大菩薩峠 03 壬生と島原の巻 / 中里介山

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地名一覧

箱根

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を、それは時のめぐり合せだ、物の祟りなんぞは、箱根から東にはねえ、なんぞと言って、無銭同様で引受けて、桑を植え

嵐山

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一間で、七兵衛は手枕で横になり、朋輩衆と嵐山の方へ行ったというお松の帰りを待っています。

三条

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に、鴨川の水の音を聞いて、勾配の寛やかな三条の大橋を前に、花に匂う華頂山、霞に迷う如意ヶ岳、祇園から八坂の

亀山

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というのでございますよ。女のお方は伊勢の亀山にお実家がおありなさるとやら。どうも、ただの色恋ばかりではない

銚子

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親方は感心したような顔をしながら銚子を持って来る。

海蔵寺

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海蔵寺の東妙という坊さんは、気の軽い、仕事のまめな方丈様で

宇治

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を飲み合い、微醺を帯びてこの茶屋を出ると、醍醐から宇治の方面へ夕暮の鴉が飛んで行く。

河内

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河内の方から脱けて来た机竜之助、トボトボとして大和国八木の宿へ

土浦

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、わしも実は関東さ、常州水戸……ではない土浦生れが流れ流れて、花の都で女子供を相手にこんな商売をしてい

加茂

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の扇の絵を散らし、六面の襖の四つは加茂の葵祭を描いた土佐絵。第四「馬の間」の襖は応挙、第

白川

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と、古いところは万葉あたりまで溯る。その後、肥後の白川、都近くは江口、神崎、東海道の駅々には、大磯、黄瀬川、池田

逢坂山

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「柳緑花紅」の札の辻を、逢坂山をあとにして、きわめて人通りの乏しい追分の道を、これだけの挨拶で

江戸

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、多くは西国諸藩の武士に当るべく、かの新徴組が江戸を発したのが文久三年二月八日でありました。

「清川八郎が手で、新徴組の大部が江戸へ帰ったことは聞いたか」

「毛唐を打つというも、実は江戸で事を挙げる、新徴組をダシに使うて幕府を覘う奴じゃ」

「壊れはせぬ、二つに割れた。最初、江戸から京都へ上ったのは総勢二百五十人、それは大方、今いう清川が手

は総勢二百五十人、それは大方、今いう清川が手で江戸へ帰って、残るは芹沢と近藤を頭に十四人」

安永から天明の頃、江戸の俳諧師二鐘亭半山なるものの書いた「見た京物語」には、

島原が秀吉から許された天正十七年は、江戸の吉原が徳川から許された元和三年より三十年の昔になる。大阪

思わなかった。そうして、わしは、お前をつれて江戸へ帰るつもりで来るには……来たが……今も、ここでおちおち

「江戸へ帰りたいとも思わず、ここで一生を送りたいとも思いませぬ…

身受けをせにゃならぬ、それから先はお前の心任せ、江戸へ帰ろうと、こちらに留まろうと、文句は言わないつもりだが」

「なるほど、なるほど。花魁の道中は、わしも一度、江戸の吉原で見ましたっけ。こちらのは、また変った趣向でもあります

「ナニ、同じようなもので。わしどもは江戸のは錦絵で見ましたが、あちらの方が何を申しても規模は

「降るようなこともなかろうが、いったい京は、江戸よりも天気が変りっぽいようですな」

わ……そもそも、島原の投節、新町のまがき節、江戸の継節、これを三都の三名物という。今時は投節を面白く

「江戸の土産話でも聞かせてくれ」

七条

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「七条へ参っての帰りがけ、つい道に迷うて」

大菩薩峠

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わしは、ずっと前から思いついていたのじゃ、ほれ、大菩薩峠の天辺へ持って行って立てるつもりだ」

「大菩薩峠の天辺へ……」

てからここで開眼供養というのをやって、それから大菩薩峠の頂へ安置する」

横浜

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「それは聞いた、横浜の毛唐を打ち攘う先鋒とやら」

壬生寺

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て出たりすることはしなかった。暇があれば、壬生寺の本堂に籠ったり、深夜、物騒な町を歩いてみるくらいのことで、

、新撰組が相撲の贔屓となり、その力で、近々壬生寺に花々しい興行を催すという。

滑稽なことはその翌日、壬生寺で、昨夜殺された芹沢鴨の葬式があったが、その施主が近藤勇

島原

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の中には、男の方のお妹さんが都の島原へお売られなすったとやら。御承知でもございましょう、島原は色町でござり

へお売られなすったとやら。御承知でもございましょう、島原は色町でござりまする」

島原から一貫町までは人家がない、人が来れば見通しがつく。

壬生と島原とは呼び交わすばかりの間である。兵馬としても、ここに島原のある

呼び交わすばかりの間である。兵馬としても、ここに島原のあることを知らないはずはないが、井村はしきりに兵馬の袖を引張っ

島原の誇りは「日本色里の総本家」というところにある、昔は実質におい

今の島原は全く名残りに過ぎない。音に聞く都の島原を、名にゆかしき朱雀野

今の島原は全く名残りに過ぎない。音に聞く都の島原を、名にゆかしき朱雀野のほとりに訪ねてみても、大抵の人は

「島原はまはり土塀にて甚だ淋し、中の町と覚しき所、一膳飯の看板

「島原の廓、今は衰へて、曲輪の土塀など傾き倒れ、揚屋町の外は、家

見ると、「嵯峨や御室」で馴染の「わたしゃ都の島原できさらぎという傾城でござんすわいな」の名文句から思い出の優婉な想像

の望みのない日本色里の総本家の名残りのために、この島原の如きも、物好きな国粋(?)保存家が出て、右の角屋、

ない。それで、右の角屋の如きも二百七十年以前、島原始まって(すなわち寛永十八年、六条から今の地に移った時)以来

島原が秀吉から許された天正十七年は、江戸の吉原が徳川から許された

を元和から寛永の頃とすれば、いずれにしても島原より弟であり妹である勘定になります。

」となり、三転して今の朱雀へ移って、「島原」の名を得たのが、寛永十八年ということで。

丹波街道の北に島原とて、肥前天草一揆のとりこもりし島原の城の如く、三方はふさがりて、一方に口ある故に、斯様に

「また寛永十八年に今の朱雀野へ移さる、島原と号くることは、その昔、肥前の島原に天草四郎といふもの一揆を

移さる、島原と号くることは、その昔、肥前の島原に天草四郎といふもの一揆を起し動乱に及ぶ時、この里も此処に移さ

も此処に移され騒がしかりければ、世の人、島原と異名をつけしより、遂に此処の名とせり」

官許遊廓の根源こそはこの島原。島原の歴史にもまた相当の盛衰栄枯があって、三筋町七人衆の

官許遊廓の根源こそはこの島原。島原の歴史にもまた相当の盛衰栄枯があって、三筋町七人衆の時代、

時とすれば、祇園の頭を持ち上げた時が、ようよう島原の押されて行く時であろう。

島原の木津屋という暖簾のところへ、或る日のこと、百姓体の男が旅姿

太夫の道中も島原がはじめ。道中とは太夫が館と揚屋との間を歩く間のこと。

島原の廓、一貫町を出てから七兵衛は胸算用をはじめました。

ず知らず綾小路を廻って見れば、田圃の中には島原の灯が靄を赤く焼いている。お松はあの中で何を思って

「それからな、あの島原という傾城町に一年一度の太夫道中がありますで、これがまた、

を引っかけて草履穿きで、小風呂敷を腋にかかえて、島原へやって来ました。大門を入って、道筋を左に曲ろうとすると

喧しい国侍ども、殺風景な歌ばかり歌いおるわ……そもそも、島原の投節、新町のまがき節、江戸の継節、これを三都の三

今日は島原の角屋で大懇親会。

祇園

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を前に、花に匂う華頂山、霞に迷う如意ヶ岳、祇園から八坂の塔の眠れるように、清水より大谷へ、烟とも霧ともつか

大阪

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の通りが少ないといっても、名にし負う京と大阪とへの追分に近いところ、

「このごろ大阪の相撲どもが、毛唐の足払いと名づけて拵えよる、それを一本貰うて

から許された元和三年より三十年の昔になる。大阪の新町も、その創立を元和から寛永の頃とすれば、いずれにして

それは新撰組と大阪の大相撲とが大喧嘩をしたその仲直り。

増上寺

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「芝の増上寺の松原で、松の樹へ縛っておいて、この刀で胸を突き透し

伊勢

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でいるというのでございますよ。女のお方は伊勢の亀山にお実家がおありなさるとやら。どうも、ただの色恋ばかりで

出雲村

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夕暮の色は、奥の院から下りて来る。黒崎、出雲村の方は夕煙が霞のようになって、宿に迷う初瀬詣りの笠が

関東

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は、全く下り坂で、旗本も腰が抜けてしまった、関東の武士も今は怖るるところはない、ただ新徴組の一手と――それに

「関東より」

「関東……関東はいずれの御藩でござるな」

「関東……関東はいずれの御藩でござるな」

「関東にはお聞き及びもござるまいが、薩州伊王ヶ滝の自源坊より瀬戸

関東の剣客で、その立合った限りにおいては、竜之助の音無しの構えを

この人の剣術は一流じゃ、てこずらぬ者は珍らしいよ、関東の剣術仲間では音無しと名を取ったものでござる」

、音無しに違いはない、なんにしても珍らしい、関東には変ったのがある、ハハハハ」

「左様でござりましたか。私は関東の者でございますが、太夫様にちょっとお眼にかかりたくて上りました

「はい、このごろ関東から上りました女の子」

「関東から上ったばかりでございますから、トンと何もかも存じませぬ、失礼

七兵衛はそれから、お松の身受けの金のこと、関東へつれて帰ってどうしようかということなどを、いろいろと考えているうち

「失礼ながら関東はどちらで」

冒頭に関東と言い出されたので、七兵衛は小間物屋の面を見ながら、

ます。どうも眼つきが小間物屋にしては強過ぎる、関東の者か上方の者か、そのくらいの区別は誰にもつくが、江戸

「わしかね、わしも実は関東さ、常州水戸……ではない土浦生れが流れ流れて、花の都で

「近ごろ関東からお上りになりました新撰組と申しまして、つまり、このごろ諸国から上っ

二条城

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壬生の村から二条城まで、わざと淋しいところを選んで、通りを東に町を縫い、あてもなく

吉野

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東は桜井より初瀬にいたる街道、南は岡寺、高取、吉野等への道すじ、西は高田より竹の内、当麻への街道、北は

京都

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(例)京都三条下る

京都までは僅か三里、ゆっくりとここで疲れを休まして行くつもりか。

「明日は京都へ着きますなあ」

「京都へ着いたとて……」

「わしも京都へは帰れず」

「宿帳には、京都三条下る……何とか書いておいででござんした。おお、

「そのほか辻斬は流行る、女の子は手込にされる、京都へ近いこのあたりでも、ほんとに気が気ではありませぬ」

今の京都は怖ろしいところ。

もなく、竜之助は好んでそこへ行くのである。いま京都に群がる幾万の武士、それを大別すれば、佐幕と勤王。

が流行る、おたがいにめぼしい奴を切り倒して勢力を殺ぐ、京都の町には生首がごろごろ転がっている。新たに守護職を承った会津

「京都まで」

壊れはせぬ、二つに割れた。最初、江戸から京都へ上ったのは総勢二百五十人、それは大方、今いう清川が手で

「それはそうと吉田氏、京都へ入ったなら、滅多に刀は抜かぬがよいぞ、血の気の多いの

と共に、一直線にこっちへ来ていたので、京都の経験は兵馬の方が一月の余も上であります。

、途中で道場荒しなどをやって、日数を多くかけて京都まで来る間に、兵馬は新徴組と共に、一直線にこっちへ来て

京都に来ても兵馬は、ワザと罪なき人を斬ったり、喧嘩を買って

が夜歩きをする一つの理由でありましょう。しかしながら、京都へ来てみて、天下の形勢というものを見たり、諸藩の武士

消息から、竜之助が京都へ落ちたことは真実である、京都で必ず探し当てる、これも兵馬が夜歩きをする一つの理由でありましょう。

すべての消息から、竜之助が京都へ落ちたことは真実である、京都で必ず探し当てる、これも兵馬が夜歩き

の事件がある、それは新徴組の隊長芹沢鴨が、京都のある富家の女房を奪い来って己が妾同様にしてしまったこと

恐る恐る座敷へ通って見ると、京都式の天井は低く、光線のとり具合は極めて悪い。しかしながら、そこに

また一花咲かせた。大小七十余藩の武士が一度に京都へ集まった時、さびれかかった日本遊廓の根元地が、またも昔の

大津

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昨日も、今日も、竜之助は大津の宿屋を動かない。

のような壮快な意気組みがあってでもない……大津を立って比叡颪が軽く面を撫でる時、竜之助は、旅の憂さを

鹿児島

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「して、貴殿は鹿児島の御藩でござるか」

千葉

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そのまま腹部をめがけて突き行けば必ず勝つ」とは、千葉の道場などでよく教えた立合の秘訣で、機先を制して勝ちを咄嗟

「やつも、千葉の高弟で手は利いていたはずだが」

水戸

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その棒をさげて来た――これは力士小野川が水戸烈公の差図により、次第によらば攘夷のさきがけのためとて、弟子ども

と、かの変人、実は変人でも愚物でもない、水戸の人で山崎譲。新徴組の一人で、香取流の棒をよく使い

「うむ、拙者も生国は水戸じゃ。芹沢とは同国なれども、人物は近藤が一段上と思う」

鴨とは変名で、実は木村継次という。同じ水戸の山崎が見て、団扇を近藤に上げるところより見れば、双方の相違

芹沢鴨は水戸の天狗党の一人です。芹沢鴨とは変名で、実は木村継次

「わしかね、わしも実は関東さ、常州水戸……ではない土浦生れが流れ流れて、花の都で女子供を相手

「承われば先生には水戸の御出生。水戸と聞いて、この秀五郎もお懐しゅうござんすわい」

「承われば先生には水戸の御出生。水戸と聞いて、この秀五郎もお懐しゅうござんすわい」

「貴様も水戸生れか」

に、一方ならぬ御贔屓を受けておりまするからに、水戸と承われば、どうやら御主筋のような気が致しまするで」

「うむ、水戸はいったい吝なところじゃ、家中を廻り歩いてもトンと祝儀が出まい」

「水戸様からいただいたお盃には、お手ずから草体で『水』と書いて

奈良

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高田より竹の内、当麻への街道、北は田原本より奈良郡山へ、四方十字の要路で、町の真中に札の辻がある。

東京

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構えである。侮り切っていきなり玄関から応接を頼むと、東京では成島柳北時代に現われた柳橋の年増芸者のようなのが出て

八王子

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「よく当りました、八王子でござります。して、わしの生国まで見抜きなさるお前さんは――」