大菩薩峠 29 年魚市の巻 / 中里介山
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大和の奈良の春日山の神鹿の祖、ここに数千の野生の、しかも柔順な、その頭には
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「どうぞお貸し下さい、わたしは、この鳩に頼んで上野原まで使に行ってもらいましょう、それともう一箇所は房州まで……」
「上野原とは違いますけれど、坊ちゃん、あっちの方を知ってますか」
「ああ、あたい、甲州の上野原の月見寺にいたことがあるのよ」
私のいちばん仲のいいお友達よ。あの人とは、上野原で別れたっきりなんですもの。もしかしておじさんの方へ行ったら
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参ってみたとて何になりましょう。それならばはるばると摂津の難波、須磨、明石、備前、備中を越えて長門の下の関――
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事実、名古屋の天守閣が、いかに高かろうとも、そこから九州の一角まで見えようはずがあろうとも無かろうとも、それは問題にするに足りないし
いうことになっているが、それもしかとはわからぬ、九州の梅谷というところ、甲州の富士の麓なんぞには、たしかに野生の梅
ところで、どうなりましょう。海を渡ればまた、四国、九州の新しい天地が開けます、有明の浜、不知火の海、その名は歌の
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……白骨は、もう落着きません、どうしても、白川まで行きたいと思いつのりました。白川ならば、平家の落武者ではありませ
どうしても、白川まで行きたいと思いつのりました。白川ならば、平家の落武者ではありませんけれど、永久に、わたしたちの身を
ことができるというわけではありませんか。ああ、白川へ行ってしまいたい、ねえ、先生、御同意ください、いいでしょう、この白骨を
一切、わたしにお任せ下さいな――そうして白骨から白川で落着いて、そこがほんとうに住みよいところでしたら、一生をそこで暮しましょう
しむるもの――そは冗談として、春夏の候、白川に入るの困難は、迷宮に入ることの困難の如くであるが、秋冬の
れても、今はもうわたしは驚かなくなりました。白川へ行ってしまえば別天地ですから、多分、天地がわたしたちにだけ出来ているよう
ずの心に導かれて、どうしても、まっすぐに白川へ行けないで、あやまって畜生谷へ落ちこまないことを誰が保証しますか
た乱婚の風儀を別にしては、畜生谷は、白川と同じことに、土地も、人情も、美しいところだと聞いていますから
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ために、加賀の前田、筑前の黒田、豊前の細川、筑後の田中、肥前の鍋島及び唐津の寺沢、土佐の山内、長門の毛利、阿波
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「岡崎泊りには時間がたっぷりございますから、なんならひとつ、相撲を見てやり
。そうして、その日のまだ高いうちに、無事に岡崎に着いて、桔梗屋というのに宿を取り、その翌朝も尋常に出立し
がある、それ故に、どちらにしても拙者はこの岡崎を立退かねばならぬようになっている、だから、君たちの罪を
かえってお疑いをあそばすかも知れません、私事はこのたび岡崎を立退いてまいりました」
通り、余儀ないわけで人を討ち果し、それがために岡崎を立退いてまいりました」
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説明して、それは郷国の先輩、弥次郎兵衛、喜多八が東海道膝栗毛という金看板をかかげながら、東海道の要を押えるところの尾張の名古屋を閑却
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とも、加藤肥後守清正の子孫をたずね出して、この名古屋城をそっくり持たせてやりたい」
誰いうとなく、この名古屋城の城内と城下とを通じて、第一等の美人は、さあ、どなたでしょう
夢に襲われ通して来ました。それですから、あの名古屋城を見るたびに、主家の本丸とは見ないで、奪われたわが屋敷あと
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は、江戸幕府というものから見れば大醜態だが、尾張藩というものから見れば、成功の部だとされている」
の局を結ばしめたのを成功と見れば、それは尾張藩の成功に違いないが、あれが手ぬるいから、第二の長州征伐が持上って
長州征伐の成功を、成功として見れば、これは尾張藩の成功に違いない。まして昔の加藤清正のように、敵対勢力のために
一次の長州征伐の成功成功と言いたがるが、あれは尾張藩の功ではないよ、薩摩の西郷が、中に立って斡旋尽力した
があって、その間に奔走周旋したればこそだ、尾張藩の功というよりも、西郷の功だ」
うむ、一方には、そう言いたがる奴もあるだろうが、尾張藩のある者から言わせると、西郷などは眼中にない、もとより、和戦の交渉
などは眼中にない、もとより、和戦の交渉一から十まで尾張藩一箇の働きで、長州の吉川監物に三カ条を提示して所決を
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その晩のうちに、極めて無事に、名古屋の城下へ護送されて行く道庵と米友を見ます。
名古屋の城下といっても、ここからは、僅かに一里余りの道のりですから
つもりの旅行者が、大部分は、この尾張の国の中心たる名古屋の地を通過していないこと。
挨拶に行かねえけりゃ、義理人情が欠けるという愛国心で、名古屋へ一旦は入ったけれども、その足で城下は素通りして、真先に、
かくてこの一行は、まだ宵のうち、無事に再び名古屋の城下へ送り込まれました。
「家康が、特にこの名古屋の城に力を入れたのは、何か特別に家康流の深謀遠慮があっ
総計六百三十八万七千四百五十八石三斗の力が傾注されているこの尾張名古屋の城。
他邦ニモアリトイエドモ、コノ地最モ甚ダシ、とあるとか、名古屋ノ女、顔色ハ美ナルモ腰ハ大イニ太シ、とかなんとか、
美ナルモ腰ハ大イニ太シ、とかなんとか、名古屋の女のこってりした風味をそれとなく、がんりきの前でにおわして
「つまり、名古屋第一等の美人の極めは疾うの昔、五年前に済んでいます
にしたところで、銀杏加藤の奥方様は、もうこの名古屋にはいらっしゃいません」
「おや――あの奥方は名古屋にいらっしゃらない? でも、御良人も、お屋敷も、変りはないの
「ええ、名古屋にもいらっしゃいません、お江戸へもおいでになっていらっしゃるのではござい
「でも、名古屋にいらっしゃらないのなら、新しく別に選んでも、失礼にはなりますまいか知ら
といって、それからひとしきり、その五年前に、名古屋一等の美人だという極めのついている銀杏加藤の奥方の身の上話に
名古屋に加藤家も多いけれど、系図面から純粋に、最も由緒の正しい加藤肥後守
守の後裔は、あの銀杏加藤の奥方、ただいま問題の、名古屋第一のその当人の生家がそれだという評判は、この席の中に
つまり、名古屋は美人の本場であって、ここで推薦された第一は、天下の
は参りません、柿の木金助ではございませんが、あの名古屋のお城のてっぺんに上って、いただいて参ります」
、この障子の内においでなさるあなた様が、尾張の名古屋の城下では、第一等の美しいお方でいらっしゃるというお噂を伺っ
御親類で、まさしくこの尾張が故郷であるのに、あの名古屋の城の天守も、清正公が一期の思い出に、一手で築いたもので
ないで、肥後の熊本に祀られていますけれど、あの名古屋の城の天守を見るたびにわたしは、あれを一手に築いて、徳川の
が丹精して、一期の思い出に築いて置いたあの名古屋の城は、決して徳川に捧げるためではありませんでした、いつか、
それとも信州の松本、あるいは、やや遠く離れて尾張の名古屋」
よろしい、承知しましたが、しかし、お雪ちゃん、あなたは名古屋に、お知合いがありますか」
そうとして、お雪ちゃん、鳩の方はとにかく、この名古屋行の分を貸して差上げましょう、この鳩は、尾張の名古屋までしか行かない
行の分を貸して差上げましょう、この鳩は、尾張の名古屋までしか行かない鳩だということを、忘れてはいけませんよ」
「その居所のわからない人のたよりを、名古屋へしか行かない言伝に頼んだところで、無益じゃありませんか」
「おれは、もう山は御免だよ、早く、名古屋へ出ようではないか、岐阜から名古屋、東海道筋へ向うのは、我々亡者
だよ、早く、名古屋へ出ようではないか、岐阜から名古屋、東海道筋へ向うのは、我々亡者にしてからが明るい気分になる、
ここに不思議なこともあればあるもので、名古屋の城の天守閣の上に、意気揚々として、中原の野を見渡している
ことは、わからない。まして、お客分として、この名古屋の城下へ来た道庵先生ではなく、注意人物の嫌疑者として
の熊本と呼びかけたのは、つまりこの尾張名古屋の城は名古屋の城であっても、現に自分が雲を踏むような心持で登臨して
事実、名古屋の天守閣が、いかに高かろうとも、そこから九州の一角まで見えようはずがあろうとも無かろう
そうして、この名古屋に来ているという理由も、お君と離れてから、間の山稼ぎも
ておきたいという志願で、踊りの本場といわれるこの名古屋へやって来て、当時有名な坂東力寿さんのところへお弟子入りし
目的でなく、その目的のところは、ずっと離れた尾張の名古屋の城下ということでありました。
そこで、大要が尾張名古屋の城下の舞踊の略史ということになる。
舞踊――おどりを口にするほどのものが、名古屋の踊りに特別の地位を認めないというわけにはゆくまい。
人も知るところの、近代の名古屋の舞踊界に同時に現われた三人の名手。
力寿(本名、後藤りき)が、父に伴われ名古屋に来たのは天保十四年の頃、彼女十七歳の時、これが篠塚
頃、彼女十七歳の時、これが篠塚流を以て名古屋の花柳界舞踊を風靡した一人。
して、長と能とを取入れて、ついに天下無比と名古屋が誇る名古屋踊りを大成した西川鯉三郎が現われる。
西川鯉三郎が、江戸から名古屋へ入って来たのは、右の篠塚力寿が全盛時代であったこと
その初興行を若宮で催したのが縁となって、名古屋の女優界に一つの機運を産み出した上に、中村宗十郎の妻となっ
篠塚力寿が京から再び名古屋へ帰って来る。留守の間に自派の振わざるを見、阪東派の盛ん
そんなような空気から、名古屋の女流界にはかなり鬱勃たる創業の意気が溢れていたものらしい。つまり
自ら祖をなさんとする意気に満ちた女流芸人が、名古屋の天地に存在していないということはない。ただ憂うるところは彼等
引退しているお角さんに眼をつけ、あの親方を名古屋に引っぱり出して、この機運の手綱を取らせたら、それこそ見物である。
天下の興行は名古屋から出で、名古屋の興行は女流から出でるという歴史が作れる――と、
天下の興行は名古屋から出で、名古屋の興行は女流から出でるという歴史が作れる――と、そこまで乗込んだか
――と、そこまで乗込んだかどうか知らないが、名古屋の女流の人才余りあって、その経営者の不足を見て取った者が、
ことにならないではないが、今度のは、名こそ名古屋だが、やり様によっては、名古屋へ立って、上方と関東とを
は、名こそ名古屋だが、やり様によっては、名古屋へ立って、上方と関東とを、両手に提げることができまいものでも
……一度金の鯱を拝みに寄せていただきましょうか知ら。名古屋へ行けばお伊勢様は一足だし、伊勢へ参れば京大阪は、ほんの
下って東海道筋へ出るか、あるいは諏訪へ出て飯田から名古屋方面へ出るか、それもまだきまっていないらしい。
お角さんの方でも、今後また名古屋を地盤として、東西へ足をかけた仕事に乗出してみるような機会
ていただけますまいか。まず、あれを一緒に連れ出して、名古屋見物から、伊勢参り、京大阪、四国九州、お前さんとならば唐天竺でも
、そう言われると、東海道の道中は面白そうですね、名古屋の踊りも見たい、お伊勢参りもしたい、奈良や、京都や、大阪
だが、申し合わせたわけではないが、この時、名古屋にはすでに、江戸ッ児の先達を以て自ら任じている道庵先生が
「はい、尾張名古屋のお城というところには、どういうものか、徳川のお家の選りすぐった宝
様のエライ品物はお江戸には置かず、みんな尾張の名古屋にしまってござるというのは、権現様の思召しで、名古屋が、何に
にしまってござるというのは、権現様の思召しで、名古屋が、何につけても、いちばん安全だというところから、そんなことになすっ
「尾張の名古屋の紅売りだとおっしゃいました」
つかわと出て行ったが、暫くして、北原はその名古屋から来た紅売りというのを伴うて、浴槽の方へ行った様子。
くらいですから、今日訪ねて来たという新来の珍客、名古屋の紅売りというのを、つれ出して、炉辺閑話に新しい興を添えようとする
が取次をして、北原が迎いに出でたところの、名古屋から来た紅売りその人なんでありましょう。そうだとすれば、旅路
も、冒険にも、ここまでひとり旅をして来た名古屋の紅売りなるものが、単純な紅売りでないということもあたりまえです。
内容を綜合してみると、飛騨の高山と、尾張の名古屋とが、話題の中心になるらしい。
の研究ということに集まっているらしい。一座の異彩、名古屋から昨晩着いた紅売りの女――も多分、それがために有力な資料
「名古屋は、怖るるに足りない」
お銀様を誘い出して、尾張の名古屋を的に東海道を上るお角さんの一行は、無事に三州の赤坂の
さあ、もう一度、手出しをするならしてごらん。わしは名古屋の河嘉の松五郎という、しがないもんやが、曲ったことは大嫌いじゃ―
天気がよくて皆さん、みんな御見物にいらっしゃる、わしも名古屋の河嘉の松五郎じゃ、こんなところで、晴れて斬られるならずいぶん斬られて
を、加勢がまた殖えてきたと見たのか、名古屋の料理屋の親方、河嘉の松五郎は、諸肌をぬいでしまいました。
「はい、わたくしたちは、江戸から参りました者、名古屋まで参る途中のものでございます」
、小肥りにして丈の高いかの料亭の親方。たしか名古屋の河嘉の松五郎とか名乗っていた、その男に違いない。駕籠から
強行すれば、宮か名古屋へは着けないではなかったが、万事この方が余裕があってよいと
きまっている。それまでの間、知人もあるから当分、名古屋へでも行ってみようというようなことを、極めて軽く取扱っているから、
ことに、あなたが、これから名古屋でお住まいになるとすれば、敵の中で暮らしているようなもので
隠れ家を御紹介して上げましょう――いっそ、このまま、名古屋をつき抜けて、自分たちと一緒に京大阪から金毘羅までも……とまでは
この際、名古屋にいた宇治山田の米友は、まっしぐらに宮の七里の渡し場めがけて走っ
名古屋を後ろにして、やや東へ向いて走るのです。
宮から名古屋へ、もと来た道を順に戻ろうというのでもなし。
いったい、ここは何というところなんだね、尾張の名古屋へ出るには、どっちへ行ったらいいんですかね、名古屋へ帰りてえと
へ出るには、どっちへ行ったらいいんですかね、名古屋へ帰りてえと思うんだが」
「名古屋へ……では、一度鳴海の本宿へお出なさい、その方がようござんす
鳴海の本宿へ出て、それから東海道を真直ぐに行けば名古屋へは間違いっこなし――宮へ出るのもいいが、はじめての人には
かね、では、そういうことに致しましょう。鳴海から名古屋までの道のりは知れたもんだろうなあ」
とを取りちがったあやまりであり、近くいえば、鳴海と名古屋とのあやまりであり、それを延長すれば、京と江戸とのあやまりであり
「名古屋へ帰りてえと思うんだ」
「名古屋へ、では後へお戻りなさるんですね」
ははあ、ここがいわゆる、鳴海のうちとすれば、名古屋へ行くのは後戻り……つまり自分というものは、宮の渡し場から、ふらふら
「お前さん、名古屋の人なの?」
「いいんにゃ、名古屋の人じゃねえ、暫く名古屋へ逗留してから、やがて京大阪の方へ行っ
「いいんにゃ、名古屋の人じゃねえ、暫く名古屋へ逗留してから、やがて京大阪の方へ行ってみるのだ」
おや、それじゃやっぱり旅中なのね。わたしたちも明日は名古屋へ行って、暫く泊っているにはいるけれど、京大阪から田宮の方まで
「ええ、途中ばかりじゃない、明日は名古屋で、また逢えるかも知れません」
常の米友ならば、一たまりもなく拒絶して、自分は名古屋に残して置いた主人のための責任感に向って一直線に動くはずであった
どのみち、明日は名古屋へ着くべき間柄だから、誘わるるままに米友も、今日は一泊という
名古屋へ来て以来、道庵先生の持て方が非常に過ぎていましたから
は別問題として、あちらでも、こちらでも、在名古屋一流の名士、風流者、貧乏人といったようなものが、道庵を招請
そうして、名古屋に於けるあらゆる名物という名物を、この機会に於て、残らず道庵
いう金看板をかかげながら、東海道の要を押えるところの尾張の名古屋を閑却しているということに、ヒドイ義憤を感じていること、宮簀
、宮重大根を出し、手前味噌を出しているところの尾張の名古屋の城下を踏まずして、東海道膝栗毛もすさまじいやという義憤が、わざわざ道
名古屋に入るとまず、金の鯱なんぞには目もくれず、一直線に尾張中村
を買いかぶってしまったればこそ、この江戸舶来の珍客に、名古屋の粋を味わわせて、歯に衣着せぬ批評を承っておくことは、
驚倒絶息せざるを得なくなりました。この座に連なる名古屋の、一流株の名士連といえども、いまだかつて、自分と同じ国に
それにつづいて、名古屋の筍連にも思いきった八ツ当りを浴びせ、医学館の薬品会をコキおろし、
きしめん、名古屋女とお市の方、梨瓜と大根、名古屋の長焼、瀬戸物、風呂吹き、漬物の味――宗春の発明したという
この場の水難は、これはなにも、江戸の敵を名古屋で、という影武者があったわけでもなく、全く生命に危害を加えようと
は京都に、ある時は江戸に、近くはまた尾張の名古屋に根を生やそうかと言っていた裏宿の七兵衛を知る。そこで、
「はい、名古屋へ参ってお尋ねをいたしましたところ、当節はこちらだということで、
「名古屋へは何ぞ御用でおいでになりましたか」
からほんの地続きの尾張の中村で生れ、そうしてあの尾張名古屋の御本丸も、清正公一手で築き成したもの、清正公の魂魄は、
清正公の魂魄は、肥後の熊本よりは、この尾張の名古屋に残っているということを、よくよく申し聞かせても、どうしてもこの子
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まだ、来ねえかよ、あの野郎は、友様は、鎌倉の右大将はまだ来ねえかね」
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古えの人はここに来て、須磨や、明石や、和歌の浦の明媚をうたわないで、いかになる身にかけて
とて何になりましょう。それならばはるばると摂津の難波、須磨、明石、備前、備中を越えて長門の下の関――赤間ヶ関、悲しい名
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古えの人はここに来て、須磨や、明石や、和歌の浦の明媚をうたわないで、いかになる身にかけて来る。鳴海
になりましょう。それならばはるばると摂津の難波、須磨、明石、備前、備中を越えて長門の下の関――赤間ヶ関、悲しい名でござい
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それをひとつ我々で越えようではないか、越中の立山、加賀の白山をひとつ廻ってみる気はないか、山の中だけに
「尤も、おれの国の越中の立山の中には、とても大きいのがあるそうだが、おれはまだ見ない」
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大奥の江島は、実は月光院の犠牲であるという意味でお銀様は、流された江島よりは、
でお銀様は、流された江島よりは、本尊の月光院の名を憎んで、悪女の中に入れてしまっているらしい。
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のがありましたが、そんなんでもございません。箱根の姥子には山姥の石像がございますが、それでもございません。染井
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使命が課せられていると見るのが至当だ。太閤の大坂城から奪って来た名宝という名宝は、たいてい江戸までは持って行かないで
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「阿蘇の山ふところには、湯の谷だの、栃の木だの、戸下だのという
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て止まるところまで行かねばやめられないこの少年は、狭い房総の半島にいて、どちらに行っても海で極まってグルグル廻り、廻りそこね
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」の古名なり、本篇は頼朝、信長、秀吉を起せし尾張国より筆を起せしを以てこの名あり。
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「大和の十津川です」
でやられた、その調子で、スラスラと大和の国の十津川まで言ってしまったから、傍に聞いていたお雪がハラハラしたの
「あなたがなんですか、大和の十津川のあの天誅組の騒動へ加入なすったのですか」
「ははあ。それはそれとして、十津川ではどちらへお附きになりました、勤王勢でございましたか、それ
「いいえ、名誉です、十津川の一戦は勤王の火蓋でした、あなたがその名誉ある一戦に加わって
「先生、あなたが、大和の十津川とやらで、そんなお怪我をなすったということは、わたしは今まで存じませ
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毛利、阿波の蜂須賀、伊予の加藤左馬之助、播磨の池田、安芸の福島、紀伊の浅野等をはじめとして、肥後の加藤清正に止めを
いつでもありますよ、この炉の中の火は、安芸の厳島の消えずの火と同じことで、永久に立消えなんぞはしないから
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「どうだ、宇津木、これから白川郷へ行ってみないか、飛騨の白川郷というのは、すてきに変って
宇津木、これから白川郷へ行ってみないか、飛騨の白川郷というのは、すてきに変っているところだそうだ」
ところは、それより奥へ行って、やはり飛騨の国の白川郷というところがあるそうです、そこは全くこの世界とは交通の絶えたところ
、風俗も、神代のままだとか聞きました。その白川郷の話を聞いた時に、私はそんなところに一生を住んでみたくて
「いいえ、それとは比較が違います、白川郷というところは、悪いところであろうはずがないことがよくわかりました、そう
あの方と二人だけで、その白川郷へ行くことにきめてしまいました。
白川郷のもっと奥か、その途中か知れませんけれど、そこには畜生谷という
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ばかり申しております。同じ湯治をするならば、肥後の阿蘇山の麓、また同じ死ぬるならば熊本の本妙寺の土になって、御先祖
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、未来永劫に廃れ山になってしまう。近頃は、この武蔵野にも美しい雑木林がだんだん減って、殺風景な桑畑ばかりふえる、梅なんぞもその通り
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尽したところで、どうなりましょう。海を渡ればまた、四国、九州の新しい天地が開けます、有明の浜、不知火の海、その名は
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言いたがるが、あれは尾張藩の功ではないよ、薩摩の西郷が、中に立って斡旋尽力した賜物である。毛利父子を恭順
挙げて、和平の局を結ばしめたのは、実は薩摩の西郷吉之助があって、その間に奔走周旋したればこそだ、尾張藩
は犬山成瀬の家老八木雕であったのだ。近頃は薩摩の風向きがいいものだから、その薩摩を背負って立つ西郷という男が、
のだ。近頃は薩摩の風向きがいいものだから、その薩摩を背負って立つ西郷という男が、めきめきと流行児になっているから、
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の大分銅を目にかけて、そいつを手に入れようと江戸城の本丸へ忍びこんだ奴がいる、できてもできなくても、盗人冥利に
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許されていないわたしの身の上でございます――はい、甲州、有野村の藤原家を尋常に、お暇をいただいて出て参りました、御縁
参ります。ですから、私はあの子に逢いたければ、甲州から、いっそ相模へ出て、一息に船で渡らせてもらいさえすればよかっ
「まず、そんなものです、お雪ちゃんの故郷だという甲州なんぞも、当然捲き込まれてしまいますね」
き旅を重ねて、ようやく江戸へ落着いて、それからまた甲州へ行って、また江戸へ戻るまでの間のこの男の出処進退を考えて
か、申しわけのためとか、そんな用向で、わざわざ再び甲州の地を踏みに来たものとも思われません。打ちとけた話を聞いて
灰下をせせりに来るという、了見はありますまい。甲州へ来るのが目的でなく、その目的のところは、ずっと離れた尾張の名古屋
、それもしかとはわからぬ、九州の梅谷というところ、甲州の富士の麓なんぞには、たしかに野生の梅があるのだからな。
「では、また甲州へでもおいであそばしますか」
「いや、甲州へはなおさら――実は、そなたにも見てもらいたい、幸いに、これ
「ああ、あたい、甲州の上野原の月見寺にいたことがあるのよ」
はどこでございましょう、白骨でいけないとすれば、再び甲州の有野村へ帰りましょうか。わたくしが有野村へ帰りましたとて、もうわたくし
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ていない。その指している方向は三河蒲郡か、或いは知多半島の方面であろうところの空際を指して、道庵は突然、「肥後の熊本
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の命によって、その第九子義直のために、加賀の前田、筑前の黒田、豊前の細川、筑後の田中、肥前の鍋島及び唐津
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粗末にする癖がある、悪い癖だ。だから信長は安土へ取られ、秀吉は大阪へ取られ、清正は熊本へ取られちまったん
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、やり様によっては、名古屋へ立って、上方と関東とを、両手に提げることができまいものでもない。
とは全く趣を異にしています。京阪、或いは関東の要所に於て、二三人集まって、こんな事を口走れば、忽ち身辺に
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とり、広小路から末広町を通って、若宮裏へ廻って、門前町へ出で、それから少し行き過ぎて、後戻りをして、樅ノ木横町から、
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白雲に限る。ところがそのマドロスをおさえの役は只今、銚子から利根、香取、鹿島に遊ぶといって出て行ったきり、まだ帰って
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そうしてわたしは、なにもかも一切あきらめて、その白川村へ入ってしまった方がいいのじゃないかと、ずっと以前から思案して
伝うるところによると、飛騨の白川村に通ずる路は、千岳万渓の間に僅かに一条の小径あるのみで
そうして、その難路を分け入って、白川村に着いて見れば、土地は美しく、人情は潤い、生活の苦もなく、
それが、白川村の話を聞いているうち、そうして、いよいよ、その白川郷まで入って
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長者町の子供が、くしゃみをして呆れ返っているに相違ない。
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て、その第九子義直のために、加賀の前田、筑前の黒田、豊前の細川、筑後の田中、肥前の鍋島及び唐津の寺沢、土佐
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本所というところには、米友としてはかなり多くの思い出を持っている。
「本所」と聞いて、米友が思わず苦い面をしました。
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その眼の中には焦燥はあるが、それは軽井沢の時に、主人を見失った責任感から峠を走せ下った時の呼吸と
決行してしまったものか、そうでなければ、先日の軽井沢の場合のように、道庵の親切が過ぎたための不慮の災難か、
だが、この場合は全く軽井沢の場合と別に、一英雄が現われたとて如何ともすべからざる事情であった
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「江戸下谷長者町十八文道庵居士」
の大坂城から奪って来た名宝という名宝は、たいてい江戸までは持って行かないで、この尾張名古屋の城に置き残してあるということ
、御良人も、お屋敷も、変りはないのに、江戸への御出府や、一時の道中は、人別の数には入りませんよ
だって時と場合ですからね、今に上方の戦が江戸までやって来ますよ、お雪ちゃん」
を出て、遥々と東海道を下って空をつくように江戸をめざして進んだ時の、心の中と、その道中の艱難を考えて
艱難を考えてみると、憂き旅を重ねて、ようやく江戸へ落着いて、それからまた甲州へ行って、また江戸へ戻るまでの間の
ようやく江戸へ落着いて、それからまた甲州へ行って、また江戸へ戻るまでの間のこの男の出処進退を考えてみると、まあ、そんなこんな
慣らされているけれども、かつて不動明王の夢を見て、江戸の四方をグルグル廻らせられたほどに、夢をもてあますことはありません。
もう信念というほどのものにまでなっている。されば、江戸で失った大切な馴染のお君という女に、このたびの道中のいずれ
、もう大丈夫よ。あの晩、備前屋さんへ入って、江戸のお客様のものを盗ったのは、君ちゃんではないこと、友さんで
阪東秀代が江戸から流れて来たのは弘化三年、年二十三歳の時という。秀代
西川鯉三郎が、江戸から名古屋へ入って来たのは、右の篠塚力寿が全盛時代であっ
もとは江戸の人で、新内を業としていたが、大阪で薩摩説教節を
、遺憾の点を見て取ったその道の通人が、江戸へ往復のついでに、当時、異彩を放って、未だ老いたりという年で
あって、その経営者の不足を見て取った者が、江戸に遊んでいるお角さんのことを想い出したのは、人物経済眼の卓れ
をそそるのに有力なものであったようです。今までは江戸で鳴らしたのだが、江戸で鳴らしたということは、一代に鳴らし
あったようです。今までは江戸で鳴らしたのだが、江戸で鳴らしたということは、一代に鳴らしたと同じようなことになら
をかざして海のあたりをながめているのは、多分、江戸へ見世物にやられた時分、どこかの楽屋で、見よう見まねをしたもの
最も有望といわれる産地、九州地方はさておき、江戸を中心としては静岡地方――それから常陸から磐城岩代へかけて、
「この間、江戸へ行った時、広小路の露店で狩野家を一枚買いました」
、この景気で見ると、まんざら田舎相撲とも思われない、江戸か上方、いずれ大相撲の一行が、この辺で打っているのだな―
「はい、わたくしたちは、江戸から参りました者、名古屋まで参る途中のものでございます」
「三名ともに、江戸から御同行でござるか」
そこで、お角は、当分の間、江戸へでも行ってみたいとのお考えならば、適当の隠れ家を御紹介
「江戸へ八十六里二十町、京へ三十六里半、鳴海へ二里半」
名古屋とのあやまりであり、それを延長すれば、京と江戸とのあやまりであり、縦に持って行けば、天と地のあやまり。
止まったからよかったけれども、このまま方針をかえなければ江戸まで行く……たとえ一里半とはいえ、自分が逆行したことを、
「わたしは江戸から来ました」
「江戸ですか。おいらも江戸から来たには来たが、東海道を来なかった
「江戸ですか。おいらも江戸から来たには来たが、東海道を来なかった」
「姉さん、江戸はどこだエ」
「江戸は本所です」
やデモ倉の、苦肉を以てのたくらみ、道庵を江戸からつけ覘い、とうとうかかる下劣の手段で、闇討を決行してしまったものか
か、とにかく、この場の水難は、これはなにも、江戸の敵を名古屋で、という影武者があったわけでもなく、全く生命に
を掘れば、いい石灰が出るというんで、昔は江戸のお城普請にまで御用になったものだが、それをいい気になっ
数の知れたものだ、これが馬に積んで、どんどん江戸まで出るようになってごろうじろ、あの山と谷をみんな梅の木にしたって
ある時は京都に、ある時は江戸に、近くはまた尾張の名古屋に根を生やそうかと言っていた裏宿
「どこからですかねえ、江戸にいる時分からついていましたよ」
「ああ、あのお浜様か、ありゃ、江戸でお死になされた」
「お松さんは江戸の人ですよ」
「もし、そのお松さんが、江戸へ出るとか、他国へ行くとかすれば、お前さんはどうしますね
「江戸の霊岸島から、船で行くといいそうでございます」
「なあに、房州ぐらい、江戸へ出て見れば鼻の先に山が見えますよ、何でもありゃし
即日発足した七兵衛、生地より関八州、江戸から上方筋へかけては、めまぐるしいほどの旅をつづけているが、房州路
を嫌って、内房をめぐるべく歩を取った七兵衛――江戸を離れようとする時に、乗込んで来た一隊の兵士と出逢い、直ちにこれが
会津の兵が江戸にとどまるのではなく、このまま京都へ馳せ参ずるのだとさとりました。
お呼び寄せになるのも容易ではございますまい、いずれ、江戸の御本邸へお帰りあそばす節に、お松に、若様をお連れ申し
「いや、それが……わしは江戸へ落着くことはまずあるまいと思う」
晴れて帰れるようになった日が来たとて、拙者は江戸では住めない、住みたくないのだ、といって、この地に永住する
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小牧であり、大垣であり、岐阜であり、清洲であり、東海道と伊勢路、その
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東海道を上るお角さんの一行は、無事に三州の赤坂の宿まで来ました。
赤坂を出て宝蔵寺まで来た時分に、お角は駕籠の中から、景気の
この時分、後ろの赤坂の方面から来るのと、行手の藤川筋から往くのと、それに意外に
実は、自分も昨日、赤坂を越えて藤川河原の相撲場の喧嘩は、一から十まで見ていました
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お角の一行は、さながら昔の伊賀の上野の仇討の光景を、目のあたりに見せられたような気になって、
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に雲煙縹渺たるところ、山がかすんで見えるだろう、あれが伊勢の鈴鹿山だ」
「えッ、伊勢の鈴鹿山かい」
だ、あれから南に廻ると関の地蔵に、四日市、伊勢の海を抱いて、松坂から山田、伊勢は津で持つ、津は伊勢…
に、四日市、伊勢の海を抱いて、松坂から山田、伊勢は津で持つ、津は伊勢……」
抱いて、松坂から山田、伊勢は津で持つ、津は伊勢……」
「あれが伊勢の国……違えねえな」
伊勢と言われて、火のついたようになった米友を見ると、道庵
識らずここまで来てしまったが、ここへ来ると、伊勢が眼と鼻だから、変な気になるのも無理は無え、おれに
様、しっかりしな、ウソだよ、ウソだよ、ありゃ伊勢の国じゃねえんだ、まあ、こっちへ来な、こちらの方の、もっと景色の
読者諸君は御存じのことでしょう、伊勢の古市、間の山の賑わいのうちに、古来ひきつづいた名物として
ましょうか知ら。名古屋へ行けばお伊勢様は一足だし、伊勢へ参れば京大阪は、ほんの目と鼻、京大阪へ行った日は、
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も聞いた。また小栗上野が、ひとりで、そっと持ち出して赤城山の麓にうずめて置くなんて、まことしやかに言う奴もある……」
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その声を聞いただけで、岡崎藩の美少年は納得したようです。
その語るところによると、岡崎藩でも武術の家に生れ、去年のこと、朋輩と口論の末、果し合い同然
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まだ行先の当てはついていないのだが、まあ、伊豆の小笠原島よりは、もっと遠い、呂宋とか、高砂とかいうところ、或いは
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畿内をほかにして、あれだけの狩野は他に無い――ある友人は、
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そのマドロスをおさえの役は只今、銚子から利根、香取、鹿島に遊ぶといって出て行ったきり、まだ帰って来ない。当人、日
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そこへ、ノソリと入って来たのは、海蔵寺から帰った与八です。
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の寺沢、土佐の山内、長門の毛利、阿波の蜂須賀、伊予の加藤左馬之助、播磨の池田、安芸の福島、紀伊の浅野等をはじめとし
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から後は富士川を下って東海道筋へ出るか、あるいは諏訪へ出て飯田から名古屋方面へ出るか、それもまだきまっていないらしい。
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のみ名所、名物といってはござらん、まあ、陸前の松島まで参らなければ」
は日頃念頭に置いている。相馬には奔馬があり、松島には永徳がある――恵まれたるわが天地なる哉――行かずしては
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からあの子の声が聞えます。弁信さん――いま富士山の頭から面を出したのはお前だろう、なんて――あの子が海岸を
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駕籠でも越せましょうが、これは、越すに越されぬ大井川と同じこと、至急何とかお取計らい下さい」
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て誇るべきことは、そんなところにあるのではない、天竜峡の絶勝と並んで、わが伊那の地が山間の僻陬にありながら、尊王の
は一種の昂奮を感じながら、信州伊那の郷土を論じ、天竜峡のことに及んで、ぜひ一度、天竜峡を見においでなさい、御案内いたし
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悪い癖だ。だから信長は安土へ取られ、秀吉は大阪へ取られ、清正は熊本へ取られちまったんだ。それのみならずだ
江戸の人で、新内を業としていたが、大阪で薩摩説教節を聞いて、これを新内と調和して新曲をはじめ出した
たい、お伊勢参りもしたい、奈良や、京都や、大阪、なんだか物語でなつかしがっている風景が、眼の前へ浮いて来る
なければ、やれない仕事でございますな。権現様も、大阪に集まる浪人衆には怖れなかったが、この黄金の力を怖れたそうで
という宝がよせ集めてあるようなあんばいでございますな。大阪の城から取って来た、太閤様のエライ品物はお江戸には置かず
、このまま、名古屋をつき抜けて、自分たちと一緒に京大阪から金毘羅までも……とまでは言わず、いずれその辺は今晩にも、
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みたとて何になりましょう。それならばはるばると摂津の難波、須磨、明石、備前、備中を越えて長門の下の関――赤間ヶ関、
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立ちのぼる。途中一つ信州松本への廻り道があっただけ、安房峠を越えてしまえば、平湯までは二里に足らぬ道。
兵馬は、この快感と、勇気とをもって、安房峠を打越えながら、「万法一に帰す、一何れに帰す」ということを
方にめぐり逢おうとは思いもかけなかった。お前さん方、安房峠からおいでかエ」
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日本武尊を伊吹の毒の山神の森に向わしめた尾張の宮簀姫の名。
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「あ、お前は両国の親方じゃないの」
向う両国も本所だし、鐘撞堂新道も本所だし、老女の家も本所であるし、弥勒寺長屋
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趣を異にして、あちらは、四方山に囲まれた甲府盆地の一角であるのに、これは、田野遠く開けて、水勢甚だ豊か
曾て、甲府の城をうかがって、囚われの身となったのもこの二人でした。
そこで、お銀様は、甲府盆地に見ゆる限りの山河をながめます。後ろは峨々たる地蔵、鳳凰、
その眼下に甲府の町を見ないわけにはゆかない。甲府を見れば、東に蜿蜒として走る大道――いわゆる甲州街道、門柱と
のでありましょう。金峯の山を見れば、その眼下に甲府の町を見ないわけにはゆかない。甲府を見れば、東に蜿蜒
果して、数日を経て、使の者が甲府の町に向って飛ばされました。
それに応じて、使者ともろともに召し出されたのは、甲府で名うての腕利きの老石工でありました。
甲府から呼んだ老石工に、一枚の絵像をつきつけたお銀様は、
強圧命令を下したり、小作連に酒を飲ませたり、甲府から来る石工の若いのを誘惑したりして、その口からとめどもなく
それは、この甲府が目的の地ではありませんでした。
「以前は、駒井能登守様といって、甲府の勤番支配をつとめていらっしゃいました」
「え、甲府の勤番支配、そりゃ大物だ」
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「江戸下谷長者町十八文道庵居士」
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加藤肥後守の態度もわからないものだ。そこへ行くと福島正則の方が、率直で、透明で……短気ではあるが可愛ゆいところ
阿波の蜂須賀、伊予の加藤左馬之助、播磨の池田、安芸の福島、紀伊の浅野等をはじめとして、肥後の加藤清正に止めをさし
、その他、加藤の清ちゃんも、前田の利公も、福島の正あにいも、みんなこの尾張が出したんだ。そういうふうに昔
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ば、頼みになりそうでならぬのは親類共――水戸はあのザマで、最初から徳川にとっては獅子身中の虫といった
「水戸を、徳川というものに反逆させたのが光圀でありとすれば
尾州慶勝が水戸の烈公と好く、多年の尊攘論者であり、竹腰派の勢力は今
ことを七兵衛が見て取りました。そうしてこれは水戸へ向って急ぐのだ、気のせいか山崎譲の後ろ姿のようにも
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の方へかけては、大きな凧が流行っているし、岡山の幸吉ゆずりの工夫者もいるという話だからなあ」
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、わたしは正直にいえば、お姉様と、肥後の熊本へ行きたいのです」
「熊本へですか」
「だって、熊本には、お前の病気を療治するようなところは、ないじゃありません
は、尾張の国の名古屋城下で死ぬよりは、肥後の熊本で死にたいのです」
ん、それを思ってもいけないのです、ですから、熊本へはやれません」
「お前は、熊本が好きですか」
も、絶えずわたしを引きつけて、どうしても肥後の熊本が、墳墓の地のように思われてなりません」
「御先祖の地は熊本ではない、この尾張の国が、本当に、御先祖の発祥地だと
…どうしても、そういう気になれないで、熊本が、ほんとに慕わしい故郷の地……というような気ばかりし
、その清正公は尾張の土になれないで、肥後の熊本に祀られていますけれど、あの名古屋の城の天守を見るたびにわたし
は安土へ取られ、秀吉は大阪へ取られ、清正は熊本へ取られちまったんだ。それのみならずだ、近代になって、
「友様、見な、肥後の熊本が見えらあ」
ここで、道庵が突然、肥後の熊本、と言い出したのは、何のよりどころに出でたのか、意表外
ところの空際を指して、道庵は突然、「肥後の熊本が見える」と言い出したものです。
が絶えず頭にあるから、そこで、ついつい、肥後の熊本が飛び出したものであろうと思われます。
踏むような心持で登臨しているこの天守閣は、肥後の熊本の加藤肥後守清正が、一世一代のつもりで、一手で築き上げた
とも言わず、伊良湖崎とも言わずに、肥後の熊本と呼びかけたのは、つまりこの尾張名古屋の城は名古屋の城であって
二人の間では、問題にならなかった肥後の熊本を、聞き咎めたのが同行のお数寄屋坊主です。
米友は、熊本が見える、見えない、ということをちっとも問題にしなかったけれど、聞捨て
自分が打ち出した肥後の熊本という問題は、米友の頭では問題になりませんでしたけれども
、寺の名であってもなくても、それが肥後熊本と何の交渉がある。察するところ、この先生はこの先生で、また自分
「湯治に行くよりは、私は肥後の熊本へ行きたいのです」
「はて、肥後の熊本」
ならば、肥後の阿蘇山の麓、また同じ死ぬるならば熊本の本妙寺の土になって、御先祖の清正公の魂にすがりたい、
「肥後の熊本は先祖の地だということで、この子はそのことばかり申しており
一手で築き成したもの、清正公の魂魄は、肥後の熊本よりは、この尾張の名古屋に残っているということを、よくよく申し聞かせて
「はい、この子はどうしたものか肥後の熊本を、先祖の地、先祖の地、と言いますけれど、本当に先祖の
ぬ、世間の人も加藤清正公と申せば、肥後の熊本だと思います、清正公の魂は、かえってあちらに止まっておられるか
なれば、わたしは白骨よりは熊本へ行きたい、なんと熊本まで私をお送り下さるまいか」
慕わしい、梶川殿、どちらかなれば、わたしは白骨よりは熊本へ行きたい、なんと熊本まで私をお送り下さるまいか」
「わたしはやはり肥後の熊本が、なんとも言えず慕わしい、梶川殿、どちらかなれば、わたしは
ません、死ぬならば尾張の国の土になりたい、熊本はわたしの故郷ではありません」
「伊津丸、お前はそれほど熊本へ行きたいならばおいでなさい、私はいつまでもこの尾張の国に
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だ、講武所の山岡鉄太郎の知行所もある、ちょっと、山国の京都といった面影があって、なかなかいいところだよ。それから東海道方面へ
京都祇園の生れ、篠塚力寿(本名、後藤りき)が、父に伴わ
、或いは離れて、かなりの混戦があった。力寿は京都にある時、四歳にして家元篠塚文寿の門に入り、十三歳
やがて二人は結婚して、ほどなく離婚し、力寿は京都円山へ移り住むことになった。
文久元年、力寿は再び京都から名府へ帰って来たけれど、その時、阪東秀代の勢力が隆々
踊りも見たい、お伊勢参りもしたい、奈良や、京都や、大阪、なんだか物語でなつかしがっている風景が、眼の前
ある時は京都に、ある時は江戸に、近くはまた尾張の名古屋に根を生やそうか
会津の兵が江戸にとどまるのではなく、このまま京都へ馳せ参ずるのだとさとりました。
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は御免だよ、早く、名古屋へ出ようではないか、岐阜から名古屋、東海道筋へ向うのは、我々亡者にしてからが明るい気分
小牧であり、大垣であり、岐阜であり、清洲であり、東海道と伊勢路、その要衝のすべてが、尾張名古屋
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、名古屋の踊りも見たい、お伊勢参りもしたい、奈良や、京都や、大阪、なんだか物語でなつかしがっている風景が、
やがて、松林――古えは夥しく鹿を棲まわせて、奈良の春日の神鹿の祖はここから出でたという――その松林の
大和の奈良の春日山の神鹿の祖、ここに数千の野生の、しかも柔順な、その
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れる産地、九州地方はさておき、江戸を中心としては静岡地方――それから常陸から磐城岩代へかけて、採炭の見込みがある。
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麦飯に、沢庵に、梅干の面桶を傾けて、それから小樽の水をグッと飲み、暫く昼休みの体で煙草をのみにかかりました
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「船はいけないね、千葉の方から内海を一走りした方が楽だろう」
その日、千葉の町で泊って、翌日はもう洲崎着。
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相州荻野山中の大久保の陣屋を焼いたのも、この連中だとはいわないが、この二人
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思わぬ道草で時間をとり、広小路から末広町を通って、若宮裏へ廻って、門前町へ出で、それから少し行き
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がたしかに押えているという話も聞いた。また小栗上野が、ひとりで、そっと持ち出して赤城山の麓にうずめて置くなんて、まことしやかに
お角の一行は、さながら昔の伊賀の上野の仇討の光景を、目のあたりに見せられたような気になって、ほとんど