みみずのたはこと / 徳冨健次郎 徳冨蘆花

みみずのたはことのword cloud

地名一覧

回向院

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に突立って居る。上には紅白の幕を張って、回向院の太鼓櫓を見るようだ。北表面へ廻ると、墨黒々と筆太に

葉山

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が亡妻の墓に雨がしょぼ/\降って居たと葉山に語る条を読むと、青山墓地にある春日燈籠の立った紅葉山人の墓

四谷

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簡易な荷車になった。彼の村では方角上大抵四谷、赤坂が重で、稀には麹町まで出かけるのもある。弱い者でも

、実弟の世良田某を連れて来た。五歳の年四谷に養子に往って、十年前渡米し、今はロスアンゼルスに砂糖大根八十町

斯様な時に顕われます。私共では年来取りつけの東京四谷の米屋の米を食います。震災で直ぐ食料の心配が来ました。不時

になりました。その一斗の米が終る頃は、四谷の米屋の途も開けました。

丹波

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西陣をぬけて、坦々たる白土の道を西へ走る。丹波から吹いて来る風が寒い。行手には唐人の冠を見る様に一寸青黒い

伊勢

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京都、奈良、伊勢、出来ることなら須磨明石舞子をかけて、永久日本の美的博物館たらしむ可きで

朝日山

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見る/\橋の下を伏見の方へ下って行く。朝日山から朝日が出かゝった。橋を渡ってまだ戸を開けたばかりの通円茶

新宿出入口

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甲州街道の新宿出入口は、町幅が狭い上に、馬、車の往来が多いので、時々肥料

満洲

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人を多く見た。チタでは殊に支那人が多く、満洲近い気もち十分であった。バイカル湖から一路上って来た汽車は、チタから

琵琶湖

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を食って、湖上の風光を眺める。何と云っても琵琶湖は好い。

松陰神社

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有る饂飩屋に腰かけて、昼飯がわりに饂飩を食った。松陰神社で旧知の世田ヶ谷往還を世田ヶ谷宿のはずれまで歩き、交番に聞いて、地蔵尊の道しるべ

十五日が世田ヶ谷のボロ市。世田ヶ谷のボロ市は見ものである。松陰神社の入口から世田ヶ谷の上宿下宿を打通して、約一里の間は、両側に

調布

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疑問である。新宿八王子間の電車は、儂の居村から調布まで已に土工を終えて鉄線を敷きはじめた。トンカンと云う鉄の響が、

ものや、ランプを持って、新宿まで電車、それから初めて調布行きの馬車に乗って、甲州街道を一時間余ガタくり、馭者に教えてもらっ

調布の町に入る頃は、雷は彼の頭上を過ぎて、東京の方に

暮れたと思うた日は、生白い夕明になった。調布の町では、道の真中に五六人立って何かガヤ/\云いながら

痴な息子も年頃になったので、調布在から出もどりの女を嫁にもろうてやった。名をお広と云って

好い時あらためて腰入をする家もある。はずんだところで調布あたりから料理を呼んでの饗宴は、唯親類縁者まで、村方一同へは、

立った日露戦争時代は、農家の子弟が面籠手かついで調布まで一里半撃剣の朝稽古に通ったり柔道を習ったりしたものだが、

になって、会津へ転任して行きました。其後調布の耶蘇教が衰微し、会堂は千歳村の信者が引取り、粕谷に持って来

行きました。到頭腎臓が悪くなり、水腫が出て、調布在の実家で死にました。死ぬまで大きな声で話したりして、見舞に

上総国

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一端も分かった。爺さん姓は関名は寛、天保元年上総国に生れた。貧苦の中から志を立て、佐倉佐藤泰然の門に入って

春日山

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に来た夕、三景楼の二階から紺青にけぶる春日山に隣りして、貂の皮もて包んだ様な暖かい色の円満とし

横浜

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に来た。もと松蓮寺の寺跡で、今は横浜の某氏が別墅になって居る。境内に草葺の茶屋があって、料理宿泊

吹っかけて来る。彼の家から、東は東京、南は横浜、夕立は滅多に其方からは来ぬ。夕立は矢張西若くは北の山から来る。

と思うと忽ち止む時雨のさゝやき。東京の午砲につゞいて横浜の午砲。湿った日の電車汽車の響。稀に聞く工場の汽笛。夜

は午砲も聞こえる。東京の午砲を聞いたあとで、直ぐ横浜の午砲を聞く。闇い夜は、東京の空も横浜の空も、火光が

直ぐ横浜の午砲を聞く。闇い夜は、東京の空も横浜の空も、火光が紅く空に反射して見える。東南は都会の風が

の書院は東京に向いて居る。彼の母屋の座敷は横浜に向いて居る。彼の好んで読書し文章を書く廊下の硝子窓は、甲州

が、中数日を置いて更に葛城を見送る可く彼は横浜に往った。港外のモンゴリヤ号は已に錨を抜かんとして、見送りに

年と三月目の明治四十二年の七月六日、横浜出帆の信濃丸で米国に向うた。葛城の姉、お馨さんの長兄夫婦

が赤く焼けて居る。東京程にもないが、此は横浜の火光であろう。村々は死んだ様に真黒に寝て居る。都は魘わ

、庭の大椎を黒く染めぬいて、東に東京、南に横浜、真赤に天を焦す猛火の焔は私共の心魂を悸かせました

頭を狂わせます。来る人、来る人の伝うる東京横浜の惨状も、累進的に私共の心を傷めます。関心する人人の安否

有明

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であった。腫物の湯治に、郷里熊本から五里ばかり有明の海辺の小天の温泉に連れられて往った時、宿が天井の無い家

宮城

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今霊轜宮城を出でさせられるのだ。

四国

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毎に橋は左右に前後に上下に揺れる。飛騨山中、四国の祖谷山中などの藤蔓の橋の渡り心地がまさに斯様であろう。形ばかりの

三本松

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地蔵様の近くに、若い三本松と相対して、株立ちの若い山もみじがある。春夏は緑、秋は黄と

有珠山

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様なものをむら/\と立てゝ居る山がある。有珠山です、と同室の紳士は教えた。

法隆寺

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村、黄ばんだ田、明るい川の流れ、神武陵、法隆寺、千年二千年の昔ありしもの、今生けるものゝ総てが、夜

愛宕山

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冠を見る様に一寸青黒い頭の上の頭をかぶった愛宕山が、此辺一帯の帝王貌して見下ろして居る。御室でしばらく車を下りる

玉川

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の十一月中旬、彼等夫妻は住家を探すべく東京から玉川の方へ出かけた。

帰って来た。先輩の牧師に其事を話したら、玉川の附近に教会の伝道地がある、往ったら如何だと云う。伝道師は御免

を蒙る、生活に行くのです、と云ったものゝ、玉川と云うに心動いて、兎に角見に行きましょうと答えた。そうか、で

で千歳村だと大束に教えてくれた。彼等も玉川の近辺で千歳村なら直ぐ分かるだろうと大束にきめ込んで、例の如くぶらりと

尋ね/\て到頭会堂に来た。其は玉川の近くでも何でもなく、見晴しも何も無い桑畑の中にある小さな

彼は千歳村にあまり気がなかった。近いと聞いた玉川は一里の余もあると云う。風景も平凡である。使って居た

玉川に遠いのが第一の失望で、井の水の悪いのが差当っての

も洗えば、襁褓の洗濯もする、肥桶も洗う。何ァに玉川の水だ、朝早くさえ汲めば汚ない事があるものかと、男役に彼

玉川に遠いのが毎も繰り返えされる失望であったが、井水が清んだので

入って、青田の中の石ころ路を半里あまり行って、玉川の磧に出た。此辺を分倍河原と云って、新田義貞大に鎌倉

翌々日の新聞は、彼が其日行った玉川の少し下流で、雷が小舟に落ち、舳に居た男はうたれて

たので、例の通り戸をしめ、郵便箱をぶら下げ、玉川に遊びに往った。子供等は玉川から電車で帰り、主人夫妻は連れて

、郵便箱をぶら下げ、玉川に遊びに往った。子供等は玉川から電車で帰り、主人夫妻は連れて往った隣家の女児と共に、つい

麦笛に、武蔵野の日は永くなる。三寸になった玉川の鮎が、密漁者の手から窃と旦那の勝手に運ばれる。仁左衛門さん

のナイヤガラが出来て、蛙の声にまぎらわしい音を立てる。玉川に行くかわりに子供はこゝで浴びる。「蘆の芽や田に入る水も

も隅田川」然だ。彼の村を流るゝ田川も、やはり玉川、玉川の孫であった。祖父様の玉川の水が出る頃は、この

」然だ。彼の村を流るゝ田川も、やはり玉川、玉川の孫であった。祖父様の玉川の水が出る頃は、この孫川

彼の住居は、東京の西三里、玉川の東一里、甲州街道から十丁程南に入って、北多摩郡中で

さん」とよく一緒に遊んだものだ。彼女も連れて玉川に遊びに往ったら、玉川電車で帰る東京の娘を見送って「別れるのは

自然に相思の中となった。二人は時に青山から玉川まで歩いて行く/\語り、玉川の磧の人無き所に跪いて、流水

二人は時に青山から玉川まで歩いて行く/\語り、玉川の磧の人無き所に跪いて、流水の音を聞きつゝ共に祈った

に、デカは昨日甲州街道の給田に遊びに往って、夕方玉川から帰る自動車目がけて吠え付いた。と思うたら、自動車のタイヤに鼻づらを衝かれ

を飼うも厄介である。わざ/\人を頼んで、玉川向うへ捨てさせた。すると翌日ひょっくり帰って来た。汽車に乗せたらと

金剛山

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日はすでに河内の金剛山と思うあたりに沈んで、一抹殷紅色の残照が西南の空を染めて居る。

残照が西南の空を染めて居る。西生駒、信貴、金剛山、南吉野から東多武峰初瀬の山々は、大和平原をぐるりと囲んで、蒼々と

木山町

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就いた。伯父の家から川に添うて一里下れば木山町、二里下ると沼山津村。今夜は沼山津泊の予定であった。皆

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、追々懇意の間柄となった。手ずから採った干薇、萩のステッキ、鶉豆なぞ、来る毎に持て来てくれた。或時彼は湘南

植えてある。若木ばかりだ。路、山に入って、萩、女郎花、地楡、桔梗、苅萱、今を盛りの満山の秋を踏み分けて

で、川音がます/\耳について寂しい。宿から萩の餅を一盂くれた。今宵は中秋十五夜であった。北海道の神居古潭

ものであったが、川の此岸には風流に屋根は萩で葺いてあったが自働電話所が出来たり、電車が通い、汽車が通い

葛城

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葛城は九州の士の家の三男に生れた。海軍機関学校に居る頃から、

を卒え、更に英語を学ぶべく彼女はある縁によって葛城の母の家に寄寓して青山女学院に通って居た。彼女も又

に籠る。ついで露西亜に行く。外国から帰った時は、葛城は已に海軍を退いて京都の大学に居た。

も散り方になり、武蔵野の雑木林が薄緑に煙る頃、葛城は渡米の暇乞に来た。一夜泊って明くる日、村はずれで別れたが、中

様に云って置いたから宜しく頼む、と云うた。斯くて葛城は亜米利加に渡った。

葛城は新英州の大学で神学を修めて居た。欧米大陸の波瀾万丈沸え

粕谷の夫妻は彼女を慰めて、葛城が此等の動揺は当に来る可き醗酵で、少しも懸念す可きでないと

為にも、至極好い思立と看たのである。彼女は葛城の渡米当時已に自身も渡米す可く身を悶えたが、父の反対によっ

があったが、彼女の父は断じて許さなかった。葛城の人物よりも其無資産を慮ったのである。葛城の母、兄姉も

葛城の人物よりも其無資産を慮ったのである。葛城の母、兄姉も皆お馨さんの渡米には不賛成であった。葛城の

の邪魔になると謂うた。静かにこゝで勉強して葛城の帰朝を待てと勧めた。然しお馨さんは如何しても思い止まることが

月六日、横浜出帆の信濃丸で米国に向うた。葛城の姉、お馨さんの長兄夫婦、末の兄、お馨さんによく肖

葛城は米国嫌いで、来年になったら直ぐ独乙へ行くと申して居ります。

主人は直ちに葛城の母と長兄を訪ねた。彼は面目ない心地がした。若し死が

葛城はユニオンの方も卒業に近づきました。早いもので、三年も束の間に

遺髪と骨を納めた箱を安置し、昨日から来て葛城の姉さんが亡き義妹の為に作った花環をかざり、また藤なぞ生けてあっ

甲州

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晩秋の日は甲州の山に傾き、膚寒い武蔵野の夕風がさ/\尾花を揺する野路を、

、必何処かで殺さるゝに違いない。折も好し、甲州の赤沢君が来たので、甲州に連れて往ってもらうことにした

。折も好し、甲州の赤沢君が来たので、甲州に連れて往ってもらうことにした。白の主人は夏の朝早く起き

やったのを見むきもせず、ベソをかきながら白は甲州へ往ってしもうた。

白が甲州に養われて丁度一年目の夏、旧主人夫妻は赤沢君を訪ねた

山の上の小家の梅の木蔭に葬られました。甲州に往って十年です。村の人々が赤沢君に白のクヤミを言うた

つ三つ語を交わす内に、男は信州、女は甲州の人で、共に耶蘇信者、外川先生の門弟、此度結婚して新生涯

女は甲州の釜無川の西に当る、ある村の豪家の女であった。家で

あくる年の正月、主人夫妻は彼女の友達の一人なる甲州の某氏から彼女に関する消息の一端を知ることを得た。

武蔵野に春は来た。暖い日は、甲州の山が雪ながらほのかに霞む。庭の梅の雪とこぼるゝ辺に耳

ずの番をして搗いて来ねばならぬ。最早甲州の繭買が甲州街道に入り込んだ。今年は値が好くて、川端の岩さん

色をして居る。西北の空が真暗になって、甲州の空の根方のみ妙に黄朱を抹った様になる時は、屹度

栄である。彼の周囲に千年の古木は無い。甲州の山鏈を突破する二本松と、豪農の杉の森の外、木らしい木

風が吹く。北は武蔵野である。西は武相それから甲州の山が見える。西北は野の風、山の風が吹く。彼の書院

。彼の好んで読書し文章を書く廊下の硝子窓は、甲州の山に向うて居る。彼の気は彼の住居の方向の如く、彼方

ぽつ/\芽ぐんで居る。夕雲雀が鳴く。日の入る甲州の山の方から塵のまじらぬ風がソヨ/\顔を吹く。府中の方から

南端にある欅の切株に上って眺める。日は何時しか甲州の山に落ちて、山は紫に匂うて居る。白茶色になって来

が飛ぶ。蜘糸の断片が日光の道を見せて閃めく。甲州の山は小春の空にうっとりと霞んで居る。

富士山

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から多摩川上流の山々が淡く見える。西南の方は、富士山も大山も曇った空に潜んで見えない。唯藍色の雲の間から、

八幡山

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千歳村は以上三の字の外、船橋、廻沢、八幡山、烏山、給田の五字を有ち、最後の二つは甲州街道に傍い

、一番戸数の多いが烏山二百余戸、一番少ないのが八幡山十九軒、次は粕谷の二十六軒、余は大抵五六十戸だと、最早そろ

の烏山はもとより、二十七戸の粕谷でも、十九軒の八幡山でも、各自に自家の祭をせねば気が済まぬ。祭となれ

と驚いた様な声をして行き過ぎた。此は八幡山の人々であった。先日八幡山及粕谷の若者と烏山の若者の間に喧嘩

行き過ぎた。此は八幡山の人々であった。先日八幡山及粕谷の若者と烏山の若者の間に喧嘩があって、怪我人なぞ出来た

午後の散歩に一家打連れて八幡山、北沢間の田圃に往った。紫雲英の花盛りである。

通ると、先の男女はまだ其処に居た。其前八幡山の畑の辺をまご/\して居たそうである。多分闇から闇

ブルックリン

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一千九百○九年基督降誕になりてブルックリンにて

宇治

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宇治の朝

宇治に着いたのが夜の九時。万碧楼菊屋に往って、川沿いの

に颯々と云う川瀬の響が寒い。障子をあけると、宇治の早瀬に九日位の月がきら/\砕けて居る。ピッ/\ピッ

興聖寺の石門は南面して正に宇治の急流に対して居る。岩を截り開いた琴阪とか云う嶝道を上っ

青山

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して見せた。此丘を甲州街道の滝阪から分岐して青山へ行く青山街道が西から東へと這って居る。青山に出るまでには

青山へ行く青山街道が西から東へと這って居る。青山に出るまでには大きな阪の二つもあるので、甲州街道の十分の

二人は自然に相思の中となった。二人は時に青山から玉川まで歩いて行く/\語り、玉川の磧の人無き所に跪いて

、婦人は三宅坂で下りて所縁の家へ、余は青山で下りて兄の家に往った。

あるが、臨月近い彼女を驚かすのも面白くない。余は青山の通を御所の方へあるいて、交番に巡査を見出し、其指図で北

へ来たり人通りが賑やかだ。新宿、九段、上野、青山と廻って、帰途に就いたのが、午後四時過ぎ。東京は賑やかで

の父と、八十四歳の母と逗留に来ると云う。青山から人力車では、一時間半はかゝる。去年までは車にしたが、

然るに自身乗って見れば、案外乗心地が好い。青山から余の村まで三十分で来た。父が「一家鶏犬一車上、

自動車は巧に縫うて、家を出て三十分、まさに青山に着いた。

其時都落ちをしました。でなければ私はもうとくに青山あたりの土になって居たかも知れません。十七年を過して、

山形屋

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二日の夜は独立教会でT牧師の説教を聞いて山形屋に眠り、翌日はT君、O君等と農科大学を見に往った。

倫敦

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而作、日入而息、掘井而飲、耕田而食うであろう。倫敦、巴里、伯林、紐育、東京は狐兎の窟となり、世は終に近づく

府中町

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も忘れ得なかった。彼の家から西へ四里、府中町へ買った地所と家作の登記に往った帰途、同伴の石山氏が彼を

アイヌ

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午後は又一君の案内で、アイヌの古城址なるチャシコツを見る。※別川に臨んだちょっとした要害の地、

八幡

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二時間の後、用達に上高井戸に出かけた。八幡の阪で、誰やら脹脛を後から窃と押す者がある。ふっと見る

銚子

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立て、佐倉佐藤泰然の門に入って医学を修め、最初銚子に開業し、更に長崎に遊学し、後阿波蜂須賀侯に招かれて徳島藩

府中

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も往って見ようか、と主人は云い出した。百草園は府中から遠くないと聞いて居る。府中まではざッと四里、これは熟路

云い出した。百草園は府中から遠くないと聞いて居る。府中まではざッと四里、これは熟路である。時計を見れば十一時

府中に来た。千年の銀杏、欅、杉など欝々蒼々と茂った大国魂

太鼓をうち出した。農家はせっせとほし麦を取り入れて居る。府中の方から来る肥料車も、あと押しをつけて、曳々声して家の

府中の町を出はなれたかと思うと、追かけて来た黒雲が彼の頭上

四里を隔てゝ鼕々と遠雷の如く響くのである。府中の祭とし云えば、昔から阪東男の元気任せに微塵になる程御神輿

た時、まだ線路工事をやって居た京王電鉄が新宿から府中まで開通して、朝夕の電車が二里三里四里の遠方から東京へ

奥州

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奥州の方では、昔蛇が居ない為に、夥しい鼠に山林の木芽を

北へ行かねば、冬の心地は分からぬ。せめて奥州、北海道、樺太、乃至大陸の露西亜とか西比利亜とかでなければ、

として居る。鰹舟の櫓拍子が仄かに聞こえる。昔奥州へ通う浜街道は、此山の上を通ったのか。八幡太郎も花吹雪の

追分

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懐中電燈の電池を買って、電車で新宿に往った。追分で下りて、停車場前の陸橋を渡ると、一台居合わした車に乗った

長江

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は少しであるが、此入江から本田圃に出ると、長江の流るゝ様に田が田に連なって居る。まだ北風の寒い頃、子を

丸の内

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出かけ、ブラ提灯を便りに夜晩く帰ったりした。丸の内三菱が原で、大きな煉瓦の建物を前に、草原に足投げ出して、悠々

筑波

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譌ではなかった。生憎野末の空少し薄曇りして、筑波も野州上州の山も近い秩父の山も東京の影も今日は見えぬが

高井戸

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南裏の稲荷の宮に住んで居たそうだ。埋葬は高井戸でしたと云うが、如何な臨終であったやら。

午後少し高井戸の方を歩く。米俵を積んだ荷馬車が来る。行きすりに不図目に

近来の美晴。朝飯後高井戸に行って、石を買う。武蔵野に石は無い。砂利や玉石は玉川最寄

余も行列に加わって、高井戸まで送る。真先きに、紫地に白く「千歳村粕谷少年音楽隊」とぬいた横

して沈んだ顔の仁左衛門さんも来て居る。余は高井戸の通りで失敬して、径路から帰った。ふりかえって見ると、甲州街道の木立

北海道

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日蔭町で七円で買った白っぽい綿セルの背広で、北海道にも此れで行き、富士で死にかけた時も此れで上り、パレスチナから露西亜

情実に愛想をつかし疳癪を起して休職願を出し、北海道から出て来たので、今後は外国語学校にでも入って露語をやろう

、第一師団か、せめて横須賀位ならまだしも、運悪く北海道三界旭川へでもやられた者は、二年ぶり三年ぶりで帰って

二日の昼過ぎ、妙な爺さんが訪ねて来た。北海道の山中に牛馬を飼って居る関と云う爺と名のる。鼠の眼の様

た。札幌農学校に居た四男を主として、北海道の山奥開墾牧場経営を企て、老夫婦は養老費の全部及び老いの生命二つ

老夫婦は住み馴れた徳島をあとにして、明治三十五年北海道に移住し、老夫婦自ら鍬をとり鎌をとって働いた。二年を出で

が、其後四男も帰って来たので、寒中は北海道から東京に出て来て、旧知を尋ね、新識を求め、朝に野

爺さんが北海道に帰ってからよこした第一の手紙は、十三行の罫紙に蠅頭の

北海道も直ぐ開けて了う、無人境が無くならぬ内遊びに来い遊びに来いと、

た。そこで彼は妻、女を連れてあたふた武蔵野から北海道へと遊びに出かけた。

「北海道十勝の池田駅で乗換えた汽車は、秋雨寂しい利別川の谷を北へ北へ

に終った。あとを催促の手紙が来た中に、北海道足寄郵便局の関五郎と云う人もあって、手紙に添えて黒豆なぞ送って

に、ドロはマッチの軸木になり、樹木の豊富を誇る北海道の山も今に裸になりはせぬかと、余は一種猜忌の眼

常に遊ぶキトウス山の西、石狩岳十勝岳の東、北海道の真中に当る方数十里の大無人境は、其奥の奥にあるの

他の一二の小屋は訪わず、玉蜀黍を喰い喰い帰る。北海道の玉蜀黍は実に甘い。先年皇太子殿下(今上陛下)が釧路で玉蜀黍を召し

を渡したもので、こんな簡易な贅沢な風呂には、北海道でなければ滅多に入られぬ。秋の日落ち谷蒼々と暮るゝ夕、

黛色の連山波濤の如く起伏して居る。彼山々こそ北海道中心の大無人境を墻壁の如く取囲む山々である。関翁の心は彼

に富まんことを欲した。其為関家の諍は、北海道中の評判となり、色々の風説をすら惹起した。翁は其為に

には申訳が無いから君から宜しく云うてくれ、荷物は北海道に居る母の許に送ってくれ、運賃として金五円封入して

日比谷で写真を撮って、主人、伯父、郷里の兄、北海道の母に届く可く郵税一切払って置いた。日比谷から角谷は浅草に往った

、来て見て安心したと云った。而して此れから北海道の増毛病院長となって赴任する所だと云った。妻子は? と

北海道から林檎やら歌やら送って来た。病院長の生活は淋しいものらしかった。

。今朝苅った芝が、最早枯れて白く乾いて居る。北海道の牧場の様ですね、と細君が曰う。主人は芝を苅り、妻は

へ行かねば、冬の心地は分からぬ。せめて奥州、北海道、樺太、乃至大陸の露西亜とか西比利亜とかでなければ、本当の

此村から外国出稼に往った者はあまり無い。朝鮮、北海道の移住者も殆んど無い。余等が村住居の数年間に、隣字の者で

頭の赭い駒が岳が時々顔を出す。寂しい景色である。北海道の気が総身にしみて感ぜられる。

余市に来て、日本海の片影を見た。余市は北海道林檎の名産地。折からの夕日に、林檎畑は花の様な色彩を見せ

中旬まだ小麦の収穫をして居るのを見ると、また北海道の気もちに復えった。

を一盂くれた。今宵は中秋十五夜であった。北海道の神居古潭で中秋に逢うも、他日の思出の一であろう。雨戸を少し

黒い木の株が立って居るのを見ると、開け行く北海道にまだ死に切れぬアイヌの悲哀が身にしみる様だ。下富良野で青い十勝

になった樹々の間に、イタヤ楓は火の如く、北海道の銀杏なる桂は黄の焔を上げて居る。旭川から五時間余走って

。幣舞橋には蟻の様に人が渡って居る。北海道東部第一の港だけあって、気象頗雄大である。今日人を尋ぬ可く

をした事を話す。枕木は重にドス楢で、北海道に栗は少なく、釧路などには栗が三本と無いが、ドス楢は

であった。五十そこらの気軽そうな男。早くから北海道に渡って、近年白糠に来て、小料理屋をやって居る。

北海道の京都

此札幌の附近にまだ熊が出没したと思えば、北海道も開けたものである。宮部博士の説明で二三植物標本を見た。樺太

楡の蔭うつ大学の芝生、アカシヤの茂る大道の並木、北海道の京都札幌は好い都府である。

に遊び暮らし、其夜函館に往って、また梅が香丸で北海道に惜しい別れを告げた。

玉川上水

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程西に当って、品川堀と云う小さな流水がある。玉川上水の分派で、品川方面の灌漑専用の水だが、附近の村人は朝々顔

聞いた多摩川が、家から一里の余もある。玉川上水すら半里からある。好い水の流れに遠いのが、幾度も繰り返えさるゝ失望で

投があるので其袂に供養の卒塔婆が立って居る玉川上水の橋を渡って、田圃に下り、また坂を上って松友の杉林の間

石山寺

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せつゝ、余等は石を拾い、紅葉を拾いつゝ、石山寺に詣った。うど闇い内陣の宝物も見た。源氏之間は嘘でも

道玄坂

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腕が痛いので、東京に出たついでに、渋谷の道玄坂で天秤棒を買って来た。丁度股引尻からげ天秤棒を肩にした姿を山路

札幌

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札幌行の列車は、函館の雑沓をあとにして、桔梗、七飯と次第に

札幌へ

O君は小樽で下り、余等は八時札幌に着いて、山形屋に泊った。

十八日。朝、旭川へ向けて札幌を立つ。

札幌百五十八哩六分

一泊、小樽一泊して、十月二日二たび札幌に入った。

一昼二夜、復えりに一昼夜、皮相を瞥見した札幌は、七年前に見た札幌とさして相違を見出す事が出来なかっ

、皮相を瞥見した札幌は、七年前に見た札幌とさして相違を見出す事が出来なかった。耶蘇教信者が八万の都府

余の頭を痛くした。明治十四五年まで此札幌の附近にまだ熊が出没したと思えば、北海道も開けたものである

余等は其日の夜汽車で札幌を立ち、あくる一日を二たび大沼公園の小雨に遊び暮らし、其夜函館に往っ

大阪

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で、其郷里地方には家屋敷を捨売りにして京、大阪や東京に出る者が多いので、※の様に廉い地面家作の売物が

三十石に乗る銭もないので、頬冠して川堤を大阪までてく/\歩いたものだ。伯父の血をひいた余とても御多分に洩れ

て居る木がある。寄木、と札を立てゝある。大阪あたりの娘らしいのが、「良平さんよ」と云う。お新さんがお糸

樺太

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ねば、冬の心地は分からぬ。せめて奥州、北海道、樺太、乃至大陸の露西亜とか西比利亜とかでなければ、本当の冬の

台湾を取り、樺太の半を収め、朝鮮を併せ、南満洲に手を出し、布哇を越え

である。宮部博士の説明で二三植物標本を見た。樺太の日露国境の辺で採収して新に命名された紫のサカイツヽジ、其

加賀

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もので、肉声をよく明瞭に伝える。呂昇、大隈、加賀、宝生、哥沢、追分、磯節、雑多なものが時々余等の耳に

伊予

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肥後の葦北郡水俣という海村に生れ、熊本で成長し、伊予の今治、京都と転々して、二十二歳で東京に出で、妻は同じ

阿蘇

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の様に凄じく思われた。十六歳の夏、兄と阿蘇の温泉に行く時、近道をして三里余も畑の畔の草径

邁進したが、到頭直接接触の経験だけは免れた。阿蘇の温泉に往ったら、彼等が京都の同志社で識って居た其処の息子

烏山

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は以上三の字の外、船橋、廻沢、八幡山、烏山、給田の五字を有ち、最後の二つは甲州街道に傍い、余

間にあり、粕谷が丁度中央で、一番戸数の多いが烏山二百余戸、一番少ないのが八幡山十九軒、次は粕谷の二十六軒、余

つの意志と感情と歴史があって、二百戸以上の烏山はもとより、二十七戸の粕谷でも、十九軒の八幡山でも、各自に自家

の響。稀に聞く工場の汽笛。夜は北から響く烏山の水車。隣家で井汲む音。向うの街道を通る行軍兵士の靴音や砲車

八幡山の人々であった。先日八幡山及粕谷の若者と烏山の若者の間に喧嘩があって、怪我人なぞ出来た。其のあとがいまだに

を後から窃と押す者がある。ふっと見ると、烏山の天狗犬が、前足を挙げて彼の脛を窃と撫でて彼の注意

うっちゃってしまえと云う気になり、粕谷では田を一切烏山にやるから貰ってくれぬかと相談をかけた。烏山では、タヾで

烏山にやるから貰ってくれぬかと相談をかけた。烏山では、タヾでは貰えぬ、と言う。到頭馬弐駄に酒樽をつけ

烏山の口で下りて、代を払い、南へ切れ込んだ。

北を見ると、最早鉄軌を敷いた電鉄の線路が、烏山の木立の間に見え隠れ、此方のまだ枕木も敷かぬ部分には工夫が五六

ような、また恐いような気がします。隣字の烏山には文化住宅が出来ました。別荘式住宅も追々建ちます。思いがけなく藪陰

ん。道路も追々よくなります。村役場も改築移転し、烏山にも小学が出来、もとの塚戸小学校も新築されて私共に近くなり

下田

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細かで、上手に紅入の宝袋なぞ拵えてよこす。下田の金さん処のは、餡は黒砂糖だが、手奇麗で、小奇麗な蓋物に

為だ、仕方が無えな、と与右衛門さんが舌鼓うつ。下田の金さん宅では、去年は兄貴が抽籤で免れたが、今年は稲

嵐山

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京都に着いて三日目に、高尾槇尾栂尾から嵐山の秋色を愛ずべく、一同車を連ねて上京の姉の家を出た

嵐山の楓は高尾よりもまだ早かった。嵐山其ものと桂川とは旧に仍

嵐山の楓は高尾よりもまだ早かった。嵐山其ものと桂川とは旧に仍って美しいものであったが、川の此岸

太秦

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ば春の月」と蕪村の時代は詩趣満々であった太秦を通って帰る車の上に、余は満腔の不平を吐く所なきに悶々

阿房宮

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間際に肺病で死んで了う。蜀山を兀がした阿房宮が楚人の一炬に灰になる。人柱を入れた堤防が一夜に崩れる

パレスチナ

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此れで行き、富士で死にかけた時も此れで上り、パレスチナから露西亜へも此れで往って、トルストイの家でも持参の袷と此洋服

武蔵野

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なぞ伐られ掘られて、短冊形の荒畑が続々出来る。武蔵野の特色なる雑木山を無惨※※拓かるゝのは、儂にとっては肉

出来ぬ。儂は一切が好きである。儂が住居は武蔵野の一隅にある。平生読んだり書いたりする廊下の窓からは甲斐東部の山脈

晩秋の日は甲州の山に傾き、膚寒い武蔵野の夕風がさ/\尾花を揺する野路を、夫婦は疲れ足曳きずって甲州街道

に出る頃、大きな夕日が富士の方に入りかゝって、武蔵野一円金色の光明を浴びた。都落ちの一行三人は、長い影を

人烟稀薄な武蔵野は、桜が咲いてもまだ中々寒かった。中塗もせぬ荒壁は恣に

跳る。それに樫の直ぐ下まで一面の麦畑である。武蔵野固有の文言通り吹けば飛ぶ軽い土が、それ吹くと云えば直ぐ茶褐色の雲

、船房の中まで舞い込む砂あらしに駭いたことがある。武蔵野の土あらしも、やわか劣る可き。遠方から見れば火事の煙。寄って来る

、赤裸な雑木林の梢から真白な富士を見て居た武蔵野は、裸から若葉、若葉から青葉、青葉から五彩美しい秋の錦となり、

青白く流るゝ玉川の流域から「夕立の空より広き」と云う武蔵野の平原をかけて自然を表わす濃淡の緑色と、磧と人の手のあと

やゝ眺めて居る内に、緑の武蔵野がすうと翳った。時計をもたぬ二人は最早暮るゝのかと思うた

遠くなって行く。名物は秩父颪の乾風と霜解けだ。武蔵野は、雪は少ない。一尺の上も積るは稀で、五日と消え

以来の雪だ、と村の爺さん達も驚いた。武蔵野は霜の野だ。十二月から三月一ぱいは、夥しい霜解けで、草鞋か

、草鞋か足駄長靴でなくては歩かれぬ。霜枯れの武蔵野を乾風が※々と吹きまくる。霜と風とで、人間の手足も、土

雲雀が鳴いて居る。例令遠山は雪であろうとも、武蔵野の霜や氷は厚かろうとも、落葉木は皆裸で松の緑は黄ばみ

て来る。雲雀は麦の伶人である。雲雀の歌から武蔵野の春は立つのだ。

武蔵野に春は来た。暖い日は、甲州の山が雪ながらほのかに霞む。

伸びて穂に出る。子供がぴいーッと吹く麦笛に、武蔵野の日は永くなる。三寸になった玉川の鮎が、密漁者の手

月の終は、若葉の盛季だ。若々とした武蔵野に復活の生気が盈ち溢れる。色々の虫が生れる。田圃に蛙が泥声

\と云う下から、ある日秋蝉がせわしく鳴きそめる。武蔵野の秋が立つ。早稲が穂を出す。尾花が出て覗く。甘藷を手掘り

の先が縮こまる程いやに冷たい、と思うと明くる朝は武蔵野一面の霜だ。草屋根と云わず、禾場と云わず、檐下から転び出た

は、日本晴の明るい明るい月である。富士は真白。武蔵野の空は高く、たゝけばカン/\しそうな、碧瑠璃になる。

蛇は穴に入り人は家に籠って、霜枯の武蔵野は、静かな昼にはさながら白日の夢に定に入る。寂しそうな烏

返える。凩の吹く夜は、海の様な響が武蔵野に起って、人の心を遠く遠く誘うて行く。但東京の屋敷に頼ま

である。都の師走は、田舎の霜月。冬枯の寂しい武蔵野は、復活の春を約して、麦が今二寸に伸びて居る。気

彼は毎に武蔵野の住民と称して居る。然し実を云えば、彼が住むあたりは、武蔵野

て居る。然し実を云えば、彼が住むあたりは、武蔵野も場末で、景が小さく、豪宕な気象に乏しい。真の武蔵野を見るべく

場末で、景が小さく、豪宕な気象に乏しい。真の武蔵野を見るべく、彼の家から近くて一里強北に当って居る中央東

東線の鉄路を踏み切って更に北せねばならぬ。武蔵野に住んで武蔵野の豪宕莽蒼の気を領することが出来ず、且居常流水の

を踏み切って更に北せねばならぬ。武蔵野に住んで武蔵野の豪宕莽蒼の気を領することが出来ず、且居常流水の音を耳に

程、小川の水は浅くなる。行く/\年闌けて武蔵野の冬深く、枯るゝものは枯れ、枯れたものは乾き、風なき日に

点景にして、林から畑、畑から村と、遠く武蔵野につゞいて居る。

反射して見える。東南は都会の風が吹く。北は武蔵野である。西は武相それから甲州の山が見える。西北は野の風、

は東京から野に移り住んだ。八重桜も散り方になり、武蔵野の雑木林が薄緑に煙る頃、葛城は渡米の暇乞に来た。一夜泊って

て了った。そこで彼は妻、女を連れてあたふた武蔵野から北海道へと遊びに出かけた。

ば、思いきや五郎君は翁の末子で、翁が武蔵野の茅舎を訪われたのも、実は五郎君の勧であった。要する

武蔵野の彼等が斗満を訪うた其年の冬、関翁は最後の出京し

た。此春翁と前後して北へ帰った雁がまた武蔵野の空に来鳴く時となった。然し春の別れの宣言の如く、翁は

最後の手紙を受取ってから四ヶ月過ぎた。武蔵野の家族が斗満を訪れた其二周年が来た。雁は二たび武蔵野の

斗満を訪れた其二周年が来た。雁は二たび武蔵野の空に来鳴いた。此四ヶ月の間には、明治天皇の崩御、乃木

。二百万の人いきれで寄り合うて住む東京人は、人烟稀薄な武蔵野の露骨な寒さを想い見ることが出来ぬ。二月の末、三月

て日暮れ方から鉄桶の如く包囲しつゝずうと押寄せて来る武蔵野の寒を骨身にしみて味わった。風吹き通す台所に切ってある小さな炉に

の海に立泳ぎをして居る。ブーンと云うウナリが、武蔵野一ぱいに響き渡る。

近来の美晴。朝飯後高井戸に行って、石を買う。武蔵野に石は無い。砂利や玉石は玉川最寄から来るが、沢庵の重石以上は

余は思わず嗟嘆して見廻わした。好い見晴らしだ。武蔵野の此辺では、中々斯程の展望所は無い。望台を中心とし

荒く、軽い土が耳の中鼻の中まで舞い込む余の住む武蔵野の百姓女なぞは中々、斯う美しくはして居られぬ。八年前余

過る六年間土の洗礼を受けて武蔵野の孤村に鍬をとれる著者が、折に触れ興に乗じて筆を走らせ

武蔵野の土の産物みゝずのたはこと

武蔵野の霜の中から抜け出した白い大根や紅い甘藷が盛んに都人士の口に入る

甘いけぶりに頬をやく方々は練馬大根や川越藷と同じく武蔵野の土の産物なる『みゝずのたはこと』の一本を身近に

過る六年間土の洗礼を受けて武蔵野の孤村に鍬をとれる著者が、折に触れ興に乗じて筆を走らせ

著者が順礼紀行の旅から帰って、武蔵野に田園生活をはじめた最初の収穫。天にあこがれた霊魂が、はじめてしっかと大地

赤坂

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荷車になった。彼の村では方角上大抵四谷、赤坂が重で、稀には麹町まで出かけるのもある。弱い者でも桶の

三上山

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た※冠山を眺め、湖水の括れて川となるあたりに三上山の蜈蚣が這い渡る様な瀬田の橋を眺め、月の時を思うて良久しく

薩摩

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明治の初年、薩摩近い故郷から熊本に引出で、一時寄寓して居た親戚の家から父が

に行幸あった其月東京を西南に距る三百里、薩摩に近い肥後葦北の水俣と云う村に生れたのである。余は明治の

大鰐

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で写真をとり、大急ぎで停車場にかけつけた。Y君も大鰐まで送って来て、こゝに袂を分った。余等はこれから秋田、

十勝岳

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而して関翁の夢魂常に遊ぶキトウス山の西、石狩岳十勝岳の東、北海道の真中に当る方数十里の大無人境は、其奥の

ぬアイヌの悲哀が身にしみる様だ。下富良野で青い十勝岳を仰ぐ。汽車はいよ/\夕張と背合わせの山路に入って、空知川

ニューヨーク

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御安心下さいませ、……明日朝九時発の汽車でニューヨークに参ります。

昨日ニューヨークに着いたし、漸く目的の地に達し得候まゝ誠にうれしく存じ居り候

七月卅一日ニューヨークにて

ニューヨークにて

前略、無事にニューヨークに着きました。ニューヨークの停車場から独りで学校へ行く積りで居りましたら、

前略、無事にニューヨークに着きました。ニューヨークの停車場から独りで学校へ行く積りで居りましたら、思いもかけず葛城が

日本に居りました時は、丈夫でいばりましたが、ニューヨークに参りましてから余り丈夫ではなく、風土やら食物やら万事が変った故

は四時間程たてば手紙は参りますし一時間かゝればニューヨークにも行かれます、一週間に一度は多分逢えますから、幸福に思うて

ニューヨークへ行きますには、地下の電車でも、亦エレベーターでもどちらでも取っ

エレベーターでもどちらでも取って参れます。私は近頃はニューヨークに独りで参れるようになりました。……御蔭様にて只今は満足して感謝

大抵二週間に一度は、逢います。前から私はニューヨークには独りで参れますから、半日暇を取れる時は、二週に一度は

ニューヨーク

比叡

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なる京へ君はしも、御夢ならでは御幸なく、比叡の朝は霞む共、鴨の夕風涼しくも、禁苑の月冴ゆとても、鞍馬

塩釜

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の話で思い出したが、儂は明治四十二年の春、塩釜の宿で牡蠣を食った時から菜食を廃した。明治三十八年十二月から

堀川

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た。お俊のさわりはます/\好い。呂昇が堀川のお俊や、酒屋のお園や、壺坂のお里を語るは、自己

堀川は十時十五分に終った。外に出ると、雨がぼと/\落ち

、一同車を連ねて上京の姉の家を出た。堀川西陣をぬけて、坦々たる白土の道を西へ走る。丹波から吹いて来る

石狩岳

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だ。而して関翁の夢魂常に遊ぶキトウス山の西、石狩岳十勝岳の東、北海道の真中に当る方数十里の大無人境は、其

昨日石狩岳に雪を見た。汽車の内も中々寒い。上川原野を南方へ下って

旭川

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十八日。朝、旭川へ向けて札幌を立つ。

畳の一室に導かれた。やがて碁をうって居た旭川の客が帰って往ったので、表二階の方に移った。硫黄

日。朝神居古潭の停車場から乗車。金襴の袈裟、紫衣、旭川へ行く日蓮宗の人達で車室は一ぱいである。旭川で乗換え、名寄に向う

、旭川へ行く日蓮宗の人達で車室は一ぱいである。旭川で乗換え、名寄に向う。旭川からは生路である。

で車室は一ぱいである。旭川で乗換え、名寄に向う。旭川からは生路である。

明治三十六年の夏、余は旭川まで一夜泊の飛脚旅行に来た。其時の旭川は、今の名寄より

は旭川まで一夜泊の飛脚旅行に来た。其時の旭川は、今の名寄よりも淋しい位の町であった。降りしきる雨の中を

のわびしい記憶を喚起そうとしたが、明治四十三年の旭川から七年前の旭川を見出すことは成功しなかった。

としたが、明治四十三年の旭川から七年前の旭川を見出すことは成功しなかった。

て春光台に上った。春光台は江戸川を除いた旭川の鴻の台である。上川原野を一目に見て、旭川の北方に連塁の

た旭川の鴻の台である。上川原野を一目に見て、旭川の北方に連塁の如く蟠居して居る。丘上は一面水晶末の様

旭川に二夜寝て、九月二十三日の朝釧路へ向う。釧路の方へ

、北海道の銀杏なる桂は黄の焔を上げて居る。旭川から五時間余走って、汽車は狩勝駅に来た。石狩十勝の境で

旭川七十二哩三分

一の目的なる関寛翁訪問を果し、滞留六日、旭川一泊、小樽一泊して、十月二日二たび札幌に入った。

江戸

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江戸の者らしい。何時、如何な事情の下に乞食になったか、余程話を

宇治川

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、獅子飛び、米漉など云う難所に窘められて来た宇治川は、今山開け障るものなき所に流れ出て、弩をはなれた箭の勢

秩父

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の空少し薄曇りして、筑波も野州上州の山も近い秩父の山も東京の影も今日は見えぬが、つい足下を北西から南東へ

箱根

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六の少年と十四五の少女を見る様。紫の箱根つゝじ、雪柳、紅白の椿、皆真盛り。一重山吹も咲き出した。セイゲン

平等院

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越えぬ。惜しと思うまに渡してしまって、舟は平等院上手の岸についた。

鞍馬

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共、鴨の夕風涼しくも、禁苑の月冴ゆとても、鞍馬の山に雪降るも、御所の猿辻猿の頬に朝日は照れど、

岩木山

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西には青森の人煙指す可く、其背に津軽富士の岩木山が小さく見えて居る。

城北三里板柳村の方へ向うた。まだ雪を見ぬ岩木山は、十月の朝日に桔梗の花の色をして居る。山を繞っ

舞鶴城へかけ上り、津軽家祖先の甲冑の銅像の辺から岩木山を今一度眺め、大急ぎで写真をとり、大急ぎで停車場にかけつけた。Y君

愛宕

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。栂尾に居た年から八年程後、斯少し下流愛宕の麓清滝の里に、余は脚気を口実に、実は学課をなまけて

桂川

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嵐山の楓は高尾よりもまだ早かった。嵐山其ものと桂川とは旧に仍って美しいものであったが、川の此岸には風流に

本郷

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、遙に津軽の地方が水平線上に浮いて居る。本郷へ来ると、彼酔僧は汽車を下りて、富士形の黒帽子を冠り、

九州

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あった。然し借家借地は気が置ける。彼も郷里の九州には父から譲られた少しばかりの田畑を有って居たが、其土

葛城は九州の士の家の三男に生れた。海軍機関学校に居る頃から、彼は

は随分もがきました。一家を挙げて秋の三月を九州から南満洲、朝鮮、山陰、京畿とぶらついた旅行は、近づく運命を躱そうと

をとまらして居るではありませんか。私共は九州の土に生れて、彼方此方と移植され、到頭此粕谷へ来た雌雄相生

南満洲

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もがきました。一家を挙げて秋の三月を九州から南満洲、朝鮮、山陰、京畿とぶらついた旅行は、近づく運命を躱そうとてののたうち

台湾を取り、樺太の半を収め、朝鮮を併せ、南満洲に手を出し、布哇を越えて米国まで押寄する日本膨脹の雛型で

甲州街道

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の馳走になって、家の息子に道を教わって、甲州街道の方へ往った。

て居た歴史つきの代物である。此洋服を着て甲州街道で新に買った肥桶を青竹で担いで帰って来ると、八幡様に寄合を

甲州街道に獅子毛天狗顔をした意地悪い犬が居た。坊ちゃんの白を一方

れて天狗犬は尾を捲き、獅子毛を逆立てゝ、甲州街道の方に敗走するのを、白の主人は心地よげに見送った。

賑合を見物かた/″\東京に獅子舞に出かけたり、甲州街道を紅白美々しく飾り立てた初荷の荷馬車が新宿さして軋らしたり、黒の帽子に

あるとも、着物更えて長閑に遊ばぬ人は無い。甲州街道は木戸八銭、十銭の芝居が立つ。浪花節が入り込む。小学校で幻燈会が

が足りぬ。自家の人数ではやりきれぬ。果ては甲州街道から地所にはなれた百姓を雇うて、一反何程の請負で、田も植えさす、

が乏しい。村会議員の石山さんも、一銭違うと謂うて甲州街道の馬車にも烏山から乗らずに山谷から乗る。だから、村の者が甘藷

なければ、街道は塵埃で歩けないようでございます」と甲州街道から毎日仕事に来るおかみが云った。

に出るまでには大きな阪の二つもあるので、甲州街道の十分の一も往来は無いが、街道は街道である。肥車が通う

甲州街道の小間物屋のおかみが荷を背負って来た。「ドウもねえあなた、天道

と、提灯ともして迎えに来た女中は、デカが先刻甲州街道で自動車に轢かれたことを告げた。今朝も奥の雨戸を開けると、芝生

、到頭離籍して了うた。其様な事で彼は甲州街道の浮浪犬になり、可愛がられもし窘められもした。最後に主従の縁

たい様だ。泥の楽人蛙の歌が両耳に溢れる。甲州街道を北へ突切って行く。大麦は苅られ、小麦は少し色づき、馬鈴薯や甘藷

で失敬して、径路から帰った。ふりかえって見ると、甲州街道の木立に見え隠れして、旗影と少年音楽隊の曲が次第に東へ進んで行く

川越

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朝飯後、客の夫婦は川越の方へ行くと云うので、近所のおかみを頼み、荻窪まで路案内かた

駒場

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駅逓に帰って、道庁技師林常夫君に面会。駒場出の壮年の林学士。目下ニオトマムに天幕を張って居る。明日関翁と

河内

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日はすでに河内の金剛山と思うあたりに沈んで、一抹殷紅色の残照が西南の空を染め

両国

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、お馨さんの郷里に於ける葬式に列なるべく出かけた。両国の停車場で、彼等は古びた中折帽を阿弥陀にかぶった、咽喉に汚れた絹ハン

青山墓地

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は墓地が好きである。東京に居た頃は、よく青山墓地へ本を読みに夢を見に往った。粕谷の墓地近くに卜居し

/\降って居たと葉山に語る条を読むと、青山墓地にある春日燈籠の立った紅葉山人の墓が、突と眼の前に

雑司ヶ谷の墓地

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彼は棺の後に跟いて雑司ヶ谷の墓地に往った。葬式が終ると、何時の間にか車にのせられて

熊本

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た。明治の初年薩摩境に近い肥後の南端の漁村から熊本の郊外に越した時、父が求めた古家で、あとでは瓦葺の

明治の初年、薩摩近い故郷から熊本に引出で、一時寄寓して居た親戚の家から父が買った大きな

見た。明治十年の西郷戦争に、彼の郷里の熊本は兵戈の中心となったので、家を挙げて田舎に避難した

変化の鮮やかは夏の特色である。彼の郷里熊本などは、昼間は百度近い暑さで、夜も油汗が流れてやま

は五六歳の頃であった。腫物の湯治に、郷里熊本から五里ばかり有明の海辺の小天の温泉に連れられて往った時、

来た。母が日傘を横にして会釈し、最早熊本に帰っても宜しゅうございましょうかと云うた。宜いとも/\、皆ひどい

唯一人の男の彼は、母と三人の姉と熊本を東南に距る四里の山中の伯父の家に避難した。山桜

は「竹崎順子」を出しました。日露戦争中肥後の熊本で八十一で亡くなった私の伯母――母の姉の実伝で、十八年

妻は同じ肥後の菊池郡隈府という山の町に生れ、熊本に移り、東京に出で、私が二十七妻が二十一の春東京で一緒

私は九州肥後の葦北郡水俣という海村に生れ、熊本で成長し、伊予の今治、京都と転々して、二十二歳で東京に

甲府

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と云う事を報じた。然し甲府からは汽車である。甲府から東へは帰り様がなかった。

まで帰路を探がしたと云う事を報じた。然し甲府からは汽車である。甲府から東へは帰り様がなかった。

あった。実家の母が瞋ったので、彼女は甲府まで帰って来て、其金を還した。然し其前彼女は実家に

の宮でする。甲武の山近い三多摩の地は、甲府の盆地から発生する低気圧が東京湾へぬける通路に当って居るので、雹

京都

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の新聞に、M君が安心を求む可く妻子を捨てゝ京都山科の天華香洞に奔った事を報じてあった。間もなく君

。其は彼自身である。彼は十二の子供で、京都同志社の生徒である。彼は同窓諸子と宣教師デビス先生に招かれて、

だけは免れた。阿蘇の温泉に往ったら、彼等が京都の同志社で識って居た其処の息子が、先日川端の湯樋を見

。外国から帰った時は、葛城は已に海軍を退いて京都の大学に居た。

。父は祖父を護して遠方に避難し、兄は京都の英学校に居り、家族の中で唯一人の男の彼は、母と

の様なつゝましい子であった。余は西郷戦争の翌年京都に往った。其れからかけ違って君に逢わざること三十三年。三十四年目

である。即ち明治天皇陛下が即位式を挙げ玉うた年、初めて京都から東京に行幸あった其月東京を西南に距る三百里、薩摩に

という海村に生れ、熊本で成長し、伊予の今治、京都と転々して、二十二歳で東京に出で、妻は同じ肥後の菊池郡

北海道の京都

蔭うつ大学の芝生、アカシヤの茂る大道の並木、北海道の京都札幌は好い都府である。

の姉妹を連れて、余の家族を合せて同勢六人京都に往った。松蕈に晩く、紅葉には盛りにちと早いと云う明治

嫁いで京都に往って居る季の女の家を訪うべく幾年か心がけて居た

京都に着いて三日目に、高尾槇尾栂尾から嵐山の秋色を愛ずべく

京都、奈良、伊勢、出来ることなら須磨明石舞子をかけて、永久日本の美的

宿の者には遊んで来ると云い置いて、汽車で京都に帰った。少し都合もあって其日は行かれず、電報、手紙

ん。但前版巻尾の北海道紀行「熊の足跡」、京都紀行「紅葉狩」の二文は、もとよりあらずもがなの蛇足だったの

仙台

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咲いた芙蓉の花の様だ。花婿も黒絽紋付、仙台平の袴、凜として座って居る。

入る。頭の禿げた石山氏が、黒絽の紋付、仙台平の袴で、若主人に代って応対する。諸君と共に二列

寄生木は、南部の山中から駈け出した十六歳の少年が仙台で将軍の応接間の椅子に先ず腰かけて「馬鹿ッ!」と大喝さ

巴里

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日入而息、掘井而飲、耕田而食うであろう。倫敦、巴里、伯林、紐育、東京は狐兎の窟となり、世は終に近づく時

千葉

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終列車は千葉までしか行かなかった。彼は千葉に泊って、翌朝房総線の一番に乗った。停車場に下りると、

終列車は千葉までしか行かなかった。彼は千葉に泊って、翌朝房総線の一番

徳島

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た。婆さんもエラ者である。老夫婦は住み馴れた徳島をあとにして、明治三十五年北海道に移住し、老夫婦自ら鍬をとり

頼って事を為すは駄目と見限りをつけて、阿波徳島に帰り、家禄を奉還して、開業医の生活を始めたのが、明治

、更に長崎に遊学し、後阿波蜂須賀侯に招かれて徳島藩の医となった。維新の際は、上野の戦争から奥羽戦争まで

薬でなくてはならぬときめこんだ衆生の為に、徳島に居た頃は不及飲と云う水薬を調合し、今も待効丸

長崎

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門に入って医学を修め、最初銚子に開業し、更に長崎に遊学し、後阿波蜂須賀侯に招かれて徳島藩の医となった

よ、其は昔関寛斎と云った男じゃないかしらん、長崎で脚疾の治療をしてもらったことがある、中々きかぬ気の

鹿児島

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興である。弾手は林学士が部下の塩田君、鹿児島の壮士。何をと問われて、取りあえず「城山」を所望する。今日

神戸

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十八日の夜八時過ぎ、神戸発新橋行の急行列車が、角谷の主人の居に近い大森で一人の男子

秋田

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迎えた者は、主人夫妻、養女、旧臘から逗留中の秋田の小娘、毎日仕事に来る片眼のかみさん。猫のトラ、犬のデカ、

、五十六歳と五十歳のアダム、イヴは、今年七月秋田から呼んだ、デダツ(モンペの方言)を穿いて「奥様、あれ持って

に来て居た二十歳になる妻の姪、七月に秋田から呼んだ十四の女中、それから焼け出されの十七娘、外に猫一疋

来て、こゝに袂を分った。余等はこれから秋田、米沢、福島を経て帰村す可く汽車の旅をつゞけた。

宇都宮

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、他家の二倍もある。彼が家の夜具は、宇都宮の釣天井程に重く大きなものだ。彼が家の婆さんは、七十

水戸

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見れば簑笠がいくつも田に働いて居る。遠く見れば水戸様の饌にのりそうな農人形が、膝まで泥に踏み込んで、柄

案内者は水戸の者であった。五十そこらの気軽そうな男。早くから北海道に

青森

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で、陸奥湾の緑玉潮がぴた/\言う。西には青森の人煙指す可く、其背に津軽富士の岩木山が小さく見えて居る。

背後を青森行の汽車が通る。枕の下で、陸奥湾の緑玉潮がぴた/\

青森から芸妓連の遊客が歌うて曰く、一夜添うてもチマはチマ。

津軽海峡を四時間に駛せて、余等を青森から函館へ運んでくれた梅ヶ香丸は、新造の美しい船であった

青森に一夜明して、十月六日の朝弘前に往った。

小樽

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O君は小樽で下り、余等は八時札幌に着いて、山形屋に泊った。

関寛翁訪問を果し、滞留六日、旭川一泊、小樽一泊して、十月二日二たび札幌に入った。

大津

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―其奴ですか。到頭村から追い出されて、今では大津に往って、漁場を稼いで居るってことです」

括り合わされたのを探し出してくれた。それから車で大津に帰り、小蒸汽で石山に往って、水際の宿で鰉と蜆の

福島

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に袂を分った。余等はこれから秋田、米沢、福島を経て帰村す可く汽車の旅をつゞけた。

奈良

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京都、奈良、伊勢、出来ることなら須磨明石舞子をかけて、永久日本の美的博物館たら

奈良は奠都千百年祭で、町は球燈、見せ物、人の顔と声

美しく思うてなつかしい山である。八年前の十一月初めて奈良に来た夕、三景楼の二階から紺青にけぶる春日山に隣りし

足の下で、奈良の町の火が美しくつき出した。蜂の群れの唸※の様な人声

山形

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船頭は軋々と櫓の響をさせて、ほゞ山形に宇治川を渡す。

深川

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馬鹿と叱った。もと谷中村の者で、父は今深川で石工、自身はボール箱造って、向う賄で月六円とるそうだ

が現われる。十勝は豆の国である。旭川平原や札幌深川間の汽車の窓から見る様な水田は、まだ十勝に少ない。帯広は

東京

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などして居る。其巡査の話に、正服帯剣で東京を歩いて居ると、あれは田舎のお廻りだと辻待の車夫が

東京に出ては儂も立派な田舎者だが、田舎ではこれでもまだ

人にはなり切れぬ。此は儂の性分である。東京に居ても、田舎に居ても、何処までも旅の人、宿れる

ポリチックスには無論超然主義を執る。燈台下暗くして、東京近くの此村では、青年会が今年はじめて出来、村の図書館は一昨

此の数年来賭博風は吹き過ぎて、遊人と云う者も東京に往ったり、比較的堅気になったりして、今は村民一同真面目に稼い

見する毎に、儂は眉を顰めて居る。要するに東京が日々攻め寄せる。以前聞かなかった工場の汽笛なぞが、近来明け方の夢を

入り込む。儂自身東京から溢れ者の先鋒でありながら、滅多な東京者に入り込まれてはあまり嬉しい気もちもせぬ。洋服、白足袋の男なぞ

もする様になった。地所買いも追々入り込む。儂自身東京から溢れ者の先鋒でありながら、滅多な東京者に入り込まれてはあまり嬉しい

割が好いと云って桑畑が殖えたり、大麦小麦より直接東京向きの甘藍白菜や園芸物に力を入れる様になったり、要するに曩

汐の余波が村に響いて来るのは自然である。東京で瓦斯を使う様になって、薪の需用が減った結果か、村

攻め寄せて来た。東京を西に距る唯三里、東京に依って生活する村だ。二百万の人の海にさす潮ひく汐の

東京が大分攻め寄せて来た。東京を西に距る唯三里、東京に依って生活する村だ。二百万

東京が大分攻め寄せて来た。東京を西に距る唯三里、東京に

たり、まさに田園の猫である。来客があって、珍らしく東京から魚を買ったら、トラ先生早速口中に骨を立て、両眼に涙

出さえすると屹度跟いて来るが、此頃では東京往復はお婆さん骨らしい。一度車夫が戻り車にのせてやったら

、馬と怪俄させ器械の引切りなしにやって来る東京の町内に育つ子供は、本当に惨なものだ。雨にぬれて跣足

健啖も大に減った。而して平素菜食の結果、稀に東京で西洋料理なぞ食っても、甘いには甘いが、思う半分も喰えぬ

肴屋の触れ声を聞く事は、殆ど無い。ある時、東京式に若者が二人威勢よく盤台を担いで来たので、珍らしい事だ

ある? 儂が越して程なく要あって来訪した東京の一紳士は、あまり見すぼらしい家の容子に掩い難い侮蔑を見せたが、

山脈が正面に見える。三年前建てた書院からは、東京の煙が望まれる。一方に山の雪を望み、一方に都の煙

開通した暁、儂は果して此処に踏止まるか、寧東京に帰るか、或は更に文明を逃げて山に入るか。今日に於ては

三十九年の十一月中旬、彼等夫妻は住家を探すべく東京から玉川の方へ出かけた。

原宿の借家も、今住んで居る青山高樹町の借家も、東京では田舎近い家で、草花位つくる余地はあった。然し借家借地は

東京は火災予防として絶対的草葺を禁じてしまった。草葺に住むと云う

其郷里地方には家屋敷を捨売りにして京、大阪や東京に出る者が多いので、※の様に廉い地面家作の売物がある

若い娘を二人連れ、草箒と雑巾とバケツを持って、東京から掃除に往った。案外道が遠かったので、娘等は大分弱っ

杯飲んで帰って行った。兎も角もランプをつけて、東京から櫃ごと持参の冷飯で夕餐を済まし、彼等夫妻は西の六

「これは今度東京から来されて仲間に入れておもらい申してァと申されます何某さん

\みやげの礼を云う。粕谷は二十六軒しかないから、東京から来て仲間に入ってくれるのは喜ばしいと云う意を繰り返し諸君が述べる

最早浪人では無い。無宿者でも無い。天下晴れて東京府北多摩郡千歳村字粕谷の忠良なる平民何某となったのである

ならずして彼は原籍地肥後国葦北郡水俣から戸籍を東京府北多摩郡千歳村字粕谷に移した。子供の頃、自分は士族

余り腕が痛いので、東京に出たついでに、渋谷の道玄坂で天秤棒を買って来た。丁度股引

跟いて来た女中は、半月手伝って東京へ帰った。あとは水入らずの二人きりで、田園生活が真剣に

/\涙をこぼす日があった。以前の比較的ノンキな東京生活を知って居る娘などが逗留に来て見ては、零落と思っ

帖持って御用聞きに来た時、彼はやっと逃げ出した東京が早や先き廻りして居たかとばかりウンザリして甚不興気な顔

の人蔘二十日大根など蒔くのを、近所の若い者は東京流の百姓は彼様するのかと眼を瞠って眺めて居た。

ていさゝかきまりが悪かった。引越し当座は、村の者も東京人珍らしいので、妻なぞ出かけると、女子供が、

た。引越後間もなく雪の日に老年の叔母が東京から尋ねて来た。其帰りにあまり路が悪いので、矢張此洋服

はさま/″\の可笑味を真顔でやってのけた。東京に居た頃から、園芸好きで、糞尿を扱う事は珍らしくもなかった

の仙ちゃんのお妾の居た家に越して来た東京のおかみさんが通るから、出て来て見なァよゥ」

れて居た。実際彼等は如何様に威張っても、東京の喰詰者であった。但字を書く事は重宝がられて、

要するに彼等は辛うじて大工の妾のふる巣にもぐり込んだ東京の喰いつめ者と多くの人に思われて居た。実際彼等は如何様

紳士も来た。労働最中に洋服でも着た立派な東京紳士が来ると、彼は頗得意であった。村人の居合わす処で其

東京客が沢山来た。新聞雑誌の記者がよく田園生活の種取りに来た

焚いて見たり、実地の飯事を面白がったが、然し東京の玄関から下駄ばきで尻からげ、やっとこさに荷物脊負うて立出る田舎の叔父

で田舎を東京にひけらかした。何時も着のみ着のまゝで東京に出た。一貫目余の筍を二本担って往ったり、よく野茨

彼は実際好い気もちであった。彼は好んで田舎を東京にひけらかした。何時も着のみ着のまゝで東京に出た。一貫目余

東京へはよく出た。最初一年が間は、甲州街道に人力車があること

彼は田舎を都にひけらかすと共に、東京を田舎にひけらかす前に先ず田舎を田舎にひけらかした。彼は一切の角

彼等が東京から越して来た時、麦はまだ六七寸、雲雀の歌も渋りがち

「今は東京の場末に、小さな小間物屋を出して居ます」

の花が咲く頃の事。ある日太田君がぶらりと東京から遊びに来た。暫く話して、百草園にでも往って見ようか、

して、筑波も野州上州の山も近い秩父の山も東京の影も今日は見えぬが、つい足下を北西から南東へ青白く流るゝ玉川

東京近在で展望無双と云わるゝも譌ではなかった。生憎野末の空少し

町に入る頃は、雷は彼の頭上を過ぎて、東京の方に鳴った。雨も小降りになり、やがて止んだ。暮れたと

をして失敗し、田舎の失敗者が皆する様に東京に流れて往って、王子で首を縊って死んだ。其妻は子供

たが、久さんの家で小作をやって居た。東京から買主が越して来ぬ内に、久さんのおかみは大急ぎで裏の

死んだ棄児の稲次郎が古巣に、大工の妾と入れ代りに東京から書を読む夫婦の者が越して来た。地面は久さんの義兄

処置しなければならぬので、おかみは盲の亥之吉を東京に連れて往って按摩の弟子にした。家に居る頃から、盲目

時々丸髷に結って小ざっぱりとした服装をして親分と東京に往った。家には肴屋が出入したり、乞食物貰いが来れば気前

離れて独立して居る按摩の亥之吉と間借りして住む可く東京へ往って了うた。

主夫妻が東京に出ると屹度跟いて来る。甲州街道を新宿へ行く間には、大きな

出金を東京税と名づけた。彼等はしば/\東京税を払うた。

何十銭の冤罪費を払った。彼は斯様な出金を東京税と名づけた。彼等はしば/\東京税を払うた。

明治四十一年の新嘗祭の日であった。東京から親類の子供が遊びに来たので、例の通り戸をしめ、

終った年の暮、彼は一の心的革命を閲して、まさに東京を去り山に入る決心をして居た時、ある夜彼は新橋停車場の

に奔った事を報じてあった。間もなく君は東京に帰って来たと見え、ある雑誌に君が出家の感想を見た

。兵隊に出て居る自家の兼公の噂も出よう。東京帰りに兄が見て来た都の嫁入車の話もあろう。

、ヒョイ/\と野らの麦踏。若い者の仕事は東京行の下肥取りだ。寒中の下肥には、蛆が涌かぬ。堆肥製造

心得ある若者連が、松の内の賑合を見物かた/″\東京に獅子舞に出かけたり、甲州街道を紅白美々しく飾り立てた初荷の荷馬車が新宿さし

があぶねえから、好い着物は預けとけや、と云って、東京の息子の家の目ぼしい着物を悉皆預って丸焼にした家もある

然し火の粉一つ飛んだらば、必焼けるにきまって居る。東京は火事があぶねえから、好い着物は預けとけや、と云って、東京の

で幻燈会がある。大きな天理教会、小さな耶蘇教会で、東京から人を呼んで説教会がある。府郡の技師が来て、農事講習会

も年々人手が尠なく、良い奉公人は引張り合だ。近くに東京と云う大渦がある。何処へ往っても直ぐ銭になる種々の工場

水桶なぞ持った墓参が続々やって来る。丸髷や紋付は東京から墓参に来たのだ。寂しい墓場にも人声がする。線香の煙

東京は桜の盛、車も通れぬ程の人出だった、と麹町まで下肥

も摘まねばならぬ。お屋敷に叱られるので、東京の下肥ひきにも行かねばならぬ。時も時とて飯料の麦を

生りでも、もいで煮て食う暇は無い。如才ない東京場末の煮豆屋が鈴を鳴らして来る。飯の代りに黍の餅で

で陸稲のサクを切って居る。十五六日は、東京のお盆で、此処其処に藪入姿の小さな白足袋があるく。甲州街道の馬車

もする。そこで萱野を仕立てゝ置く家もある。然し東京がます/\西へ寄って来るので、萱野も雑木山も年々減っ

をうつ、甘酒を作って、他村の親類縁者を招く。東京に縁づいた娘も、子を抱き亭主や縁者を連れて来る。今日は

、両側にずらり並んで、農家日用の新しい品々は素より、東京中の煤掃きの塵箱を此処へ打ち明けた様なあらゆる襤褸やガラクタをずらりと

、嘸さま/″\の波も立とう。日頃眺むる東京の煙も、此四五日は大息吐息の息巻荒く※る様に見える

の年の瀬は日一日と断崖に近づいて行く。三里東の東京には、二百万の人の海、嘸さま/″\の波も立とう。

頼まれて餅を搗く家や、小使取りに餅舂きに東京に出る若者はあっても、村其ものには何処に師走の忙しさ

に起って、人の心を遠く遠く誘うて行く。但東京の屋敷に頼まれて餅を搗く家や、小使取りに餅舂きに東京

「東京じゃ旗が先きに行くようだね、ねえ先生」

「東京は東京、粕谷は粕谷流で行こうじゃねえか」と誰やらの声。

「東京は東京、粕谷は粕谷流で行こうじゃねえか」と誰やらの声。

の前に据えられた。輿を解くのが一仕事、東京から来た葬儀社の十七八の若者は、真赤になってやっと輿

気が吻々と吹っかけて来る。彼の家から、東は東京、南は横浜、夕立は滅多に其方からは来ぬ。夕立は矢張西

東南の空は今真闇である。最早夕立の先手が東京に攻め寄せた頃である。二百万の人の子の遽てふためく状が見える

十丁程南に入って、北多摩郡中では最も東京に近い千歳村字粕谷の南耕地と云って、昔は追剥が出たの

彼の住居は、東京の西三里、玉川の東一里、甲州街道から十丁程南に入っ

が渋谷の発電所、次ぎが大橋発電所の煙である。一度東京から逗留に来た幼ない姪が、二三日すると懐家病に罹って

から起って、玉川を渡り、彼が住む村を過ぎて東京の方へ去る夕立を目迎えて見送るに好い。向うの村の梢に

飴屋の笛。降るかと思うと忽ち止む時雨のさゝやき。東京の午砲につゞいて横浜の午砲。湿った日の電車汽車の響。稀

採をしたものだ。最早其家はつぶれ、弟は東京で一人前の按摩になり、兄は本家に引取られて居るが、虫は

年前に伐られて、今は荷車になって甲州街道を東京の下肥のせて歩いて居る。他の友達は、下駄の歯になって

、耕田而食うであろう。倫敦、巴里、伯林、紐育、東京は狐兎の窟となり、世は終に近づく時も、サハラの沃野に

たまらぬ。辰爺さんの曰く、「悧巧なやつは皆東京へ出ちゃって、馬鹿ばかり田舎に残って居るでさァ」と。遮莫農

中で修行した話は、西鶴の物語で読んだ。東京の某耶蘇教会で賢婦人の名があった某女史は、眼が悪い

此辺の若者は皆東京行をする。此辺の「東京行」は、直ちに「不浄取り」を意味する。

此辺の若者は皆東京行をする。此辺の「東京行」は、直ちに「不浄取り」を

を中心として、水路は別、陸路五里四方は東京の「掃除」を取る。荷車を引いて、日帰りが出来る距離である。

東京を中心として、水路は別、陸路五里四方は東京の「掃除

出る。其等の車が陸続として帰って来る。東京場末の飯屋に寄る者もあるが、多くは車を街道に片寄せて置い

の女は大抵留守ばかりして居て、唯三里の東京を一生見ずに死ぬ者もある。娘の婚礼着すら男親が買うこと

上積にした車が、甲州街道を朝々幾百台となく東京へ向うて行く。午後になると帰って来る。両腕に力を入れ、

に穀物蔬菜を作っては、また東京に持って往って東京人を養う。不浄を以て浄を作り、廃物を以て生命を造る

して、それを肥料に穀物蔬菜を作っては、また東京に持って往って東京人を養う。不浄を以て浄を作り、廃物

苦情声であった。大君の御膝下、日本の中枢と威張る東京人も、子供の様に尿屎のあと始末をしてもらうので、

汲まぬとなったら、東京は如何様に困るだろう。彼が東京住居をして居た時、ある日隣家の御隠居婆さんが、「

界隈の農家が申合せて一切下肥を汲まぬとなったら、東京は如何様に困るだろう。彼が東京住居をして居た時、ある日

東京界隈の農家が申合せて一切下肥を汲まぬとなったら、東京は如何様に

な立派な住居に魂消ることであろう。斯く云う彼も、東京住居中は、昼飯時に掃除に来たと云っては叱り、門前に

位は有って居る家の息子や主人が掃除に行く。東京を笠に被て、二百万の御威光で叱りつくる長屋のかみさんなど、掃除

笑った。然し女に廃物は無い。お春さんは他の東京から貰われて来た里子の果の男と出来合うて、其私生児を残し

お春さん自身が東京芸者の私生児であった。里子からずる/\に爺さんの娘分に

蒔くに必しも Virgin Soil を要しない。要するに東京の尻を田舎が拭う。田舎でも金もちが吾儘をして、貧しい

の女だ。東京の糞尿と共に、此辺はよく東京のあらゆる下り物を頂戴する。すべての意味に於ての不浄取りをするの

から腹の中に入れて来たおみやげの女だ。東京の糞尿と共に、此辺はよく東京のあらゆる下り物を頂戴する。すべて

。乙太郎の女が嫁に行く。其は乙の妻が東京から腹の中に入れて来たおみやげの女だ。東京の糞尿と

は野の風、山の風が吹く。彼の書院は東京に向いて居る。彼の母屋の座敷は横浜に向いて居る。彼の

たあとで、直ぐ横浜の午砲を聞く。闇い夜は、東京の空も横浜の空も、火光が紅く空に反射して見える。東南

や渋谷発電所の煙が見える。風向きでは午砲も聞こえる。東京の午砲を聞いたあとで、直ぐ横浜の午砲を聞く。闇い夜は、

美的百姓の家は、東京から唯三里。東の方を望むと、目黒の火薬製造所や渋谷発電所

彼は墓地が好きである。東京に居た頃は、よく青山墓地へ本を読みに夢を見に往っ

彼女も連れて玉川に遊びに往ったら、玉川電車で帰る東京の娘を見送って「別れるのはつらい」と黯然として云った。

陰気な、然し情愛の深い娘だった。墓守の家に東京から女の子が遊びに来ると、「久ちゃん」「お安さん」とよく

家では牛乳をとってのませた。彼女の兄は東京に下肥引きに往った帰りに肴を買って来ては食わした。然し

丁度四月十六日には、救世軍のブース大将歓迎会が東京座に開かるゝ筈で、彼も案内をうけて居たので、出京

其れから其足で三崎町の東京座に往って、舞台裏で諸君のあとから彼もブース大将の手を握る

明治四十年の初春、此文の筆者は東京から野に移り住んだ。八重桜も散り方になり、武蔵野の雑木林が薄緑に

其後四男も帰って来たので、寒中は北海道から東京に出て来て、旧知を尋ね、新識を求め、朝に野に

たものであった。爺さんは年々雁の如く秋は東京に来て春は北に帰った。上京毎にわざ/\来訪して

矮い草葺の中から真黒な姿がぬっと出て「東京のお客さんじゃありませんか。御隠居が毎日御待兼ねです」と云っ

に当り、約十年斗満の山中に努力して、まだ東京の電車も知らぬと笑って居る。夫妻に子供が無い。少し痘痕ある

などして見せ、一泊して帰った。最早今回限り東京には出て来ぬ決心という話であった。主人は甲州街道まで翁

た「命の洗濯」は、明治四十五年の三月中旬東京警醒社書店から発行された。翁は其出版を見て聊喜の言

とめと云って江州彦根在の者であった。兄が東京で商売をして居るので、彼女も出京してある家に奉公中

もまだそれ程深くない主人夫婦を見捨てなかった。彼女は東京に居らねばならぬ身体であったが、当分御手伝をすると云う

引払うて田舎に移った。如何に貧乏な書生生活でも、東京で二十円の借家から六畳二室の田舎のあばら家への引越しは、

高樹町の家に現われてから六月目に、主人夫婦は東京を引払うて田舎に移った。如何に貧乏な書生生活でも、東京で二十

生活もほゞ軌道に入ったので、彼女は泣く/\東京に帰った。妻も後影を見送って泣いた。

に彼等に肉迫した。二百万の人いきれで寄り合うて住む東京人は、人烟稀薄な武蔵野の露骨な寒さを想い見ることが出来ぬ

東京から引越当座の彼等が態は、笑止なものであった。昨今の

て居た。夫妻共稼ぎで中々忙しいと云った。其れから東京では正直な人を得難いことをかこって、誰か好い子僧は

三月の末東京に帰って、五月中また苺など持って訪ねて来た。翌年丁度

万朝報の記事を見て、余を見舞にわざ/\東京から来てくれたのであった。君は余の不相変ぼんやりし

十一時雑煮。東京仕入の種物沢山で、頗うまい。長者気どりで三碗代える。尤も餅は

鶴子が夏やと田圃に往って摘んだのである。東京の草餅は、染料を使うから、色は美しいが、肝腎の香が薄い

を云う位は、世にも自然な事共である。東京から越して来た人に薪を売った者がある。他の村人が

た与右衛門さんの手柄話の一節である。与右衛門さんは、東京者に此手で行くばかりでなく、近所隣までも此の筆法で行く

の賠償金と詫言をせしめて、やっと不承した。右は東京者に打勝った与右衛門さんの手柄話の一節である。与右衛門さんは、東京

様にして戴きたい。思いがけない剛敵に出会して、東京者も弱った。与右衛門さんは散々並べて先方を困らせぬいた揚句、

よく縁者の面倒を見る。与右衛門さんに自慢話がある。東京者が杉山か何か買って木を伐らした時、其木が倒れて

、午後四時過ぎ。東京は賑やかで面白い。賑やかで面白い東京から帰って来ると、田舎も中々悪くない。西日に光る若葉の村々に

廻って、帰途に就いたのが、午後四時過ぎ。東京は賑やかで面白い。賑やかで面白い東京から帰って来ると、田舎も中々悪く

朝飯すまして一家買物に東京行。東京には招魂祭、府中には大国魂神社の祭礼があるので、甲州街道

朝飯すまして一家買物に東京行。東京には招魂祭、府中には大国魂神社の祭礼があるの

いさちゃんは此辺でのハイカラ娘である。東京のさる身分ある人の女で、里子に来て、貰われて橋本の

が大きくなっても、別に東京恋しとも思わず、東京に往っても直ぐ田舎に帰って来る。

はない。養われた子女が大きくなっても、別に東京恋しとも思わず、東京に往っても直ぐ田舎に帰って来る。

からも遊びに来る。農閑の季節には、田舎からも東京に遊びに行く。辰爺さんは浅草に親類がある。時々遊びに行く

多少の親類を東京に有って居る。村の祭には東京からも遊びに来る。農閑の季節には、田舎からも東京に遊びに

に近い田舎の事で、何の家も多少の親類を東京に有って居る。村の祭には東京からも遊びに来る。農閑の

ゆっくりした田舎の時間空間の中に住み慣れては、東京好しといえど、久恋の住家では無い。だから皆帰りには

、と皆が云う。麦の穂程人間の顔がある東京では、人間の顔見るばかりでも田舎者はくたびれて了う。其処に電話

東京に往けば、人間に負けます、と皆が云う。麦の穂程人間

のした在郷軍人である。奉公に出た女にも、東京に嫁入る者もあるが、田舎に帰って嫁ぐ者が多い。何を云う

田舎では、豊かな生計の家でも、女を東京に奉公に出す。女の奉公と、男の兵役とは、村の両

世田ヶ谷に出て、三軒茶屋以往は、最早東京の場末である。電車、人力車、荷車、荷馬車、馬、さま/″

\と二度ばかり顛んだ。自動車は見かえりもせず東京の方に奔って往って了うた。其容子を見て居た人は

はまだ緑の雫を滴らして居る。西は明るいが、東京の空は紺色に曇って、まだごろ/\遠雷が鳴って居る。武

ずつ並んで西から北東へ無作法に走って居るのが、東京電燈の電柱である。一部を赤く塗って、大きな黒文字で危険と書き、

と、今度は南の空の根方が赤く焼けて居る。東京程にもないが、此は横浜の火光であろう。村々は死んだ様

と、大火事の様に空が焼けて居る。空に映る東京の火光である。見る/\すうと縮み、またふっと伸びる。二百万の

軒出来た。内二軒は男の子が不足なので、東京からの下肥ひきに馬を飼う事を思い立ったのである。然し石山の

自動車の響が青山街道にしたかと思うと、東京のN君外三名が甲斐の山の写真を撮りに来たのだ

午後東京から来た学生の一人が、天皇陛下今暁一時四十三分崩御あらせられたと

喪装をしたのかと思われて、墨色の雲が東京の空をうち覆うて居る。暮れ方になって降り出した。

挙げ玉うた年、初めて京都から東京に行幸あった其月東京を西南に距る三百里、薩摩に近い肥後葦北の水俣と云う村に

。即ち明治天皇陛下が即位式を挙げ玉うた年、初めて京都から東京に行幸あった其月東京を西南に距る三百里、薩摩に近い肥後

京、吾事終へつと嘘きて、君逝きましぬ東京に。

烏啼き、小鳥鳴き、秋静に今日も過ぎて行く。東京の方を見ると、臙脂色の空に煙が幾条も真直に上っ

は京王電鉄が沿線繁栄策の一として、ゆく/\東京市の寺院墓地を移す為めに買収しはじめた敷地二十万坪を劃る目標の

他所に流れて往って了うた。やがて起ったのが、東京の寺院墓地移転用敷地廿万坪買収の一件である。

の若い女は震え上り、年頃の娘をもつ親は急いで東京に奉公に出すやら、無銭飲食を恐れて急に酒樽を隠すやら、土方

京王電鉄も金が無い。東京の寺や墓地でも引張って来て少しは電鉄沿線の景気をつけると

小作地が不足して住み馴れた村にも住めなくなり、東京に流れ込んだり、悪くすると法律の罪人が出来たりする。それから寺院墓地

年々上って来て居る。然るに北多摩郡でも最も東京に近い千歳村の僅か五百五十町歩の畑地の中、地味も便利も屈指の

占めて居る。彼等の云い分はざッと斯様だ。東京が段々西へ寄って来て、豊多摩荏原の諸郡は追々市外宅地や

あるにも関せず、会社は村長の奥印をもって東京府庁に宛てゝ墓地新設予定地御臨検願を出して了う。霊場敷地

案を通過するぞと意気込む。それから連判の陳情書を東京府庁へ出すとて余にも村民の一人として賛成を求めて来た

。余は妻と此世の住家を探がして、東京から歩いて千歳村に来た。而して丁度其日の夕方に、疲れた

、大なる人情の眼は唯統計を見るであろうか。東京は帝都、寸土寸金、生が盛れば死は退かねばならぬ。

然し東京附近で冬を云々するのは烏滸がましい。如何に寒いと云っても、大地が

、東京附近の浅薄な冬の真似では到底分からぬ。東京附近の冬は、せい/″\半死半生である。冬が本当の死

頃の一種の恐怖、死に先だつ深い絶望と悲哀は、東京附近の浅薄な冬の真似では到底分からぬ。東京附近の冬は、

と畑で祈ると云う露西亜の老農の心もちには、中々東京附近の百姓はなれぬ。

ある。今日は十一月の十五日、七五三の宮詣でに東京に往った帰りと見える。二台の護謨輪が威勢の好い白法被の

から十四五歩、船橋の方へ上って居ると、東京の方から街道を二台の車が来る。護謨輪の奇麗な車で

云う大渦が巻いて居るので、村を出ると直ぐ東京に吸われてしもうて、移住出稼などに向く者は先ず無いと云うて

に出て職を覚える、店を出す。何しろ直ぐ近所に東京と云う大渦が巻いて居るので、村を出ると直ぐ東京に吸わ

嫁ぐが、息子の或者は養子に行く、ある者は東京に出て職を覚える、店を出す。何しろ直ぐ近所に東京と云う大

東京に出て相応に暮らして行く者もあるが、春秋の彼岸や盆に

夜、鶴子が炬燵に入りながら、昨日東京客からみやげにもらった鉛筆で雑記帳にアイウエオの手習をしたあとで、

手紙を書いた。筑波山下の医師なる人に一通。東京銀座の書店主人に一通。水国の雪景色と、歳晩の雪の都会の

あります。新嘉坡まで往った時、私の母が東京で九十一歳で死にました。父を捨てた子は、母の死に目に

ます。永住方針で居たが、果して村に踏みとどまるか、東京に帰るか、もっと山へ入るか、分からぬと言うて居ます。其

が二十一の春東京で一緒になり、東京から逗子、また東京、それから結婚十四年目の明治四十年に初めて一反五畝の土

、私が二十七妻が二十一の春東京で一緒になり、東京から逗子、また東京、それから結婚十四年目の明治四十年に初めて一

移り、東京に出で、私が二十七妻が二十一の春東京で一緒になり、東京から逗子、また東京、それから結婚十四年目の

の菊池郡隈府という山の町に生れ、熊本に移り、東京に出で、私が二十七妻が二十一の春東京で一緒になり、東京

し、伊予の今治、京都と転々して、二十二歳で東京に出で、妻は同じ肥後の菊池郡隈府という山の町に生れ、

やはりあるものと見えます。もう私共は今の粕谷が東京の中心になっても、動きません。村が蔬菜村になって、

年前逃げ出した東京を手招きした訳でもないが、東京の方から追いかけて来るのを見れば、切っても切れぬ情縁がやはり

ます。此処までお出と私共が十七年前逃げ出した東京を手招きした訳でもないが、東京の方から追いかけて来るのを

です。東京が寄って来た事が知れます。現に大東京の計画中には、北多摩郡でも一番東部の千歳村、砧村

今は三十三戸です。このあたりもう全くの蔬菜村です。東京が寄って来た事が知れます。現に大東京の計画中には、

て、朝夕の電車が二里三里四里の遠方から東京へ通う男女学生で一ぱいになったり、私共の村から夏の夕食後

は、やはり長い年月でした。村も大分変りました。東京が文化が大胯に歩いて来ました。「みみずのたはこと」

雨のしと降る夜はバケツをたゝく雨漏りの音に東京のバラックを偲んで居ます。

なしにやって往けよう筈はありません。四十と三十四で東京から越して来た私共夫妻が、五十六と五十になって、眼が

も頭を狂わせます。来る人、来る人の伝うる東京横浜の惨状も、累進的に私共の心を傷めます。関心する人人

三宵に渉り、庭の大椎を黒く染めぬいて、東に東京、南に横浜、真赤に天を焦す猛火の焔は私共の心魂を

ですが、震災の百ヶ日も過ぎて私共は未だ東京を見ません。然し程度の差こそあれ、私共も罹災者です。九

。五日には電燈がつきます。十日目には東京の新聞がぼつぼつ来ました。十一日目には郵便が来ました。

、夏大根、馬鈴薯などを牛車十一台に満載して、東京へお見舞をしました。村の青年達がきりっとした装をし

、水気沢山の畑のものをまだ余燼の熱い渇き切った東京に持って行きました。私も村人甲斐に馬鈴薯百貫を出しました

は、まさかの時にびくともしない強味があります。東京のあるお邸の旦那は、平生権高で、出入りの百姓などに滅多に

東京の焼け出されが、続々都落ちして来ます。甲州街道は大部分繃帯した都落ちの

の話からI君は其時私が諸君に向い、「東京も人間が多過ぎる、あまり頭に血が寄ると日本も脳充血になる

十七年前私共が千歳村へ引越す時、荷車引いて東京まで加勢に来てくれた村の耶蘇信者四人の其一人、本文に

不時の避難客で、早速村の糧食不足となります。東京には玄米の配給があっても、田舎は駄目です。当時私共の

、斯様な時に顕われます。私共では年来取りつけの東京四谷の米屋の米を食います。震災で直ぐ食料の心配が来ました

それは東京に住む東京人に限りません。十七年来村住居の私共だって、米麦つくらぬ

それは東京に住む東京人に限りません。十七年来村住居の私共だって、

最初私共に千歳村を教えた「先輩の牧師」も東京から来て、「下曾根信守之墓」「我父の家には住家多し

と東京に往って居ました。「草とりしても、東京ではおやつに餅菓子が出るよ」なんか村の者に自慢して居まし

石山新家を奇麗に潰して了うた後、馴染の親分と東京に往って居ました。「草とりしても、東京ではおやつに餅菓子

女も亡くなりました。私共が粕谷へ引越しの前日、東京からバケツと草箒持参で掃除に来た時、村の四辻で女の子を負っ

東京府 北多摩郡

/\歩いて居る。代官町の大一と云う店で、東京に二箱仕出す。奥深い店は、林檎と、箱と、巨鋸屑と、

上方客、東京っ子、芸者、学生の団体、西洋人、生きた現代は歴史も懐古も

大正十二年九月一日東京の大震大火で、銀座尾張町の福永書店も丸焼になり、同書店版

共一家が避難した庭の山楓が、三日三夜東京横浜を焼いた焔の色の朱に染めかけた頃、ある日その楓

「みみずのたはこと」は私共が東京を去り村の人となってから七年目の大正二年三月に

東京郊外

日本橋

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たら、車夫が御案内しましょうか、と来た。銀座日本橋あたりで買物すると、田舎者扱いされて毎々腹を立てる。後でぺろり

の巾着から女児に鼠の画本など買って来た。一度日本橋で、著者の家族三人、電車満員で困って居ると、折から自転車で

銀座

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居たら、車夫が御案内しましょうか、と来た。銀座日本橋あたりで買物すると、田舎者扱いされて毎々腹を立てる。後で

足で更にお馨さんの父母を訪うことにした。銀座で手土産の浅草海苔を買ったら、生憎「御結納一式調進仕候」の

が「寄生木」を出す時、角谷は其校正を持って銀座と粕谷の間を自転車で数十回往復した。著者が校正を見る間

電燈ばかり明るくてポンペイの廃墟の様に寂しい銀座の通りを歩いて東へ折れ、歌舞伎座前を築地の方へ往った。

を書いた。筑波山下の医師なる人に一通。東京銀座の書店主人に一通。水国の雪景色と、歳晩の雪の都会の浮世絵

大正十二年九月一日東京の大震大火で、銀座尾張町の福永書店も丸焼になり、同書店版の私の著書一切及び

上野

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\杢兵衛太五作式になったことを自覚する。先日上野を歩いて居たら、車夫が御案内しましょうか、と来た。銀座

れて徳島藩の医となった。維新の際は、上野の戦争から奥羽戦争まで、官軍の軍医、病院長として、熱心に

たり西へ来たり人通りが賑やかだ。新宿、九段、上野、青山と廻って、帰途に就いたのが、午後四時過ぎ。東京

君も来て居ました。Hさんは越後の人、上野の音楽学校の出で、漢文が得意です。明治二十九年に千歳村に

たと聞いて、明治四十三年九月七日の朝、上野から海岸線の汽車に乗った。三時過ぎ関本駅で下り、車で平潟

八王子

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、果して此処に永住し得るや否、疑問である。新宿八王子間の電車は、儂の居村から調布まで已に土工を終えて鉄線を敷き

大分暗い。近村の二本松を前景にして、いつも近くは八王子在の高尾小仏、遠くて甲州東部の連峰が見ゆるあたりだけ、卵色の

の横腹を蹴破って跳り出た年である。富士から八王子在の高尾までは、直径にして十里足らず。荒れ山が噴き飛ばす

て、庭の三本松の蔭に南向きに据えてくれた。八王子の在、高尾山下浅川附近の古い由緒ある農家の墓地から買って来た

かは八王子の代官所まで一々持って往ったものだ。八王子まではざっと六里、余り面倒なので、田はうっちゃってしまえと

もと徳川様の天領で、納め物の米や何かは八王子の代官所まで一々持って往ったものだ。八王子まではざっと六里

来た。到頭近所の人を頼み、わざ/\汽車で八王子まで連れて往って捨てゝもろうた。二週間前の事である。其

新宿八王子間の電車線路工事が始まって、大勢の土方が入り込み、村は連日戒厳令

新宿

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が、果して此処に永住し得るや否、疑問である。新宿八王子間の電車は、儂の居村から調布まで已に土工を終えて鉄線を

三里近い路をとぼ/\歩いて、漸く電燈の明るい新宿へ来た。

も甲州街道に馬車が無く、重たい足を曳きずり/\漸く新宿に辿り着いた時は、女連はへと/\になって居た。

を連れ、手々に手廻りのものや、ランプを持って、新宿まで電車、それから初めて調布行きの馬車に乗って、甲州街道を一時間余

間は、甲州街道に人力車があることすら知らなかった。調布新宿間の馬車に乗るすら稀であった。彼等が千歳村に越して

と息をはずませて彼女は云った。それは新宿で、床屋の亭主が、弟と密通した妻と弟とを剃刀で

主夫妻が東京に出ると屹度跟いて来る。甲州街道を新宿へ行く間には、大きな犬、強い犬、暴い犬、意地悪い犬が

陽気にやって来る。何処から来るのかと聞いたら、新宿からと云うた。浅草紙、やす石鹸やす玩具など持て来るほンの申訳ばかりの商人

に出かけたり、甲州街道を紅白美々しく飾り立てた初荷の荷馬車が新宿さして軋らしたり、黒の帽子に紫の袈裟、白足袋に高足駄の

は静かな村を犇めかして勢よく新宿に向った。新宿から電車でお茶の水に下り、某と云う料理店に案内された。

、十台の車は静かな村を犇めかして勢よく新宿に向った。新宿から電車でお茶の水に下り、某と云う料理店に案内さ

新宿に下りると、雨が盛に降って居る。夜も最早十時、甲州街道

甲州街道の新宿出入口は、町幅が狭い上に、馬、車の往来が多いので、

「新宿のねェよ、女郎屋でさァ、女郎屋に掃除を取りに行く時ねェ

路を択ばず、ザブ/\泥水を渉って帰った。新宿から一里半も来た頃、真闇な藪陰で真黒な人影に行合う

新宿で電車を下りた。夜が深けて居る。雨は止んだが、路

で、病気と云うものを知らぬと云って居た。新宿から三里、大抵足駄をはいて歩いた。日がえりに往復することも

甲州街道も東へ往ったり西へ来たり人通りが賑やかだ。新宿、九段、上野、青山と廻って、帰途に就いたのが、午後

大詰の幕がひかれたのが、九時過ぎ。新宿から車で帰る。提灯の火が映る程、街道は水が溜って居る

居る。雨傘と、懐中電燈の電池を買って、電車で新宿に往った。追分で下りて、停車場前の陸橋を渡ると、一台

月も寝る程の怪我をした。寺本の馬は、新宿で電車に驚いて、盲目の按摩を二人轢き倒し、大分の面倒を惹起

新宿八王子間の電車線路工事が始まって、大勢の土方が入り込み、村は連日

が出た時、まだ線路工事をやって居た京王電鉄が新宿から府中まで開通して、朝夕の電車が二里三里四里の遠方

原宿

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田舎に住む訳である。最近五年余彼が住んだ原宿の借家も、今住んで居る青山高樹町の借家も、東京では田舎近い

駄々を捏ねて車に積んでもろうた。宰領には、原宿住居の間よく仕事に来た善良な小男の三吉と云うのを頼んだ

て居た。大部分は残して置いたが、其れでも原宿から高樹町へ持て来たものは少くはなかった。其等は皆持て行く

は書物と植木であった。彼は園芸が好きで、原宿五年の生活に、借家に住みながら鉢物も地植のものも可なり有っ

弔うたりした。君の親戚が当時余の僑居と同じく原宿にあったので、君はよく親戚に来るついでに遊びに来た。

品川

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一は上祖師ヶ谷で青山街道に近く、一は品川へ行く灌漑用水の流れに傍うて居た。此等は彼が懐

家から石山氏の宅に往く中途で、小高い堤を流るゝ品川堀と云う玉川浄水の小さな分派に沿うて居た。村会議員も勤むる

品川堀と云う小さな流水がある。玉川上水の分派で、品川方面の灌漑専用の水だが、附近の村人は朝々顔も洗えば、

家から五丁程西に当って、品川堀と云う小さな流水がある。玉川上水の分派で、品川方面の灌漑専用

あった。一は久さんの家で、今一つは品川堀の側にある店であった。其店には賭博をうつと云う

隣の辰爺さんに売り、大酒呑のおかみのあとに品川堀の店を出して居る天理教信者の彼おかず媼さん処へ引揚げた後

て、村の為にはあまり有り難くもない水である。品川堀の外には、彼が家の下なる谷を西から東へ流るゝ

彼の家から五六丁はなれて品川堀がある。品川へ行く灌漑専用の堀川で、村の為には洗滌の用にしかなら

彼の家から五六丁はなれて品川堀がある。品川へ行く灌漑専用の堀川で、村の為には洗滌

東から西へ入り込んで居る。其西の行きどまりは築き上げた品川堀の堤の藪だたみになって、其上から遠村近落の樫

、子供が鰌突きして居るのである。一条の小川が品川堀の下を横に潜って、彼の家の下の谷を其南側

にも五六歳の女児が行方不明で大騒ぎをした後、品川堀から死骸になって上ったことがある。火傷した女児の低いうめき声

水ももろうてあるき、五丁もはなれた足場の悪い品川堀まで盥をかゝえて洗濯に往っては腰を痛くし、それでも

品川堀に沿うて北へ歩む。昨日連判状を持って来た仲間の一人が

余は麦畑に踏込む犬を叱り、道草摘む女児を促し、品川堀に沿うて北へ行く。路傍の尾花は霜枯れて、かさ/\鳴っ

品川堀が西へ曲る点に来た。丸太を組んだ高櫓が畑中に

のが、少し破れて風にばた/\して居る。品川堀を渡って、展望台の方へ行くと、下の畑で鉢巻を

渋谷

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余り腕が痛いので、東京に出たついでに、渋谷の道玄坂で天秤棒を買って来た。丁度股引尻からげ天秤棒を肩にした

彼等が千歳村に越して間もなく、玉川電鉄は渋谷から玉川まで開通したが、彼等は其れすら利用することが稀で

居る。一番南が目黒の火薬製造所の煙で、次が渋谷の発電所、次ぎが大橋発電所の煙である。一度東京から逗留に来た

三里。東の方を望むと、目黒の火薬製造所や渋谷発電所の煙が見える。風向きでは午砲も聞こえる。東京の午砲を聞いた

代々木

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を見捨てた。先家主の大工や他の人に頼み、代々木新町の古道具屋で建具の古物を追々に二枚三枚と買ってもらい

故人の弟達や縁者の志だと云って、代々木の酒屋の屋号のついた一升徳利が四本持ち出された。茶碗と

た。兵士の彦さんは縊死したのであった。代々木の山の中に、最早腐りかけて、両眼は烏につゝかれ、空洞に

神田

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小豆革の帯をしめた。斯革の帯は、先年神田の十文字商会で六連発の短銃を買った時手に入れた弾帯で

を気の毒に思い、其息子が甘藷売りに往った帰りに神田の青物問屋からテリアル種の鼠程な可愛い牝犬をもらって来てくれた

値がよければ、二里の幡ヶ谷に下ろすより四里の神田へ持って行く。

媒妁の役目相済んだつもりで納まって居ると、神田の料理屋で披露の宴をするとの事で、連れて来られた車

吉祥寺

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になった。探がし探がした結果、彼は吉祥寺、境間の鉄道線路の土をとった穴の中に真裸になって

、と勉強して兎に角戸をあけて内に請じた。吉祥寺から来たと云う車夫は、柳行李を置いて帰った。

来た。汽車に乗せたらと謂って、荻窪から汽車で吉祥寺に送って、林の中に繋いで置いたら、頸に縄きれをぶらさげ

日々村から通うて居ましたが、このたび都合により吉祥寺の長男の家と一つになると謂うて告別に来たのは、

荻窪

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早く起きて、赤沢君を送りかた/″\、白を荻窪の停車場まで牽いて往った。千歳村に越した年の春もろうて来

の方へ行くと云うので、近所のおかみを頼み、荻窪まで路案内かた/″\柳行李を負わせてやることにした。

居ると云うが如何だろう、と好奇心も手伝うて、午後独歩荻窪停車場さして出かける。

な空を眺め※※行く。田無街道を突切って、荻窪停車場に来た。

翌日ひょっくり帰って来た。汽車に乗せたらと謂って、荻窪から汽車で吉祥寺に送って、林の中に繋いで置いたら、頸に

新橋

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去り山に入る決心をして居た時、ある夜彼は新橋停車場の雑沓の中に故人を見出した。何処ぞへ出かけるところと覚しく、

見かけて、自転車を知辺の店に預け、女児を負って新橋まで来てくれた。去年の夏の休には富士山頂から画はがきを

十八日の夜八時過ぎ、神戸発新橋行の急行列車が、角谷の主人の居に近い大森で一人の男子を轢い

の光を踏んで、ぶら/\溜池の通を歩いて新橋に往った。往って見ると此は不覚、扉がしまって居る。駅夫

を病んで入院して居る父を見舞うつもりで、其れ迄新橋停車場の待合室にでも往って寝ようと、月明りと電燈瓦斯の光を踏ん

新橋堂 鈴助野村さん。

私は今まさに新橋堂の汽車を下りて福永書店の船に上ろうとする私の二子に

服部君の死後は新橋堂野村君の一手に「みみずのたはこと」は扱われた。服部

の手に移って百〇一版を出す。服部書店に生れ、新橋堂書店に長じた「みみずのたはこと」は更に福永書店に移って

の承諾の下に「みみずのたはこと」は他の新橋堂版の私の小説「黒い眼と茶色の目」と共に「新春

年までの間に百版を重ねました。其後、新橋堂の都合で、私の承諾の下に「みみずのたはこと」は

が出て八月目に服部君が亡くなった後は専ら新橋堂の手に扱われ、大正二年から大正九年までの間に百

服部書店国太郎君の懇請にほだされて書き、後では新橋堂書店野村鈴助君が肩を入れ、「みみずのたはこと」が

麹町

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桜の盛、車も通れぬ程の人出だった、と麹町まで下肥ひきに往った音吉の話。村には桜は少いが、それ

では方角上大抵四谷、赤坂が重で、稀には麹町まで出かけるのもある。弱い者でも桶の四つは引く。少し力

ず青年会の万歳を三唱しました。慰問隊は専ら麹町区に活動して、先方の青年団の協力の下に、水瓜を截り、

幡ヶ谷

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一貫目につき五厘も値がよければ、二里の幡ヶ谷に下ろすより四里の神田へ持って行く。

彼は幡ヶ谷の阪川牛乳店に生れて、其処此処に飼われた。名もポチと云い

お茶の水

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を犇めかして勢よく新宿に向った。新宿から電車でお茶の水に下り、某と云う料理店に案内された。

を二つ折詰を二つもらって、車で送られてお茶の水停車場に往った。媒妁の家は菜食で、ダシにも昆布を使って

中野まで汽車。中野から電車。お茶の水で下りて、本郷中央会堂に往った。

高尾

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近村の二本松を前景にして、いつも近くは八王子在の高尾小仏、遠くて甲州東部の連峰が見ゆるあたりだけ、卵色の横幕を延い

斯く打吟じつゝ西の方を見た。高尾、小仏や甲斐の諸山は、一風呂浴びて、濃淡の碧鮮やかに、

村近落の樫の森や松原を根占にして、高尾小仏から甲斐東部の連山が隠見出没して居る。冬は白く、春は

蹴破って跳り出た年である。富士から八王子在の高尾までは、直径にして十里足らず。荒れ山が噴き飛ばす灰を定め

三本松の蔭に南向きに据えてくれた。八王子の在、高尾山下浅川附近の古い由緒ある農家の墓地から買って来た六地蔵の一体だ

京都に着いて三日目に、高尾槇尾栂尾から嵐山の秋色を愛ずべく、一同車を連ねて上京の姉

に着て、其上に簑を被り、帽子を傾けて高尾に急いだ。瓢箪など肩にして芸子と番傘の相合傘で帰って来る

はして居られぬ。八年前余は独歩嵐山から高尾に来た時、時雨に降られて、梅が畑の唯有る百姓家に

いよ/\高尾に来た。車を下りて、車夫に母を負うてもらい、白雲橋

余等は高尾を出て、清滝川に沿うて遡り、槇の尾を経て、栂

から唯少し上流に遡るのであるが、此処の楓は高尾よりも染めて居る。寺畔の茶屋から見ると、向う山の緑青で

栂の尾は高尾に比して瀟洒として居る。高尾から唯少し上流に遡るのであるが、此処の楓は高尾よりも染め

栂の尾は高尾に比して瀟洒として居る。高尾から唯少し上流に遡るのである

嵐山の楓は高尾よりもまだ早かった。嵐山其ものと桂川とは旧に仍って美しいもの

に殺人電車をがたつかせたり、嵐山へ殺風景を持込んだり、高尾の山の中まで水力電気でかき廻わしたり、努力、実益、富国、なん

三鷹

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三鷹村の方から千歳村を経て世田ヶ谷の方に流るゝ大田圃の一の

目黒

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東に、いつも煙が幾筋か立って居る。一番南が目黒の火薬製造所の煙で、次が渋谷の発電所、次ぎが大橋発電所の煙

は、東京から唯三里。東の方を望むと、目黒の火薬製造所や渋谷発電所の煙が見える。風向きでは午砲も聞こえる。東京

、一昨日火薬が爆発して二十余名を殺傷した目黒の火薬庫の煙だ。

大久保

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散り残りの桜の花を意地わるく吹きちぎる日の午後、彼は大久保余丁町の綱島家の格子戸をくゞった。梁川先生発熱の虞あり、

浅草

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馨さんの父母を訪うことにした。銀座で手土産の浅草海苔を買ったら、生憎「御結納一式調進仕候」の札が眼に

かなどゝ戯談を云った。彼は製本屋の職工から浅草、吉原の消息を聞いて居たのである。

一切払って置いた。日比谷から角谷は浅草に往った。浅草公園の銘酒屋に遊んで、田舎出の酌婦に貯蓄債券をやろうかなどゝ

母に届く可く郵税一切払って置いた。日比谷から角谷は浅草に往った。浅草公園の銘酒屋に遊んで、田舎出の酌婦に貯蓄債券

が、帰ると溜息ついて曰く、全く田舎が好えナ、浅草なンか裏が狭くて、雪隠に往っても鼻ア突つく、田舎に

は、田舎からも東京に遊びに行く。辰爺さんは浅草に親類がある。時々遊びに行くが、帰ると溜息ついて曰く、全く

有楽町

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。承知したら、彼女は喜んで日々弁当持参で高樹町から有楽町のミシン教場へ通ったが、教場があまり騒々しくて頭がのぼせるし、加上

日比谷

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兄、北海道の母に届く可く郵税一切払って置いた。日比谷から角谷は浅草に往った。浅草公園の銘酒屋に遊んで、田舎出の

て二階に上り、一時間半程眠った。それから日比谷で写真を撮って、主人、伯父、郷里の兄、北海道の母に届く

巣鴨

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もう余程以前の事です。私共の外遊中に、名物巣鴨の精神病院がつい近くの松沢に越して来ました。嬉しいような、

九段下

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なったり、私共の村から夏の夕食後に一寸九段下あたりまで縁日を冷やかしに往って帰る位何の造作もなくなったのは、

千曲川

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彼等夫妻は千曲川の滸に家をもち、養鶏などやって居た。而して去年の秋の

彼女は実家に居る時から追々に金を信州へ送り、千曲川の辺の家も其れで建てたと云うことであった。

東京湾

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近い三多摩の地は、甲府の盆地から発生する低気圧が東京湾へぬける通路に当って居るので、雹や雷雨は名物である。秋

隅田川

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はこゝで浴びる。「蘆の芽や田に入る水も隅田川」然だ。彼の村を流るゝ田川も、やはり玉川、玉川の孫で

湘南

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たら、果して其は事実であった。其後爺さんは湘南漫遊の砌老父が許に立寄って、八十八の旧患者は八十一の旧医師

なぞ、来る毎に持て来てくれた。或時彼は湘南の老父に此爺さんの噂をしたら父は少し考えて、待てよ

両国橋

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の話の中に一つ面白い事があった。ある時両国橋の上で彼女は四十あまりの如何にも汚ない風をした立ン坊