大菩薩峠 39 京の夢おう坂の夢の巻 / 中里介山
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少しずつよかったから、そろそろ歩きながら貰って行ったが、箱根へかかって、きんたまが腫れて膿がしたたか出たが、がまんをして、
が来るだろうと思ったから、早々別れてそこを立って箱根へかかった。
宿まで寝て行った。そのはずだ、稽古道具へ、箱根を越し、水戸という小札を書いて差して置いたものだから、うまくいっ
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本所へ屋敷替えを親父がして、普請の出来るまで、駿河台の太田姫稲荷の向う、若林の屋敷を当分借りていたが、その屋敷
十一の年、駿河台に鵜殿甚左衛門という剣術の先生がある、御簾中様の御用人を勤め、忠也
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で、五日目には夜両国橋へ来て、翌日回向院の墓場へ隠れていて、少しずつ食物買って食っていたが、しまい
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と少しあとへ引っこんだはずみに、逃げ出して、ようよう浅草の雷門で三人一しょになり、吉原へ行ったが源兵衛が気遣いだから、引戻して
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且つまた、職務の暇々には、自分も興味を以て畿内の名所旧蹟を歴遊してもよいということだから、こうなってみると
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胸に秘めたところのものは北進政策でありました。蝦夷の地、すなわち北海道の一角に、しばらく船をつけて、あすこの一角に開墾
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して関所も越えたが、油断はしなかったが、浜松へとまった時は、二人が道々よく世話してくれたから、少し心が
、ままそんなのがあるから、お前もこのひしゃくを持って浜松の御城下在とも、一文ズツ貰って来いと教えたから、ようよう思い直して
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脇から十手を抜いて駈け出したら、その野郎は一散に浅間の方へ逃げおったから、とうとう追いかけて近寄ったら、二尺九寸の一
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古い、飛鳥時代から白鳳という代物なのだ、これは四条の道具店の隅っこで見つけました」
各派の家元を残らずメムバーに差加えます、それから、四条、丸山、南画、北画、浮世絵、町絵師の方のめぼしいところを引っこぬいて、
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盆地、京洛の天地はいずれのところにあるや、山科、宇治も見渡す限り茫々たる薄野原でありました。
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は少し恥かしいくらいなもんだが、これで江戸の下谷の長者町へ行ってごろうじろ、一部には、なかなか大した人望があるんでね」
一つ心強いことはね、お雪様、あなたも御承知のあの長者町の道庵先生が御一緒に参りますから、安心の上にも安心でござい
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ヲ去リ、英国さうざんぷとん港ニ到リ、倫敦ヨリ来レル一味ノ人ヲ併セテ、八月五日『五月花』号
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右手にながめる比良、比叡の山つづき、左にわたる大和、河内への山つづき、この間は一帯の盆地、京洛の天地はいずれのところに
野原の中へ、見えつ、隠れつ、行く手は大和、河内の山、そこへ没入してしまうげに見える。
もはや、さいぜんの乗物がすすき野原を打過ぎて、大和、河内の山の中へ没入してしまった証拠です。
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或る日、宿の外れ茶屋のわきに寝ていたら、九州の秋月という大名の長持が二棹来たが、その茶屋へ休んでいる
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やがて程遠からぬ追分まで来ると、例の「柳緑花紅」の道しるべの前で、前後のあん
が京洛に立ちこめている。昼間に見たところでは、追分の辻から左右ともに、人家が櫛の歯のように並んでいたと
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のものは北進政策でありました。蝦夷の地、すなわち北海道の一角に、しばらく船をつけて、あすこの一角に開墾の最初の鍬を
開墾の最初の鍬を打込むということでありました。北海道は開けない、当時の人の心では日本内地だか、外国だかわから
なんにしても北海道は、日本の幕府の支配内のところに相違ない。そこへ鍬を卸すこと
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です。右は比良、比叡の余脈、左は金剛、葛城まで呼びかける逢坂山の夜の峠路を、この人は夢の国からでも
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が、ドコの何というあねさんなんですね、まさか本所のあねさんでもござるまいがなあ」
深川の屋敷も、度々の津浪ゆえ、本所へ屋敷替えを親父がして、普請の出来るまで、駿河台の太田姫稲荷の
帯刀という御使番にとがめられて一散に逃げたが、本所の津軽の前まで追いかけおった、馬が足が達者ゆえ、とうとう逃げ了せた
江戸へ帰った。それからまたまた他流へ歩きまわったが、本所の割下水に近藤弥之助という剣術の師匠がいたが、それが内弟子に小林
に小林隼太という奴があったが、大のあばれ者で本所ではみんながこわがった。或る時、小林が知恵を借って、津軽の
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伊都丸少年とが、一は名古屋城下に戻り、一は阿蘇山麓に向う一条は余派の如くして、しかも従来の伏線の如く、未解決
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逢坂山の大谷風呂を根拠地とした不破の関守氏は、その翌日はまた飄然と
今日は関守氏が、逢坂山の裏手から細道伝いに、大谷風呂の裏口へ下りて来て見ますと、
「それ、これを見な、ここが逢坂山の大谷で、ここが大津だ、大津から粟津、瀬田の唐橋を渡って草津
「そう致しますと、つまりこの逢坂山から出立して、湖水の南の岸をめぐって、胆吹山まで歩いてみろ
とお角さんとが談合の上、幸い、物静かなこの逢坂山の大谷風呂の奥の間が、親子会見の席にふさわしかろうと、そういう取計らい
、それよりは早速、君に聞きたいことは、君が逢坂山からここまで突破して来たその途中の雲行きをひとつ、見たまま詳しく
は比良、比叡の余脈、左は金剛、葛城まで呼びかける逢坂山の夜の峠路を、この人は夢の国からでも出て来た
絶えて久しい、この人の姿を逢坂山の上で見る。いつのまに健康を取戻したか、姿勢はしゃんとして
以て、こう言いました。思えば自分も一人旅、逢坂山の関の清水を立ち出でて、足はこうして京洛の地に向いている
で、近江の国の大津から竹生島へ詣でて立帰り、逢坂山の大谷風呂で、お銀様及び不破の関守氏と会見することになって
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お取上げは一切御無用に願いたい、これと申すも、伊東あたりが背後にいて糸を引いてのことと思うが、こういうことが
「して、こんなに遅く、伊東を案内してドコへ行ったのだ」
でも、相手がウンともスンとも言わないので、伊東もあぐねて、もう相手にせず、そのまま橋詰を歩き出して、南側の
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関東もんだろう、へたをすると江戸っ児だ、頼まれても江戸からは米搗きは来ないはずだ」
へ出るよりほかはない、長崎とか、大阪とか、江戸とかへ行かなければ、大家はいない」
左様、やっぱり君ぐらいの年頃さ――当時、これでも江戸に遊学していたんだ」
「江戸で、その時分の英学者は、どなたでしたかね」
江戸にいれば、押しも押されもしない医術本業の公民だが、現在の
て、みんな蘭学の方のペラペラである。皇漢主義の、江戸でも知る人は知る、知らぬ人は知らないつむじ曲りの町医者道庵なる
埋合わせるには究竟な道庵先生である。この先生こそは江戸で名代の先生であって、酒を飲んでふざけてこそいるが、字学
口から言うのは少し恥かしいくらいなもんだが、これで江戸の下谷の長者町へ行ってごろうじろ、一部には、なかなか大した人望があるんで
「遠方より来るは、こっちの言い分だ、君が遥々江戸から来てくれたんだから、これから僕が大いに飲ませるよ」
てはしゃぎ出したのは、つまり、二人は書生時代に、江戸に於ける学問友達であったのです。江戸在学の間、二人は盛んに
時代に、江戸に於ける学問友達であったのです。江戸在学の間、二人は盛んに交際したものであるが、一方は江戸に
、二人は盛んに交際したものであるが、一方は江戸に留まって十八文の名、天下(?)に遍く、一方は郷里なる山城
いうものにはトンと暗い、京都はどうなっている、江戸はどうだ、それから、君の故郷の薩摩や、長州の近頃の雲行きは
に剣を学んでいる、芹沢と同様、無念流だ、江戸へ出て深川の北辰一刀流、伊東精一に就いて学んでいるうちに、師匠
、諸末流の批評、検討、偶語、漫言雑出、やがて江戸の講武所の道場のことに帰一合流したような形になって、自然、
何と言っても、江戸が武将の幕府である限り、芸術の秀粋も江戸に鍾まることは当然
、江戸が武将の幕府である限り、芸術の秀粋も江戸に鍾まることは当然である。その江戸芸術の粋たるものは当時、講武所
の秀粋も江戸に鍾まることは当然である。その江戸芸術の粋たるものは当時、講武所にあるということも、避け難い結論と
徳川氏に仕えて天正三年岡崎に移る――十八年江戸に移る、家禄知行蔵米合わせて四十一石、か」
た侍はみんな中間より取立て、信州五年詰の後、江戸にて残らず御家人の株を買ってやられたが、利平は隠居して株
カ年詰めきりをしたが、三カ年目に御機嫌伺いに江戸へ出たが、その時おれが馬にばかりかかっていて、銭金を使う
、それは道中の胡麻の蠅というものだ、わたしは江戸からのお連れと思ったが、なんしろ気の毒なことだ、ドコを志して
、国はドコだ言え言えというから、おれが国は江戸だ、それに元から乞食ではないと言ったら、馬は好きかという
へ手をついて礼を言ったら、その客が手前は江戸のようだが、ほんとの乞食ではあるまい、どこか侍の子だろうとて
たら、それはよせ、上方はいかぬところだ、それより江戸へ帰るがいい、おれがついて行ってやるから、まず髪月代をしろとて
やといて載せて、毎日毎日よく世話をしてくれた。江戸へ行ったら送ってやろうとて、府中まで連れて来たが、その晩、親方
て来てもらったを徳にして、あしたは一人で江戸へ行くがいいとて、銭五十文ばかりくれおったが、仕方がないから、
、あすよりは海へ行って船を漕げと言うから、江戸にて海へは度々行った故、はいはいと言っていたら、こぞうの名
食えまいから持って行くなと喜平が言いおる、おれは江戸にて毎日海で船に乗ったから怖くないと言ったら、いやいや江戸の海と
毎日海で船に乗ったから怖くないと言ったら、いやいや江戸の海とは違うと言うから、それでもきかずに弁当を持って行っ
五日ばかりいると子のようにしおった。おれに江戸のことを聞いて、おらがところの子になれと言いおる故、そこで
なる、こんなことをして一生いてもつまらねえから、江戸へ帰って、祖父の了簡次第になるがよかろうと思い、娘へ機嫌をとり
て夜八ツ時分起きて、喜平がうちを逃げ出して、江戸へその日の晩の八ツ頃に来たが、あいにく空は暗し、鈴ヶ森
来た検校出ということだが、それも何代か江戸に居ついて、江戸人になりきっている。江戸人に共通したところの
わからぬ。自分もやっぱり、この厳しいような、甘いような江戸の家風に育った一人だ。勝のおやじのためには、たしかにそれが
年、兄きと信州へ行ったが、十一月末には江戸へ帰った。源兵衛を師匠にして、喧嘩のけいこを毎日毎日したが
それからけん見に諸所へ行った。そのうち、江戸でおふくろが死んだと知らせて来たから、御用を仕舞って、江戸へ
死んだと知らせて来たから、御用を仕舞って、江戸へ来る道で、信州の追分で、夕方、五分月代の野郎が、
十一月初めに江戸へ帰った。それからまたまた他流へ歩きまわったが、本所の割下水に近藤弥之助
それから江戸へ帰ったが、近藤弥之助の内弟子小林隼太が男谷の方へ替え流して力ん
つぶしていた。今晩はぜひとも泊れと言ったが、江戸より追手が来るだろうと思ったから、早々別れてそこを立って箱根へかかっ
というから、そこでおれが言うには、御覧の通り江戸を歩行通りのなりゆえ、手形は心づかず、稽古先より計らず思いついて、
江戸徳川氏の末期の、空気のどろどろになって、どうにも動きの取れない
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戦死、市郎左衛門に至り徳川氏に仕えて天正三年岡崎に移る――十八年江戸に移る、家禄知行蔵米合わせて四十一石、か」
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様が殺されました、伊東甲子太郎先生が斬られて、七条油小路の四辻に、横たわっておいでになります、急ぎこの由を高台寺の
使者というのは七条油小路の町役人であって、その申告は、目のあたり見て来ているのだから
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これが大菩薩峠第十八巻「農奴の巻」の終りの一章でありました。
大菩薩峠も、鐚の口頭に上ったことを光栄としなければなるまいが、御
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御殿というお城の上の高い櫓から、千姫様が東海道を通る男という男をごらんになって、お気が向いた男はみんな
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この男は四国の金比羅へ参るとて山田にて別れ、おれは伊勢に十日ばかりぶらぶらしてい
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もおのずからその時代の風景ではない。右手にながめる比良、比叡の山つづき、左にわたる大和、河内への山つづき、この間は一帯の
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ここが大津だ、大津から粟津、瀬田の唐橋を渡って草津、守山、野洲、近江八幡から安土、能登川、彦根、磨針峠を越えて、番場
をしている、指のことは問題外としても、草津の宿で、轟の源松という腕利きの岡っ引に少々胆を冷やされて
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浜の光景が、畳と襖一面にぶち抜いて、さざなみや志賀の浦曲の水がお銀様の脇息の下まで、ひたひたと打寄せて来
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あるなら、時節柄、大砲の一つもこしらえて、品川のお台場へ献納しろ」
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「あの追分はうるさいんだ、薩摩の野郎かなんかが出て来て、喧嘩を売りかけたりなんぞしてうるさい
ている、江戸はどうだ、それから、君の故郷の薩摩や、長州の近頃の雲行きはどうなっている、知っているなら話してくれ
近藤に対する同情がほの見える。いわゆる勤王方の中心勢力たる薩摩のうちに、かえって近藤を諒解する男がいるということを、竜之助も不思議
たとえば長州に於ては、桂小五郎もこの芸術家であった。薩摩に於て、西郷は芸術家たるべくして、負傷と体質から、その主流に
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から、ここで貰い、あそこで貰い、とうとう空に駿河の府中まで帰った……」
府中の宿のまん中ころに、観音かなにかの堂があったが、毎晩、
毎晩、夜はその堂の縁の下へ寝た。或る日、府中の城の脇の、御紋附を門の扉につけた寺があるが、
だんだん気分がよくなったから、そろそろとそこを出かけて、府中まで行ったが、とかく銭がなくって困るから、七月ちょうど盆だ
をしてくれた。江戸へ行ったら送ってやろうとて、府中まで連れて来たが、その晩、親方がばくちの喧嘩で大騒ぎが出来て
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「島原へいらっしゃいよ」
「あれが島原か」
「島原――結構」
と田中新兵衛が言下に応じました。竜之助が島原と言ったのは出まかせである。最初からそこへ目的を置いたわけでは
知己ある人がいるわけではないが、今の先、島原へと誘引した白い手首があった、そのことが眼先にちらついてい
、草鞋を脱ごうという心当りは一つもない。ただ、島原だけは万人の家である。あすこには、いかなる人をも許して拒まない
だ、それ吉田竜太郎――本名は机竜之助という、先年島原から行方不明になったあの男が、今、ひょっこりと、その橋詰の柳の木
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「越前の福井で……ホンのちっとばかり、いろはだけなんです」
「越前の福井――君は福井の人なんですか」
胆吹王国に於て発見し得るという希望の下に、越前の福井からやって来たのだなと知ることができました。
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、今日の旅路というものが、極めて微行の形式で、関西の名所めぐりということになっているが、その実は、やっぱりあの胆吹山
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です。その次には、下総香取の海とすれば、香取のどの地位に船を碇泊せしめたかということです。下総の香取に
に船を碇泊せしめたかということです。下総の香取に大船津というところがあるにはありますが、仮りにあの辺に船を
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たのです。右は比良、比叡の余脈、左は金剛、葛城まで呼びかける逢坂山の夜の峠路を、この人は夢の国から
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寝所に置いて、襦袢を着て、そのうちを逃げ出し、安倍川の向うの地蔵堂にその晩は寝たが、翌日夜の明けないうちに起き
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わび言をしてそこを出て飯を食いなどして、愛宕山でまた一日寝ていて、その晩は坂を下るふりをして、山の
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をいただいて、もうどなたにも面を合わせずに、ひとり大阪の親戚へ帰ってしまうつもりでございます」
「おや、お雪さんには大阪に御親戚がありましたの」
「さあ、皆さん、お雪さんが大阪へ帰るそうですから、みんなして追分まで送るんですよ」
「大阪にお帰りなら、一筋に間違いなく大阪へお帰りなさいよ、途中で魔が
「大阪にお帰りなら、一筋に間違いなく大阪へお帰りなさいよ、途中で魔がさすといけませんからね、間違って
すれば、都会へ出るよりほかはない、長崎とか、大阪とか、江戸とかへ行かなければ、大家はいない」
、それから黒田の永井青崖というのがなかなか出来た、大阪には緒方洪庵という先生がいたが、それらはみんな蘭学が主で
食って大津界隈にぶらついていないで、京へなり、大阪へなり出立したらいいだろうというに、なかなかそうもいかない事情があるの
輩は眼中に置かずとしても、河太郎の一派が大阪で手ぐすね引いて待構えている。これにはさすが江戸ッ児のキチャキチャ(チャキチャキの
それからまた大阪には、緒方洪庵塾などの無頼書生、翻訳書生が、これもまた道庵
も宿屋のことですから、行届き兼ねます、あなた様は、大阪へ帰りたい帰りたいとおっしゃいますが、いっそ、暫くこの先生のお宅に御厄介
厄介になって、それから充分おたっしゃになってから、大阪の方へお帰りになるようになさってはどうですか」
、そこで充分に保養なさい、健康が全く回復してから大阪へ送って上げますよ」
お目にかかりたくない心持が致しまして、このままずっと大阪へ行ってしまいたいと存じます、いいえ、こちらの先生の田辺とやらへ御
の先生の田辺とやらへ御厄介になって、それから大阪へ参るなら参るように致したいと思います」
道をとれば山城の国、山科――左は伏見から大阪へ。
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に於けるが如く、相添うて来たところの、いわゆる鎌倉の右大将米友公を失っている。失ったのは亡くなったのではない。
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を話すと、こうなんだよ――大谷風呂に、甲州の有名な財閥で、藤原の伊太夫というのがいる」
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た軽い嵐がその梢に送られる。松の間から見る琵琶湖の景色のなごやかさ、湖上湖辺に騒ぎがあるなどとは夢にも思われ
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に立たしてやったが、まもなくまた来たから、谷中の感応寺の堂番に入れて置いたが、ほどなく死におったよ、
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、高く霊界に標致せんとするものと、漢は漢、胡は胡、上求は上求、塵労は塵労、これを東隅に得て
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はないのだそうで、男は京都の者、女は伊勢の亀山――いいなずけ同士の親類仲とかいうことでございました」
伊勢の相生の坂にて、同じ乞食に心やすくなり、そいつが言うには、竜太夫
の交りは別なものだ。それから二人言い合って、またまた伊勢へ行った。
この男は四国の金比羅へ参るとて山田にて別れ、おれは伊勢に十日ばかりぶらぶらしていたり、だんだん四日市の方へ帰って来たが
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、瀬田の唐橋を渡って草津、守山、野洲、近江八幡から安土、能登川、彦根、磨針峠を越えて、番場、醒ヶ井、柏原――それから
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に随つて学び、後、辺昭僧正に就いて受く、叡山に五大院を構へ屏居して出でず、著述を事とす、元慶八
系族なり、長ずるに及び、聡敏人に邁れ、早く叡山に上り、慈覚大師に就いて顕密の二教を学びてその秘奥を極む、又
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。近藤は、兵は東国に限るという見地から、わざわざ関東まで出向いて募集に来たのだ。その時に伊東が一味同志を率いて
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喜んで一味と共に新撰組を去り、別に東山の高台寺へ屯所を設けたのだ。そこで彼等は新撰組隊士でなく、御陵
いう新しい肩書がついた、そうして、屯所が右の高台寺月心院に置かれたところから、人呼んでこれを高台寺組という、
、右の意見を発表すると共に、袖をつらねて高台寺の伊東のところへ走ったが、それをそのまま受入れたのでは、高台
「あれ見給え、あれが高台寺の月心院、伊東が牛耳をとって、御陵衛士隊の本部として固め
高台寺はそのまま過ぎて、なお同じ歩調で進んで行くと、ようやく一つの橋
ました。どこまで続くと思った町並の単調が、ようやく高台寺の提灯で破られると、今度は、橋にかかって来ました。橋は
「高台寺の屯所へ帰るのか」
間者に入ってるんだよ、僕が――伊東をはじめ高台寺の現状を、味方と見せて偵察し、巧みに近藤方に通知するのが
、斎藤はあらかじめ近藤の旨を受けて、間者として高台寺へ入り込ませてあるのだという。その内状を山崎が聞いてなるほどと
「高台寺の裏山へ大砲を仕かけて、彼等の陣営を木端微塵に砕き、逃げ出して
だ。案ずるほどのことはない、極めて無事にこれから、高台寺月心院の屯所へ帰って快く、ぐっすりと寝込むばかりだ――
とすれば、僕のところへ来給え、ついこの上の高台寺月心院に、御陵衛士隊屯所というのがそれだ、貴殿が来てくれれ
が斬られている、伊東甲子太郎が殺されていると、高台寺へ向って知らせてやれ」
四辻に、横たわっておいでになります、急ぎこの由を高台寺の屯所へお知らせ申せとのこと故に、町役一同、馳せつけて参りました」
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根岸の三ツ眼屋敷で、今日も、その著述の筆に耽っている。彼
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ムラダチが生えているということをまで心得ている、かの知善院寄留の青嵐居士のよそながらの斡旋が、大きに与って力あるのでないか
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むしろ緩和に当ることを得意とする人であることは、姉川の時の水合戦の裁きぶりでもよくわかっている。
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駕籠がお雪ちゃんで、前後のあんぽつに、健斎、道庵の両国手が乗込んでいることと想像ができる。
までお角さんは、追分の札の辻に立って見送っている。両国手は、時々振返って、一瓢をささげ上げて、さらばの継足し、その度毎に、
来る。ここは朝のうち、伏見街道を行くお雪ちゃんと、両国手とをお角さんが送って来て、さらばさらばをしたところ。
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同じその宵のこと、大津の浜から八十石の丸船をよそおいして、こっそりと湖中へ向っ
という頃合いの女夫仲でござんしてな、ところはやはり大津の浜辺、御存じの吾嬬川の石場の浜へ打上げられたのが、しっかり
が、今ではどうなっておりますか。ところだけは大津屋で聞いておきました、大和の岡寺の薬屋源太郎というのが、
違っていることでもわかる。たとえば、伊太夫の船が大津を出でたとすれば、この早手は、その反対側の長浜方面から
というのは、下総常陸あたりをあげつらうべきものでない、大津の宮に近い湖岸の一角にかとりの浜、或いはかとりの海と
地に向って走り行くものか。沿岸に向って、遠く大津朝廷の故事を偲び奉り、或いは藤樹先生の遺蹟に巡礼するというような
が説いて、口説き落して、自分が介添となって、いま大津の宿に逗留の日を送っているという父の伊太夫を、これ
がかりをしているのだから、かくも急ピッチで早手が大津方面へ乗りつけてみたところで、その当座は当然行違いにきまっている。
ない時に、お銀様と不破の関守氏の一行は大津へ着きました。
胆吹王国のやんちゃ娘の行動視察を眼目とする伊太夫が大津にいない時に、お銀様と不破の関守氏の一行は大津へ
とにかくに、この早手は翌日の夕方、無事に大津の石浜に着くと同時に、早くも宵闇にまぎれて、町のいずれか
大津の町といえども、伊太夫でさえ騒々しさを避けるくらいの時代でし
せしめて置いた不破の関守氏は、その夜は引返し大津の本陣の、つまり伊太夫の宿についたようでしたが、翌早朝
っけ、走餅はないかと聞いてみると、本家は大津浜の方へ引越したということで、とうとう名物の旨いのを食いそこね
な、ここが逢坂山の大谷で、ここが大津だ、大津から粟津、瀬田の唐橋を渡って草津、守山、野洲、近江八幡から安土、
これを見な、ここが逢坂山の大谷で、ここが大津だ、大津から粟津、瀬田の唐橋を渡って草津、守山、野洲、近江八幡
たらいいだろう。こうして幾日も宿屋飯を食って大津界隈にぶらついていないで、京へなり、大阪へなり出立したらいい
女興行師お角は、旅中の旅で、近江の国の大津から竹生島へ詣でて立帰り、逢坂山の大谷風呂で、お銀様及び
の留守師団長ということに納まる。がんりきの百は大津と胆吹の間の飛脚をつとめる。
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事情も、色恋ばかりではないのだそうで、男は京都の者、女は伊勢の亀山――いいなずけ同士の親類仲とかいうこと
といったようなあんばいで、暇つぶしに彼は、山科から京都くんだりを遊んで来たもののようだが、必ずしも、そうばかりでは
へ持ち込んで米を精げてもらうという口実の下に、京都へ米を密輸入して、切手口銭のかすりを取るというやからが出
のところ無慮五十万俵の数になっていて、米を京都に入れるにはいちいち上の番所の検閲を受けて、切手口銭を納めると
近江の一手輸入になっている。一年中この近江から京都へ供給する米が、豊年に於ては七十五万俵、凶年には四十万俵、
は京都へ向けて米の密輸出を企てるものがある。いったい京都の米は近江の一手輸入になっている。一年中この近江から京都
の水車へ持ち込んで米を精げることの口実で、実は京都へ向けて米の密輸出を企てるものがある。いったい京都の米は近江の
急ぐなら急ぐでいいけれど、こうして途中へひっかかって、京都がもう眼の先に控えているのに、進みもならず、退きも
しかし、そのくらいならば、一日も早く京都へ立ったらいいだろう。こうして幾日も宿屋飯を食って大津界隈
功徳がある。その蟻が今の世で人間となって京都へ生れ、木屋町で豆腐屋を開いて、相当に繁昌している、よっ
はそれとして、安然法師は、言われた通りに京都の木屋町まで来て見ると、言われた通りの豆腐屋がある。それ
のところへおいでなさい、綴喜郡の田辺というところだ、京都から見るとずっと田舎だが、空気もいいですよ、小高い山の上に
「京都でゆっくり再会という段取りに致そう、たよりをくれ給えよ、綴喜郡の田辺の
な真似はせぬから安心し給え、おいも、久しぶりで京都へ入るのだ、いい道連れを欲しいと思っていたところへ君が来
来たんだが、これからまた京都へ行くのだ、京都はどこという当てもないが、せっかく君と同行のことだ、君の
「美濃の関ヶ原から来たんだが、これからまた京都へ行くのだ、京都はどこという当てもないが、せっかく君と同行
たが、天下の大勢というものにはトンと暗い、京都はどうなっている、江戸はどうだ、それから、君の故郷の薩摩
近藤だ、京都の近藤というよりも、近藤あっての京都の町だ、近藤の威力は飛ぶ鳥を落し、泣く児もだまる」
、いや新撰組の近藤というよりも京都の近藤だ、京都の近藤というよりも、近藤あっての京都の町だ、近藤の威力
近藤の新撰組だ、いや新撰組の近藤というよりも京都の近藤だ、京都の近藤というよりも、近藤あっての京都の町
三之助、篠原泰之進ら八人が打連れて、近藤ともろともに京都へ上って行った、それがそもそも縁のはじまり。その伊東以下がここに
、髀肉の歎に堪えられずにいるところへ、近藤が京都から隊士を募集に来た。近藤は、兵は東国に限るという見地
京都の夜はそれがあたりまえである。どんな勇者でも、京都の町を、深夜と言わず、宵のうちでさえも、独り歩きなどを
は早くも京洛の町並へ入っているのだ。当時の京都の夜はそれがあたりまえである。どんな勇者でも、京都の町を、
と、今度は、橋にかかって来ました。橋は京都の名物の一つ、ただし、何という橋かその名はわからない。
槍とを代表して、この二人だけが将軍について京都へ来ている。以て天下の芸術の代表の大家たることを知るべしと
事実、新撰組の京都に於ける勢力は、厳たる一諸侯の勢力であって、彼等に
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でない。だがしかしここに現われたお宮さんは、富山家の令夫人としては少々凄味が勝ち過ぎているし、ここを訪う
同 富山弥兵衛
たるもの、鈴木三樹三郎、篠原泰之進、藤堂平助、毛内有之助、富山弥兵衛、加納道之助の面々が詰めきって、宵のうちから芸術談に花
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「この紙きれは、これは確かに奈良朝ものですよ、古手屋の屏風の破れにほの見えたのを、その
「それから、この金仏様――これが奈良朝よりもう少し古い、飛鳥時代から白鳳という代物なのだ、これは
刺身を買い占めた者は江戸開府以来いまだあるまい。紀文、奈良茂の馬鹿共といえどもよくせざるところ、鐚の計画の奇抜なる
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「越前の福井で……ホンのちっとばかり、いろはだけなんです」
「越前の福井――君は福井の人なんですか」
「越前の福井――君は福井の人なんですか」
「エエ、福井が僕の郷里なんです」
「福井に英学の先生がいましたか」
「福井でも、一部の青年の中には、語学熱が相当盛んでございます
「そうだろう、福井はあれでなかなか進取の気象に富んだところだ」
へ行って学ぶべしと言われたから、僕は、わざわざ福井を飛び出して来たんです、どうか僕の熱心に免じて、御教授
に於て発見し得るという希望の下に、越前の福井からやって来たのだなと知ることができました。
その中の二人は甲組から、一人は昨日の福井青年であります。この三人を乗馬もろともに庭先へ呼びよせて、次の
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「それから、熊本から横井小楠などいう先生も見えまして……」
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先生を求めようとすれば、都会へ出るよりほかはない、長崎とか、大阪とか、江戸とかへ行かなければ、大家はいない
英学などやろうという者はほとんどなかったが、ただ一人、長崎の幕府の通訳で、森山という人が英語が出来るという評判であっ
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土佐の高知の
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船の籍を直轄に置くことがいけなければ、せめて、仙台その他の有力な藩の持船としてでも置けば、そこに
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言うのは少し恥かしいくらいなもんだが、これで江戸の下谷の長者町へ行ってごろうじろ、一部には、なかなか大した人望があるんでね
切裂いて、室へ抛りこんで帰った。それから同流の下谷あたり、浅草本所ともに他流試合をするものは、みんなおれがさしずを受け
を約束して、兼吉のところへ行くつもりにして、下谷連へ言ってやったら、四五十ばかり集まった故、兼吉へ手紙を持たせ
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もと鈴木大蔵といって常陸の本堂の家来なのだ、水戸の金子健四郎に剣を学んでいる、芹沢と同様、無念流だ、江戸
『海道筋三島宿にては、水戸の播磨守が家来は泊めぬか、おれは御用の儀が有り、遠州
行った。そのはずだ、稽古道具へ、箱根を越し、水戸という小札を書いて差して置いたものだから、うまくいったのだ
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でいる、芹沢と同様、無念流だ、江戸へ出て深川の北辰一刀流、伊東精一に就いて学んでいるうちに、師匠に見込まれ
「その時は深川の油堀というところにいたが、庭に汐入りの池があって
ひとり、孫娘がひとり、両親は死んだあとで、残らず深川へ引取り、祖父が世話をしたが、おれはなんにも知らずに遊ん
深川の屋敷も、度々の津浪ゆえ、本所へ屋敷替えを親父がして、
の年の夏、馬の稽古をはじめたが、先生は深川菊川町両番を勤める一色幾次郎という師匠だが、馬場は伊予殿橋の
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もとの席に戻りますと、右の小舟は無雑作に曳舟として扱われて、無意味従順にこの親船のあとに引かれて行く
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のだ、これで近藤は御目見得格以上の役人となり、大久保なにがしという名をも下され、土方は内藤隼之助と改名まで仰せつけられたと
せに、以来は固く遠乗りはよせと言いおった故、大久保勤次郎という先生へ行って、責め馬の弟子入りしたが、この師匠
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「鶯谷庵独言
多くあるからよくよく考えてよむべし天保十四年寅年の初冬於鶯谷庵かきつづりぬ
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、金も七八両盗み出して、腹に巻き附けて、まず品川まで道を聞き聞きして来たが、なんだか心細かった。それから
は、竜太夫という御師のところへ行って、江戸品川宿の青物屋大阪屋のうちより抜参りに来たが、かくの次第ゆえ泊め
金があるなら、時節柄、大砲の一つもこしらえて、品川のお台場へ献納しろ」
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木阿弥になった。竜太夫を教えてくれた男は江戸神田黒門町の村田という紙屋の息子だ。それから、ここで貰い、あそこで
二人来て、おれに言うには、その穴は先日まで神田の者が寝所にしていたところだが、どこへか行きおった
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『左様でござりますか、あさって蔵前の祭りでありますが、一喧嘩やりましょうから、一緒にござらっしゃいまして
をぶったが始まりで、小あげの者が二三十人、蔵前の仕事師が三十人で、相手を捕えんとして騒いだが、とうとう
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、ばらばらと少しあとへ引っこんだはずみに、逃げ出して、ようよう浅草の雷門で三人一しょになり、吉原へ行ったが源兵衛が気遣いだから
暮の十七日、浅草市へ例の連れで行ったが、その時、忠次郎が肩を斬られ
室へ抛りこんで帰った。それから同流の下谷あたり、浅草本所ともに他流試合をするものは、みんなおれがさしずを受けたから、
、みな下手が多くあった故、おのれが十八の歳、浅草の馬道、生政左衛門という一刀流の師匠がいたが、或る時、
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が出て来て、野郎を貰いに来た。こいつは小諸の牢に二百日ばかりいたが、或る晩牢抜けをして、追
縄を打って、追分の旅宿へ引いて来た。上田小諸より追々代官郡奉行が出て来て、野郎を貰いに来た。こいつ
それから、碓氷峠で小諸の家老の若い者らが休息所へ来て無礼をしたから、塩沢
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妓でさえ、これこれの芸術がある、遊女でさえ、高尾、薄雲なんてところになると、これこれの文学がある、というところを
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一度、隅田川へ乗り行きしが、その時は伝蔵という借馬引の馬を借り乗っ
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。三日ばかり人目を忍んで、五日目には夜両国橋へ来て、翌日回向院の墓場へ隠れていて、少しずつ食物買っ