生前身後の事 / 中里介山
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よく小石川の植物園へ遊びに行ったものだが、その途中本郷のとある家の路地で、沢田正二郎渡瀬淳子と連名の名札のあるのを見
かなり原始的なものであった、これより先き自分は弟に本郷の蓬莱町へ玉流堂というささやかな書店を開かせた、同時に自分は活字
出し、一円の定価をつけて売り出したのである、本郷の至誠堂という取次店がこれを扱ってくれたが、永年の読者で
た、ここは松岡君のいいところで、その時分余輩は本郷の根津にいたが、そこへ松岡君が飛んで来て、
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機会を与えなかった、そこで沢田は東京の旗揚げに多分明治座であったと思う、そこへ乗り込んで「カレーの市民」というのを最初
番あたりの或る小屋へ少々手入れをしてそこを仮りに明治座と名付けて左団次一座を出演させたようなこともあったが、然し本格的
より田中智学翁斡旋の帝劇興行をはじめ、歌舞伎、東劇、明治座の最近にまで及ぶのだが、それは追って稿を改めて述べる事とし
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髷物をやって当ったためしがない、例えば高安月郊氏の江戸城明け渡しその他、何々がその適例だ、こんども享保年間の義民伝まがいのもの
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当時の松竹というものは関西では既に覇を成していたが東京に於てはまだホヤホヤで而もどの興行
瀕死の状態にいたのである、その間へ松竹が関西から新鋭の興行力をもって乗り込んで来たのである、我輩はいつも
併し彼が関西に根拠を置く実際上の必要から内演試演は彼の地でやり本舞台
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この手紙の表書きには本所区向島須崎町八九番地とあって日附は三月十一日になっているが、
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ない、また同君も東京へ来て演る機会は少ない、丁度名古屋まで来て、そこで中村吉蔵君の井伊大老を演るという機会があった
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たものであるが、「都」はその読者の大部分が東京市中にあって、収入が確実で、経営の安定していることは他の
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してしまった、それから籾山半三郎君が出資者となって赤坂の演技座に大劇場としての仮普請をして、沢正の為
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新聞に我輩が紹介で入れた寺沢という男を通じて大阪の沢田正二郎が是非あれをやらして貰いたいとのことだ、沢田正二郎という
あるのを見た位のものだ、それが近頃では大阪へ行って新国劇という一団を作りなかなか人気を博しているということであっ
で来たのだ、そのうちに沢田は我慢しきれず大阪で成功した意気込をもって東京へ旗揚げに来た、沢田として
出の旗揚げでは無理のないことでもあるそうして大阪へ帰ったが、次に東京へ乗り出すには是非とも別の看板が必要で
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と思う、先年東日、大毎に連載する当時に、著者が神楽坂の本屋で一冊見つけ城戸元亮君に話をすると直ぐに自動車で一緒に
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の山だの大湊の船小屋だのいい処は除いて久能山と徳間峠しか出せないことになったから、ほんのお景物という程度に過ぎ
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の頃であったと思う、前社長楠本正敏男は新たに下野の実業家福田英助君に社を譲り渡してしまった、これは主筆田川大吉郎氏が
代議士の議席を齎ち得た、無論政友系として下野の鹿沼あたりから出馬したが、その背景には横田千之助がいたと思わ
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これが最初の勝利の合戦であった、そこで序幕の高野山の金剛峰寺大講堂の場が総坊主で押し出した、そんな因縁から大谷は、
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たことがない、乃木大将は或時士官学校の前から四谷の方へ出る処、荒木町であったか、あそこを通りかかった時にひょこひょこ
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その時余輩は高尾山に住んでいたのだが、そこへ松竹から川尻清譚君だの植木
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は或時士官学校の前から四谷の方へ出る処、荒木町であったか、あそこを通りかかった時にひょこひょこと質朴な老軍人が坂を
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博しているということであった、そうして是非とも大菩薩峠の机竜之助をやらして貰いたいと寺沢君を通じての申込だ、寺沢も
て東京へ旗揚げに来た、沢田としては最初に大菩薩峠をもって来たかったのだろうけれども我輩はまだ熟しないと見てその機会
著者を衝くこと甚だ激しいのは当然の成り行きである、一体大菩薩峠というものが掲載当時からそういう一種の人気を持っていた外に、
果して大菩薩峠を持ち来した再度の旗揚げは彼の出世芸であった、その興行的成功
全く絶縁の筈のところが彼はこの人気に乗じて極力大菩薩峠を利用しようと心懸けた、無理無体に自分の専売ものとして持ち歩こうとし
に根岸君の手から謝罪的文の一通を取り全く大菩薩峠から絶縁することになって(つまり沢田はもう決して大菩薩峠を演らない)と
大菩薩峠を演らずとも沢田君並にその一党の人気はなかなか盛んのものであっ
いるうちに彼等自身も絶縁はしながらも絶えずこの大菩薩峠には憧れをもち、世間もまたいつかそのうちに沢正によっての
して他の人気やグループを悉く脱出しても真に大菩薩峠の作意を諒解し、我輩の忠言を聴き節を屈し己れを捨て、そうし
催すに何よりも吐胸を突いて来るものはお作大菩薩峠の事でございます。
方が興行的に断然優勢を示していたのは矢張り大菩薩峠の贔負が相当力をなしていたものと思われる。
秀雄氏と帝劇の関係で知り合いになってから渋沢一家が大菩薩峠の熱心な愛読者であるということを聞いていた、老子爵も都
し、活字も殖えて来るに従って、これで一つ大菩薩峠を出版して見てやろうという気になって、それが実行にかかった
の好みとしては、紫表紙和綴にして金で大菩薩峠の文字を打ち出すことにしたが、これがなかなか思うようには行かなかった
て引き下ってしまった、尤もこの紙型鉛版屋もその時、大菩薩峠のことは知っていたと見えて、
で大いに当てた、更に多方面の出版に乗り出したい、就ては大菩薩峠を出版したいがどうだろうという話であった、自分としては最初
赤い絹がかかった紙板表紙であり、和装の方は大菩薩峠の文字を紙に木版で彫って張りつけたのである、それから出版が本式
で日本の出版界に大洪水を起さしめたものである、大菩薩峠もその潮流に乗じて大いに売り出した、出版者としての神田君も素晴らしい
然し、円本時代が去ったとはいえ大菩薩峠の威力はなかなか衰えなかった、他の出版物は下火になってもこれのみは
時節柄、大菩薩峠と新聞掲載の歴史に就いて思い出話を語って見よう。
辺のことも書けば長いから略するとして、さて、大菩薩峠を右のような年月に於て始めて発表したのであるが、作
そこで大菩薩峠の続稿の進退に就いても当然独立したことになった、その前後に
「大菩薩峠が他新聞に連載されるとのことだが、これは以ての外のことだ、
ことの出来る筈のものではない、そこで都新聞と大菩薩峠との交渉は一切清算されてしまったのである。
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たが、その人も芸風もまだ見たことはない、根津にいる時分よく小石川の植物園へ遊びに行ったものだが、その途中本郷の
ここは松岡君のいいところで、その時分余輩は本郷の根津にいたが、そこへ松岡君が飛んで来て、
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いなかったりというようなこともあった、その帰り途に横浜でやった時の如きは四五人の見物しか数えられない有様でてれ隠しにテニス
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していたこともあり、編輯氏の山本移山君また四国に於て進歩系の有力家の家に生れた人であったと記憶する、
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も芸風もまだ見たことはない、根津にいる時分よく小石川の植物園へ遊びに行ったものだが、その途中本郷のとある家の路地で、
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が復活して、どういう運動の結果か、復興第一に日比谷公園で大野外劇を演り、沢正が弁慶勧進帳で押し出すというような変態
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あったから我輩は態々神戸まで出かけて行ったところが、神戸の中央劇場に辿り着いて見ると試演どころか絵看板をあげて木戸をとっ
劇場で試演をやるとのことであったから我輩は態々神戸まで出かけて行ったところが、神戸の中央劇場に辿り着いて見ると試演どころ
置いて、そうして大正何年の秋であったか神戸の中央劇場で試演をやるとのことであったから我輩は態々神戸まで
を拾い立てるわけではないが、とにかく沢田君が出ると神戸の見物もなかなか湧いたものだが、舞台へかかる足どりにも八里の
しかし、沢田君も我輩が態々神戸まで出かけて来たと聞いて、竜之助の衣裳、かつらのまま楽屋から出口
という態度をとっていたのが悪かったのだ、神戸の時にすっかり絶縁を宣告して置けばよかったのかもしれないが
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で原田君の懇望があった時に我輩も考えた、福岡日日新聞という新聞は地方新聞ではあるがなかなか立派な新聞である、新聞
同社の営業部主任たる原田徳次郎君からあったのである、福岡日日へはその前後二三の連載小説を書いたことがあった、そこで
就いても当然独立したことになった、その前後に福岡日日新聞で是非あれの続稿を欲しいという交渉が同社の営業部主任たる原田
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のは全部取りこわし或いは移転してもし小さくとも保存するならば東京附近、明治神宮あたりの地があらば幸、従来の地はそのままにし
そこで新派劇というものを紀元的に見たのはこの東京座の「金色夜叉」をもって最初とする、たしかカルタ会の場面から
今の若い人達には隔世の歴史だが、当時は東京の三大劇場の一つで今の歌右衛門、当時の芝翫が歌舞伎座に反旗
の頃であったか神田の三崎町の東京座で――東京座といっても今の若い人達には隔世の歴史だが、当時
であった、いつの頃であったか神田の三崎町の東京座で――東京座といっても今の若い人達には隔世の
松竹新派としても息を吹き返した形だし松竹が東京へ乗り出して来たこれが最初の勝利の合戦であった、そこで序幕
興行も当ったというためしを聞かない、流石の松竹も東京では駄目だろう歯が立つまいという噂が聞えた時代である、それ
というものは関西では既に覇を成していたが東京に於てはまだホヤホヤで而もどの興行も当ったというためしを聞かない、
あった、併し冷眼にその雲行を眺めつつ、松竹を圧え東京劇壇を振わすだけの方策は我輩の眼と頭にははっきりと分りながら
しては、そんなら当時我輩を信頼するだけの人物が東京劇壇にあったとして拙者がそれに応じたかどうかという事
と云った方がよい、仮りにその当時我輩をして東京劇壇の総参謀にする者があったとすれば、必ずやあんなにもろく
劇壇を征服したのは松竹がえらい、と云うよりは東京劇壇が意気地が無さ過ぎたと云った方がよい、仮りにその当時我輩
たのである、我輩はいつも思う、あの当時松竹が東京劇壇を征服したのは松竹がえらい、と云うよりは東京劇壇が意気地
振りは東京の劇壇では全く見ることが出来なかった、東京の劇壇は沈衰、瀕死の状態にいたのである、その間へ松竹
も云う通り、その位だから活気ある舞台や興行振りは東京の劇壇では全く見ることが出来なかった、東京の劇壇は沈衰、瀕死
の田村将軍なるものも既に老衰の境に入っている、東京の歌舞伎俳優は伝統の間に生き、門閥を誇ることの外には何
いたが劇の方には触れなかった、そのうちに東京劇壇は松竹が全部資本的に占領してしまった、「高野の義人」
持っていた外に、都新聞という新聞が当時は東京市中へ第一等に売れる新聞であり、演芸界花柳界には圧倒的の
ことでもあるそうして大阪へ帰ったが、次に東京へ乗り出すには是非とも別の看板が必要である、いや別の看板が
であった、併しこの一座存外によく演りは演るが、東京の芝居見物には殆んど全く馴染が無い、そこで客足の薄いことは全く
ないと見てその機会を与えなかった、そこで沢田は東京の旗揚げに多分明治座であったと思う、そこへ乗り込んで「カレーの市民
は我慢しきれず大阪で成功した意気込をもって東京へ旗揚げに来た、沢田としては最初に大菩薩峠をもって来
は沈衰して振わず、沢田君あたりを一つ起して東京劇壇に風雲を捲き起させるのも眠気醒しではないかという心持にまで
自分が見に行きたいがその暇がない、また同君も東京へ来て演る機会は少ない、丁度名古屋まで来て、そこで中村吉蔵君
見たいことにあったのだ、だからその興行は当然東京を初舞台とし、ここから出立しなければならないことに決心してい
沢田を世間に出すとか何とかいうことよりも、東京劇壇へ一つ爆弾を投じて見たいことにあったのだ、だから
にいることに同情も持って居りまたこれを拉し来って東京劇壇の眼を醒さしてやろうというような多少の野心もあったもの
はそのままサッサと帰って京阪の秋景色を探り木曾路から東京へ帰ってしまった、斯ういう態度は小生の方も少し穏かでないか
の旗揚であった、そこで我輩もまあ一度だけは東京であのまま演らせて見るほかはあるまい、一度だけは黙認していよう
彼の病気が愈々危篤の時余は東京にいなかったと思うが、余の家族のものは余に代って見舞
た、そのお膳立もすっかり出来たということで余輩は東京へ出かけて行った。
松竹では芝の紅葉館へ東京の各新聞社の劇評家連を殆んど全部集めてくれた、城戸四郎君や
なこともあったが、然し本格的にはこの本郷座が東京震災復活の第一の大劇場であったが、その後今日では本郷
親しくその風采に接しその演説を終りまで聞いた、その時東京市長であった尾崎行雄氏が挨拶をし、島田三郎氏も何か
最大不朽なる人物とする、日本へ来戦された当時東京座に於てブース大将の演説会が開かれた時、余も新聞記者
後藤――その時は子爵であった、またこの人は東京の帝劇の食堂などでも見かけたことがある、非常な政界の人気男
、余は幼少より少しもそんな感化も影響も受けず、東京へ飛び出しても島田三郎等の説に共鳴して星を憎んだものだ
然もそれは二百四五十部しかない処、大部分は東京市中へ出ている、それがやがて大震災に遭ったのだから、もし
そうしているうちに、例の大震災で東京は殆んど全滅的の光景を現出した、市中の書物は固より紙型類
たものであるが、「都」はその読者の大部分が東京市中にあって、収入が確実で、経営の安定していることは
が在社時代を通じての都新聞は経済状態に於ては東京の新聞中屈指のものであって、「時事」か「都」かと
したいものだと思わないことはなかったし、その当時東京朝日新聞などは大いに我輩に目星をつけていたのであるが、妙な
読みたいという読者が多分にあるのである、どうか東京の読者に読ませるようにしたいものだと思わないことはなかったし
がなかなか立派な新聞である、新聞格に於ては当時の東京の一流新聞に比べても劣らない、新聞格としては都新聞など
さてそれから幾程を経て、東京日日と大阪毎日新聞との交渉になるのである。
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たろうと思う年齢は十四五であったと思う、当時神田の三崎町には元寇の役か何かのパノラマ館があったり、女役者
するは古いものであった、いつの頃であったか神田の三崎町の東京座で――東京座といっても今の若い人達
の弊風をあさましいものと見た、その中へ春秋社の神田豊穂君だの公園劇場の根岸寛一君だとかいうのが※った
いうわけには行かない、これは近所の人の紹介で神田区の或製本屋へ頼むことにした、それから口絵は小川芋銭氏
随分奔走した、それから美濃紙の買入についても本郷神田辺の紙屋を一軒一軒自分で聞いて歩いて品があると云え
に引き渡し、そうして話を決めて帰って来た、神田君が梯子段の下まで送って来て、こちらから伺わなければならないの
出版について相当条件も話し合い、それから今までの紙型を神田君に引き渡し、そうして話を決めて帰って来た、神田君が
時分、たしか神田辺にあったと思う春秋社の楼上へ神田君を訪ねて話をきめてしまったのである、その時に出版に
二人で神田君を訪問しようということでその時分、たしか神田辺にあったと思う春秋社の楼上へ神田君を訪ねて話をきめ
貰えればお任かせ申してもよろしい、では二人で神田君を訪問しようということでその時分、たしか神田辺にあったと思う
社というのも相当に品位のある出版社であり、社主神田豊穂君という人もなかなかよい人である、どうだ相談に乗らないか
の書物の中に納まるのである、それを発見して神田君がこれは妙々菊半截へおさまるおさまるといってよろこんだ、そこで版
たと同じような奇蹟的の恵みであったのだ、神田君は勇気をふるい起して震災版を拵えた、それは赤く太い線を
その潮流に乗じて大いに売り出した、出版者としての神田君も素晴らしい活躍をした、そこで印税としても未曾有の収入を
まいと怨むより外は無いが、併し今となっては神田君の誠意をどうしても買うことが出来ない、争うだけ争わねば
今後の出版史に陰に陽に動揺を与えることと思う、神田君が、たとえ窮余とは云いながら、貧すれば鈍するという行き方に出で
拵えられていたのだ、吾々としてはそこまで神田君側が窮迫したり計画したりするほどならば、何故もっと端的にその事情
行ける時が来るだろう、そうすれば充分の保証を立てて神田君に引き渡し自分はまた専ら読書創作の人に帰る――と考えてい
しまった後に春秋社及神田家の整理がつけばまた神田君を営業主として守り立って行ける時が来るだろう、そうすれば
、すべて明白にこちらで引受けてしまった後に春秋社及神田家の整理がつけばまた神田君を営業主として守り立って行ける
これは今は春秋社と切っても切れぬ関係にある神田氏の手に於てはいけないけれど、すべて明白にこちらで引受けてしまった
あったけれども、兎も角弟に出資して全部の権利を神田側の手から買い取ってしまったのである、斯うして置かなければ前途
見て取らざるを得なくなったものだから、そこで神田君の手から一切の権利を買収して専ら自家の手にまとめるの方法
敢て立ち入ってそれを慰問するほどのことはないと思い、神田君もまた我輩のところへ窮を訴えて来るようなことは少しもなかっ
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て見よう、ということになって、寺沢の紹介でたしか日比谷の松本楼で初会見をし、食事を共にした後に帝劇を
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この手紙の表書きには本所区向島須崎町八九番地とあって日附は三月十一日になっているが、年号
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も、その後、漸く堅実な人気を以て、遂には大久保卿以来の内務大臣だとまで云われるようにもなった、余輩が他事
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大菩薩峠の紙型だけが焼けないで残されたのは殆んど浅草の観音様が焼け残ったと同じような奇蹟的の恵みであったのだ