大菩薩峠 40 山科の巻 / 中里介山

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地名一覧

大坂城

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ことにして置いて、秀吉がひそかに伴い帰って、大坂城の奥ふかく隠して置いたという説がある。それは確かな説では

二条新地

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の方も、たんまりとせしめて、小金も出来ました。二条新地に女郎屋をこしらえましてな、召使をたくさんに使い、天晴れの親分大尽を

本能寺

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が、柴田勝家じだんだの石というのです、織田信長が本能寺で明智のために殺された時、柴田勝家は北軍の大将として、

三条

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、この当人は、当座の食物をあさるべく、壬生や、三条、四条方面の本場へ行かないで、むやみに場末に向って、ふらふらと歩い

雷門

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ソレニ急ニ七郎三郎ガ誘ッタ故、袴ヲハカズニ行ッタカラ、雷門ノ内デ込合ウ故ニ、刀ガ股倉ヘ入ッテ歩カレナカッタガ、押合

逢坂

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机竜之助が、透き通るような姿をして現われて来た逢坂の関の清水の蝉丸神社の鳥居から、今晩、またしても夢のよう

に何の騒がしいことがございますか、後ろを顧みれば、逢坂、長良の山々、前は東山阿弥陀ヶ峯を越しますると京洛の夜の世界

二人の立っている地点から見ると、後ろは逢坂の関から比良、比叡へ続く峯つづき、象ヶ鼻、接心谷、前は

畿内

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山の両道から、北陸の一部、北は陸奥に及び、畿内の中心、いわゆる日本アルプスの地帯が活躍の壇場になって来たが、

音羽山

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比叡へ続く峯つづき、象ヶ鼻、接心谷、前は音羽山、東山、左へやや遠く伏見の稲荷山、桃山――その間の山科盆地を

銚子

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、ソレガ徳ニナッテ路銀モ遣ワズニ諸所ヲ見テ来タ、銚子ニテ足ガ痛ンダカラ、勘次ヲ上総房州ノ方ヘ約束シタ所ヘヤッテ、オレハ

、勘次ヲ上総房州ノ方ヘ約束シタ所ヘヤッテ、オレハ銚子ノ広ヤカラ舟デ江戸ヘ送ッテクレタカラ、寝ナガラウチヘ帰ッタ、ソレカラ毎日毎日、浄

本覚寺

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やがて五条橋の南の詰をめぐったかと思うと、本覚寺に近いところ、深い竹林の中を彼は歩いているうちに、一つの堂

四条

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当人は、当座の食物をあさるべく、壬生や、三条、四条方面の本場へ行かないで、むやみに場末に向って、ふらふらと歩いて行く

安芸

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秀世ガ云イ人デ、虎ノ門外桜田町ノ尾張屋亀吉トイウ安芸ノ小差ガ、牧野ノ小差ニナリタガッテ、オレニ頼ンダ故、世話ヲシテヤロウト云ッタラ、金

鹿島

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上から論歩を進めて参りました。江戸で三井、鹿島、尾張屋、白木、大丸といったような、大阪で鴻池、炭屋、加島

川崎

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ヘ来テハツマラヌ男デアッタ、八月末ニ九州ヘ帰ルカラ、川崎マデ送ッテ別レタ」

宇治

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逢坂、長良を後ろにして、宇治、東山を前にした山科谷。しばらくすると米友が、はったと足の歩み

筑前

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の三井、小津、長谷川、名古屋の伊東、紀州の浜中、筑前の大賀、熊本の吉文字屋――北は津軽の吉尾、松前の安武より、

九州

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逢ッタコトガナイカラ、近附ニ行ッタラ、ソノ時オレガ思ウニハ、九州者ノ二三年先ニ江戸ニ来タトイッテモ、マダ江戸ナレハシマイカラ一ツタマシイヲ抜カシテヤロウト心附イタカラ

楽シミニシテ居タガ、六月カ五月末カト思ッタガ、九州ヨリ虎ガ兄弟ガ江戸ヘキタカラ、毎日毎日、行通イシテ、世話ヲシテ、江戸ヲ見

ト云ッタガ、江戸ヘ来テハツマラヌ男デアッタ、八月末ニ九州ヘ帰ルカラ、川崎マデ送ッテ別レタ」

稲荷山

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谷、前は音羽山、東山、左へやや遠く伏見の稲荷山、桃山――その間の山科盆地をさまよっている。京の中心へも程遠

本所

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「コノ年十月、本所猿江ニ、摩利支天ノ神主ニ吉田兵庫トイウ者ガアッタガ、友達ガ大勢コノ弟子

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北陸の鎮が遠くして、中京に鞭を挙ぐるに及ばない間に、佐久間蛮甥

蝉丸神社

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(例)蝉丸神社

な姿をして現われて来た逢坂の関の清水の蝉丸神社の鳥居から、今晩、またしても夢のように現われて来た物影が

島へは渡らずに、つい今の先、この関の蝉丸神社へ一期の思い出に納め奉ってしまったのか、そのいずれかであろうと

を経歴して来たのだが、ついいま参詣した蝉丸神社というのも、あの辺がれっきとした古来の関だと聞いて来

越えをして来て、それから少しあと戻りをして、蝉丸神社へ参詣したと覚えているが、ドコをどう廻っても、お関所らしい

白川

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山科に入り、四宮、十禅寺、御陵、日岡、蹴上、白川、かくて三条の大橋について、京都に入るの本筋を取るつもりであろう

弥勒寺

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半バカリニ四五十両カケタ、本所デモ大勢弟子ガ出来テ、シマイニハ弥勒寺ノ前ノ小倉主税ト云ウ仁ノ屋敷ヘ住ンデイタ、日々、病人、迷人

伊東

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、周防の磯部、伊勢の三井、小津、長谷川、名古屋の伊東、紀州の浜中、筑前の大賀、熊本の吉文字屋――北は津軽の吉尾

という男も、前には芹沢で立後れ、今は伊東でまた後手に廻る、仕様がないなあ、ともかく、これから月心院へ引上げよう」

江戸

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上方へは近いところの生れなんだが、かけ違って、江戸の方を先に見ちまったんでな」

「それから、また江戸へ帰ると今度は、道庵先生のおともをしてこっちへ来ることに

だけれど、世間一体が静かというわけにゃいかねえなあ、江戸は江戸で貧窮組が出る、押込み強盗がはやる――辻斬りもたまにはある」

、世間一体が静かというわけにゃいかねえなあ、江戸は江戸で貧窮組が出る、押込み強盗がはやる――辻斬りもたまにはある」

「昔、江戸では端唄がございました、夜更けて通るは何者ぞ、加賀爪甲斐か、

、なにしろ武力の権を一手に握り、家康が選定した江戸の城に根を構え、譜代外様の掩護のほかに、八万騎の直参を

を、実際の上から論歩を進めて参りました。江戸で三井、鹿島、尾張屋、白木、大丸といったような、大阪で鴻池

と言っている。士分には相違ないが、宮方か、江戸かよくわからない。江戸風には相違ないが、さりとて、生え抜きの江戸っ児でない

実に他の見る眼もいじらしいくらいで、事あれば必ず江戸に残した父に報ずる、立身したからと言っては父に、功名し

仕給せらるる手当は割いて以て父に奉ずる。周斎老人は江戸に於ても、おれは勇が孝行によって、この通り何千石の旗本

二にも悴のおかげだと言って喜んでいるのが江戸では評判で、それを見聞きするほどのものが、ゆかしがらぬ者はない

「偽物説――それも聞いたよ、江戸を立つ時に、ぜひ性のいい虎徹が欲しいと苦心した末に、ようやく

いうことは、いささか時の不祥と言わなければなるまい。江戸の弥勒寺長屋にいた時分、江戸の闇を食って歩いた経歴は知る人

言わなければなるまい。江戸の弥勒寺長屋にいた時分、江戸の闇を食って歩いた経歴は知る人ぞ知る。甲府の城下へたどりついた

が殺されたというに、まだその犯人がわからない、江戸では、上使の中根一之丞が長州で殺された。ところでこの拙者など

無垢の青年だと誇るわけにはゆかない。その昔は江戸での色町で、相当な疚しい思い出がないとは言えないから、いささか恐れて

てな、その人から紹介状をもらいました。その先生は江戸におられるのです、当時、英学にかけては、その右に出でる人は

からまた故郷の福井へ帰って、旅費を工面して、江戸へ向って出直すつもりで、それで、胆吹山を立って参ったんです」

して詳しく問いただすべきことではない。もう一つ――江戸で有数な英学者、身分は旗本――というようなことも、離して

「それは結構な志だ、しっかりやり給え、江戸はなかなか誘惑が多いからな」

江戸は誘惑が多いことなんどを、特に附け加えて、はじめて兵馬も自分がテレ加減に

「まあ、江戸ですね」

「江戸ですか、それは懐かしいです」

よくわからないが、多分、この青年には過去に於て江戸を懐かしがる何物もないけれど、これからの目的地として、懐かしがるべき理由

そのものになりきって、海道筋をほうつき歩き、やっと江戸のわが家へのたりついたが、十九の年にまたぞろ出奔して、今度は

咄ソウトテ、帯刀ノ座敷ヘ通リテ、斎宮ヘモ逢ッタガ、江戸ニテ帯刀ガ世話ニナッタコトヲ厚ク礼ヲ云イオル、ソレカラ江戸ノ様子ヲ話シテ、

、江戸ニテ帯刀ガ世話ニナッタコトヲ厚ク礼ヲ云イオル、ソレカラ江戸ノ様子ヲ話シテ、思イ出シタカラ逢イニ来タト云ッタラ、親子ガ悦

、イロイロト支度ヲシタラ、斎宮ハアル晩、色々異見ヲ云ッテクレテ、江戸ヘ帰レトイウカラ、最早決シテ江戸ヘハ帰ラレズ、此処デ二度マデウチヲ出タ故

、色々異見ヲ云ッテクレテ、江戸ヘ帰レトイウカラ、最早決シテ江戸ヘハ帰ラレズ、此処デ二度マデウチヲ出タ故、ソレハ忝イガ聞カレヌト云ッタラ

ソコヨリ七里脇ニ向坂トイウ所ニ、サキ坂浅二郎トイウガイルガ、江戸車坂井上伝兵衛ノ門人故、江戸ニテ稽古ヲシテヤッタモノ故、ソコヘ度々行ッテ泊ッタガ、

ニ、サキ坂浅二郎トイウガイルガ、江戸車坂井上伝兵衛ノ門人故、江戸ニテ稽古ヲシテヤッタモノ故、ソコヘ度々行ッテ泊ッタガ、所ノ代官故ニ工面モイイカラ、

リチラシテ帰ルマイト、相談ノ上、ワタシガ来タカラ、是非共、江戸ヘ帰ルニシタ」

ないから神尾も深く気にしないで、いよいよ先生、また江戸へ逆戻りかな、しかしまあ旅先では、よくこんな馬鹿を人が相手にし

ガ気絶シテ大騒ギヲヤッタガ、気ガツイテ、ソレカラ通シ駕籠デ江戸ヘ帰ッタガ、親父モ、兄モ、ナンニモ云ワヌ故、少シ安心シテウチヘ行

上ノ世話ヲシオッタガ、悪ガシコイ奴デ、仲間ハ皆ンナガイロイロハグラカサレタ、江戸ヲ三度借倒シテ三州ヘ行キオッタガ、オレニハイツモ咄シテ逃ゲタ、又江戸ヘ

借倒シテ三州ヘ行キオッタガ、オレニハイツモ咄シテ逃ゲタ、又江戸ヘ出ロトイッテモ、オレガ手紙ヲ附ケテ、仲間中ヘ借倒シノワケヲシテヤルト、ミンナガ損ヲシタコトハソレナリニシテクレタ

ッタガ、案ノ定、四年目、甲州ノ騒ギデシクジリ、江戸ヘ行ッテ小十人組ヘ組入リヲシタガ、三千両ホド借金出来テ、家来モ六

ヲ立テタガ、今ハ三十俵三人扶持ダカラ困ッテイル、江戸ノカケヤニモ千五百両バカリ借ガアル故、三人扶持ハ向ケキリニナッテイル、ソレ故ニ子供ガ

のことで、稽古にいく途中、病犬に食われた、江戸は犬の多いところだが、病犬はあぶない、食われるに事を欠いて、

も、誰も嫁のくれ手がなくておしまいだ。嫁さがしで江戸を構われただけではない、甲州まで行って、有野の娘でもしくじっ

ッタラ、ソノ時オレガ思ウニハ、九州者ノ二三年先ニ江戸ニ来タトイッテモ、マダ江戸ナレハシマイカラ一ツタマシイヲ抜カシテヤロウト心附イタカラ、緋縮緬ノジュバンニ洒落タ衣類

ウニハ、九州者ノ二三年先ニ江戸ニ来タトイッテモ、マダ江戸ナレハシマイカラ一ツタマシイヲ抜カシテヤロウト心附イタカラ、緋縮緬ノジュバンニ洒落タ衣類ヲ着テ、短刀羽織

デハオマエヲ豪傑ダト云ウカラ、近附ニ来タ、ソノヨウナ小量デハ江戸ノ修行ハ出来ヌトイッタラ、サヨウナラ今日ハ吸オウト云ウ故ニ、下ヘイイツケテ煙草入

ノ方ヘ約束シタ所ヘヤッテ、オレハ銚子ノ広ヤカラ舟デ江戸ヘ送ッテクレタカラ、寝ナガラウチヘ帰ッタ、ソレカラ毎日毎日、浄ルリヲ聞イテ浅草辺カラ

月カ五月末カト思ッタガ、九州ヨリ虎ガ兄弟ガ江戸ヘキタカラ、毎日毎日、行通イシテ、世話ヲシテ、江戸ヲ見セテ歩イタ、虎ノ

ガ兄弟ガ江戸ヘキタカラ、毎日毎日、行通イシテ、世話ヲシテ、江戸ヲ見セテ歩イタ、虎ノ兄ノ金十郎トイウ男ハ、万事オレ次第ニナッテ居

ヲシテ見セタラ金十郎ハコワガッタ、金十郎ハ国デハアバレ者ト云ッタガ、江戸ヘ来テハツマラヌ男デアッタ、八月末ニ九州ヘ帰ルカラ、川崎マデ送ッテ別

、いざ戦争となれば、天下が乱れて諸道が塞がる、江戸そのものの食糧が上ったりになりはしないか。金ときた日に

エライといって、うちの大先生ほどのエライ人はない。江戸へ出て、エライと言われる人もお見かけ申したことがないではない

知恩院

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つい近いところの知恩院の鐘が鳴りました。幾つの時を報じたのか、時の観念を

七条

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その格闘史としては、古今無類の七条油小路の現場へ駈けつけて、そのいずれかの一方へ助太刀をするかと思えば

小石川

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ヲヨコシタ故、飛ンデイッタガ、モハヤ事ガキレタ、翌日心当リガアッタカラ、小石川ヘ行ッタガ立退イタト見エテ知レヌカラ帰ッタ、ソノウチ大兄ニ近親共ガ来テ

大菩薩峠

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よって念のために、大菩薩峠の「農奴の巻」までさかのぼって、それを検討してみますと、弁

ても内政的に新体制のことが考えられている。わが大菩薩峠も、形式として新しく充実した出直しをしなければなるまい。

比叡

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ている地点から見ると、後ろは逢坂の関から比良、比叡へ続く峯つづき、象ヶ鼻、接心谷、前は音羽山、東山、左

草津

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。あれが、やがて、農奴として曝しにかかって、草津の追分につながれた時分、往来の道俗の中から、がんりきの百

お膝元の大江戸から派遣せられたものであってみれば、草津や長浜の町が、その腕の見せ場ではないはず。米友やがんりき

て、ぴーんと来ていない限りはないのだが、草津の駅でがんりきを咎めたように、頭ごなしに咎められない。がんり

ないと、当人ではない、役人たちが観念して、草津の辻へ「生曝し」にかけてしまったが、源松そのものも、

大井川

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「ソレカラ、ダンダン行ッテ、大井川ガ九十六文川ニナッタカラ、問屋ヘ寄ッテ、水戸ノ急ギノ御用ダカラ、早

て来て、水戸の播磨守の家来だと言って、大井川にかかるところまで読んで来たので、これからがその読みつぎになるのです

越後水原

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ヲイッテヨコシタ、ソレカラ不断尋ネテヤッタ、丁度、支配ガ大兄ノ支配シタ越後水原ニナッタカラ、国ノ風俗人気ノコトヲ聞クカラ、オレガモト行ッタ時ノ様子ヲハナシテ勤向キノコトモ

壬生寺

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除外例の特権を作らせた階級がある。それは程近い壬生寺の前に住する東国の浪人、俗に称して壬生浪人、自ら称して新撰隊

落合

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「行ハイロイロシタガ、落合ノ藤イナリヘ百日夜々参詣シ、又ハ王子ノイナリヘモ百日、半田稲荷ヘモ百日参シタ

薩摩

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、住友――京の下村、島田――出羽で本間、薩摩で港屋、周防の磯部、伊勢の三井、小津、長谷川、名古屋の伊東、紀州

。では何者だとお聞きになると困りますが、薩摩でも、長州でもございません、ちゃあんと犯人はわかっているのでございます

「まず、薩摩か」

、小栗様は徳川家を立てようとなさるし、勝様は薩摩と組んで、徳川家をつぶそうとしておいでなさるんですってね」

で徳川家を立てようとしない奴があるか、勝が薩摩と組んで徳川を潰すなんぞと、誰がお前に言った」

「それは、薩摩と長州よ」

「そうなんでしょう、その薩摩と長州が、つまり徳川様の天下を倒そうとなさるんでしょう、それをそうは

「つまりは、薩摩や長州を相手に戦争ということになるわね。戦となると、兵隊

エライ。そんなことは鼻垂小僧のする質問だが、勝が薩摩と組んで、主家の徳川を倒そうとしている。小栗が金を外国から

長州薩摩の方はイギリスだとのことだが、長州や薩摩だって同様だ、徳川が憎いからといって、毛唐に国を売るような

府中

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宇津木兵馬は、浅水、江尻、水落、長泉寺、鯖江、府中、今宿、脇本、さば波、湯の尾、今庄、板取――松本峠を

竹生島

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いずれかであろうとは推察が届くのであります――竹生島にしても、蝉丸にしても、琵琶とは極めて縁が深い。そこへ

島原

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そこで当然、日本色里の総本家と称せられた島原の廓はいよいよ明るい。今宵も新撰組の一まきらしいのが大陽気に騒い

これらの子供は島原の太夫の卵と見るべきものだから、その言葉も優にやさしい京言葉でなければ

「さあ、籤をお引き、島原の舞子ともあろうものが、この期に及んで、お化けにうしろを見せて

大びけ過ぎといった時刻の暁方、追い立てられるように、島原の大門を出た、たった一人の客がありました。

「わっしは、島原の地廻りの者なんでございますが、角屋さんの方から、たった今、

「何はともあれ、島原は源平藤橘を嫌わないところだ、金さえあれば、王侯も、乞食も

で受けつけられるかどうかわかったものではない。とにかく、島原の行動と言い、その後の応対と言い、捉まえどころが有るようで全くない。

ついて見ると、またしても斎藤一がいない。島原でも出し抜かれ、ここでもまた置去りを食ったことに苦笑いをしながら、

しても、昨晩はこんなことはなかった。ゆくりなく島原の角屋の御簾の間の昔に返って、あそこへ寝てみたが、

兵馬の頭には、僅か昔の京洛の天地、壬生や島原の明るい天地の思い出が、怪しくかがやいて現われて、あれから新撰組はどうなっ

越前

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ましたが、日と夜とを重ねて、ついに二人は越前の国、穴馬谷に落ち込んでしまいました。

称すべき意味合いの皮肉の地名ではないので、事実、越前の国、穴馬谷の名は、れっきとして存在した――今も存在する

た加賀の金沢とも、およそ方面を異にして、越前へめぐり込んでしまったということを、穴馬谷に落着いて、山民から聞い

「ねえ、宇津木さん、ここは越前分ですとさ、越前の国、穴馬谷という村ですとさ、ほんとに穴のような土地じゃありませ

「変な名だ――これが越前の国とは思わなかったよ」

「加賀へ出る道が、すっかり塞がれてしまって、越前へ送り出されたというのも、何かの縁なんでしょう、いっそ、金沢

名に聞いたまま足を入れていない北国の名都、越前の福井に見参してから、その上で、あれから近江路へ出ることは

越えて、中河、つばえ――それから柳ヶ瀬へ来て越前と近江の国境。その途中、鯖江を除いては城下とてはなく、宿々駅々

そうして無事二十里の道を突破して、このところ、越前と近江の国境、柳ヶ瀬までの間、道の甚しく迫ることを感じ、なるほど、

迫ることを感じ、なるほど、ここは要害だ、柴田勝家が越前から上るにしても、羽柴秀吉が近江から攻めるについても、両々共

行こか越前、帰ろか近江、ここが思案の柳ヶ瀬の峠――

「これから、越前の福井へ帰るです」

いる、そういう風説を聞きましたものですから、僕は越前の福井からかけつけて、右の団体へ加入してみたんです。僕の

城下で、あなたとお別れになって、友情綿々、ここ越前と近江の国境に来て、なお君を思うの情に堪えやらず、笠

ここで二人は、近江と越前へ、おたがいにまだ手に持って、頭に載せない取交わせの笠を

関西

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の、釣がねえのねえは、江戸方面の訛りで、関西では同様の格に用いない。

関西旅中────┼─道庵先生

名古屋

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で港屋、周防の磯部、伊勢の三井、小津、長谷川、名古屋の伊東、紀州の浜中、筑前の大賀、熊本の吉文字屋――北は津軽

滋賀

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。それをするには、京都に近く、奈良に近く、滋賀と浪速とを控えたこのあたりが、絶好のところであり、今の時が

兵庫

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弟子ニナッテ神道ヲシタ、オレニモ弟子ニナレトイウカラ、行ッテ心易クナッタラ、兵庫ガイウニハ、勝様ハ世間ヲ広クナサルカラ、私ノ社ヘ、亥ノ日講トイウノヲ拵

世話人ハ残ラズ、御紋服ヲ着テクレロトイウカラ、ソノ通リニシテヤッタラ、兵庫ハ装束ヲ着テ居タ、段々参詣モ多ク、初メテコノヨウナ賑ヤカナコトハナイトテ、前町

ルト、酒肴デ、アトデ膳ヲ出シテ振舞ッテ居ルト、兵庫メガ、イツカ酒ニ酔ッテ居オッテ、西久保デ百万石モ持ッタツモリヲシ、オレガ友達

モダガ、セッカク出来タノニオ前ガ断ワルト、皆々断ワル故、兵庫今更後悔シテアヤマルカラ、許シテヤレト種々イウカラ、ソンナラ以来ハ御旗本様ヘ対シ、慮外

ニモサセルカラト云ウ故、宮川並ビニ深津金次郎トイウ者ト一所ニ兵庫ノトコロヘ行ッタ、ソウスルト、大頭伊兵衛ガ道マデ来テ云ウニハ、オマエガオ入リニハ、

、大頭伊兵衛ガ道マデ来テ云ウニハ、オマエガオ入リニハ、兵庫ハカリ衣ヲ着テ門マデオ迎エニ出ル、ソレカラ座敷ヘ出ロ、昨日ノ

、ヨク云イ聞カシテ置キナサルガイイトテ、イジョウヲコメテ帰シタ、間モナク兵庫ガ宅ヘ行ッタラ、同人ガ迎エニ出ルシ、世話人モ残ラズ玄関マデ出

ノ正面ヘ通ッタラ、刀カケニオレガ刀ヲカケテ、皆々座ニツイタ、兵庫モ出テ、オレニ昨日ハ酒興ノ上無礼ノ段々恐レ入ッタリ、以来慎

リテモテナシタガ、酒ガキライ故ニ、人々酔ッテ騒グヲ見テイタラ、兵庫ノ甥ニ大竹源二郎トイウ仁ガ有リ、オレガ裏店神主ト云ッタヲ聞キオッテ腹

刀ヲ取ッテ立上リ、契約ヲ違エテ、タワ言ヲヌカスハ兵庫ガ行届カザルカラダ、甥ガ手向ウカラハ云イ合ワセタニチガイナイカラ、望ミ通リ相手ニナッテヤロウト云

ヨウト思イ、追ッカケタラ、皆ンナガ逃ゲ出シタ、ソレカラ兵庫ガ勝手ノ方ヘ大竹モ逃ゲタカラ追イ行クト、折ワルク兵庫ガ納戸ヘオレガ

勝手ノ方ヘ大竹モ逃ゲタカラ追イ行クト、折ワルク兵庫ガ納戸ヘオレガ入ッタラ、大勢ニテ杉戸ヲ入レテ押エテ居ルカラ、出ルコトガ出来

ノヤツラハ呑ンデイロイロ不作法ヲシタカラ、オレハソノ席デ少シモ間違ッタコトハシナカッタ、兵庫ガ駕籠ヲ出シタカラ、乗ッテ橋本庄右衛門ガ林町ノウチマデ来タガ、ソレカラ何モ知

レテ、飯ガ食エナカッタ、翌日皆ンナガ尋ネテ来テ、兵庫ガウチノ様子ヲイロイロ話シテ、ソノ時、橋本ト深津ハ後ヘ残ッテ居テ、

ガ起請文ヲ壱通ズツヨコシタ、ソレカラ猶々本所中ガ従ッタヨ、兵庫ガ脳ガ悪イカラ、講中モ断ワッテヤッタ、ソノ時オレガ加入シタ分ハ、残

足羽山

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それに引換えて、三十二万石福井の城がめざましい。転じて足羽山にのぼって見ると、展望がカラリと開けました。上に池があって

そうして、福井の足羽山で呼び起された柴田陥落の悲劇だの、太閤の雄図だの、実際に於

大阪

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、三十五万石の彦根へ行け、五十五万五千石の紀州へ行け、大阪へ出たら鴻池、住友――その他、この近国には江戸旗本の領地が

、鹿島、尾張屋、白木、大丸といったような、大阪で鴻池、炭屋、加島屋、平野屋、住友――京の下村、島田――

人さえ、わかっているようでわからない、つい近い頃、大阪では天満の与力内山彦次郎が殺されたというに、まだその犯人がわから

内閨まで取入れられたというものは、後年、天下の大阪の城を傾けた淀君というものが、ここから擁し去られて、秀吉

して来たとも思われない。神戸から来た、大阪から来た、彦根から来たといえば、そのまま受取れるが、山から来

甲州

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「それからお前、一度、甲州という山国へ入り込んで、あすこの生活を少し味わったよ」

聞き直すまでもない、それは竜之助として、甲州の月見寺以来熟しきった、お喋り坊主の音声に相違ありません。

成立チヲアラマシ云ッテ帰ッタガ、案ノ定、四年目、甲州ノ騒ギデシクジリ、江戸ヘ行ッテ小十人組ヘ組入リヲシタガ、三千両ホド借金出来

ッテ涙グンダカラ、カアイソウダカラ、段々ト葉山ガ始末ヲ聞イテ、甲州ノ郡代ヘヤル手紙ノ下書ヲ書イテ、是ヲ甲州ヘ遣ワシテ、コウシロ、大方

イテ、甲州ノ郡代ヘヤル手紙ノ下書ヲ書イテ、是ヲ甲州ヘ遣ワシテ、コウシロ、大方奇徳人ガダマッテハイヌマイ、五百ヤソコラハ出スダロウト教エテヤッタラ、キモヲツブシタ

おしまいだ。嫁さがしで江戸を構われただけではない、甲州まで行って、有野の娘でもしくじったわい。でも、この岡野と

伊勢

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最初、伊勢の国から東下りをする時代から、この種の笠をかぶりつけてもいるし、尾上の

島田――出羽で本間、薩摩で港屋、周防の磯部、伊勢の三井、小津、長谷川、名古屋の伊東、紀州の浜中、筑前の大賀、熊本

加賀

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ただ、変っているのは、白山白水谷をわけ入って、加賀の白山に登ろうということが、目標でもあり、一種の信仰でもある

山境へも出でず、白山を経ての菜畑であった加賀の金沢とも、およそ方面を異にして、越前へめぐり込んでしまった

「加賀へ出る道が、すっかり塞がれてしまって、越前へ送り出されたというの

ないということを確認したまでのことで、越中、加賀の方面には断じて、それらしい人の通過した形跡がないことを、

去ってみると、ただ見る越前平野の彼方遥かに隠見する加賀の白山――雲煙漠々として、その上を断雲がしきりに飛ぶ。今や雨

平戸

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――北は津軽の吉尾、松前の安武より、南は平戸の増富らに至るまでの分限を並べて、その頭のよいことに関守氏

叡山

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ついさき程は叡山四明ヶ岳の上で、大いに時事を論じていたと見たが、もう京洛の

関東

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は朽木を押すばかりとなっているとは申しますが、関東だからと申しましたとて、なにしろ武力の権を一手に握り、家康が選定

の勢力を憚らずしては事がなせない。いずれは関東に於て、甲府百万石を賜わって国主になるなんぞと、もてはやすものもある

高台寺

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「高台寺の月心院へ届けてくれ」

「高台寺の月心院、心得ました」

だけのもので、最後に突きつめたお宿許の名乗りに、高台寺月心院の名を指したが、それとても、果して月心院で受けつけられるかどう

「高台寺の月心院に」

堺町

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「実は、福井の堺町というのです」

「堺町、知ってます」

「その堺町で、うつの家――福松というところへ、この笠を届けてもらいたい

「堺町で、うつのや福松君ですか、よろしいです、番地はなくてもわかりましょう

佐渡

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から佐渡ヶ島へ――来いと言ったとて、行かりょか佐渡へ、佐渡は四十九里、浪の上――って、佐渡の女もまた情味

――来いと言ったとて、行かりょか佐渡へ、佐渡は四十九里、浪の上――って、佐渡の女もまた情味が深いん

また情味が深いんですってさ、男一人はやれない。佐渡に限ったことはないわ、あだし波間の楫枕――行方定めぬ船の

吉野

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廻っている光景は、立田の秋の錦と言おうか、吉野の花の筏と言おうか、見た目もあやに、高嶺の花とは違った

敦賀

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も市内の要所を一めぐりして、その足で鯖江から敦賀――江州へ出て京都へ上るという段取りに心をきめました。

京都

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「弁信さん、おいらは京都を見るのは、はじめてなんだぜ」

「近江の国へ来て見れば百姓一揆がある、京都へ行けば行くで、また血の雨が降ってるというじゃあねえか、どっちへ

確とその地理学上の根拠を突きとめようとしました。鳥羽は京都の南部に当り、伏見はこれよりやや東に隣り、道のりでは四里

日岡、蹴上、白川、かくて三条の大橋について、京都に入るの本筋を取るつもりであろうと思われます。

のでありまして、どのみち、天下が大いに乱れる時は、京都の地がその颱風の眼になることは、日本の従来の歴史を見

胆吹山まで持越して隠して置く。それをするには、京都に近く、奈良に近く、滋賀と浪速とを控えたこのあたりが、絶好

ものですから、未来と将来とに思いを及ぼさない限り、京都の市場はインフレの天地であります。

たようなもので、時代の中心は、江戸を離れて京都に帰ってしまったようなものですから、未来と将来とに思いを及ぼさ

て、諸般の景気はよくなる。幕末インフレの景気を、京都がひとり占めにしているといったようなもので、時代の中心は、

、都の中が兵火で焼却され、八万二千の餓死者が京都の市中に曝されたといったような現実の体験は少しもなく

は世の成行きを憂えもし、怖れてもいるけれども、京都が歴史に現われた時のように、保元平治の恐怖時代でもなければ

も、現証も、まず花柳界に現われたものだから、京都の遊廓の繁昌というものが、前例を越えているというのもさも

せられたにしてからが、その執念のために、京都から進入して、もっぱらこれが追跡に当るほどのことは想像されない

横行倒行している。今晩も、ここで、物騒な京都の夜を、平々かんかんとして川渡りを試みらるる自由は、またこのやから

も存在の余地を保留していると見えて、今の京都の天地にも、相応に棲息し、横行倒行している。今晩も

下ることを願ったが聞き入れられない、今のところ、この京都のお膝元から、近藤に離れられたのでは代るものがない、たとえ親

同じ威勢で京の天地に風を切っている。事実、京都に於ての彼の勢力は、かいなでの大名では歯が立たない、

んだが、いいか、まあ、さしさわりのないその辺の京都名代の大寺の住職に毒水禅師というのがあったと思い給え、

出てしまいました。外は生粋の夜です。しかも、京都の天地の絹ごしの夜ではあるが、その横も、縦も、一

殺生をしないで済んだというものだが、いったい、京都は女の多いところだと、そもそもこの時から嬉しくなりはじめたのは馬鹿

所は京都七条油小路、時は慶応三年十一月十八日の夜――新撰組の

「こいつはねえ、上方者なんです、京都のみぞろというところに生れた奴なんです、が若い時分から博奕

は、こっちが聞きたいところだ、島原を振られて、京都の町の中を一晩中うろついたが、ついに拙者の泊る宿所がない

ことは天下の北陸道だから、それを通って、やがて再び京都の地に上り得られるのも旬日の間。

の本筋を愛発越えをして近江路へ、近江路から京都へ、心はもう一走り、そこまで行けば今度こそは結着、そこで、

によっては腥風血雨であるが、まだまだ千年の京都の本色は動かない。

隊長、土方副長らのその後の消息も知りたい。今の京都の天地にはところによっては腥風血雨であるが、まだまだ千年

いつになるでしょう、一月ぐらい待ちましょう、金沢へなり、京都へなり、おいでになったお帰りを待っています――うつの

して、その足で鯖江から敦賀――江州へ出て京都へ上るという段取りに心をきめました。

の名所古蹟に相当足をとどめて、専ら、北国大名と京都との往来交渉を考えたりなどして歩みました。そうして無事二十里

熊本

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、長谷川、名古屋の伊東、紀州の浜中、筑前の大賀、熊本の吉文字屋――北は津軽の吉尾、松前の安武より、南は平戸

奈良

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て隠して置く。それをするには、京都に近く、奈良に近く、滋賀と浪速とを控えたこのあたりが、絶好のところであり

落ちて来て、ここへ一晩かくまわれ、いよいよ明日は奈良へ向けて落ちのびの、その夜のことでありました。美僧美女は、

甲府

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しては事がなせない。いずれは関東に於て、甲府百万石を賜わって国主になるなんぞと、もてはやすものもあるが、まんざらの

は知る人ぞ知る。甲府の城下へたどりついた時分に、甲府城下の如法闇夜に相当以上に活躍したことも知る人は知っている

江戸の闇を食って歩いた経歴は知る人ぞ知る。甲府の城下へたどりついた時分に、甲府城下の如法闇夜に相当以上に活躍し

かくて、甲府城下の躑躅ヶ崎の古屋敷でした時のように、一応刀を抜きはなして、

大津

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実演中の二人の泣き声が、いつしか、近江の、大津の宿のお豊と真三郎の姿を浮き上らせて来る。その真白い手は

富山

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樹三郎、服部武雄、加納道之助、毛内有之助、藤堂平助、富山弥兵衛、篠山泰之進の面々が、粛々としてこれに走せ向った。

金沢

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も出でず、白山を経ての菜畑であった加賀の金沢とも、およそ方面を異にして、越前へめぐり込んでしまったと

というのも、何かの縁なんでしょう、いっそ、金沢をやめて福井へ行きましょうよ、福井にも、たずねれば知辺はあるわ

情味がたまらないんですとさ。そうして、飽きたら金沢へ行きましょう――でなければ船で、三国から佐渡ヶ島へ――来い

こうなると、兵馬の頭には、金沢もなく、三国もない、地図を案じて北陸の本筋を愛発越えを

というこんどがいつになるでしょう、一月ぐらい待ちましょう、金沢へなり、京都へなり、おいでになったお帰りを待っています

福井

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行きましょうよ、福井にも、たずねれば知辺はあるわ、福井から三国港へ行ってみましょう、三国はいいところですとさ」

んでしょう、いっそ、金沢をやめて福井へ行きましょうよ、福井にも、たずねれば知辺はあるわ、福井から三国港へ行ってみましょう、

、何かの縁なんでしょう、いっそ、金沢をやめて福井へ行きましょうよ、福井にも、たずねれば知辺はあるわ、福井から三国港

「どのみち、一旦は福井へ出なければなるまい、福井へ出るには……モシ、山がつのおじさん、ちょっとここへ来て見

「どのみち、一旦は福井へ出なければなるまい、福井へ出るには……モシ、山がつのおじ

の山越しと比べては苦にならない。二人はついに越前福井の城下へ落着いてしまいました。

その翌朝から、九頭竜川の沿岸を下って福井へ出る道も、かなりの難路でしたけれども、今までの山越しと比べて

の中から町へ出て、いっそう嵩じてしまいました。福井の城下で、極印屋というよい旅籠をとって納まった気分というもの

聞いたまま足を入れていない北国の名都、越前の福井に見参してから、その上で、あれから近江路へ出ることは天下

兵馬は、福井のことは頭に上らず、しきりに、京へ、京へと心が

福井の宿についたその翌日午後、福松は欣々として宿に帰って

もいいから、暫く御逗留なさいね、少しの間、この福井の御城下を見物したり、三国へとうじんぼうをたずねたりして

しまうわよ。それにはいいことがあるんです、この福井の御城下から、ちょっと離れたところに、あわらという誰も知らないお

北国街道の要害でもあり、絹織物の名産地でもある福井の城下に近い形勝を占めたところだから、大いに繁昌するに相違ない。

下りにしても、長くてここ一月の後、この福井へ廻り道をなさらないと恨みますよ、そんなことを言っていると、もう

、かなで『うつの家の福松』といいでしょう、こんど福井へおいでになったら、何を置いても、『うつの家の福松

られながら、いったん福井の城下まで帰って来たのです。福井の町にこれ以上とどまるべき因縁は解消してしまったようなものの、

、何とも言えない感情に震動させられながら、いったん福井の城下まで帰って来たのです。福井の町にこれ以上とどまるべき因縁

、今は見る影もない。それに引換えて、三十二万石福井の城がめざましい。転じて足羽山にのぼって見ると、展望がカラリと開け

道の順から福井の名所の第一は、もとの北の庄の城跡、織田氏の宿将

福井を出立した宇津木兵馬は、浅水、江尻、水落、長泉寺、鯖江、

そうして、福井の足羽山で呼び起された柴田陥落の悲劇だの、太閤の雄図だの、

「これから、越前の福井へ帰るです」

越前福井へ行くというのは常道だが、胆吹山から来たというのが

、少し働いておりましたが、これからひとまず故郷の越前福井へ帰ってみようと思います」

に紹介状をもらいましたものですから、これからまた故郷の福井へ帰って、旅費を工面して、江戸へ向って出直すつもりで、それ

そういう風説を聞きましたものですから、僕は越前の福井からかけつけて、右の団体へ加入してみたんです。僕のは

「拙者は越前福井から来たのですが……」

福井のものが福井へ帰るまでなんですが、あなたは福井のお方ではござんすまいね」

福井へ帰るんですが、僕は本来、福井のものが福井へ帰るまでなんですが、あなたは福井のお方ではござんすまい

から、僕は福井へ帰るんですが、僕は本来、福井のものが福井へ帰るまでなんですが、あなたは福井のお方で

「へえ、あなたは福井から、僕は福井へ帰るんですが、僕は本来、福井のものが福井へ帰るまでな

「へえ、あなたは福井から、僕は福井へ帰るんですが、僕は本来、福井のものが

「君、福井へ帰るなら、一つ頼みたいことがある」

「いいですとも、君、ひとつこの笠をかぶって福井へ帰って下さい、僕は君の笠をかぶって近江へ行きたい」

がその笠へ一筆書きますから、君はそれをかぶって福井へ着いたならば、その笠をそっくりひとつ、僕の名ざすところへ

ばいいんですか、おやすいことです、広くもあらぬ福井の城下ですから、所番地さえわかっておりますれば」

「実は、福井の堺町というのです」

のが、つまり、そのうつのやの福松君ですな、福井の城下で、あなたとお別れになって、友情綿々、ここ越前と近江

は、この好青年にあらぬ使命を持たせたものだ、福井へいたりついて、尋ねる主を発見した時、この青年の驚異の

福井より近江路─┤

娘と、怨霊の美僧美女、目明しの文吉、斎藤一、福井の好学青年、近藤勇、勝海舟の父、藤原の伊太夫、鬼頭天王の

神戸

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ないし、山稼ぎをして来たとも思われない。神戸から来た、大阪から来た、彦根から来たといえば、そのまま

水戸

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行ッテ、大井川ガ九十六文川ニナッタカラ、問屋ヘ寄ッテ、水戸ノ急ギノ御用ダカラ、早ク通セト云ッタラ、早々人足ガ出テ

狼狽させる、大手を振って東海道をのして来て、水戸の播磨守の家来だと言って、大井川にかかるところまで読んで来た

宿ヘ行ッタ、宿デ駕籠人足ニ聞イタラ、旦那ハ水戸ノ御使デ、中村様ヘ行カシャルト言ッタラ、一人カケ出シテ行キオッタガ

出シタカラ、問屋ヘ行ッテ、雨ノ森ノ神主中村斎宮マデ、水戸ノ御祈願ノコトデ行クカラ駕籠ヲ出セトイウト、直グニ駕籠ヲ出シテクレタカラ、乗

下谷

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家作ガアルカラ買ッテヤッタ、剣術仲間ヘ頼ンデ稽古場ヲ出シテヤッタ、下谷ムレガヒイキニシテクレル故、内職ニハ大小売買ヲシテイタガ、シマイニハ金廻リガヨクナッテ、フダン身ノ上ノ世話

ッタガ、八九十日タツト、下谷ノ友達ガ寄ッテ、久シクオレガ下谷ヘ来ナイトテ、ナゼダロウト云ウト、オレノ家来分ノ小林隼太ガ、此頃ハ

三度ズツ水行ヲシテ、食ヲスクナクシテ祈ッタガ、八九十日タツト、下谷ノ友達ガ寄ッテ、久シクオレガ下谷ヘ来ナイトテ、ナゼダロウト云ウト、オレノ家来

ハナカッタ、大小ノ拵エ様並ビニ衣服又ハ髪形マデ、下谷、本所ハオレノ通リニシタガ、奇妙ノコトダト思ッテ居ルヨ。

ナガラウチヘ帰ッタ、ソレカラ毎日毎日、浄ルリヲ聞イテ浅草辺カラ下谷辺ヲ歩イテ、楽シミニシテ居タガ、六月カ五月末カト思ッタガ

長崎

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「親類ノ牧野長門守ガ山田奉行ヨリ長崎奉行ニ転役シタガ、ソノ月、水心子秀世ガ云イ人デ、虎ノ門

仙台

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勘兵衛、安直、デモ倉、プロ亀、築地異人館の誰々、仙台の仏兵助、ファッショイ連、女軽業の一座、等々。

深川

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ガ三両シカ無カッタ、ソレモオレガ十両バカリハ貸シタ故ニ、深川ヘ行ッテ見タラ、蔵宿ノ亭主ダノ、大商人ガ、日本橋近辺ヨリ集マッテ

大久保

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着テ、諸所ノケンカヲ頼ンデ歩イタガ、ソノ時、頭ガ大久保上野介ト云イシガ、赤阪喰違外ダガ、毎日毎日行ツテ御番入リヲセメタ

向島

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来ヌ、三州デドウニカ人間ニナッタト云ウコトダ、ソレハオレガチョウシヘ行ッタ時、向島ノ兼ト云ウ男ニ聞イタ、兼ガ遠州ノ秋葉ヘ参詣シタ時

浅草

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「毎日毎日来テ、イロイロト奉公ヲシタガ、ウチガナイ故、浅草ノ入屋ニテカナリノ家作ガアルカラ買ッテヤッタ、剣術仲間ヘ頼ンデ稽古場ヲ出シテヤッタ、下谷

「ソレカラ思イツイテ、心易イ者ヘ高利ヲカシタガヨカッタ、浅草ノ奥山ノ茶屋ヘ金ヲカシタガ、是ハマダルカッタガ、ソノ代り山中ハハイハイトイイオッタ故親分ノヨウダッケ」

御苦労ナガラ一所ニ浅草辺マデオ出デト、断ワルヲムリニ引出シテ、浅草デ先ズ奥山ノ女ドモヲナブッテ歩イタカラ、キモヲツブシタ顔ヲシテアトカラ来ルカラ、スシ飯ヲ

、甘物ハト聞イタラ、ソレハイイト答エルカラ、サヨウナラ御苦労ナガラ一所ニ浅草辺マデオ出デト、断ワルヲムリニ引出シテ、浅草デ先ズ奥山ノ女ドモヲナブッテ歩

ガカン癪ノ強気者デ、男谷ノ弟子モ皆々タタキ伏セラレテ浅草ノ新堀ヘ道場ヲ出シテ居タガ、オレハ一度モ逢ッタコトガナイカラ、近附ニ

ッテクレタカラ、寝ナガラウチヘ帰ッタ、ソレカラ毎日毎日、浄ルリヲ聞イテ浅草辺カラ下谷辺ヲ歩イテ、楽シミニシテ居タガ、六月カ五月末

浅草市デ、多羅尾七郎三郎ト、男谷忠次郎ト、ソノ外五六人デ行ッタ

神田

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「或日、小倉主税ノ宅デ、神田黒川町ノ仕立屋ニ逢ッタガ、コイツハ、カゲ富ノ箱屋ヲスル奴ダガ、オレガ

、秀世又ハ細川主税正義、並ビニ美濃部大慶直税、神田ノ道賀又ハ梅山弥曾八、小林真平、ソノ時代ノ刀鑑ヘ残

モ、ウナギ代トテ別ニ五両クレタ、ソレカラ毎晩、江戸神田辺、本所ノ道具市ヘ出テハモウケスルコトガヨカッタカラ、復々金ガ出来ル故ニ、諸所

千住

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時代ノ刀鑑ヘ残ラズ刀剣講ヲ取立テヤッタガ、或日千住ヘ行ッテ胴ヲタメシタガ、ソレカラ浅右衛門ノ弟子ニナッテ、上段切リヲシテ遊ンダ、

虎ノ門

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役シタガ、ソノ月、水心子秀世ガ云イ人デ、虎ノ門外桜田町ノ尾張屋亀吉トイウ安芸ノ小差ガ、牧野ノ小差ニナリタガッテ、オレニ頼

日本橋

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深川ヘ行ッテ見タラ、蔵宿ノ亭主ダノ、大商人ガ、日本橋近辺ヨリ集マッテ五六十人バカリシテ場ヲ始メタガ、オレニハイロイロノ馳走ヲシテクレタ故、常盤町

上野

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「ねえ、あなた、小栗上野様を御存じ?」

な、今は駒井能登の戸籍しらべだが、今度は小栗上野と変って来た!」

「小栗上野様と、勝安房様と、どっちがおえらいの?」

これで一巻を読み了った時、上野の鐘が、じゃんじゃんと鳴るのを神尾主膳が聞きました。

上野の鐘がじゃんじゃんと鳴るのは警報ではない、上野のじゃんじゃんは通り物になっているのですが、今日はそのじゃんじゃんが、

上野の鐘がじゃんじゃんと鳴るのは警報ではない、上野のじゃんじゃんは通り物

鶯谷

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于時天保十四年寅年初於鶯谷書ス

両国橋

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から吉良邸を襲いにかかろうとする赤穂の浪人が、まさに両国橋を渡りにかかった事の体なのであります。彼等は抜身の

ッタ、多羅尾ハ禿頭故ニ創ガツイタ、ソレカラ段々喧嘩ヲシナガラ、両国橋マデ来タガ、ソノ晩ハ何モホカニハ仕事ガナイカラウチヘ帰ッタ。