百姓弥之助の話 01 第一冊 植民地の巻 / 中里介山
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、百姓弥之助が、まだ十四歳の少年の頃、東京の本郷から十三里の道を、徒歩で立ち帰ったことがある、初夏の頃であっ
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に殊更不便を感ずるのである。そこで思いついたのが東北地方で着用して居る「もんぺ」のことである。あれを着用して見たら
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百姓弥之助はニュース映画を見ようと思って、新宿の追分のところまで来た。
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弥之助は那須の平野だの、八ヶ岳の麓だの、また北海道の平野などを旅行した時、植民部落というものを見ると、いつも胸
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求める気になったのである、武州の八王子から上州の高崎まで八高線という田舎鉄道が近頃出来上った、この村から汽車で高原地へ行く場合
一番都合がよい、この程、この田舎鉄道の中で、高崎の聯隊へ召集される兵士の幾人かと乗り合せたことがあった、至る
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舞台である、もしかりにあの二人の大芝居がうちきれないで江戸の城下が火になると云う事になれば、東北の強みはぐんと増して
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百姓弥之助は、武蔵野の中に立っている三階艶消ガラスの窓を開いて、ずっと外を見まわし
には今ぞ秋が酣である、弥之助のいる建物は武蔵野の西端の広っぱの一戸建の構えになっている。南に向いている弥之助の
ことがある。無論高原というほどの地点ではない、武蔵野の一角に過ぎないが、例の秩父山脈の余波の山脚が没入している
百姓弥之助が、どうしてこの武蔵野の殖民地に住んでいるかということを一通り書いて見ると、彼は
やがて冬が来る、武蔵野の冬の空ッ風は寒い。殊にここは植民地で吹きさらしだ。家にいる
ではない、こうして平和そのものの秋の夕ぐれの武蔵野の中を走る電車は明朗な青年たちで張り切って居る、然し彼等とても全く
は食土一如の信者というわけでは無いが、この武蔵野の植民地に住む限りは、主としてこの附近の産物を食料にとる方針
百姓弥之助は山林が好きで、殊に武蔵野の雑木林と来ては、故郷そのものの感じである、本来はこの雑木林の
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事である。易断に凝った結果、或学者の紹介で横浜の高島嘉右衛門に入門し、そのすすめで易経の暗誦を初め、田や畑の
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「小田原城はどの辺になりますか」
「仲々広いです、しかし北条氏時代の小田原城はまだまだ何倍も広かったでしょう、なんしろあの中へ北条氏が関八州の
囲んだと云うのですから、徳川氏になってからの小田原城とは規模がちがいましょう」
だったが、軍略にかけてはさすがに日本一でした、小田原城にしてもああして大軍は動かしたけれども殆ど兵は殺していない
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それから二人の会話が何時しか西郷と勝の江戸城ゆずり渡しの事に及んで来た。
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子馬も一頭奥州から買入れて飼養したけれど、手数が煩わしいので売り払ってしまった。
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するところにまだ明治時代の御成道気分が残っている、万世橋へ来て見ると昔の柳原通り、明治以来の名残り、古着屋が相当軒
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とは違っていた。弥之助は那須の平野だの、八ヶ岳の麓だの、また北海道の平野などを旅行した時、植民部落という
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と云うのは多摩川の本流をここで分けて一方を玉川上水として、江戸以来東京へ引き、一方はそのまま東京湾へ落したものだ
水道沿岸に於てもやっぱりその事は云える、江戸以来の玉川上水、日本第一の水道であったところのこの玉川上水は弥之助の少年時代は
の玉川上水、日本第一の水道であったところのこの玉川上水は弥之助の少年時代は両岸から昼猶暗いところの樹木がかぶさって居たり、
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が金色にかがやいている、それから東南へ山も森も関東の平野には今ぞ秋が酣である、弥之助のいる建物は武蔵野の西端
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こっちへ来て見ると田舎の電燈料が東京市内にくらべて遙かに高い、高いのはいいとしても光力が甚だ弱く
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砂川村に俗に「おてんとうさま」という荷車挽きがあった、本名は時蔵と
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て、古い半靴を穿いて東京を出て来た、湯島天神の石段を上りきって、第二の故郷の東京から第一の故郷へ
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地方でも用いない事はないがその本場は寧ろ山形、秋田の方面であると云わなければならぬ、然し御希望によって当地で
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は福島地方でも用いない事はないがその本場は寧ろ山形、秋田の方面であると云わなければならぬ、然し御希望によって
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その文面に依ると「モンペ」は福島地方でも用いない事はないがその本場は寧ろ山形、秋田の方面で
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よだてて一方の隅を見込んだ形が今思い返して見ると佐賀の鍋島の奥女中連が怪猫の侵入に怯えた気分がある。二つ
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はその時丁度徴兵検査であった。その時分の彼は東京へ出て所謂苦学ということをしていたが、徴兵検査はこの
、或る技術学校の教師をしていた人だの、東京の下町で然るべき炭薪屋をしながら社大党に属して日頃注意を受け
に来ている、まだ隠居という年ではないし、東京にも相当の根拠地を持ってはいるけれども目下の処は斯うして植民地
たいと思った、十四の時やっと小学校を終えると無理矢理に東京へ出て、それから有ゆる苦しみをしてとうとうそれ以上の学校へは
が、弥之助は少年時代から読書が好きでどうかして東京へ出たいと思った、十四の時やっと小学校を終えると無理矢理に東京へ
の指で握りきれない太さを持って居たが、東京へ出て苦学と云う事をしたり家庭を背負って生活戦線に疲れたり
しかし避寒を兼ねての東京へ一番近い養生地と云えばこの地に越した所はないので弥之助
弥之助は此所で二日ばかり保養した後、東京へ取って返した。枝付きの蜜柑を買い込んで土産とし、三等
それから植民地に帰って数日して弥之助はまた東京へ出かけて来た。
――とやけの様に考えさせられる事がある。殊に東京市内から中央沿線に多くの学校が移されたところから、或る時刻になる
弥之助は植民地から東京へ往復するに国産小型自動車を用いて居る。
たるや至大なものである、これがあればこそ弥之助は東京を仕事場として植民地に引込んで居られるのである、弥之助の現在の
に依って非常な遠乗もやるし植民地から自分を乗せて東京に運ぶばかりではない、出版物や活字、組版等を乗せて往復する、
百姓弥之助は十二月初めの或る一日、用事を兼ねて、東京の市中を少々ばかり歩いて見た。
をつとめるやり方は以前と変らない、電車通りへ出ると、東京着物市場がある、所謂柳原通りは洋服屋だが、この市場は和服を
が、天気は非常によろしいけれど、風がある、久しぶりで東京見物をしてかなり町並みを歩いて見たが、なかなか物資は豊かでちっと
未だ曾て自分の領土内に侵略を受けたことがない、東京の一角へ爆弾の一つもおっこって来るという日は別だが、
改装された東京は風情というものが欠けておもしろ味のない感じはするけれども、表面見
を送る村人の行列を見て心を打たれたが、東京の地に来て真剣に武装した日本軍隊と云うものを眼のあたり
て見たら必ずこの不便から救われるに相違ない、そこで東京のデパートあたりを探させて見たが、出来合は見当らないようだとの
それから暮になって東京へ出て見ると丸ビルの一角に純田舎製のモンペが売店に二三
東京では盛んに塩豆を売って居る、成程あれも豌豆には違いないけれど
ながら歩いて同行の人を冷々させたものだ、以前東京の市中で豌豆煮立と云って売り歩いたものだがこの頃ではそれも聞え
東京の縁日でどうかすると煎り立て豆を売って居る、豌豆を水につけ
から理髪店へ行って時間をとられるのは何よりつらい。東京に居る時はいつも一番安い理髪店を求め歩いては刈らしたものであるが
昔三十年も前に東京でこれをやって見た事がある、その時はバリカン一挺三円
の中へ投げ込み、たしかに持参した筈のがない、東京へ置き忘れて来た筈はないのに幾ら探してもない。
日二晩の生活を共にしたが、自分はまた東京へ出かけなければならぬ、そこで、塾の青年にこの仔猫と、猫飯
、それからまた例によって耕書堂の戸を閉して東京へ出かけた、その時に猫を取っ捕えて青年達に托すること前の
それからまた東京へ一往来して帰って来て一人寝たが猫は来ない、若し
の番をさせて置く――そうして弥之助はまた東京へ出たが、二日ばかりして帰って見ると野良猫は昨晩死んで
ものだが、昔はその分水も豊富であったが、東京の拡大するにつれ、今はもう殆ど全部を上水へ取入れてしまって、
、湯島天神の石段を上りきって、第二の故郷の東京から第一の故郷へ帰る心持、丁度、唐詩にある「卻望并州是故郷
が、紺飛白の筒袖を着て、古い半靴を穿いて東京を出て来た、湯島天神の石段を上りきって、第二の故郷
の昔、百姓弥之助が、まだ十四歳の少年の頃、東京の本郷から十三里の道を、徒歩で立ち帰ったことがある、初夏の
が軒を並べて、中央線利用のインテリ君やサラ氏が東京の中心へ毎日通勤するようになった。
弥之助の植民地のある本村は、前に云う通り東京の中心地から僅かに十二三里の地点だが、弥之助の小学校時代に
用心しろの、汽車が出来た為に村の富はずんずん東京へ持って行かれてしまうから、ああいうものへは成るべく近づかない方
為すの已むを得ざるに至った、その時である、東京に居た弥之助は町のお祭を歩いて、それまでは提灯であった
て田舎も中々贅沢になったと笑ったものだが、東京の市中に於ても電燈というものが早くから点けられてはいた
いつ頃の事であったか知らん、何でも弥之助が東京に出た時分で、明治三十年代の事であったと思う。農家
こっちへ来て見ると田舎の電燈料が東京市内にくらべて遙かに高い、高いのはいいとしても光力が
弥之助は植民地へ持ち帰ろうと思って、足を棒にして東京中をさがし廻ったけれども、とうとう何所にも見出す事が出来なかった
等に使用した。石油ラムプというものは今日では東京の市中をさがしても殆ど一つもない、数年前弥之助は植民地
読めるだけの本は借りて読みつくし、とうとう我慢が出来ず東京へ学問をしに出かけた。
ついて少々漢学を習い、また初めてこの人につれられて東京へ出て来た縁故がある。
百姓弥之助は東京から植民地への帰りに、新聞を見るとドイツ軍のオースタリー侵入の記事
三月の半ば百姓弥之助は東京から帰り道、武蔵野原の自分の山林へと立ち寄って見た。
活字の揃っている工場は無い――(ただ一箇所の東京出版の会社を除いては)――ということになっている。九
弥之助はその僧侶を尋ねて、生食の福音を聞きその儘東京へ帰って、直ちに実行して見たが、たちまち激烈に胃を痛めて
である。弥之助が二十何歳の時分の事であった、東京附近の或るお寺の若い住職で生食をもっぱらとする僧侶があった、
弥之助は東京の有名な料理店の、相当多数を味わった事もあるが、その店独得
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原地へ安居を求める気になったのである、武州の八王子から上州の高崎まで八高線という田舎鉄道が近頃出来上った、この村から汽車
と、今の中央線が甲武鉄道と云って、飯田町から八王子までしか開通していなかった。
甲武線――飯田町八王子間の開通が明治二十二年八月ということであって、その沿線立川駅
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老人は品川で山の手線に乗り替えて新宿の方へ別れた、弥之助は東京駅まで乗った。
百姓弥之助はニュース映画を見ようと思って、新宿の追分のところまで来た。
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老人は品川で山の手線に乗り替えて新宿の方へ別れた、弥之助は東京駅まで乗った
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きっかけに二人はそこで立話をした、この青年は去年上野の美術学校を出た秀才でかっぷくのいい形をして居た。
日本橋の三越のところから地下鉄に乗って、上野の広小路松坂屋へ行って、「非常時国産愛用廃品更生展覧会」という素晴らしく大げさ
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、然るべき専用乗物が欲しいと考えて居るうち、或る朝日本橋の昭和通りを歩くと店にマツダ号という三輪自動車が一台かざら
日本橋の三越のところから地下鉄に乗って、上野の広小路松坂屋へ行って、「
かすめられたりすること屡々である。或時の如きは、日本橋からくさやの干物、鱈の切身というようなもの一包を買い込んで、
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この市場は和服を主としている、それから小伝馬町、人形町通りを歩いて茅場町から青山行のバスに乗って東京駅で下車して丸
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て居る。それも近頃はだんだん尠なくなってしまったが、浅草公園の瓢箪池の附近に行くと最近まであれを専門に売って居る露店
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感じで見返ったことを覚えている、それから今の高円寺荻窪辺、所謂杉並村あたりから、北多摩の小平村附近へ来ると、靴ずれ
百姓弥之助は荻窪で立臼と杵を一組買い求めた。
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の感じで見返ったことを覚えている、それから今の高円寺荻窪辺、所謂杉並村あたりから、北多摩の小平村附近へ来ると、
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、とうとう何所にも見出す事が出来なかった、最後に銀座の或る大きな洋品店で聞いて見ると一つ有った筈だと棚の方
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ながらたった四頁の引札がわりの、ちらしのような雑誌、神田の阿部商店という「名宛印刷器」製造元の機関紙であるが、その中
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上水として、江戸以来東京へ引き、一方はそのまま東京湾へ落したものだが、昔はその分水も豊富であったが、東京