大菩薩峠 34 白雲の巻 / 中里介山

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地名一覧

石巻

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「ナニ、石巻――なるほど、駿河の清水港へ行こうか、仙台の石巻へ行こうかと駒井

石巻――なるほど、駿河の清水港へ行こうか、仙台の石巻へ行こうかと駒井氏は常々言われていたが、して、なにか

言われていたが、して、なにかな、もはや石巻に到着しておられるのか」

思いきって、この石巻へ来たとか来るとかいうのは、この際、よいことを聞いた

続きを申し上げますと、駒井の殿様は今明日のうちに石巻の港へお着きになる、それからあの殿様の御家来や、居候といっ

持って参りましたものは一切、行李にしまいまして、石巻の田代屋という宿にあずけてございますから、あれへおいでになって

ますから、ごかんべんが願いたいので……ともかくも、石巻の田代屋というのをたずねてお越しになって、駒井の殿様のお

ものですから、相当の気安さで旅行もできるし、また石巻、松島、塩釜、仙台の間は、通学の往復路のようなものでした

石巻へ来て、ともかく、ここで一泊の上、一石三鳥の使命を

石巻の港の、田代屋とある宿へ泊りを求めて、さて、第一次

。それで見ると、仙台領の南の部分、松島から石巻、牡鹿半島の切絵図――あまり上手でない手つきで、棒を引いたり、書入れ

に残し置ける拙者の財産を、危急の場合にかき集めて、石巻の宿まであずけ置いたということだったが、そうだ、何といった

の冠者で覚えている、田代屋というのだ、その石巻の田代屋というのへ、房州に残し置いた拙者の財産を持って来て

待チツツアル、牡鹿唯一ノ都ハ無意味ニ廃頽ニ帰スベキデハナイ、石巻恢復ノ策三ツアル」

今にはじまったことではないのです。現に昨晩泊った石巻の港が、その北上川の河口にあるので、今日はまたその沿岸を

時は寛政五年十一月、石巻の船頭で、平兵衛、巳之助、清蔵、初三郎、善六郎、市五郎、寒風沢の左太夫

塩釜

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相当の気安さで旅行もできるし、また石巻、松島、塩釜、仙台の間は、通学の往復路のようなものでしたから、少し立入れ

白雲はこう言ってお松をなぐさめて、その翌日、塩釜から仙台へかけて、昨夜の捕物の顛末を聞きただし、さぐりを入れて歩い

長江

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ただ見る長江の流水を送ることを

四条

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南北流を少々修行仕り、狩野、土佐、雲谷、円山、四条の諸派へも多少とも出入り致しました」

九州

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、君は東北にあって本土の頭を抑え、不肖は九州にあってその脚を抑え、かくして、南北相俟って国家のために

松島

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玉蕉先生の道場で一本お手合せを願い、それより松島へ罷り越して、観爛道場に推参して、狩野永徳大先生に見参仕る目的で

最初の諸士を中心として、松島のすべて、塩釜方面と瑞巌寺の主なる面々が、みんなこの観瀾亭に集まっ

から、相当の気安さで旅行もできるし、また石巻、松島、塩釜、仙台の間は、通学の往復路のようなものでしたから、

辞退して、そうして折返し月ノ浦への戻り道、松島へ来て瑞巌寺を訪れると、折よく典竜老師が臥竜梅の下で箒

その翌朝、舟を雇うて、松島から石巻湾を横断して、月ノ浦に帰った駒井甚三郎は、何はさて置き

それからこの兵助が、松島の観瀾亭のお庭へ姿を現わしたのは、その翌日のことであり

の身、昨夜は大海の上で、今宵はこうして松島の月をながめているけれども、明日の夜はいずれの里に、いかなる月

、ムク、これから先生のおともをして、船で松島のお月見としゃれこむんだよ」

どうして泳ぎ着いたのか、ムク犬は完全に五大堂前の松島の陸の岸の上に身ぶるいして立ち上ると、そのまま息をもつかず

ここで大活劇が行われた――というのは、松島から連れて来た重大な犯人が、ここで駕籠を破って逃げてしまった

来た。それで見ると、仙台領の南の部分、松島から石巻、牡鹿半島の切絵図――あまり上手でない手つきで、棒を引いたり

「奥の細道」だな、「奥の細道」も、松島や平泉のところの名文は空に覚えているが、こんなところはあまり気が

江戸

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美人で、客を愛し、風流の旅を好む、以前は江戸に出て、塾を開いて帷を下ろして子弟を教えていたが、

な言葉づかいをする――といって卑める。それは江戸へ出て折助奉公をしたり、商家の小僧なんぞに住込んだものが帰っ

「江戸を立ち出でて、奥州街道を白河より福島を経て、これより仙台城下へまかり通ろうと

見ても二十台で通るのです――それに、永く江戸で修業して、婦人の身で塾を開いて、生徒を教えていた

はございません、諸侯方の御所望でも、おそらくは江戸の将軍家からの御達しでも、門外へ出すことは覚束なかろうと存じます」

それは藤堂家の家中で、板倉修理というさむらいが、江戸の西の丸のお廊下に身を忍ばせて、戸田の殿様のおかえりを

その時に、江戸から三浦乾也が来て、仙台のための造船の一切の監督をしてやり

のために、わざわざここへやって来て、その船で江戸までの廻航に便乗したということがあるというわけでした。

石浜の辰蔵、源谷室浜の儀兵衛、太十ら十六人、江戸へ向けての材木と、穀物千百石を積んで石巻を船出したが、

平泉

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の細道」だな、「奥の細道」も、松島や平泉のところの名文は空に覚えているが、こんなところはあまり気がつかなかっ

岩屋

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して、郡山、二本松、あさかの山――黒塚の岩屋をそれぞれに一見して、福島についたのは、その翌々日のことでした

ウラル山脈

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漂着し、そこで大部分を暮し、それからシベリアを経てウラル山脈を越え、モスコーを経てペテレスブルグに至って、ロシア皇帝に謁見し、公使レサノットに

奥州

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いうこの老爺が、なんのために、こうして、こんな奥州の名取川の岸で、悠々閑々と蛇籠なぞを編んでいるのだ。

、茂太郎を自分に近いところへ呼び寄せて坐らせ、それから奥州の昔話をはじめました。

道行なんて、ドコまでそんなフザけた洒落が利くものか、いくら奥州の果てにしたところで、あれで晴れての道中ができたらお慰み、

北上川へ来て見ると全く違った感じ――どうやら奥州の夷――更に遠くは日高見の国をまで眼前に思い浮べ来ったものと

衣川

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。先づ高館にのぼれば、北上川南部より流るる大河也。衣川は和泉ヶ城をめぐりて、高館の下にて大河に落入る。康衡が旧跡

「まづ高館にのぼれば、北上川南部より流るる大河也。衣川は和泉ヶ城をめぐりて、高館の下にて大河に落入る」という気象

須賀川

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白河城下を立ち出でたその夜は、須賀川へ泊りました。

伊勢

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、一つになる機会を得ました、それで話が伊勢の国へ飛ぶのでございます」

「御承知の通り、伊勢の国は、大神宮参拝の諸国人の群がる土地でございます、それだけに土地に、

根岸

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根岸の屋敷で、神尾主膳が日脚の高くなった時分に起きあがり、

根岸の里をふらつき出した神尾主膳は、どこをどう踏んでいるのだか、

五大堂

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お松さんをたずねろ――ずっと海岸通りをつたって行くと、五大堂というのがあって、その前に新月楼という家がある、お松さん

「五大堂で少し遊んで来ました。田山先生、これからまた、どこへかいらっしゃるの

ローマ

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痩せる。ただ、伊達政宗が、その昔、この港から、ローマへ使節を遣わした港であるということだけを、とりあえずしるして置く。

は深いものがある。昔、伊達政宗が、支倉六右衛門をローマへ使者として遣わす時分に、船出の港として選んだのがこの

「なるほど、伊達政宗がローマへ使を遣った時の船が、ここから出たのですか」

ていたのですな。信じていないまでも、決してローマの法王なる者に悪意は持っていなかったのです。或いは切支丹を食いものに

仙台藩

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、その由緒を語れば、今より約十年以前、この仙台藩で開成丸という大きな船を造った時にはじまるのです。

福島

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かの山――黒塚の岩屋をそれぞれに一見して、福島についたのは、その翌々日のことでした。

福島の家老に杉妻栄翁という知人があって、これをたずねてみると、

かくて、福島に逗留二日。

「江戸を立ち出でて、奥州街道を白河より福島を経て、これより仙台城下へまかり通ろうとする途中でござる」

仙台

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「ははあ――眉唾物ではござるまいなあ。まさか、奥州仙台陸奥守のことでござるから、嘘にしても何かよるところがある

この家の主人として、白雲が打立つ時に、仙台へ向っての有力なる紹介者となって、白雲の落着きを安くしてくれる

「仙台へ着いたら、ともかくも、玉蕉女史をたずねてごらんなさい」

て帷を下ろして子弟を教えていたが、今は仙台に帰っているはず、ともかくも、あれをたずねてみてごらん――全く

て、姓は高橋――名は玉蕉――家は仙台の大町というのへ行って、それと尋ねれば当らずといえども

かくて、田山白雲は、仙台に入る前に笠島の道祖神の祠へ参詣の道を枉げてみると、

と筆太く記して、その頭へ小さく「仙台大手御門前」と割註がしてある。

あるべきはずはないのに、その肩書を見給え、「仙台大手御門前」と明らかに註してある。

四方山の話をもちかけたのは、一つは、これから仙台郷へ入って、なるべく郷に従わんとする用意としての、奥州

夫婦を相手の会話の中から判断して、幾つかの仙台語のうちの単語を修得し、これを画帖の端へ、ちょいちょいと書きつけ

が帰って来ると、往々江戸弁をつかうものだから、仙台の城下では、江戸弁そのものを軽薄なもの、下等なものとし

ことを決してしない。鈍重にして威儀ある、純然たる仙台弁を用うることを貴しとしているが、もちろん、軽快なる江戸弁

江戸弁を称して、すべて折助言葉というのである。仙台では、品格ある家庭に於ては、江戸弁を用うることを決してし

仙台及びその附近では、江戸弁を称して、すべて折助言葉というので

を立ち出でて、奥州街道を白河より福島を経て、これより仙台城下へまかり通ろうとする途中でござる」

「ほほう、して、仙台はどちらの先生の道場へお越しでござるかな」

「道場――それそれ、とりあえず仙台城下、高橋玉蕉先生の道場で一本お手合せを願い、それより松島

「ははあ、左様でござるか――昨今、仙台御城下には、少々物騒な儀がござるによって、随分御用心の

岡っ引の言うことには、仙台城下が今日は物騒がしいから用心しておいでなさいと。

たところを拾い聞きにしての判断から言うと、その仙台城下の物騒というのは、やっぱり盗賊沙汰であるらしい。それも、市

ナニ、石巻――なるほど、駿河の清水港へ行こうか、仙台の石巻へ行こうかと駒井氏は常々言われていたが、して

白雲は、中田、大の田より長町――ここはもう仙台の城下外れです――大町というのを苦もなくたずね当てて、そこ

「どうせ案外でございましょう、いったい仙台は、昔の殿様が高尾を殺した祟りで、美人は生れないのだ

「ああ、それそれ、もう一つ仙台家に――特に天下に全くかけ替えのない王羲之があるそうですが、

豊太閤朝鮮征伐の時、仙台の伊達政宗も後れ馳せながら出征した。

たのが、これも前申し上げた通り、名君の聞え高い仙台の吉村侯でございました。

「でも先生は、仙台様の御宝蔵にあって、たとえ将軍家が御所望になってもお貸出し

といって、支那第一等の書家だ。その書が仙台家にあるそうだから、それを見たい見たいと言ったには相違

「ナニ、何がどうしたというのだ、仙台公秘蔵の王羲之は、国主大名将軍といえども借覧のかなわないもの

と、ガラにない山っ気がございますものですから、まこと仙台様の御宝蔵のうちに、国主大名将軍様でさえも拝見のできない

が、朝になって見ると、その船の上に、仙台家の定紋打った船印が立てられてあることによって、浦の民

、文句はないのですが、駒井がそうして無断に仙台家の船印を濫用してよいのか、一時の策略で、それを利用

がいずれにあるかさえわからなかったその中で、茂太郎が仙台領を走る七兵衛の姿を認め得られるはずはないのです。

、古永徳に惹かされて、こちらを志した行程から、仙台城下の所見を語り出し、結局――このはからざる奇遇を喜ぶと共に

牡鹿半島方面の船の到着が気にかかり、一方はまだ仙台城下に無くもがなの心がかりがあるから、ちょうどその中間の、ここ松島

釣台にのせられて、これが非常な警護をもって、仙台より城内へ運び去られたのは久しい後のことではありませんでした

は、犯人がつかまったというなんらの報道もなく、仙台城下の内外の隠密が、密々のうちにいよいよ濃度を加えることほど、彼

真只中へ、駒井甚三郎がおともを一人連れただけで、仙台城下へ乗込んで来て、別段咎めだてを受けなかったということは、不思議

、その由緒を語れば、今より約十年以前、この仙台藩で開成丸という大きな船を造った時にはじまるのです。

その時に、江戸から三浦乾也が来て、仙台のための造船の一切の監督をしてやりましたが、当時、一

気安さで旅行もできるし、また石巻、松島、塩釜、仙台の間は、通学の往復路のようなものでしたから、少し立入れば

そういうわけですから、駒井は、極めて無事安全に仙台城下に着いて、まず養賢堂の学頭を通じて、このたびの来着の

仙台の有志では、この不時の珍客を歓迎して、相当の集まりを催す

得ないことです。もうかなりの夜更け、先晩、田山白雲が仙台城下で、美にして才ある婦人と語って興が乗り、ようやく離れ

これとほぼ時を同じうして、仙台の町奉行丹野元之丞が、何か感ずるところあって、仲間一人を連れて

これが裏を返すと、すなわち、仙台の仏兵助と、青梅の裏宿七兵衛との取組みとなるのです。

どちらの方か、いつぞや案内をうけたという、仙台の女学者で高橋という先生ででもありはしないか。

貴様はどこの何者で、誰の縄張りだ――おれは仙台の仏兵助だぞ」

組み打ちながら、仙台の仏兵助と名乗ったのは、天水桶の伏兵をつとめていた昼の

仙台の閨秀詩人、高橋玉蕉女史の招待で、今晩あたり松島の月を見よう

ね、今おばさんがして上げようという話は、この仙台の人でなければ知らない話ですから、よそからおいでた方が聞け

「仙台の昔話が、そんなに面白いかえ」

天井に賊が潜んでいたのを、張込んでいた仙台の手のものに捕まってしまった。

れてしまいました。最初はずいぶん、暴れましたけれど、仙台の方に、仏兵助という親分がいて、それがとうとう右の怪

はこう言ってお松をなぐさめて、その翌日、塩釜から仙台へかけて、昨夜の捕物の顛末を聞きただし、さぐりを入れて歩いて

、いよいよそれに相違ない。駕籠脇について来たのは仙台名代の親分で仏兵助という者――ここで一行が暫く休んでいる

ものだけは充分だと思ったのでしょう、岩切から真直ぐに仙台へ帰ると、お松にも、その旨を言い含めたのでしょう。それから

はまだ確定はしていないが、それは当然房州から仙台まで廻航して来た以上の難航が予想される。その際に於て

女の子が絵図を持って来た。それで見ると、仙台領の南の部分、松島から石巻、牡鹿半島の切絵図――あまり上手で

ても、円心はこちらにある、牡鹿、桃生、志田、仙台の界隈をそう遠く離れるに及ばないということを、白雲は白雲なみに

はある。一とせ文晁は、松平楽翁公につれられて仙台へのり込んだそうだが、豪勢な羽ぶりであったそうだ。当節は

キタカミの文字がヒタカミの訛であるという考証を仙台で聞いた。してみると、人文の未だ剖判せざる上古、武内宿禰

ながめている間に、もともとこの地点は渡頭のことで、仙台から南部へ通ずる要路でありますから、いかに北地のこととはいえ、一人

熊本

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そのうちに、肥後の熊本の細川の藩士で甲というのがしきりに、王城内で一つ

て斬りかけた先方は、思いきや前申し上げた肥後の熊本の細川越中守宗孝侯でございました。

長崎

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、七月の初めカムシカツカに着き、翌月発船して九月長崎に帰る――

行き、それから、サンドーイッチ島を過ぎてカムチャツカに入り、長崎に帰るという順路、寛政五年から十三年目で故国へ帰ったと

高尾

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「どうせ案外でございましょう、いったい仙台は、昔の殿様が高尾を殺した祟りで、美人は生れないのだそうでございます」

目白

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だな、昔の元気はないな、その分では、目白籠へ入れて置いてもこっちのものじゃ」

桜田御門

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桜田御門の検閲は厳しいそうでございますが、その時、吉村侯のお乗物は