並んだ往来などはなかつた。若しその中に少し
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私事に及び過ぎるであらう。しかし僕はO君と一しよに両国橋を渡りながら、大川の向うに立ち並んだ無数のバラツクを眺めた時には
来ない。僕は昔の両国橋に――狭い木造の両国橋にいまだに愛惜を感じてゐる。それは僕の記憶によれば、今日
には懐古の情も起つて来ない。僕は昔の両国橋に――狭い木造の両国橋にいまだに愛惜を感じてゐる。それは
両国橋の袂にある表忠碑も昔に変らなかつた。表忠碑を書いた
。のみならず井生村楼や二州楼といふ料理屋も両国橋の両側に並んでゐた。その外に鮨屋の与平、鰻屋の須崎屋
建の芝居小屋にも格別の愛惜を持つてゐない。両国橋の木造だつた頃には駒止め橋もこの辺に残つてゐた
僕等は両国橋の袂を左へ切れ、大川に沿つて歩いて行つた。「百本
「しかし両国橋を渡つた人は大抵助かつてゐたのでせう?」
「両国橋を渡つた人はね。……それでも元町通りには高圧線の落ち
両国橋をくぐつて来た川蒸汽はやつと浮き桟橋へ横着けになつた。
或年の正月、父は川向うへ年始に行き、帰りに両国橋を渡つて来ると、少しも見知らない若侍が一人偶然父と道づれになつ
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花柳病の医院の前をやつと又船橋屋へ辿り着いた。船橋屋も家は新たになつたものの、大体は昔に変つてゐ
をした。それから花柳病の医院の前をやつと又船橋屋へ辿り着いた。船橋屋も家は新たになつたものの、大体は
した。が、本所に疎遠になつた僕には「船橋屋」も容易に見つからなかつた。僕はやむを得ず荒物屋の前
等は、「天神様」の外へ出た後、「船橋屋」の葛餅を食ふ相談をした。が、本所に疎遠になつた
為に南画らしい趣を具へてゐた。が、今は船橋屋の前も広い新開の往来の向うに二階建の商店が何軒
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僕等はいつか埃の色をした国技館の前へ通りかかつた。国技館は丁度日光にの東照宮の模型か何かを
国技館の隣に回向院のあることは大抵誰でも知つてゐるであらう。所謂本場所の相撲も亦また国技館の出来ない前には
名高い回向院を見る為に国技館の横を曲つて行つた。が、それもここへ来る前にひそかに僕の予期してゐたやうにすつかり昔に変つてゐた。
僕等はこの墓を後ろにし、今度は又墓地の奥に、――国技館の後ろにある京伝の墓を尋ねて行つた。
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橋本」の前で円タクをおり、水のどす黒い掘割り伝ひに亀井戸の天神様へ行つて見ることにした。
萩寺の先にある電柱(?)は「亀井戸天神近道」といふペンキ塗りの道標を示してゐた。
「亀井戸も科学の世界になつたのでせう。」
水田や榛の木のあつた亀井戸はかう云ふ梅の名所だつた為に南画らしい趣を具へてゐた。
妻「わたしは一度子供たちに亀井戸の太鼓橋を見せてやりたい。」