大菩薩峠 20 禹門三級の巻 / 中里介山
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発見せられました。それが忽ち大穴様となって、京浜の人士を無数にひきよせ、それがために臨時停車場が出来たことを思えば
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知恵をつけてやろう、ほかでもないが相手は出羽の庄内で十四万石の酒井左衛門尉だ。今、江戸市中の取締りをしているの
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それでございましょう。あの辺には薩摩と、阿波と、有馬と、伊予の四カ国のお大名のお邸があるから、それで俗に
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てから忠作は、薩摩屋敷のまわりを一廻りして、芝浜へ向いた用心門のところまで来かかると、ちょうど門内から、忠作よりは二つ
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の中へは入らないで行ってしまいます。多分これから王子の稲荷の衣裳榎とやらへ行って散々に踊るのでしょう。
その翌日になってみると大きな評判が立ちました。王子の稲荷の衣裳榎の下へ、関八州の狐が悉く集まるという噂で
、女中を相手にその話をしていたが、今晩は王子の稲荷まで出かけてみようとの相談です。
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は見ることも答えることもできないほど微かに、信濃なる浅間の山に立つ煙がのぼるのを眺めた時に、心ある人は碓氷峠
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ましょう。あの辺には薩摩と、阿波と、有馬と、伊予の四カ国のお大名のお邸があるから、それで俗に四国町と
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近所に藪もあるにはありますが、同じ藪でも長者町の藪の方が気心が知れて安心だから、それで、わざわざやって参り
、日本広しといえども馬鹿囃子にかけちゃあ、当時下谷の長者町の道庵の右に出でる者があったらお目にかかる、この道庵の
弁信と茂太郎とを駕籠に乗せて、長者町の屋敷へ帰って来た道庵、外しておいた門札をかけ返すと間
「もし、先生、長者町の道庵先生は、まだお屋敷にいらっしゃいますか、それとももはやお帰り
の世間がそうであります。いつも暢気であるべきはずの長者町の道庵先生の屋敷までが、この穏かならぬ雲行きに襲われていると
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「いったい、九州の人間は、婦人よりも少年を愛する癖がある、君もまた九州人だろう
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も切れない脈を引いている。妙義も、榛名も、秩父を除いては見ることも答えることもできないほど微かに、信濃なる浅間の
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は想望するのみで、ここから見ることはできないが、小仏峠はすぐ眼前に聳えているのがそれです。東へ向っていたのをグルリ
その時、小仏峠の一点に火が起りました。
大見晴らしから小仏峠へ出る細径があります。火はその一点、小仏山の頂上に近いところで
竜之助がもと来た道とは全く別な方面、つまり小仏峠へ出る細径のことであります。蛇滝へ帰らないで、この路を行くと
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、思いがけないところへその蔓が張っているから妙だ、本所の相生町あたりまで、その薯蔓が伸びているからなあ」
数日間、得意の炯眼を光らして見ると、つきとめたのが本所の相生町の老女の家です。南条や五十嵐がこの家に出入りしていること
御用聞。両人ともに歩きも歩いたり、芝の三田から本所の相生町まで、一息に歩いてしまいました。
三男のやくざ者が、深川囃子というのをこしらえると、本所に住んでいたのらくら者の御家人が負けない気になって、本所囃子と
揃いの若者の中の男というのは、いつぞや本所の相生町の家で、米友の槍先にかけて、追払った浪人のなかの一人
ともおっしゃっておいでにはなりませんが、多分、本所の相生町の方へおいでになったものと心得ておりまする。実は私
本所の相生町の老女の屋敷の中から、琵琶の音が洩れ聞えたのはその
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ねえ。ちうこうになって雲州松江の松平出羽守、常陸の土浦の土屋相模守、美作勝山の三浦志摩守といったような馬鹿殿様が力
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ないところへその蔓が張っているから妙だ、本所の相生町あたりまで、その薯蔓が伸びているからなあ」
相生町の老女の家を辞して出でた山崎譲は、両国橋を渡りながら腕を
両国橋を渡りながら腕を組んで、独合点をして相生町の方を振返りました。
得意の炯眼を光らして見ると、つきとめたのが本所の相生町の老女の家です。南条や五十嵐がこの家に出入りしていること、時
「相生町へおいでになりましたか」
「うん、相生町へ乗り込んで見たところだが、お前はどこにいた」
ております故、ちょっと立寄って参りました。して、相生町の方の御首尾はいかがでございます」
。両人ともに歩きも歩いたり、芝の三田から本所の相生町まで、一息に歩いてしまいました。
さて、相生町へ来ると兵馬が例の老女の家へ入ったのを、忠作はたしかに
若者の中の男というのは、いつぞや本所の相生町の家で、米友の槍先にかけて、追払った浪人のなかの一人です。
おっしゃっておいでにはなりませんが、多分、本所の相生町の方へおいでになったものと心得ておりまする。実は私もこの
本所の相生町の老女の屋敷の中から、琵琶の音が洩れ聞えたのはその夕べの
「ほかではございませんが、あの相生町のお屋敷というものも、ずいぶん変てこなお屋敷でございますな」
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少しは遠くなっても、なるべくは、ずっと江戸の町を離れた人のいないところで、心静かに不動様を焼いて
いうことをよく教えて聞かせました。しかし米友は、江戸の市中まで持って帰りたくはないのだから、江戸に近い田舎でしかる
江戸の市中まで持って帰りたくはないのだから、江戸に近い田舎でしかるべき不動様はないかというようなことを尋ねると、
伊勢の国の拝田村の者だが、わけがあって江戸へ出て来たには出て来たが、江戸に来ても根っから
て江戸へ出て来たには出て来たが、江戸に来ても根っから詰まらねえや、時候のせいかこのごろは、気がいらいら
へ帰り、それからまた上方へ出かけるつもりであったが、江戸へ来て見ると、江戸にも存外、いたずら者が多いから、当分は帰ら
へ出かけるつもりであったが、江戸へ来て見ると、江戸にも存外、いたずら者が多いから、当分は帰らぬことになりましたわ
のいたずら者は禁廷のお庭の前でいたずらをする、江戸のいたずら者は将軍の膝元をつついてふざける、なかにはものずきなのがあっ
「あぶないことこの上なし、今の江戸は将軍家がお留守で、お膝元の警備がゆるんでいるところにつけ込んで、たち
て、ふかしたり、焼いたりして食ってしまわなければ、江戸の市中は鎮まらん」
山崎は、江戸を騒がす総ての巨根が薩摩に存することをよく知っております。この南条や
一頓挫して、南条らは一時、気を抜くために江戸へ退散したことも、山崎は最初から知っていました。
江戸へ出て来ては、片手間に彼等の行先をつきとめてやろうと、半ば
を張っている薩州屋敷にある。将軍不在に乗じて、江戸を騒がすことの根源はそこにある、ということのみきわめが大事であります
「お前も知ってるだろう、近頃、江戸の市中を騒がす悪い奴は、大抵ここから出ているのだ」
、たいてい底もあれば裏もあるものだから、このごろ、江戸の市中へ壮士を入れて、いたずらをさせているのも、一に
持っていない奴はなかろう。しかし、このごろの薩摩屋敷が江戸の町家を荒すのは、芝居の筋書が少し乱暴すぎる」
と言っている。益満が采配を振って、ああして江戸の市中を騒がしているのだから、まだまだ面白い芝居が見られるだろう」
小金ヶ原のこの踊りが、ついに江戸にまで伝わるに至り、その盛んなる噂を聞いて、江戸から見物に出かける者
江戸にまで伝わるに至り、その盛んなる噂を聞いて、江戸から見物に出かける者があります。見物に行った者は必ずその仲間に加わっ
多分、江戸から来た物好きがしたことでしょう。白の襦袢に白の鉢巻の揃い
であります。一月寺の貫主は年のうち大抵、江戸の出張所に住んでいる。院代がいるにはいるが、これはほとんど寺
ておりますのでございます、私は、これを持って江戸の菩提寺へ安らかに葬ってやりたいと思いまして、そうしてこうやって
小金ヶ原の珍な現象が、江戸の市中までも評判になると、そこに謡言がある。曰く、近いうち
になると、そこに謡言がある。曰く、近いうちに江戸の町という町が火になる、その時は江戸の町民は悉く住むところ
に江戸の町という町が火になる、その時は江戸の町民は悉く住むところを失うて、一時、小金ヶ原へ仮りの都を
も彼等の踊り狂う熱は醒めない。この分では、江戸の町中を踊り抜いて、また日が暮れて夜が明けるまで、踊り抜くの
「ここは、まだ江戸のとっつき、千住の小塚原だよ」
後、かつて貧窮組が起った時と同じ伝染作用が、江戸の市中に起りました。前の時は不得要領な貧民どもが寄り集まって、
てみると、小金ヶ原の踊りは、今やああして江戸の市中へ移って来てみると、これから小金ヶ原まで視察に行く
ヶ原まで視察に行くほどの必要もなく、またかえってこの江戸の市中のこれからの騒ぎを見のがすわけにゆかないから、そこで弁信
と、逆上せあがって人間が別になってしまうんですね。江戸へは、あんなものを流行らせたくないものでございます」
済んだけれども、その翌日あたりから、この種類の悪戯を江戸の真中に向って試みて、市中の狼狽ぶりを見物しようという評議が
という噂であります。それを見物せんがために、江戸の市中をはじめ近在から集まる人が雲の如しという噂であります。
始まったということだが、おそらくそうではあるまい。江戸のものずきが行って、あらかじめお膳立てをしておいて、それを上州名物の
膳立てをしておいて、それを上州名物の名で、江戸へ繰込ませようという寸法であるとは受取れる。これは茂林寺名物の分福茶釜
張物にこしらえて、それを真中に舁ぎ上げて、日ならず江戸の市中へ乗込もうというのは、まだ噂だけであって事実に現われた
街道からゾロゾロと町の立ったように多数の乞食が、江戸の市中をめがけて繰込んで行くのが目につきます。鼻の欠けた
凝らして持つべきものを持ち、哀れっぽい声を振絞って、江戸へ向って繰込むことの体が世の常ではありません。
「今度、お情け深い江戸の公方様が、哀れな俺たちにお救い米を下さる、だからこうして
かくて毎日、江戸の市中へ繰込む乞食の数が少ないものではありません。
りきの目には、あなた方は怖くはございません、江戸の町奉行や市中の金持は、あなた方を怖がって慄え上るかも知れ
を聞いていると挨拶の末には、親分はこれから江戸へ出て面白い仕事をなさるのだそうだが、どうか自分たちを子分に
たことではありません。全く見えない時ですら、江戸の市中を自在に潜行して人を斬りました。
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「まだまだ小石川の伝通院までは、なかなかの道のりだ、もう少し乗っておいでなさい、伝
の身代りのために、しばらく犠牲となって馬上に忍び、小石川の伝通院とやらへ、ひとまず送り込まれてしまえば、それで一通りの義務は
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武蔵野に草はしなじな多かれど
日光の山を見ることができます。月の出るてう武蔵野の西の涯に山があって、そこがすなわち秩父根であります。秩父
大岳山、御岳山の山々が続きます。それから山は再び武蔵野の平野へと崩れて行くのだが、小仏の肩を辷って真一文字に
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と景信の間に、遠くその額を現わしているのが大菩薩峠の嶺であります。転じて景信の背後には金刀羅山、大岳山、御岳山
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筑波の山から鬼が出た
筑波の山から鬼が出た
この踊りの場でうたう歌が、やれ見ろ、それ見ろ、筑波見ろ、というこの地方の民謡だけではありません。相馬流山の節を
を走るところの樺木科の多い大見晴らしへの道は、筑波の男体から女体に通う道とよく似ております。月の光も漏らさない
で、関東の平野を左の方にながめてゆくと、筑波と日光の山を見ることができます。月の出るてう武蔵野の西の
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も当然であります。明治の世になって、東京と横浜の間に一つの穴が発見せられました。それが忽ち大穴様と
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「つまり、いたずら者の本家本元は薩摩だ、薩摩というやつは実に不埒千万なやつだ、その薩摩を取って
「つまり、いたずら者の本家本元は薩摩だ、薩摩というやつは実に不埒千万なやつだ、その薩摩を取って押えて、
、薩摩というやつは実に不埒千万なやつだ、その薩摩を取って押えて、ふかしたり、焼いたりしてしまいたいものだ」
「薩摩を掘り返して、ふかしたり、焼いたりして食ってしまわなければ、江戸の市
山崎は、江戸を騒がす総ての巨根が薩摩に存することをよく知っております。この南条や五十嵐らは薩摩の者で
存することをよく知っております。この南条や五十嵐らは薩摩の者ではないが、薩摩とは密接の脈絡を保って、何か関東
。この南条や五十嵐らは薩摩の者ではないが、薩摩とは密接の脈絡を保って、何か関東において事を起そうとし
へ曲ったところが、それでございましょう。あの辺には薩摩と、阿波と、有馬と、伊予の四カ国のお大名のお邸がある
「それだ、その四国町のうちでもいちばん大きな、薩摩の屋敷をお前は知ってるだろうな」
「その薩摩のお屋敷が、どうかなすったのですか」
上の山藩の金子とおっしゃるお方なぞは、あれから薩摩の屋敷の中をのぞいて見ては、しきりに絵図を引いておいでに
「それでなんですか、山崎先生、あなたも、あの薩摩のお屋敷の様子を、くわしくお調べになりたいのですか」
酒を飲みつつ威勢のよい話をしているうちに、薩摩ということが折々出るから、そこで何となく聞捨てにならなくなって―
「左様、なんと言っても薩摩で第一の人物は西郷吉之助だろう、西郷につづく者は……西郷につづく
も、かなりの大豪傑であろうと思われるが、しかし、薩摩において西郷ばかりが人物ではあるまい、小松帯刀や大久保一蔵は、西郷
「人によっては、西郷につづく薩摩での人物だと言っている。益満が采配を振って、ああして江戸
あるのに、好んで薩州を振廻すところを見れば、薩摩の勢力を看板にする、実は無宿浮浪の徒でもあろうかと思われる
「皆さん、御存じでもございましょうが、あれは薩摩の国で流行ります地神盲僧の琵琶のうちの、横琵琶というものでござい
「わたくしが琵琶を習いはじめにお師匠さんが、薩摩の琵琶はこうだと弾いて聞かせてくれました、あの国では、
琵琶を背負って歩く人が多いそうでございます、それで薩摩の国の琵琶は、おさむらい風の勇ましいものでございます、私共が習い
、けれども源はみんな一つでございまして、やはり、薩摩の琵琶も地神盲僧から出たものでございますから、わたくしがこうして耳
薩摩の島津家にとっては「木崎原」の歌は大切な歌であります。
こんなふうに、薩摩の国主の讃美歌になっているのだから、苟くも薩摩に縁のあるもの
薩摩の国主の讃美歌になっているのだから、苟くも薩摩に縁のあるものがこの歌を聞く時、多くの敬意を表さなければなら
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た。林のはずれを見ると、天気がいいものだから丹沢や秩父あたりの山々が見えるし、富士の山は、くっきり姿をあらわしてい
が相模の大山の阿夫利山でございますよ、こっちのが丹沢で、相模川があそこを流れているんでございます、甲州では例の
相模野がつづいて、相模川の岸から徐々として丹沢の山脈が起りはじめます。それをなおずっと右へとって行けば甲州に連なる
は鮮かに見ることができます。それを元へ返して丹沢の山つづきを見ると、その尽くるところに突兀として高きが大山の阿夫利
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水戸様街道といわれる松戸の方面や、奥州仙台陸奥守がお通りになるという千住の方面から、中仙道の板橋あたりで
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、新しい人形を一つお前たちに貸してやる、これは鎌倉の右大将米友公という人形で、形は小さいが出来は丈夫に出来ている
お喋り坊主の代りに道庵が提供したのは、鎌倉の右大将米友公と言ったけれども、実は宇治山田の米友のことであり
「鎌倉の右大将米友公の御入り」
もありません。大山大聖とあがめまつるものもあれば、鎌倉の右大将だというところから鎌倉ぶしを謡うものもある、木遣を自慢にうなる
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小仏の背後に高いのが景信山で、小仏と景信の間に、遠くその額を現わしているのが大菩薩峠
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ものかと人に尋ねました。その人が、下総の成田山の出張所が、御府内のどこそこにあるということをよく教えて聞かせました
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が、こういうことになると真面目に苦心するのです。甲州の袖切坂で鼻緒の切れたお角の下駄を、どう処分しようかと思っ
でも負傷させたということになると、今度は甲州の山の中の川越し人足とは相手が違って、非常な面倒なものに
のは、そのお喋り坊主の弁信の姿ではなく、甲州でむごたらしい虐殺に遇って、訴うるところなき恨みを呑んで横死を遂げた愛人
ここを南へ行けば、甲州へは行かないで相模へ出るのです。このとき南条の身なりは、ちょっとし
で、相模川があそこを流れているんでございます、甲州では例のそれ猿橋のありまする桂川で、それがここいらへ来ては
「お恍けなすっちゃいけませんね、多分あなた方が甲州から連れておいでになったんだろうと思いますが、ただ、ああして
が起りはじめます。それをなおずっと右へとって行けば甲州に連なる山また山で、その山々の上には富士の根が高くのぞいて
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増上寺の松林へ入り込んだ兵馬は、その中の松の一本の下をグルグルと
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、笹子の嶺を貫いて、その奥に甲信の境なる八ヶ岳の雄姿を認める。富士をのぞいてすべての山がまだ黒い時分に、まず雪
すべての山がまだ黒い時分に、まず雪をかぶるのは八ヶ岳です。
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を遠く雲煙縹渺の間にながめる時には、海上微かに江の島が黒く浮んでいるのを見ることができます。
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「おいらは宇治山田の米友といって、生れは伊勢の国の拝田村の者だが、わけがあって江戸へ出て来たには
のですから手がつけられません。私はあれを、伊勢から伊賀越えをする時に見物致しました、男だけならまだしも、女が
「伊勢の国には、またつと入りというのがありましてね、大勢して踊り歩いて
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している野心のほども、よく見抜いていました。甲府城乗取りの陰謀は、これがために一頓挫して、南条らは一時、気
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「実はこういうわけなのだ、上野山内の東照宮へ忍び込んで……じゃない、闖入してだ、神前の幣束を奪って来る
果してその翌日、上野の東照宮に思いがけない乱暴人が闖入しました。
引上げるのを見た者があるということであります。東照宮の御前にあった三本の金の御幣を真中に押立て、これ見よがしに大道
、我々は薩州屋敷に住居致すもので、今日、上野まで東照宮の出開帳をお迎えに参ったものだ、滅多なことを致すと神様の
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ないが、薩摩とは密接の脈絡を保って、何か関東において事を起そうとしている野心のほども、よく見抜いていまし
「いったい、近頃は関東よりも、上方の方が人気が荒くなりました」
やはり東を向いたままで、関東の平野を左の方にながめてゆくと、筑波と日光の山を見ること
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この時分、高尾山薬王院の奥の院に堂守をしていた一人の老人がありました。
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ました。これが小塚原を繰出すと、ゆくゆく箕輪、山谷、金杉あたりから聞き伝えた物好き連が、面白半分に潮の如く集まって来て踊りまし
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へ踊りながら帰る。水戸様街道を東へ踊り行くもの、松戸から千住をかけて江戸方面へ流れ込むもの、北は筑波根へ向って急ぐ者
水戸様街道といわれる松戸の方面や、奥州仙台陸奥守がお通りになるという千住の方面から、
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誰がしたものか踊っている間へ、八幡様や水天宮のお札をおびただしく撒き散らしたものがあります。人は天からお札が降ったもの
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嶺であります。転じて景信の背後には金刀羅山、大岳山、御岳山の山々が続きます。それから山は再び武蔵野の平野へと崩れて
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山崎はそれを考えながら、両国の見世物小屋のある方へと知らず知らず足を引かれて来ました。
この寺から馬を曳き出して、口笛を吹いているのは、両国の見世物にいた清澄の茂太郎で、その馬にのせられている坊さんというのは
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た弥次郎兵衛と喜多八とが、梯子を買ってもてあまして、京都の町を担ぎ歩いたようで、米友のは梯子よりは有難い不動様で
迷いきっているのです。この点においては、曾て京都へ遊びに行った弥次郎兵衛と喜多八とが、梯子を買ってもてあまして、
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「ナニ、水戸の山崎? 山崎がここへやって来たのか」
散々に踊り抜いて、おのおのその土地土地へ踊りながら帰る。水戸様街道を東へ踊り行くもの、松戸から千住をかけて江戸方面へ流れ込む
水戸様街道といわれる松戸の方面や、奥州仙台陸奥守がお通りになる
沿道の商人たちがこぼすまいことか、水戸の中納言様、奥州仙台の陸奥守様、さてこのたび評判の館林のお
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ものと見えます。多分、中仙道筋から相前後して、甲府の城下へ入ってから後、あの辺で相見るの機会があったもの
「早速、甲府へ帰り、それからまた上方へ出かけるつもりであったが、江戸へ来て
している野心のほども、よく見抜いていました。甲府城乗取りの陰謀は、これがために一頓挫して、南条らは一時
「そうだ、神尾の字に似ているな、甲府詰めになった神尾主膳の筆によく似ているが、いかに落ちぶれたとて
為さんとするのか、へたなことをして、また甲府の二の舞を踏んで牢屋へ叩き込まれるようなことをしなければよいが。
どんなにあなた様のことを心配しておりましたでしょう、甲府へおいでになってから後も、それとなくお尋ねしてみまし
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の紋がありますから、誰が見たって、これが薩州鹿児島で七十七万石の島津のお屋敷だとわかります」
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流れ込むもの、北は筑波根へ向って急ぐ者、南は千葉佐倉をめざして崩れて行くもの、それに沿道に残されたものが参加
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だが、日本広しといえども馬鹿囃子にかけちゃあ、当時下谷の長者町の道庵の右に出でる者があったらお目にかかる、この
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志摩守といったような馬鹿殿様が力を入れて、松江流、土屋流、三浦流という三つの流儀をこしらえたが、馬鹿囃子
庵に言わせるとそうでねえ。ちうこうになって雲州松江の松平出羽守、常陸の土浦の土屋相模守、美作勝山の三浦志摩守と
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水戸様街道といわれる松戸の方面や、奥州仙台陸奥守がお通りになるという千住の方面から、中仙道の板橋あたりで
の商人たちがこぼすまいことか、水戸の中納言様、奥州仙台の陸奥守様、さてこのたび評判の館林のお狸様、それとは
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て来ねえ。つづいて旗本の次男三男のやくざ者が、深川囃子というのをこしらえると、本所に住んでいたのらくら者の御家人が
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この上馬に乗せようとするのは惨酷じゃねえか。昔、神田の祭礼の時に馬鹿な奴があって、素裸へ漆を塗って、
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ました。そこは代々木の原であります。米友は、代々木の原とは知らないで、ここいらならばよかろうと思いました。そう
の後に広々とした野原に出ました。そこは代々木の原であります。米友は、代々木の原とは知らないで、ここ
四辺を見廻したところで、その時分の代々木あたりは、深山幽谷も同じものであります。旅人をつかまえて火種を借りる
詮方なく米友は、代々木の原を立ち出でました。林のはずれを見ると、天気がいいものだ
やりそこなった米友は、ぜひなく不動尊の像をかついで、代々木の林を立ち出でました。
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を尋ねると、それはまた滝の川の不動様と、目黒の不動様だろうという返事でありました。
近いということでしたから米友は、よし、それでは目黒の不動にしようと、その方角を、よくよく聞き取ってそちらに足を向けまし
のうち、どれが近いかと尋ねると、ここからでは目黒の方が、ずっと近いということでしたから米友は、よし、それで
米友が不動尊の画像をかついで、目黒不動の境内まで来て見ると、そこが大変に賑やかで、お祭か縁日
「このごろは先生、おいらは目黒の方に行っていますよ」
「なるほど、お前さん、このごろは目黒の方においでなさるのかね」
「目黒の不動様のお寺に御厄介になってるんだが、先生、近い
「お前、今、なんと言った、目黒から出て来たが、近所に医者もないではないが、素姓の
考えてみな、お前は目黒から来たと言ったろう、目黒はそれ、筍の名所だろう、筍はお前、どこへ生えると思う」
ことはなかろうじゃねえか、よく考えてみな、お前は目黒から来たと言ったろう、目黒はそれ、筍の名所だろう、筍はお前
か、その位なら何も最初から、先生、わたしもこのごろ目黒におりまして、近所に藪もあるにはありますが、同じ藪で
「それ見ろ、つまり目黒は藪の名所だろう、その藪の中から出て来たくせに、近所に医者
てっこすりで言ったわけじゃねえんだ、藪なんぞは、目黒でなくったっていくらもあらあな」
には佐倉、成田の方面へ廻るということで、いま目黒の不動様に厄介になっている米友が、その附人の一人に選ば
の国の小金ヶ原というところへ山師が出て、目黒の不動様のお札を撒き散らしたり、荒人神のうつしを持ち出したりするという
そこで米友は薬を貰って、一旦目黒の不動院へ立帰る。発足はその翌日未明ということにきまっていて、
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の札が落ちました。跳り上って喜んだのは品川宿の建具屋の平吉という若い男で、この百両が平吉の手
百両の富に当った品川宿の平吉という建具屋が、嬉しまぎれに身近の人を招んで、
こう言っておいおいと泣いているのは、同じ品川から平吉と一緒に連れ立って、今日の富へ来た友達の一人であり
「みんな聞いてくれ、おいらは品川宿の平吉なんて人は知ってやしねえんだ、煙草入が引っかかった
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「この間、千住の方から来た人の話に、下総の小金ヶ原に近いところで
ながら帰る。水戸様街道を東へ踊り行くもの、松戸から千住をかけて江戸方面へ流れ込むもの、北は筑波根へ向って急ぐ者、
この一行が千住の小塚原に着いた時分も、朝未明でありました。
なにげなく来て見ると、千住大橋あたりからお仕置場あたりまで、押し返されないほどの人出です。
て通るというわけにはゆきません。さりとて、行手は千住の大橋で、川を徒渡りでもしない限り、裏道を通り抜けるというわけ
も泣かれない面色を遠くから見ると、ちょうど、ところが千住の小塚原であるだけに、さながら屠所の歩みのような小坊主の気色を見る
「ここは、まだ江戸のとっつき、千住の小塚原だよ」
の方面や、奥州仙台陸奥守がお通りになるという千住の方面から、中仙道の板橋あたりでも、お爺さんやお婆さんが
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において西郷ばかりが人物ではあるまい、小松帯刀や大久保一蔵は、西郷に優るとも劣ることなき豪傑だという評判じゃ」
できようはずがない、知恵と手腕においては小松帯刀や大久保市蔵が西郷に優るとも、徳の一点に至っては、梯子をかけ
で、あれに抱かれてこうなったところに荻野山中、大久保長門守一万三千石の城下があろうというもんです、たとえ一万石でも、
ぶりによって見れば、南条は、右の荻野山中、大久保長門守一万三千石の城下なるものへ志して行こうとするものらしい。無論がん
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「実はこういうわけなのだ、上野山内の東照宮へ忍び込んで……じゃない、闖入してだ、神前の幣束
果してその翌日、上野の東照宮に思いがけない乱暴人が闖入しました。
来るがよい、我々は薩州屋敷に住居致すもので、今日、上野まで東照宮の出開帳をお迎えに参ったものだ、滅多なことを致すと
ということにきまっていて、道庵の一行は、上野の山下で不動院の一行を待ち合わせ、そこで相共に小金ヶ原まで乗込もう
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に戻って、小金ヶ原から繰出して来た人数を、浅草広小路の、とある茶屋でながめているのが山崎譲と七兵衛とであります
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れることも当然であります。明治の世になって、東京と横浜の間に一つの穴が発見せられました。それが忽ち
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中納言様、奥州仙台の陸奥守様、さてこのたび評判の館林のお狸様、それとは変って、箸も持たぬお菰様の
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お馴染の甲州入りをするものだろうと見ていると、八王子から急に南へ折れました。
ことも、いつもとは趣が少し違います。そうして八王子を南へ相原道を出かけると、路傍の松の木の蔭から、
れるがんりきの百蔵は、前と同じ道を逆に八王子方面へ向けて帰り道です。
手近な奴の横面を一つ撲り飛ばしておいて、一散に八王子の方面へと走り出しました。
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高尾の本山から右へ落つる水が妙音の琵琶の滝となって、左へ
見晴らしということができるでしょう。この大見晴らしを絶頂とする高尾の山は、名の示す通りに山というよりは山の尾であり
高尾の山の大見晴らしは、誇張することなくして関東一の大見晴らしと
ここに立って東を望むと、高尾の本山の頂をかすめて、遠く武蔵野の平野であります。東に向っ
ざるところと、人間の最も多く住むところとを、すべてこの高尾の大見晴らしの一眸のうちに包むことができる。大見晴らしの大きさは、
から中腹へ下りて来ることは来るが、果してそれがこの高尾の山へ来るのか、それとも右へ廻って与瀬、上野原の方
多分この松林を抜けたらば、また薄尾花の野原を、高尾の大見晴らしへ出て山上に詣でるか、或いは山下の村へ行くものでしょう
高尾と小仏の中のすすき尾花の高原の中に立った二人は、たがいに
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巣鴨、庚申塚のあたりの一夜の出来事が縁となって、机竜之助は夢の
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に、かなり大きな不動尊の画像を担いで、例によって両国橋を渡りかけました。そこで米友が思うには、これを打捨る
の中へ投げ込むのがよかろうということでありました。両国橋から物を投げ込んだことは、米友には今までに経験がないではあり
で、両国橋へ来て、フト思案半ばに思いついたのは、やっぱりここから川の中
舌打ちをして焦れったそうに、また両国橋を渡り出しました。
相生町の老女の家を辞して出でた山崎譲は、両国橋を渡りながら腕を組んで、独合点をして相生町の方を振返りまし
山崎はこう言って、ほほ笑みをしながら、両国橋を歩いて行きました。
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ないものが、神田川へ投げ込めるはずがない。大川へも神田川へも投げ込めないものを、そこらの堀や溝へ投げ込めるものではない
てみると、もう駄目です。大川へ投げ込めないものが、神田川へ投げ込めるはずがない。大川へも神田川へも投げ込めないものを、そこ