大菩薩峠 24 流転の巻 / 中里介山
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頼む――多分、牛若丸が鞍馬山で天狗から授かったのが、そんな流儀だろう。それが実行できさえすれば、明日
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「箱根から熱海の方へ……」
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とても、それはキリスト教に関するもののみで、いつぞやわざわざ番町の旧邸を訪ねて、一学を煩わし、その文庫の中から選び齎し帰った
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行軍守城用、莫作尋常費」の銘を打たせて大坂城内へ秘蔵して置いた。
どこにあるのか、やはり四代以前の時のように大坂城内に秘蔵されているのか、或いは江戸城の内にもちこされて来
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越後国春日山の城主
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熊谷から深谷まで二里二十七丁。深谷から本庄まで二里二十五丁。本庄から新町
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こうして七兵衛が、三田の四国町の薩摩屋敷の、芝浜へ向いた方の通用門の附近を通りかかった時分、中ではこんな評定をし
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おいても特に武芸に名誉の藩である。そのうち、久留米藩の松浦波四郎は、九州第一との評がある。九州に乗込んだ斎藤
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越後国春日山の城主
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本来、上方を目的とする旅だから、追分から和田峠を越して下諏訪へ出るのが順序なのを、そこがまた道庵の気性
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お能役者で大蔵というのが、これが目ききで、伊豆の北山や、佐渡の金山を開いて上げたのも、あの大蔵というお
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閣上のパノラマ。あいにく、この日は曇天で、後ろのいわゆる日本アルプスの連峰は見えず、ただ有明山のみが背のびをしているように見えます
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信濃の国境は夢で越え、信濃路に入ってはじめて、浅間の秋に触れました。
、松本へ着いたら市中へ宿を取らずに、まず浅間の温泉へ行こうという話をしている。それを聞いていると、どこ
「吾々はまた、この同勢で浅間の温泉へ行こうというのだ、君も附合わないか」
その盛んな市中を通り抜けて、浅間の温泉へ行き、兵馬を鷹の湯へ預けておいて、仏頂寺と丸山
と舌を打って地団駄を踏んだ人は浅間の人士はまだ知るまいが、これぞ宇治山田の米友であります。
善光寺からあんなわけで、松本へ入り込んだ道庵は、今晩は浅間の温泉泊りということを米友にも申し含めておきながら、こんな始末になって
一方、宇治山田の米友は、浅間の町の迷児の道しるべの辻に立って、しきりに地団駄を踏んだり、嘆息
道庵主従は、その足で浅間の温泉へ行き、鷹の湯へ泊りましたが、そこは宇津木兵馬も宿
その翌日、松本の市中から浅間の温泉までが、にせものの海老蔵の噂、
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のは、人間の常識に反いているはずだ。しかし、碓氷峠にはそれがある。
米友が再び地団駄を踏みました。人家すべて二十を数える碓氷峠の上の宮の前の町、一点に立てば全宿を見通すことも
幸いにして碓氷峠は紅葉の盛りでありました。坂本の宿から峠の上まで、道庵
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ができねえ、おれを誰だと思う、江戸の下谷の長者町で……」
たのか、来ねえのか。おいらの先生は下谷の長者町の道庵といって、酔っぱらいで有名なお医者さんだ、その先生がこっち
に撫でつけた塚原卜伝の出来損ないのような親爺が、まさか長者町の道庵だとは思われませんから、やはり、変な親爺が、世話
。今のように木曾薬草の名が天下に知れて、長者町の道庵までがそのおかげを被るようになったのは、みなこの道益
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それに従って、一行を率いて、その夜のうちに九州へ向けて出立してしまったから、わずかに事なきを得たが、あと
「よし、その儀ならば、九州まで彼等の跡を追っかけろ」
てもさのみ誉れではない――その鬼歓殿も九州ではすっかり味噌をつけたよ」
「歓之助殿が九州で、何をやり損ないましたか」
おいての第一流の名ある剣客であった。それが九州まで行って、脆くも後れを取ったということは、剣道に志のある
久留米、柳川は九州においても特に武芸に名誉の藩である。そのうち、久留米藩の松浦
の松浦波四郎は、九州第一との評がある。九州に乗込んだ斎藤の鬼歓は、江戸第一の評判に迎えられて、この
太刀先。あわや松浦の運命終れりと見えたる時、彼も九州第一の名を取った剛の者、よろよろとよろけせかれながら、横薙ぎに払った
といって仏頂寺は、斎藤歓之助のために、九州へ雪辱戦に赴いた同門の吉本豊次と、松浦との試合について、
ある試合を見せる。歓之助すらもてあました相手をこなしに、わざわざ九州へ出かけて、松浦に試合を申しこみ、さて竹刀を取って道場に立合うや否
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軽井沢から沓掛まで一里五町、沓掛から追分まで一里三町。
追分から小諸までは三里半。
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ああしたような事情で善光寺を立ち出で、善光寺から稲荷山へ二里、稲荷山から麻績へ三里、麻績から青柳へ一里十町、
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高崎は松平右京亮、八万二千石の城下。それより坂鼻へ一里三十丁。
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乗って、いい心持で鼾をかいてござったあ。今時分は軽井沢の桝形の茶屋あたりで、女郎衆にいじめられてござるべえ」
そこで宇治山田の米友は、峠の町から、軽井沢をめがけて一散に馳せ出しました。
峠の町から軽井沢までは僅か十八町、且つ下り一方の帰り駕籠ですから、かつぐ方もいい心持
なって、大鼾で寝込んでいるものですから、またたくまに軽井沢の宿の入口、桝形の茶屋まで着いても、まだ目が醒めません。
庵も鷹揚にうなずいて、その案内で桝形の木戸から、軽井沢の宿へ入り込んだものです。
道庵は物珍しげに軽井沢の町を見廻して、頭上にけぶる、信濃なる浅間ヶ岳に立つ煙をながめ
里三十四丁二十七間の丁場を越えて、信濃の国、軽井沢の宿に着いたというわけであります。
軽井沢へ来て、酔眼をみはって見ると、その風物のいとど著しいのに、道
「ははあ、初雁もとまるや恋の軽井沢、とはこれだ、この情味には蜀山も参ったげな」
、件の侍の胸倉を取ってしまいました。そこで軽井沢の全宿が顫え上りました。
で、逃げ行く侍たちのあとを追いかけました。そこで軽井沢の宿は家毎に戸をとざすの有様です。
軽井沢の町では、鳴りをしずめて事のなりゆきを気遣っているが、無論、
時なるかな、宇治山田の米友は、峠の町から軽井沢の桝形の茶屋まで、真一文字に飛んで参りました。
ここに桝形の茶屋というのは、軽井沢の駅の上下の外れの両端に、桝形に石を築いた木戸があって
米友は、木戸番と、男衆を突き倒して、疾風の如く軽井沢の町へ駈け込みました。
「やい、やい、軽井沢にゃあ、宿役も、問屋も無えのかい、人がヒドイ目にあっている
米友がこう叫んで歯がみをしながら、軽井沢の町の真中を走せ通りました。
その時です。歯がみをして、軽井沢の町へ怒鳴り込んだ宇治山田の米友は、ふと足もとにころがる一つの提灯を
驀進に――但し、跛足を引いて、夕暮の軽井沢の町を、怒髪竹の皮の笠を突いて馳せて行くと、
だと弁護を試むるものもある。また今日、この軽井沢へ泊り合わせた客人のうちに、相当腕に覚えの人もあろうのに、
道庵主従を送り込んだ後も、軽井沢の民衆は、容易に玉屋の家の前から立去りません。
て、乾かさねばならないから、モウ一日一晩、軽井沢に逗留することになりました。
軽井沢から沓掛まで一里五町、沓掛から追分まで一里三町。
「先生、おいらは、もう一ぺん軽井沢へ帰りてえのだ」
、難問を吹きかけて道庵を苦しめるが目的ではなく、軽井沢のお玉のことが気になってならない。
この男は、もう一度、軽井沢へ帰って、しみじみとお玉という女と話がしてみたいのだ。
。途中、幾度も、この杖も、荷物も投げ出して、軽井沢へ駈け戻ろうかと思いつめては、思い返し、思い返し、ここまで来たのだが、
「あれだぜ、あれが一昨日の日、軽井沢で裸松をやっつけた大将だ!」
それを一段聞くと道庵がしきりに昂奮して、軽井沢で発心した武者修行の謀叛が、むらむらと頭を擡げました。
実をいうと、道庵の武者修行熱は必ずしも軽井沢に始まったというわけではなく、そのずっと以前から萌しているので、
それが軽井沢の出来事によって誘発せられ、小諸、上田を通って行くうちに、ここ
どこにどういう隠し芸を持っていないとも限らないが、軽井沢の宿でたいてい手並はわかっているではないか。しかし、昔をいえば
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「それがあなた、よくわかりませんのでございますよ、諏訪の方からおいでになった大抵のお客様はひとまず、これへお休み下さるのが
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は国助、脇差には包保の銘がある。これは相生町にいた時分、手に入れたもの。
あれは何だ。詩ではない。浄瑠璃でもない。相生町の屋敷でよく聞いた琵琶の歌に似て、悲壮にして、なお哀
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事実、江戸を出て以来の情景に、道庵がすっかり感嘆しました。
な、さあ勘弁ができねえ、おれを誰だと思う、江戸の下谷の長者町で……」
といったが、江戸の下谷の長者町あたりでこそ、道庵といえば、泣く児も泣いたり、
江戸では飛ぶ鳥を飛ばした道庵ともあるべき身が、みすみす北国街道の
でありました。しかも、これは房州戻りそうそうの、江戸の土を踏んだ初めての見参なのですが、さすがの白雲も、芸術家並み
とにかく、こうして蝙蝠傘をさして、ゆらりと江戸の浅草の駒形堂の前の土を踏んだ白雲の恰好は、かなりの見物
角とすれすれの所まで来まして、さて、これから、江戸のいずれの方面に向って歩みを移そうかと、ちょっと思案の体に見えまし
「彼等の跡を追いかけるよりも、むしろ江戸へ押し上って、その本拠をつけ。九段の道場には、彼の親爺の
ら十余人、猛然として一団を成して、そのまま江戸へ向けて馳せ上る。その団長株に貴島又兵衛があり、祖式松助がある。
そこで、彼等は一気に江戸まで押し通すや否や、竹刀と道具を釣台に舁のせて、麹町九段坂上三番町、
誰も知っている通り、当時、江戸の町には三大剣客の道場があった。神田お玉ヶ池の北辰一刀流千葉周作
長藩のために、のよき剣術の師範物色のため、江戸へ下り、つらつら当時の三大剣客の門風を見るところ、斎藤は技術に
斎藤歓之助は、江戸においての第一流の名ある剣客であった。それが九州まで行って
の評がある。九州に乗込んだ斎藤の鬼歓は、江戸第一の評判に迎えられて、この松浦に試合を申し込む。そこで江戸第
「態々行ったのじゃあるまい、江戸からの帰りがけだろう」
を見計らって、佐渡ヶ島から越後の港へ積みよせ、それから江戸へ持ち運ぶ御威勢は大したものだっていいました」
「江戸へ五十七里四町
。形の如く堂々たる武者修行のいでたち成って、神戸から江戸へ向けて発足。
かくて東海道を経て、各道場という道場を経めぐって江戸に着いたのは、国を出てから二年目。さしも部厚の芳名録
そうして、江戸、麹町番町の三宅三郎の道場へ来た。
最初の手合せで、しかも江戸に一流の名ある道場の主人公その人を敵に取りながら、その敵を眼中
「江戸、鉄砲洲某稿としてある、面白そうだ」
しても著者は何者。署名はなくて、ただ、「江戸、鉄砲洲某稿」としてある。当代に名だたる洋学者の筆のすさび
「先年、亜米利加合衆国よりペルリといへる船大将を江戸へ差遣はし、日本は昔より外国と付合なき国なれども……」
は、あれは上野の清水堂にある。いっそ趣をかえて江戸風俗の美人画でも写してみようか、では浮世絵の店借をするようだ。
だよ、ホラ門札に松原葆斎とあるだろう、大将いまは江戸にいるが、出立の前に、松本へ行ったら、ぜひおれの家を訪ね
長崎に行って蘭人について医を学び、今は江戸の聖堂に出て、その助教授をしている。
いうことが必ずしも乱暴ではないよ……わしも、江戸へ出て、時々芝居を覗いたが、こういう無法な勧進帳はやらない。
無法な勧進帳はやらない。第一海老蔵という役者は、いま江戸には名をつぐ者がないはず。贋物に違いない」
「百姓! 江戸の芝居が見たけりゃ、出直して来い!」
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一里十二町というホンの一息のところまで来て、犀川の河原。
犀川の岸を、そぞろ心に米友が歩むと、行手に朦朧として黒い物影
犀川の渡し、ここを俗に丹波川という。水勢甚だ急にして、出水
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信濃の国で争っていた時分、信玄の背後をうかがう東海道筋から塩を送らない。甲斐も、信濃も、海の無い国。人民これ
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丹波島から善光寺までは、もう一里十二町というホンの一息のところまで来て、犀川
を渡らずに河原へ出てしまい、明日はいやでも善光寺。今晩はここで、思う存分月見をしようといい出しました。
夜もすがら川中島の月を見て、明日は善光寺という約束だから、米友もぜひなく、旅の合羽を開いて道庵の
といったところで今は真夜中過ぎ、一里の道を善光寺に着いたところで、まだ戸をあけている家はあるまい。第一、
時もたてば夜が明けるだろう、夜が明けたら最後、善光寺の町をひっくり返してくれよう。それまではまず山門の隅なりと借りて一休み―
もうこれ、ともかく五十七里も来たかなと呟きながら、善光寺の境内へはいって行く。
を、そこがまた道庵の気性で、信濃へ来て善光寺へ参詣をしないのは、仏を作って魂を入れぬものだと意地
それでも、どうかこうか、二人は善光寺本堂の外陣のお通夜の間に入り込んで、数多の群衆の中へ割込みました
ほどなく朝参りの団体も押しかけて来る。善光寺の内外は人で満たされる。
これによって見ると、道庵は善光寺へ参拝に来たのだか、居眠りに来たのだかわからない。米友
そこで、道庵と、米友とは、善光寺本堂を立ち出でる。
道庵が米友の不審に答えて、あれは有名な善光寺のお階段めぐりといって、ああして暗いところを歩いているうちに、
道庵と、米友が、善光寺の仁王門を出でて札場のところまで来ると、そこで祭文語りが、参詣の
さあこの善光寺を振出しに、明日からは、いよいよ武者修行の姿となって、木曾街道を
その足どりでもわかります。もう既にいっぱしの荒武者気取りで、善光寺前の藤屋という宿へ、大風に一泊を申し込んで番頭を驚かせまし
ああしたような事情で善光寺を立ち出で、善光寺から稲荷山へ二里、稲荷山から麻績へ三里、麻績から青柳
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必ず斬った者が三人はある。武州の近藤勇、薩摩の中村半次郎(桐野利秋)――それと肥後の川上彦斎。
は、多数ずくではどうにもならないのだよ、薩摩と長州が力を合わせれば、徳川を倒せるかも知れないが、その力で
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少し買物があるからといって、米友を先に、この熊野の権現の石段を上らせておいたのですが――それにしても
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ように大坂城内に秘蔵されているのか、或いは江戸城の内にもちこされて来ているのか――盗人冥利には、その分
、一群の豪傑連が、その時分、額を鳩めて、江戸城へ火をつけることの相談です。江戸城の西丸のどこへ、どういう手段で
鳩めて、江戸城へ火をつけることの相談です。江戸城の西丸のどこへ、どういう手段で火をつけるかということ。その先決問題
ということ。その先決問題は、どうしたらいちばん有効に江戸城へ忍び込むことができるか。
等は関八州を蜂の巣のようにつき乱すと共に、江戸城の西丸へ火の手を上げる、これが天下をひっくり返す口火だと考えているもの
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弟子分になってもらいてえ、そうして、木曾街道から名古屋、京大阪をかけて、道場という道場を荒し廻って、武芸者という武芸者
転がり、木曾の山中を薬草を探し歩いて尾張に出で、名古屋へ行って銀若干を借りて、それで草を掘る道具類を買受けて、
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道庵が甲陽軍鑑を楯にとって、滔々とやり出す川中島の合戦記には、米友も知らず識らず釣込まれ、感心して聞い
四郡を包む川中島。百里を流るる信濃川の上。歩み歩むといえども、歩み尽すということ
ないが、これは油断がならない。見廻せば前後茫々たる川中島。
いいや、今夜は夜っぴて景気を見て歩こうじゃねえか、川中島の月見と違って、お祭りを見るのは寒くねえ」
川中島の上月というのは、代々百姓をしているが、先祖は、福島正則
そこで立ったのが、例の川中島の上月一家の百姓たちでありました。
は、真青になってまた罵りかけた時、十余人の川中島の百姓たちが、気を揃えて舞台の上へ飛び上ったから、またまた問題が
福島正則以来の気概といったようなものを持つ川中島の百姓たちは、早くもその気障な周章者を取囲んでしまいました。これ
そこで十余人の川中島の百姓たちは、周章者を小突き廻して、こもごも百姓のいわれを詰りはじめる。
百姓は、ことに福島正則以来を誇りとするこの部分の川中島の百姓には、強いのがおりました。この上月は帯刀の身分であっ
川中島の百姓たちの利かない気性を褒めて、俵責めの手段を痛快なりとし
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も、芸名そのままの山本南竜軒で、小手調べに、大阪の二三道場でやってみると成績が極めてよい。全く先方が、誂え通りに
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時の狂女だなと思いました。高島田に結って、明石の着物を着た凄いほどの美人。羅漢様の首を一つ後生大事に
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「なるほど、明倫館は立派な建物じゃ、他藩にもちょっと類のないほど宏壮な建物で、竹刀
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や、両国の楽屋を逃げ出した人気者の山神奇童を、こんど甲州の山の中で見つけ出したものだから、それを引連れて戻しに来た
の英物が竹売りに化けて、斎藤弥九郎を引連れ、甲州へ隠密に入り込んだのもそのためであったが、ついに得るところなくして終っ
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熊谷から深谷まで二里二十七丁。深谷から本庄まで二里二十五丁。本庄から新町へ二里。この間に武州と上州と
まで二里二十七丁。深谷から本庄まで二里二十五丁。本庄から新町へ二里。この間に武州と上州との境があって、新町
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て、どこかへ行ってしまいました。多分、過日の塩尻峠で負傷した朋輩を、この地のいずれへか預けて療養を加えさせて
明日はいよいよ塩尻峠にかかるのだ。仏頂寺らのいうところをどこまで信じてよいかわからない
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「抑々当流ノ元祖戸田清玄ハ宿願コレ有ルニヨツテ、加賀国白山権現ニ一七日ノ間、毎夜参籠致ス所、何処トモナク一人ノ老人来
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と、仏頂寺弥助と、丸山勇仙の三人は、八ヶ岳と甲斐駒の間を、西に向って急いでいる。
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しかし、伊勢の大神宮様の内苑は、森厳にして犯すべからざるものがあるのに、
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曇天で、後ろのいわゆる日本アルプスの連峰は見えず、ただ有明山のみが背のびをしているように見えます。
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が、これが目ききで、伊豆の北山や、佐渡の金山を開いて上げたのも、あの大蔵というお能役者の働きでございました
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根岸の御行の松の下の、神尾主膳の新屋敷の一間で、青梅の裏
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いうのが、これが目ききで、伊豆の北山や、佐渡の金山を開いて上げたのも、あの大蔵というお能役者の働きでござい
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久留米、柳川は九州においても特に武芸に名誉の藩である。そのうち、久留米藩
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塩尻へかかって、その証跡をつきとめた上に、行先を尋ぬれば当らずといえ
そこは素通りしてしまって、塩尻峠を下り尽すと、塩尻の阿礼の社。
三人は、いざとばかり、塩尻の茶屋を立って、五千石の通りを松本へ向わんとする。
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の変った店を出してみる気はないかの、甚だしいのは、両国の興行をそっくり西洋へ持ち出してみる気はないかのと、八方から話を持ち
って、自分が今日この家をたずねて来たのはいつぞや、両国の楽屋を逃げ出した人気者の山神奇童を、こんど甲州の山の中で見つけ出し
米友は、自分は興行に使われたことがある。両国の大きな小屋で擬物の黒ん坊にされていた経験があるから、多数の見物には
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壮大なる松本城天守閣上のパノラマ。あいにく、この日は曇天で、後ろのいわゆる日本アルプスの
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さあ勘弁ができねえ、おれを誰だと思う、江戸の下谷の長者町で……」
といったが、江戸の下谷の長者町あたりでこそ、道庵といえば、泣く児も泣いたり、だまっ
「来たのか、来ねえのか。おいらの先生は下谷の長者町の道庵といって、酔っぱらいで有名なお医者さんだ、その
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浮世を茶にしてお歩きなさるが、実は昔の水戸黄門様みたいなお方に違いないと言い出すものがあると、
道庵は、苦もなく水戸の黄門格にまで祭り上げられたが、その従者たる米友は、隠れたるお
て芸術を修業せねばならぬと奨励している。水戸中納言の弟、余九麿を一橋殿へ呼び寄せる時のお達しも、芸術
三番目 水戸黄門
仔細に注意して見ますと、ようやく、岩見重太郎も、水戸黄門も、「海土蔵」の名前の下に小さくなっているのを見つけ
、番付いっぱいに自分の名前を書き潰し、岩見重太郎でも、水戸黄門でも、下の方へ小さく記して得意げにしているところは
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は三大剣客の道場があった。神田お玉ヶ池の北辰一刀流千葉周作、高橋蜊河岸の鏡心明智流の桃井春蔵、それと並んで、
大剣客の門風を見るところ、斎藤は技術に於ては千葉、桃井には及ばないが、門弟を養成する気風がよろしい――という
。貴島又兵衛が、斎藤弥九郎の剣術を以て、桃井、千葉に劣ると断定したのは、何の根拠に出でたのか。この
千葉周作の次男栄次郎を小天狗と称して、出藍の誉れがある。これと
現代の人がよく、桃井、千葉、斎藤の三道場の品評をしたがるが、それとても、素人が格段を
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そもそもこの度、京都の騒動、聞いてもくんねえ、長州事件の咽喉元過ぐれば、熱さ
がみんな人気商売の役者と違ったところはない――と京都にいる時、ある志士の慷慨を兵馬は聞いたことがある。
庵と知り合いになったのは多分江戸遊学中。後、京都に遊学し、また長崎に行って蘭人について医を学び、今
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こんなことは滅多にないのです。かつて、甲府城下の闇の破牢の晩に、この盛んなる型を見せたことがあり
を言って分れたお銀様は、その晩、ふらふらと甲府の宿を立ち出でました。どこへ、どう行こうという当てがあって出かけ
甲府の町の天地は、今やその昔のように殺気のあるものでは
ああ、いつか知ら、甲府の町は離れてしまった。それでも、われを忘れて歩いてい
でいただいた鳥目が僅かございましたのを、それで、甲府の町の外れで饂飩を一杯いただいて、今は全く持合せがございませぬ
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越後新潟へ四十八里二十七町」
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天保の初め頃、神戸に一人の祭文語りがあった。この男、身の丈五尺九寸、体量
となる。形の如く堂々たる武者修行のいでたち成って、神戸から江戸へ向けて発足。
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のは多分江戸遊学中。後、京都に遊学し、また長崎に行って蘭人について医を学び、今は江戸の聖堂に出
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次の幕は、野州宇都宮の一刀流剣客高野弥兵衛の町道場。
舞台廻ると、宇都宮の遊女屋三浦屋清兵衛の二階。
切ったあの気障さ加減はどうだ。それに今のあの宇都宮の道場とやら、一刀流と看板が掛けてあったが、岩見の時代に
確かに二十八人を斬ったに相違ない。二幕目の宇都宮三浦屋裏手の斬合いは、暗くてよくわからなかったが、二十人は確か
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いうのは、代々百姓をしているが、先祖は、福島正則が川中島へ配流された時の一族だということで、今日は
福島正則以来の気概といったようなものを持つ川中島の百姓たちは、早く
こうはゆきますまいが、信州川中島の百姓は、ことに福島正則以来を誇りとするこの部分の川中島の百姓には、強いのがおり
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、酔眼をいよいよ真赤にしてのぼって来ましたが、上野と信濃の国境は夢で越え、信濃路に入ってはじめて、浅間の秋
描こうかしら。それも気が進まない。景清は、あれは上野の清水堂にある。いっそ趣をかえて江戸風俗の美人画でも写してみよう
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官許の遊女屋のあるのは駿河の弥勒町だけで、あとは品川でも、熱田でも、要するに飯盛女――駅という駅に、
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親方のお角さんは、お気に入りのお梅ちゃんを連れて、浅草の観音様へ参詣の戻り道です。
、今度の一世一代が大当りの記念として、浅草の観音様へ、何か一つ納め物をしようとの考えがあって
とにかく、こうして蝙蝠傘をさして、ゆらりと江戸の浅草の駒形堂の前の土を踏んだ白雲の恰好は、かなりの見物で
もそれを検分かたがた御参詣に参ったのですが、あの浅草の観音様へ納め物をしたいと、疾うから心がけていたんで
あながち奇を好む素人考えとのみはいわれない。ただに浅草観音の納額として見るにとどまらず、この絵をとって、現代の
ともかくも、目標は浅草寺境内の額面である。従来のものの中へ割込んで遜色のないもの
そこで、白雲は再三、浅草観音の額面を実地見学に行きましたが、どうもしかるべき題目を発見
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流行語となったのは、ある時、三日月という侠客が日本橋あたりで、勤番の侍と喧嘩をし、
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押し通すや否や、竹刀と道具を釣台に舁のせて、麹町九段坂上三番町、神道無念流の師範斎藤篤信斎弥九郎の道場、練兵館へ押寄せ
そうして、江戸、麹町番町の三宅三郎の道場へ来た。
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、江戸の町には三大剣客の道場があった。神田お玉ヶ池の北辰一刀流千葉周作、高橋蜊河岸の鏡心明智流の桃井春蔵、
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そこで善光寺道を小諸へ続く原っぱで、米友がドッカと路傍の草の上に坐り込んでしまいました
追分から小諸までは三里半。
まだ少々早いが、小諸の城下で泊るつもりで町へ入り込むと、早くも二人の姿を見つけた
という評判で、小諸の町へ姿を見せるが早いか、忽ちに二人が、城下全体の人気者
下す日になったら、どのくらい強いか底が知れない。小諸や、上田の藩中に、手に立つ者が一人でもあるものか
の謀叛に、米友が不同意を唱えたわけではなく、小諸の城下を当ってみたけれども、変装用の思わしい古着が見つからなかった
は「鍼灸術原理」という古本を一冊買って、小諸の宿を立ちました。
小諸から田中へ二里半。田中より海野へ二里。海野より上田へ二
それが軽井沢の出来事によって誘発せられ、小諸、上田を通って行くうちに、ここで始めようかここで……
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する巨人を選定せよとならば、そは西郷よりも、大久保よりも、木戸よりも、福沢諭吉が相応しかろう。
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それは主として、両国橋の女軽業の一座の手のすいた者が、入代り立代りして、親方
もっとも、今では両国橋の一座は手代の方に任せて、お角は直接に立入らないことに
吹き飛ばされた美人連の一人は、両国橋の楽屋へ来て吐息をついて、
白雲はその書物を買って来て両国橋の仮寓へ帰り、即日その書物を読みはじめましたが、実に、こんな